第九話:めでたしは遥か先に
くーりすますがこっとっしっもやあーってくーるー
カフェの有線からすっかりクリスマス仕様な曲が流れてきた途端、ぼくはパブロフの犬のようにフライドチキンが食べたくなった。誰かさんの影響だなぁ。
「やばぁこのガトーショコラ。チョコめっちゃ濃い」
アメリカンスタイルの大きなケーキに感嘆の声をあげた飛瀬さんは、ぼくのほうに少し皿を押しやって「食べる?」と聞いてくれた。ありがたく一口もらって、お返しに自分のワッフルを差し出す。
「飛瀬さんの家はさ、クリスマスちゃんとやる派だった?子供の時とか」
たっぷり塗った生クリームが落ちないように慌てて口に入れたワッフルをもぐもぐしながら、飛瀬さんは「うーん、あんまやんなかったかも」と答えた。
「なんでかうちでは中華食べるんだよね、イブに」
「えっ中華?なんで?チキンとかじゃないんだ」
「うちのお父さんが若いときに寮で暮らしてて、ユダヤ教徒の人と一緒だったんだって。ユダヤ教の人はクリスマスやらないから、その日は中華食べるのがお決まりらしい。それに毎年付き合ってて、そのままなんとなくって」
「へー、知らなかった」
「あたしは嫌だったけどね、やっぱザ・クリスマスみたいなごはん食べたいじゃん?」
「子供のときは特にね」
「それでお兄ちゃんが、お小遣いで材料買って作ってくれたことあったなー、鶏の丸焼き」
「うわーやりそう!」
休みの日に飛瀬さんとこうやって過ごすのも、すっかり普通になった。前はバイト仲間数人で遊ぶことはあっても二人っきりってことはなかったから、最初はちょっと緊張したけど。
「チョウさん家は?なんか外国の映画みたいなディナー出てきそう」
「あーまぁね、母親がそういうの好きだから。今でも毎年凝った料理作ってパーティーやってるよ。友達とか呼んで」
「えーすごい!」
「飛瀬さんも来る?キノも毎年来るし。だいたいクリスマスに一番近い土曜日にやるから、えーと……」
ぼくはスマホのカレンダーをチェックした。
「二十三日かな」
「うん、行きたい。あ、でも……」
でも、のあとで言葉を切った飛瀬さんに、スマホに向けていた視線を上げる。目が合うと、飛瀬さんはへへっと微笑んだ。
「その前にさ、二十日、デートしようよ」
「……うん、そうだね」
運命の日。それを超えたあとのぼくは、一体どうなっているんだろう。
夜七時半。会社のエントランスを出ると、ド派手な紫色のファーコートを着た人物が待ち構えていた。
「どーも、こんばんは」
「あれ、あなたって……」
ジーンさんですよね、と問いかけるより前に、黒い皮の手袋に包まれた手が私の腕をがっ!と掴む。
「行くよ」
「へっ?どこに?あ、ちょっと!」
カッカッと軽快なヒールの音をオフィス街に響かせながら会社の前の大通りでタクシーを止めると、ジーンさんはその中に私を押し込んだ。
「ジーンさん!お店に来てくれるなんて嬉しいなぁ!この時期はどうしても書き入れどきでなかなかお誘いもできなくて……ぼくがケーキ屋なばっかりに……!でもお正月にはぜひ!ぼくが丹精込めて煮たアリコ・ノワールを一緒に」
「二名で。席ある?」
たどり着いたのはチョウさんのバイト先だった。クリスマスも近いので店内は賑わってたけど、ラッキーなことに窓際の席が一つ空いていて、私たちはそこに通された。
「おれこれにしよー、クリスマス限定のやつ。あとホットコーヒー。きみは?」
「私も、同じので……」
何がなんだかわからないけど、とりあえずジーンさんはここで私とお茶をする気満々らしい。せっかくなので私も限定のブッシュドノエルをお願いする。チョウさん曰くジーンさんといい感じらしい店長さんが、自ら注文を取ってくれた。
「あれ、もしかしてきみ前に白鳥くんと一緒に来てた?」
「あ、はい」
「いやー、忙しい時期に白鳥くんが辞めちゃったからてんてこ舞いだよ」
「えっ……?チョウさんバイト辞めたんですか!?」
「え、うん……聞いてない?なんか親戚のお店が大変だから、しばらく助っ人に行かないといけないって。お蕎麦屋さんも年末は大忙しだもんね。本人にも言ったけど、落ち着いたらいつでも戻ってきてって伝えておいて」
店長さんは朗らかにそう言うと厨房に戻って行った。どういうこと……?バイト辞めたなんて全然聞いてない。しかも今の話って、前に私が適当に考えてななみちゃんに話したやつだ。一体どうなってるの?動揺して、頭の中がぐるぐるする。
「……あの子、本当に話さなかったんだね」
「え?ジーンさん何か知ってるんですか?チョウさんなんで……このお店で働くの、すごく楽しそうにしてたのに」
「今日が終わったときにどうなるか、なんとなくわかってるから辞めたんでしょ。お店に迷惑かけないように」
どうなるって?どういうこと?何にも知らない。チョウさんは何も教えてくれない。なんで?私たち親友なのに。
混乱して、頭に血が昇ってくる。顔が熱い。思わずテーブルの上でぎゅっと両手を握り締めると、ジーンさんはそっと手を延ばしてそれを解くように促した。手のひらには、ちょっと赤く爪の跡がついてしまっていた。
「あの子はきみには言わないって決めてたみたいだけど……あの呪いはね、完全に解けたわけじゃなかったんだ」
「え……?」
「今日の深夜、日付が変わるまでに愛する人から「真実のキス」をしてもらえなかったら、あの子は前のあの子に戻る。おれが、呪いをかけた姿に」
真実のキス?何それ、全然聞いてないしわけわかんない。それって、それってまるで……。
「おとぎ話じゃん」
「魔術師の呪いなんてそんなもんよ。昔っから型が変わってないから」
衝撃の新情報を飲み込むのに少し時間がかかったけど、よく考えたらそれでも、チョウさんがバイトを辞めるのは変だ。だって。
「チョウさんには、ななみちゃんがいるじゃないですか」
まだちゃんと付き合ってるわけじゃないって言ってたけど、二人はしょっちゅうデートしてるみたいだし、ななみちゃんは今のイケメンになる前からチョウさんのことが好きだ。まさに真実の愛。ななみちゃんがキスすれば呪いは解けて、今のままのチョウさんでいられるんじゃないの?
「……真実のキスってややこしくてね、相手が自分のことを好きなだけじゃだめなの。自分も好きな相手からじゃないと、効果はない」
そう言って私を見たジーンさんの視線の意味に気がついて、私は思わず目を逸らした。
「わた、私は無理です」
「どうして?少なくてもおれには、きみがあの子のことを好きなように見えた。見た目が変わってからは、そういう意味でも」
「だからだめなんです。ななみちゃんは前のチョウさんから好きだったんだから」
「なんだそれ、真面目か!いいじゃん別に、イケメンになったから好きになったって。外見だってあの子の一部だよ。それにどんなきれいごと言ったって、「ななみちゃん」じゃ呪いは解けない」
「嫌なんだってば!!!」
思わず大きな声が出てしまって、周りのテーブルにいる人たちが何人か振り返った。慌てて謝る意味で軽く会釈をして、声のトーンを落とす。
「……チョウさんのことは好きです。呪いが解けてからは、そういう風に意識してたとも思います。でも私、チョウさんと恋人にはなりたくない」
「なんで?」
目を伏せてぼそぼそとしゃべる私の顔を、ジーンさんは覗き込むようにして見てきた。
「恋人になったら、嫌いになるかもしれない、し……別れるかもしれないから……」
なんだか悪いことをして怒られている子供みたいな気持ちだ。耐えられなくなって目線を上げると、ジーンさんと目が合った。そこに憐れみの色があるような気がして、私はなんだかイライラしてきた。
「ていうか、なんで私に言いに来るんですか?あなたが呪いを解けばいい話じゃん」
思わず強い口調で言うと、ジーンさんは長い睫毛のびっしり生えた目を閉じた。その顔はまるで、痛い注射を打たれた人みたいだった。
「そうできるんなら、とっくにそうしてるよ……」
「え?」
目を開くと一転、何かを企むみたいな笑顔になる。
「ここでクイーズ!おれっていくつだと思う?」
「は?」
なんだその質問、合コンか?
「えーっと、見た目は私たちと変わんないくらいに見えるけど、秀さんの若い頃を知ってるってことは……よ、四十ちょっとくらい?」
困惑しながらもまともに考えて答えると、ジーンさんは両手の指でバツを作りながら「ぶっぶー」と言った。む、ムカつく……けどかわいいな!
「正解は、三百六十六歳」
「はあぁ!?」
「冗談でもなんでもないよ。っていうかあんな呪いとかかけられるのが普通に人間なわけないでしょ」
そう言われればそうだけど……。
「え、ジーンさんって人間じゃないんですか?じゃあ何者!?」
「まぁまぁ、おれのルーツの話は置いといて。とにかくめちゃ長く生きてるからさ、革命も戦争も疫病の大流行も、ぜーんぶ見てきてるわけ。恋人との別れなんて死別だけでも何回もあるし、それ以外も含めたらもう数えてらんないくらい」
冗談めかして言っているけれど、その顔に浮かんでいたのは痛々しいほどの苦笑いだった。三百年以上も生きてるなんてにわかには信じられない。でもチョウさんの呪いを間近で見てしまうと、どんなことでもありえるような気もしてしまう。
「……百歳くらいのときだったかな。はじめて何十年も一緒に暮らした妻を看取ったんだよね。彼女はまぁ、老衰だったし当時としてはかなり長生きだったんだけど」
「妻……あ、すいません。私てっきりジーンさんって」
「ん?あぁ、基本的にはメンズが好きだけど。こんだけ長く生きてればそういうパターンもあるって」
他にもありとあらゆる人と色々あったけどまぁそれはともかく、とジーンさんは続けた。
「なーんかもう燃え尽きちゃって、そのあとは三十年くらい人里離れた山奥に引きこもってた。おれって結構惚れっぽいからさ、人と接してたら好きになっちゃうし、一緒にいたくなっちゃう。そういうのもうしんどいなって」
なんでもないような口調だったけど、その向こう側にはとてつもなく大きな悲しみがあるのがわかった。人は不老不死に憧れるけど、大切な人を見送り続けなきゃいけないのはきっと、私なんかには想像もできないような苦しみのはずだ。
「そしたら当時ジュネーヴにいたママが訪ねてきてさ、めっっっちゃ怒られたんだよね。「そうやってうじうじしてるあいだに、素敵なものや楽しいことをどれだけ見逃したと思ってるの?私たちはどうせ簡単には死ねないんだから、全部見てやろう、体験してやろうって思いなさい。それがあんたの使命なんだから」って」
「お母さんつよっ」
「ママはおれの倍くらい生きてるからね。まぁそれで、なんか割り切れたっていうか。ちょっと俯瞰するくらいの距離感で、人間とも社会とも付き合っていこうって思えて。それからは基本的には、明るく楽しく機嫌よく暮らしてきたんだけど」
ジーンさんはそこで一度言葉を切ると、深呼吸みたいに大きなため息を吐いた。
「……もうひとつクイズ。魔術のエネルギーになるのって、なんだと思う?」
「へ?ええっと、なんだろう。ゲームだと大体、魔導石とか使うけど……」
ジーンさんは今度は立てた人差し指を揺らしながら「ぶっぶー」と言った。
「正解は、感情。気持ちが高まっていればいるほど、魔術の効果は強くなる。たとえば誰かのかけた呪いに対抗しようと思ったら、それ以上に強い感情が必要になるの」
ジーンさんはテーブルの上で両手を組むと、目元に影が落ちて見えなくなってしまうくらいに顔を伏せた。皮の手袋を外した両手には、キラキラと大粒のグリッターが入ったマニキュアが塗られていた。
「明るく楽しく機嫌よく、誰とも深くは関わらない。それで大抵はうまくやっていけるけど……それでもやっぱり波があって、本当に時々、打ちのめされてしまうときがある。自分だけが置いていかれるんだ、みんな通り過ぎていくんだっていう事実に、どうしようもなく寂しくなってしまう。秀ちゃんが結婚したのはそんな、すごく悪いタイミングだった」
ジーンさんが泣いているような気がして私は思わず下から覗き込んだけど、その目の中は見えなかった。
「おれなりにきっと、まじで好きになっちゃってたんだろうね、秀ちゃんのこと。ある夜に結婚の話をたまたま人づてに聞いて、なにかがばーん!って爆発した。気がついたら招かれてもいない結婚式に乗り込んで、まだ生まれてもいない子供に呪いをかけてた」
そこではじめて顔を上げたジーンさんの瞳から、涙が一粒こぼれ落ちた。私は、チョウさんの親友である私は、きっとそれを責めるべきだし憤らなきゃならない。でもこの涙を見てしまったら、そこにある絶望を知ってしまったら、簡単にそうはできなかった。
「とんでもないことをしてしまったってすぐに我に返って、呪いを解こうとした。でもだめなの。魔術をかけた瞬間の気持ちが強すぎたせいで、とても対抗できない。自分で自分の呪いが解けない。何度も何度もなんども、挑戦したけど、でもだめ、どうしてもできなかった……!」
両手で顔を覆ったジーンさんの悲痛な涙声が、私の胸を引っ掻いた。
「だからおれは祈った。一年一年、あの子が成長するのを見つめながら。「真実のキス」に認定されるくらいの強い気持ちを与えてくれる誰かが、あの子の前に現れるのを」
呪いをかけた張本人なのになんでチョウさんに構うんだろうとか、なんで今日私に会いにきたのかとかの辻褄がやっと合った。いつの間にか私は、息をするのも忘れてジーンさんの言葉に耳を傾けていた。
「ねぇ、頼むよ。あの子を本当の姿に戻してあげられるのは、この世でたったひとり、きみだけなんだ」
本当の姿。本当のチョウさん。私、わたしは……。
がたん。
気がついたら立ち上がっていた。
「チョウさん……どこにいるんだろう」
「……今日は飛瀬さんと、恵比寿のガーデンプレイスに行くって。今ならまだ間に合う」
その言葉を聞いた瞬間に、私は走り出していた。
「わ、すごーい!やっぱ日が落ちてからのほうがきれいだね」
毎年、冬になると恵比寿ガーデンプレイスの広場に設置される巨大なシャンデリアを、飛瀬さんとぼくは階段を登ってちょっと高くなったところから並んで眺めた。クリスマス本番は数日後だけど、今日もちらほらとカップルの姿がある。イルミネーションが施されて赤い絨毯の敷かれた広場の道は幻想的で、絵本の挿絵みたいに見えた。
「さっきのパフェやばかったぁ、奮発した甲斐あったわ」
うっとりした口調で飛瀬さんが言う。
「ねー!なんかもう、罪深いほどに高級感あったね。大人のパフェだった」
恵比寿に来たのは、ウェスティンホテルのラウンジで限定のパフェを食べるためだった。一応ホテルなので、ぼくもジャケットなんか着てちょっとおしゃれしている。飛瀬さんはスイーツ好きだから、キノだったら誘わないような場所にも色々付き合ってくれた。
ぼくたちはしばらく黙って、ライトアップされた豪華なシャンデリアのクリスタルがキラキラ光を反射するのを見ていた。
「……飛瀬さん」
「うん?」
もたれかかっていた欄干から体を離して、飛瀬さんのほうに向き直る。
「今日キスしても、日付が変わったときに飛瀬さんを傷つけることになっちゃうと思う。だから……」
「……うん、わかってる」
こっちを見た飛瀬さんは笑顔だった。鼻の頭が赤かったけど、それは寒さのせいかもしれない。
「告白してくれて、本当に、ほんとうに!ありがとう。見た目が変わる前から好きだったって言ってもらえて、めちゃくちゃ嬉しかったし……自信をもらえたよ」
「うん、あたしも言えてよかった。この三ヶ月くらいで完全燃焼できたらから後悔もないし」
ずっ、と小さく、飛瀬さんは鼻を啜った。
「ぼくもこの三ヶ月すごい楽しかった。ありがとう」
「なにそれ、永遠の別れみたいな。またバイトでも会うじゃん」
「ぼくとまた一緒に働くの嫌じゃない?」
「んなわけないでしょ。店長もみんなも、チョウさんが戻ってくるの待ってるよ」
やさしい飛瀬さんは、ばしっと一度ぼくの肩を叩いた。
「……じゃあ、あたし行くね」
「……うん。また」
飛瀬さんは階段を小走りで降りて行くと、シャンデリアの目の前で一度、振り向いた。それからぼくに小さく手を振ってから、赤い絨毯の上を歩いていった。その背中が見えなくなったあとも、ぼくはしばらくそこから動けないで、じっとシャンデリアの光を見つめていた。
ちょうどホームに来ていた電車に、滑り込むように乗る。走ったせいで上がった息を整えながら腕時計に目をやった。八時半ちょっと前、日付が変わるまで三時間半。大丈夫、時間は十分にある。ドア横のポールに寄りかかって、チョウさんにも連絡してみようかなとスマホを取り出したところで、急に車両ががたんと揺れた。そのままキューっというような音を立てて、電車が止まる。
『緊急停止です』
なんなの、こんなときに!何かを待ち構えるような緊張感が車内に充満する。しばらくして、またアナウンスが流れた。
『小田急電鉄をご利用の皆様にお知らせいたします。先ほど前方を走る車両の上部に「何か動物のようなものが乗っている」という連絡が入ったため、緊急停止をいたしました。現在、安全確認を行なっております。お急ぎのところご迷惑をおかけいたしまして……』
『チョウさん今どこ?』
『恵比寿だけど?』
『恵比寿のどこ』
『ガーデンプレイスの入り口くらいにあるベンチ』
『そこにいて』
どうしたんだろう?もしかして、キノも近くにいるのかな?
厚手のコート着てるしさっきコンビニでホッカイロも買ったけど、やっぱ夜中は冷えるなーなんて思いながら座っていると、向こうからキノが走ってくるのが見えた。
「キノーここ、ここ……え、なんで泣いてるの?」
近づいてきたキノは、目と鼻の周りが真っ赤になっていた。
「……間に合わなかった、ごめん、ごめんねぇ……」
その言葉で、キノが泣いてるのは今のぼくを見たからだと気がついた。
「ジーンに聞いた?」
「うん、全部聞いた。それですぐ来たんだけど、電車止まって四時間くらい閉じ込められちゃって……」
「あー、そうだよね。ぼくもそれで帰れなくなって、ずっとこのへんウロウロしてた」
キノは汚れるのも気にせずに、コートの袖で涙と鼻水をぐっと拭った。
「ていうかチョウさん、なんでエプロンしてるの?」
「いや、十二時になる前には家に帰る予定だったからさ。まさか外にいる時に変身する羽目になるとは思ってなくて……このズボン、ボタン飛んじゃったしチャック閉まってないの。バイト最終日に記念でもらったノーマのエプロンがかばんに入ったまんまでほんとによかったよ。あやうく通報されちゃうとこだった」
「ははは、まじ?」
そこではじめてちょっと笑うと、キノはフォーマルっぽいコートにエプロンというまぬけな姿でベンチに腰掛けているぼくの隣に座った。
「ななみちゃんは?」
「ずいぶん前に帰ったよ。電車止まる前だったから帰れたと思う」
「ちゅー、した?」
「してない」
「そっか」
そう言ったあと、キノはぼくの肩に頭を乗せてきた。突然の近距離に一気に体が緊張したけど、ぼくはどうかそれがキノに伝わりませんように、と密かに祈った。
「……あのね」
「うん」
「うちが大変だったときにさ、思ったの。恋愛とか結婚って、相手にすごく期待しちゃうことなんだなぁって」
「……」
「こうしてくれるのが当たり前、こうしてくれなきゃおかしい。友達とか他の人にはしないのに、恋愛の相手にはどうしても理想を持っちゃう。お母さんもきっと、期待してたお父さんとの老後とかがあったんだよね。当然そうなるはずだって。だからそれが裏切られたときにどうしてもお父さんのことが許せなくて、憎くて仕方がなくなっちゃった」
「うん……」
キノのお母さんの当時の様子を、もちろんぼくは詳しくは見ていない。それでもキノの話から、まるで別人のようになってしまっていたのはなんとなく知っていた。
「期待をするから、理想があるから、だめになったり裏切られたと思ったりしたら、もうとことん嫌いになるしかない。もう本当に離れ離れになるしかない。そのときに思ったの。私とチョウさんは大丈夫。私たちは恋愛じゃないから、ずっと一緒にいられる。環境によって距離感とかはね?変わっていくかもしれないけど、でもずーっとお互いの人生のどこかにはいられるって。きっとおじいちゃんおばあちゃんになっても、一緒にお茶が飲めるって」
「そんな先のことまで考えてたの?妄想力豊かだなぁ」
ぼくがからかうと、キノもつられてちょっと笑った。
「……私はチョウさんに恋してないから大丈夫って、自分に言い聞かせて安心してた。でも……」
そこでずずっ、とキノが鼻を啜ったので、ぼくはジャケットのポケットに入っていたハンカチを取り出して渡した。
「鼻かんでもいいよ、あとで洗うし」
「ありがと。……でもね、呪いが解けたあとのチョウさんに、恋しちゃってるかもっていうのに気がついて」
「えっうそ!?」
「うん。でもそんな自分もまじゲンキンで最低だなってすごい落ち込んだし、こ、怖くなって……」
驚いて横を向くと、キノの目からはぼろぼろと大粒の涙がこぼれ落ちていた。
「恋愛になっちゃったら、いつか別れる日が来るかもって思ったら、すごくすごく怖くて。だから自分の気持ちを見ないふりして、変にななみちゃんを応援するようなこともしたの。でもほんとは全然なかったことにできてなかった。だってチョウさんがななみちゃんと一緒にいるの、私めちゃくちゃ嫌だった……!」
子供みたいに泣きじゃくるキノの肩に思わず手を回してぽんぽんと叩く。さっきまでの体の強張りは、いつの間にかどこかに行ってしまっていた。ひとしきり嗚咽を漏らしたあと、キノはぼくが渡したハンカチで盛大に鼻をかんだ。
「あのさ、キノ」
「うん?」
「外見が変わってから、女の人たちのぼくに対する態度が全然違って、やっぱりすごいびっくりしたんだよね。道で知らない女の人に声かけられたりとか、連絡先聞かれたりってことも結構あって」
「え、そんなことあったの?」
「うん、実は。でも、そうやってどんなにチャンスがあっても、……飛瀬さんに告白されても。やっぱりぼくはキノのことしか考えてなかった」
ようやく涙の波が落ち着いてこっちを向いたキノと、しっかり目が合った。メイクが落ちちゃったのか、目の下がちょっと黒くなっている。そんなのもどうしようもなくかわいかった。
「今だったらさ、聞いてくれる?」
「……うん」
ぼくは深呼吸を一つしてから、あの日言えなかった言葉を口に出した。
「ずっとキノのことが好きだよ。恋愛ってだけじゃなく全部ひっくるめて、誰よりもキノと一緒にいたい。ぼくの誕生日からこっち色んなことがあったけど、でもずーっといつまでも、キノのこと一番に知ってる人がぼくだったらいいなっていうのは、何があっても変わらなかった」
引っ込んだ涙がまたぶり返したらしいキノは、涙声で言った。
「うん、私も。誰よりも一番、チョウさんのことが大好き。一番近くにいる人は、ずーっとチョウさんがいい」
変なの、いつもならすぐ泣くのはぼくのほうなのに。そう思いながら、ぼくはキノの肩を少しだけ抱き寄せた。
「まぁ、この通り元に戻っちゃったし?キノがそういうの嫌だって思うなら、彼氏彼女にならなくてもいいじゃん。どんな名前の関係なんて別にどうでもいいしさ、一緒にいられるように考えようよ」
そう言ったらしばらくキノが黙ってしまったので、まずいこと言ったかな?と思った、その瞬間。
キノの柔らかい唇が、ぼくの唇に当たる感触がした。
「……いまさらしても手遅れだって」
「うん、知ってる。したかったからしたの」
「えっでも……もうイケメンじゃないのに?」
「ぶはっ!ついには自分でイケメンって言ったよこの人」
「いやだって」
「ふふ、いやまぁね、イケメンになったのきっかけで意識しはじめて、私気づいちゃったんだよね」
「へ、何に?」
「チョウさんって、中身もかっこよかったんだなぁって」
こんなに長く一緒にいるのに。
そのときのキノの表情を、ぼくは今まで一度も見たことがなかった。
「チョ……玲ちゃん、なんだったっけ?買ってきてほしいって言ってたケーキの名前」
『タルト・トロピジェンヌだってば!もー鈴、何回も言ったじゃん』
「あ、あったこれだ。それだけだから切るね!すみません、このタルトトロ……なんとかを二つ」
「ふふ、かしこまりました。電話の相手、白鳥くん?」
「はい、どうしてもノーマのケーキが食べたいって言うからおつかいです。自分で買いに来たらぜったい挙動不審になるし、なんなら泣いちゃうかもとか言って」
黄金色の生地に生クリームがたっぷりと挟まったケーキを、守谷さんは丁寧に箱に詰めてくれた。
「ジーンさんから事情を聞いたときはさすがに驚いたけどね。でも他のメンバーにはぼくから説明するし、全然戻ってきてくれていいのに」
「とりあえずは、ずっとお世話になってた焼肉屋さんに戻りたいみたいで。ちょうど大学生バイトの子が就職で辞めちゃうんで、人手も足りないらしいです。あ、でも製菓の専門学校にも通い始めるんですよ!守谷さんとか聖川さんみたいになれたらいいなーって」
「へーそれは!嬉しいね。じゃあいつかパティシエとして戻ってきてもらわなきゃな」
守谷さんは「おまけ」と言って、きれいなピンク色の四角いマシュマロみたいなのをいくつか箱に入れてくれた。
「……これは、ジーンさんの話を聞いてぼくが思ったことなんだけど」
「?はい」
「呪いをかけたときの気持ちが強すぎたから、自分でも解けなくなっちゃったって」
「はい、そう言ってましたね」
「それってやっぱりどこかで、そのときのジーンさんが消えてないからなんじゃないかな」
閉じたケーキの箱を入れた紙袋に虹色のリボンをかけながら、守谷さんは続けた。
「だからもし、その気持ちを感じたときのジーンさんが癒されるときが来たら、呪いも本当に解けるんじゃないのかな……なんて、これはぼくの希望だね」
「……でももしそうだったら、私も嬉しいです」
あの日のジーンさんの涙を、悲痛な懺悔を目の当たりにしてしまった私は、心から願わずにはいられなかった。
「しょっちゅう言ってるんだけどなぁ、「死んだら何回でも生まれ変わってまた追いかけ回します」って」
「えー!守谷さんロマンチスト!」
「そりゃあねぇ、こんなの作ってるくらいですから」
守谷さんはそう言って、ショーケースの中でキラキラ輝いてるケーキたちを指さした。「確かに」と笑いながら、私は彼の作った食べられる宝石を受け取った。
それから五年後。
両開きの真っ白な扉の前で、私は緊張した面持ちのお父さんと並んで、そのときを待っている。
「エスコート役、本当に俺でよかったのか?」
「大丈夫だってば。お母さんもいいって言ってくれたし」
そろそろです、と係の人に言われて、礼服姿のお父さんと腕を組む。バイオリンの音と共に開いた扉の先に待っているのは……。
私が、恋に落ちたときのチョウさんだ。
最初に異変があったのは体重だった。「勉強のために甘いものたくさん食べてるのに、なんかどんどん体重が減ってて」とチョウさんが言い出して、何か悪い病気なんじゃないかと心配もしたけど、病院で検査を受けても何も問題は見つからなかった。
そのうちにだんだん目が二重になって、鼻もシュッとなってきて……日を追うごとにちょっとずつ、チョウさんは呪いが解けていた頃の姿に戻っていった。チョウさんの、本当の姿に。
そうして完全に本来の姿に戻った頃、チョウさんは製菓の専門学校を卒業した。今はパティシエとして『パティスリー・ノーマ』で働いている。プロポーズのときにプレゼントしてくれたのは、甘さ控えめだけど香りがすごく芳醇なザクロのケーキだった。
もちろん、やっぱり恋人同士になってからはお互いに期待や理想を持ってしまうこともある。それで傷ついたり傷つけたりしちゃったこともあった。それでもその度に、私たちは親友の目線に戻って考える。結局最後に残るのは絶対に離れたくないって気持ちだから、たくさん話して時には譲り合って、「二人」にとって一番いい形を模索する。
チョウさんがそうやって一つ一つ、丁寧に向き合ってきてくれたから。私はチョウさんとの未来を、信じられるようになった。
お父さんと一緒にバージンロードを歩きながら、列席者の人たちの顔を眺める。ホストクラブの郷田さんと結婚したあともばりばり仕事をこなして、ついにチームリーダーに昇進した松崎さん。三歳になる娘ちゃんを抱っこしたなつみと、すっかり尻に敷かれている様子の先輩。塩原さんと、相変わらず髪型が派手なコージさん。大学卒業後に警察学校に入って警察官になった佐藤さんに、いつまでもラブラブな聖川夫妻。みんなが満面の笑みで拍手をしながら迎えてくれる。唯一ジーンの横に座っている守谷さんだけは、最前列の秀さんを睨みつけてるような気もするけど……。
光の差す中をゆっくりと歩いて行って、花英さんにエスコートされて先に入場したチョウさんと向かい合う。タキシードを着た彼は、本物の王子様みたいにかっこよかった。
「魔術師の乱入はないかな」
「大丈夫でしょ、あそこに座ってご機嫌だし」
お決まりの誓いの言葉を言い合って、指輪を交換する。私に指輪をはめようとするチョウさんの手が緊張のあまり震えていて、私は思わず空いているほうの手でそれを手伝った。
「それでは、誓いのキスを」
お互いに見つめ合って、いざというその瞬間……。
「ちょっと待った!」
よく通る声がしたほうを向くと、総レースのロングスカートにテーラードジャケットを合わせた華やかな装いのジーンが立ち上がった。踊るような仕草で上げた指をぱちんっと鳴らすと同時に、会場中に色とりどりのバラの花びらが舞い上がる。まるでおとぎ話のラストシーンみたいな景色に、チョウさんと私は思わず笑ってしまった。
それから私は、目の前にいる親友に、
何百回目かの「真実のキス」をした。
おしまい
親友と電話でドラマの感想をあーだこーだと言っているときに、「わたしがファンタジー設定のラブコメを書くならー」とノリで思いついたのが、この白鳥くんでした。まさか十万字以上書くことになるとは!最後まで書くことができたのは、毎回最初に読んでは熱い感想をくれ続けた親友のおかげです。ありがとう。
わたしは美人にめっぽう弱いんですが、いつでもそれに罪悪感を持ってもいます。見た目で判断されるのが嫌なのに、誰よりも人を外見で評価してしまっている。けどそれって本能でもあるし……というジレンマをきっと一生抱えていくんだろうとも思っています。
でもななみちゃんのように、恋の相手にまったく違う何かを求める人もいる。六海くんのようにそういう人間関係自体を求めない人だっています。ありとあらゆる人たちが当たり前にそこにいて、最後はちゃんとハッピーエンドになる、そんなおとぎ話にしたいな……というのが、このお話の目標でした。ハッピーエンドは点じゃないから、それはずっと先にあるとも言えるし、ずっと続いていくとも言える。最後にめでたしめでたしを言うのは人生が終わる瞬間の二人かもしれないし、二人を迎えるどっかの神様なのかもしれません。このお話をほんの端っこだけでも読んでくれたそこのあなた!本当にほんとうにありがとう。




