第一話:昔は今
突然だが、あなたに親友はいるだろうか?
いないとしても落ち込む必要はないと思う。学生時代、「私たち親友だよね、ズッ友だよっ」と言い合っていた女子同士が、大人になるとお互いのSNSをぼんやりチェックし合うくらいの仲になってしまう、なんてよくある話だ。あるいは一度も親友だと呼び合ったことがなくとも、心の底ではお互いに一番大事な友達だと思い合っている、なんてこともあるかもしれない。誰かとつるむよりも自分自身と向き合っているほうが、ずっと心が健康でいられる人もいる。
もしあなたに親友がいるとしたら、それはどんな人だろうか。幼稚園時代からの幼馴染?高校時代、共に部活にはげんだ戦友?大人になってから趣味を通じて知り合った相手に、一番心を許している人もいるだろう。その人はあなたによく似ているだろうか、それとも正反対だろうか?
私、木下 鈴(学生時代の友達にはキノと呼ばれている)の親友は、チョウさんという。
チョウさんこと白鳥 玲と出会ったのは、中学一年生のときだ。さとり世代と世間から揶揄されながらも熾烈な受験戦争をくぐり抜け、それぞれにとって第二志望だった私立校に進んだ私たちは、クラスメイトとして出会った。
白鳥 玲、なんてどこかの財閥のお坊ちゃまのような名前を持つチョウさんだが、ぽっちゃりと肥満のボーダーラインをぎりぎり行ったり来たりするくらいの体型で、顔は宮下草○の○薙によく似ている。名前とのギャップに、同級生から「白鳥っていうよりあひる、ていうーかむしろプーさんだろ!」なんてからかわれるのもお決まりだった。そのノリで誰かが「ハクチョウ」と呼び始めたところから「チョウ」だけが残り、いつしか誰もが彼を「チョウさん」と呼ぶようになった。
その細い目元と好々爺じみた笑顔のせいか、初対面の人はたいてい「えっチョウさんって中国人じゃないんですか?」と驚く。が、チョウさんには中国の血は入っていない(実はすこーしだけ、スペインの血が入っているらしい。本人も疑ってるけど)。
そのルックスからいじられキャラになりがちだけど、チョウさんは人気者だ。チョウさんを嫌いな人間なんて一人も見たことがないし、いつのまにか誰もがチョウさんをかまいたくなって、仲良くなりたくなってしまう。それはひとえにチョウさんの黄金の心の成すところだと思う。
チョウさんは人をジャッジしない。その人自身が自己嫌悪に陥ってしまうようなことでも、なんのフィルターもなく受け止める。どんな人の話も適当に受け流したりせず、時間がかかっても真摯な言葉を返してくれる。
そんなチョウさんに、私はいつも救われてきた。中学時代、キャピキャピした女子グループに馴染めず浮いていた私は、放課後の教室でチョウさんと話しているときにだけ本当の自分自身でいられることに気がついた。チョウさんに対しては、「こんなこと言ったらどう思われるかな」なんていっさい考えずに話すことができる。その時から私は、チョウさんをずっと大事にしようと決めた。
それから中学、高校、大学とエスカレーター式に同じ学校に進んだ私たちは、今では家族ぐるみの付き合いの親友同士だ。社会人になってからも週に一度のペースで会っているし、くだらないことで毎日のように連絡を取り合っている。
その日も仕事から帰って、家でだらだらしながらチョウさんとFaceTimeしていた私は、ふと壁にかけてあるカレンダーの日付に気がついた。
「あれっそういやチョウさんの誕生日もうすぐじゃん。今週?土曜日?えーチョウさんその日ってバイト?」
どういうわけか就職活動をしなかったチョウさんは、大学時代からずっと同じ焼肉店でアルバイトをしている。
「いや、うん……その日、実は休みなんだよね。キノ、なんか予定ある?」
「まじで!ないない、なんもない。えーじゃあお祝いしようよ。ご飯なんでも奢っちゃる!」
着古したスウェット姿でごろごろしていた私は、ベッドの上で起き上がった。社会人になると友達の誕生日を当日に祝うなんてこともなかなかできない。にわかにテンションが上がってくる。
「ほんと?じゃあ、土曜の昼過ぎくらいにキノんちに迎えにいくよ」
「えっわざわざ?別にいいよ、行きたい店決めてくれたら現地集合で」
「いや、うーん……」
しばしの沈黙。あれ?Wi-Fiの調子悪い?と思ったところで、チョウさんが切り出した。
「あのさー……キノが大学のときに彼氏と別れてヤケクソになって、モテ技術を習得してやる!ってキャバクラでバイトし始めたのに、お客さんの前で本気でウザそうな顔しちゃって三日でクビになった話って、知ってるのぼくだけ?」
突然の話題チェンジ。なんでそんな黒歴史を掘り返すかな……!
「ないない!誰も知らない!っていうかぜっったい言わないでよ!」
「うんうん、言わないよ。墓場まで持ってく!」
「なんなのー、いきなりそんな昔の汚点をほじくり返して。奢るのやめよっかな」
「ごめんごめん、ちょっと急に思い出しただけ。じゃあ、やっぱり土曜は家まで一回行くね。そこでどこ行くか決めよ」
そーお?と答えながらもう一度寝っ転がると、十二時を指している目覚まし時計が目に入った。
「あっやば、ウチのガヤはじまるじゃん。じゃあ土曜日にね!電車乗ったらLINEしてー」
そのまま、いつもと変わらずおやすみもそこそこに通話を切った。
土曜日。チョウさんからの『いま電車のったよ』のLINEで目が覚めてしまった。完全に寝坊だけど、まぁいいかとのんびりメイクをする。
『駅ついた』
『ごめんまだ準備おわってない
やっぱ家まできてー』
結局こうなるから家まで迎えにくるって言ったのかな……なんて感心しながらマスカラを塗ろうとしていたところで、インターホンが鳴った。
「はーいはい、ごめんちょっと上がって待ってて……」
すっかりチョウさんだと思い込んでドアを開けると、そこに立っていたのは見知らぬイケメンだった。すらっとした長身に、優しい二重の目元。ジャニーズにでもいそうなルックスだ。あれ、宅配便?なんか注文したっけな。目の前のイケメンはなぜかやけに緊張した面持ちで、黙ったまま突っ立っている。もしかして宗教の勧誘だろうか。
「あのー……」
痺れを切らして声をかけると、男は意を決したように口を開いた。
「き、キノ!ああああああの、し、信じてもらえないかもしれないけど!ぼくなんだ!」
……オレオレ(ぼくぼく?)詐欺だー!
えっていうか顔見せちゃったら意味なくない?この人バカなの?何にせよ危ない人だ!
慌ててドアを閉めようとすると、必死にドアの隙間に足を挟んで抵抗してくる。
「残念ですけど!私に兄弟はいませんから!」
長年会っていない兄か弟のふりでもして騙そうとしているのかと思って大声でそう言うと、
「そうじゃなくて!ぼくだよ、チョウさんだよ!」
と返ってきた。えっなんでチョウさんの名前を知ってるんだろう?もしかしてストーカー?いよいよ怖くなって無理やりドアを閉めようとすると、男は少しひっくり返った声で「アリス!」と叫んだ。
「……は?」
「キノがキャバ嬢やってたときの源氏名、アリス。これ知ってるのぼくだけだって、この前の電話で言ってたよね。……この顔で信じてもらうのむずかしいってわかってるけど、でも本当なんだ。ぼく、チョウさんなんだよ!」
ドアの隙間から懸命に説明する男の話を理解するうちに、頭にかーっと血が上ってきた。チョウさんめー!人の黒歴史を勝手に知らない人に話したうえ、なんだこのよくわからない冗談は。墓場まで持ってくって言ったのに!誕生日だからってやっていいことと悪いことがある。怒りに燃えながらも、どうやらこの人はチョウさんの知り合いらしいので、ドアから手を離す。
「もーなんなのこの意味わかんないドッキリ!お兄さんチョウさんの友達?まじでもうちょっと面白いの考えろって……」
さっさと出てこさせて文句の一つも言ってやろうと、ちょうどポケットに入っていたスマホでチョウさんに電話をかけた。けれど、着信音は目の前の男から聴こえてくる。男がポケットから取り出して見せたのは、スマーフのケースがついた見慣れたチョウさんのスマホだった。
「……ほら、だからぼくなんだって……」
その瞬間、恐ろしい可能性が頭をよぎり、ドアノブを思いっきり引っぱった。男は油断していたらしく、ドアは男の目の前で大きな音とともに閉まった。急いで鍵とドアチェーンをかける。
もしかして、考えたくないけどもしかして……今の人が泥棒ってことはないだろうか。ドッキリかと思ったけど、チョウさんはこんな意味のわからない悪ふざけをするようなタイプじゃない。まさかチョウさん、どこかでスマホ落とした?それとも追い剥ぎにあったとか……さっきまで普通にLINEでやり取りしてたけど、駅からうちまでの十分くらいの間に何かあったのかもしれない。なんで今の男はチョウさんや私の個人情報を知っていたんだろう?スマホの中身を見たってこと?いやでもパスコードがあるし……でもなんか解除する方法があるってことも……。
どんどん不安になってきて、チョウさんの母親・花英さんに電話をかけると、すぐに能天気な明るい声が聴こえてきた。
「もしもーし、キノちゃん?ひさしぶり、元気にしてた?」
「花英さん、こんにちは……あの、もしかしてチョウさんから連絡ありませんでしたか?」
「玲ならキノちゃんと遊ぶって家を出たっきりだけど。まだ会えてないの?」
どんどん嫌な予感がしてきて、「はい、まだ……あの!また後で連絡します!」とだけ言って電話を切った。花英さんがまだ何か言っていたような気もするけれど、今は世間話をしている場合じゃない。
そっと足音を立てないように玄関に近づいて覗き穴を見ると、さっきの男はいなくなっていた。ひとまずほっと息をつく。もし本当にチョウさんに何かあったんだとして、今どこにいるんだろう?スマホが手元にないとすると、連絡できなくて困ってるのかもしれない。何か心当たり……と考えたところで、チョウさんのバイト先が思い当たった。大学のそばで一人暮らしを始めて以来、住み続けている私のマンションとチョウさんの働く焼肉屋は、歩いていける距離にある。もしかしたら電話を借りるためにそこに向かったかもしれない。
覚悟を決めて、手近なかばんに財布とスマホ、防犯スプレーを入れた。さっきのあやしい男がまだうろうろしている可能性もある。ドアチェーンをかけたまま玄関の隙間から外を見回したけど、男の姿は見当たらなかった。急いで下まで降りて、自転車に乗る。これなら万が一さっきの男が追いかけてきても逃げ切れるはず。大きくひとつ深呼吸をしてから、チョウさんのバイト先に向けて走り出した。
ドアを閉められてしまった。
すんなりは行かないだろうと思っていたけど、あれはたぶん、ぼくのことを変質者か強盗だとも思っている様子だ。あぁー、やっぱり無謀だったかぁ。かっこつけずにお母さんたちに付いてきてもらえばよかった。
しばらく待ったけれど、一向にドアの開く気配はない。このままここにいたら通報される危険性もあるな……と思い、とぼとぼとキノの住むマンションの階段を降りる。集合玄関を出ると、鮮やかな紫と黄色の柄物のコートにピンヒールの革ブーツを履いた人物が待ち構えていた。
「信じてもらえなかったみたいね、ざんねーん」
「出たな、ジーン……」
誕生日になるとどこからともなく現れるこの(たぶん)男ジーンこそ、ぼくがこんな状況に陥っている原因をつくった張本人だ。今まで半信半疑だったけれど、こんな姿になってしまった以上信じるしかない。
ジーンはツカツカとヒールを鳴らして近づいてくると、ぼくの顔をまじまじと見た。
「あーむかつく!そうなるだろうとは思ってたけど、あんたの父親の若い頃にそっくり。イラつくほどイケメン!」
キラキラしたものが塗られたまぶたを細めながら、忌々しそうにジーンは言った。
「まぁなんにせよ、お誕生日おめでとうダーリン。ついに自分の本当の姿になれた感想はどーお?」
芝居がかった仕草で、ジーンはぼくの周りをぐるぐる回る。
「……毎年、誕生日のたびにジーンから呪いの話を聞いても、正直あんまり信じてなかった。でも今日、日付をまたいだら本当に顔がどんどん変わっていって、めちゃくちゃびっくりした……」
「なーに、信じてなかったの?あのビジュアルの両親からあの子供が生まれるってどう考えてもおかしいでしょうが」
「隔世遺伝なのかなぁって」
はぁーと大袈裟にジーンがため息を吐いた。
「あんたってほんと、頭の中お花畑って感じよね……いーい?今まで真面目に聞いてなかったみたいだからあらためて教えてあげる。次に季節の祝祭と満月が重なる日までに、心から愛する人から真実のキスをもらえなかったら、あんたはあの新人相撲取りみたいな姿に逆戻り。一生そのかっこいーい顔には戻れないんだからね」
「真実のキスって……そんなおとぎ話みたいな」
「うるさーい!魔術師は古きよきスタンダードをあ・い・す・る・の。まぁでもさっきの様子じゃあ望みは薄そうね。あんただって信じてももらえてなかったじゃない」
くつくつと楽しそうに笑うジーンに、普段あまり怒ることのないぼくもさすがにイライラしてくる。
「ま、恨むんなら自分の父親を恨むことね」
「だからそれもお父さんは悪気があったわけじゃないって……」
「うるさいうるさーい!とにかく、おれは楽しく見物させてもらうから。せいぜいがんばってー」
ふわりとコートの裾を翻したジーンは、次の瞬間には消えていた。ぼくは鉛のかたまりを飲み込まされたみたいな気持ちになって、思わず一瞬その場にしゃがみ込んだ。
心から愛する人。そんなの、この二十五年の人生で一人しか思いつかない。小学校のときに憧れていたみすず先生を除いたら、ぼくに恋ってものを意識させたことのある女の子はたった一人だ。でもキノは、ぼくのことをそういう風には見ていない。真実のキスどころか、恋愛対象の射程距離にかすってもいないだろうし、だからこそ今みたいに仲良くなれたんだとも思う。ぼく自身、キノと友達になった最初の頃からそういう期待はすっかり捨てていた。はっきりし過ぎている上に思い込みの激しい性格のせいでいまいち長続きしないけど、キノは可愛いしモテる。人としても大好きだからこそ、変にそういう気持ちを持つより親友としてずっと一緒にいられるほうがよっぽどいいと思ってきた。だって彼氏は別れたら他人だけど、親友だったらずっと付き合いは続くわけだし。
でも……立ちくらみしないようゆっくりとその場で立ち上がると、マンションの玄関のガラス扉に映った自分と目が合った。確かに写真で見た、父さんの若い頃によく似てる。顔だけでなく体型もすっかり変わってしまったから、今履いているズボンはぶかぶかで、ベルトでなんとか落ちないようにしている状態だ。試しに体重計に乗ってみたら、なんと二十五キロも減っていた。
そう、ぼくはジーンから毎年呪いの話を聞くたび、冗談だと笑いながらも心のどこかで思っていた。もし本当にそんな魔法があるんだとしたら、もしかしたら、万が一にも、外見の変わったぼくをキノが男として見てくれるなんてことがあったりしないだろうか?って。見た目をいじられることもモテないことも、まぁそういう星の下に生まれてきたんだな、とそこまで気にしたことはなかった。別に大食いじゃないのに太ってるのも、体質だからしょうがないんだろうと思ってたし(今になって考えれば、これも呪いの効果だったんだろうけど)。でもそうやって諦めながらも、やっぱり妄想はした。二十五歳の誕生日が来たらキノの隣が似合うような男になって、人生変わるんじゃないかって。魔法なんてあるわけない、ジーンは頭がおかしいんだって思っていたくせに。いや、むしろそうやって期待しちゃうのが怖くて信じないようにしてたのかもしれない。
けれど今日の零時、すべては現実になってしまった。もちろんジーンの言う期日までに何もしなければ、前の姿に戻って今までどおりの日々が続くだけだ。それだって別に悪いわけじゃない。でも……。
このチャンスを逃したらきっと一生後悔する。たとえ結果的にだめだったとしても、挑戦するのとしないのとでは全然違う。
キノに真実のキスをもらえるよう!できることは全部やろう!
思わず気持ちが昂って天に向かってガッツポーズをすると、横を通った親子連れに訝しげな目で見られてしまった。おっと……ここでいつまでもウロウロしてたらあやしいな。まずはキノにぼくだって信じてもらわないと。決心したところでちょうど、スマホの着信音が鳴った。
チョウさんのバイト先の焼肉店に入ると、ちょうど店長がレジのところにいた。この店長とチョウさんはプライベートでも仲良しで、私も何度か一緒に飲みにいったことがある。
「あれーキノちゃんじゃん。なに、一人焼肉しに来たの?」
お店オリジナルのバンダナを頭に巻いた店長は、私を見ると呑気に言った。
「あの、もしかしてチョウさん来てませんか?」
「来てないけど、そうだちょうどよかった!ねぇ、チョウさん何かあったの?」
「え?」
「今朝電話くれたんだけどさ、急にしばらくバイト休ませてほしいって。なんかお家の事情?だって言って。めちゃくちゃ申し訳なさそうにしててさー、おれもあんま詳しく聞いちゃいけないんじゃないかと思って突っ込まなかったけど、チョウさん今まで一回も休んだことなかったし、なんか大変なのかなーって。キノちゃんだったら何か聞いてない?」
寝耳に水とはこの事だ。大学一年のときにここで働き始めてから、確かにチョウさんはずっと皆勤賞だった。店長もいい人だし人間関係も良好なこのバイト先を、すごく気に入っていたはずだ。いきなり長期間休むだなんて、しかもそんな大事な連絡を電話でなんて、全然チョウさんらしくない。
やっぱりチョウさん、何か事件とかに巻き込まれたのかも……。
「キノちゃん?どうかした?」
悪い想像がぐるぐる巡ってしまう。とにかくどうにかして、チョウさんを見つけなきゃ。
「あ、ありがとうございました!あの、もしチョウさんから連絡があったらLINEしてもらえませんか?」
「うん、いいけど……」
「よろしくお願いします!じゃ!」
「えっちょっと、キノちゃーん?」
焼肉屋を飛び出して、駅前の交番を目指す。とにかくあのあやしい男のことを警察に相談してみよう。もしかしたらチョウさんも警察に行ってるかもしれないし……!
交番の前では、若い警察官が暇そうに欠伸をしながら立っていた。
「あの、すみません!」
「ふぁー、あ失礼。どうしましたか?」
「実はさっき家に変な男が来て……その人、私の友達のスマホを持ってたんです。最初は友達のいたずらかなって思ったんですけど、その友達と連絡も取れなくて……もしかして、何かに巻き込まれたんじゃないかと思って」
「えっそれは不可思議ですね。ストーカーかな……その男の特徴は?」
「ええっと、細身で黒髪で……」
ちょうどその時、後ろから「キノ!」と呼ぶ大きな声が聞こえた。振り返ると、さっきの男がこちらに向かって走ってきている。
「あっ!お巡りさん、あの男です!」
「なーにー!ちょっときみ!話を聞かせてもらおうか!」
「えっちょっ待ってください!誤解なんです、ぼくら知り合いで!」
「こんな人知りません!」
「えーい、待ちなさーい!」
すごい勢いで追いかけていくお巡りさんの剣幕に、男は来た道を慌てて引き返す。けれどお巡りさんは華麗なジャンプで飛びついて、みごと男の捕獲に成功した。
一時間後。一番近い警察署で婦人警官に事情を話していたところに現れたのは、チョウさんの両親だった。
「キノちゃん!あーやっぱり嫌な予感がしてたのよ。あの子ったら一人で大丈夫なんて言って、警察にまでお世話になるなんて……」
「まぁまぁ花英さん。玲にも色々考えがあったんだろうし……」
チョウさんの両親、白鳥 秀さんと花英さんは、お洒落なインテリア雑誌から出てきたみたいな美男美女夫婦だ。五十代には見えない若々しい二人を、通り過ぎる警察官たちがちらちら見ていく。
「秀さん、花英さん、なんでここに?」
「キノちゃんから電話もらっていやーな予感がしたから、玲にやっぱり私たちも一緒に行って説明するって言って向かってたのよ。そしたら警察から電話がかかってくるじゃない?もーびっくりしちゃった」
「えっ……なんで警察からお二人に電話が?もしかしてあのあやしい男のこと知ってるんですか!?」
秀さんと花英さんは一瞬顔を見合わすと、やさしい目で私のほうを向いた。
「ごめんねキノちゃん、びっくりさせちゃって。ぼくたちからもちゃんと説明するから、ひとまずここは警察の人に誤解だったって言ってもらえないかな?さっきキノちゃんが会った人の身分は、ぼくたちが保証するから」
第二の両親のように思っている二人にお願い!と頭を下げられて、私は困惑しながらも言われたとおりにした。
「あんまり人のいないところで話したほうがいいかもしれないから……」と秀さんたちに言われたので、警察を出た私たちは私のマンションまで戻ってきた。散らかっているのでちょっと恥ずかしいけど、しょうがない。床に散乱している雑誌や服を申し訳程度にどけて、なんとか四人座れるスペースを作る。さっきの男は緊張した面持ちで、ちらちらこっちを見ていた。
「本当にごめんなさいねキノちゃん、迷惑かけちゃって……」
腰を落ち着けたところで、おもむろに花英さんが切り出した。「私てっきり、玲がキノちゃんにちょっとは話してるもんだと思ってたのよ」
「えーっと、話すって何を……?」
何のことを言ってるのかさっぱりわからず目の前の三人を見渡すと、秀さんは軽く咳払いをした。
「あのね、キノちゃん。信じられなくて当然だとは思うんだけど、本当に、今ここにいるのが玲なんだ」
そう言って秀さんは、隣にいる男のほうを指した。
「へっ……え?はぁ?秀さんまで何言ってるんですか?あっもしかして家族ぐるみのドッキリ!?」
「いやいやいや、違うんだよ。これにはふかーい訳があるんだ。説明するから、聞いてくれないか」
真剣な眼差しで見つめてくる秀さんと花英さんの勢いに気圧されて、私は思わず黙ってしまった。なんだかひどく喉がカラカラだ。
「わ、わかりました……その前にとりあえずお茶でも……」
「あ、ぼくやるよ」
お茶を取りに立ちあがろうとすると、男が先に動いた。慣れた様子で冷蔵庫からお茶のボトルを出して、勝手知ったるという感じで棚からグラスを出す。コースターを敷いて私の前に置かれたのは、一番気に入っているミントグリーンのグラスだった。それに戸惑っていると、秀さんが話し始めた。
「話は二十七年前まで遡る」
二十代だったぼくはロックンローラーのような刹那的な生き方に憧れて、夜な夜な街を飲み歩いては老若男女と浮名を流していた……ふっ若さゆえの過ちってやつさ。
「ちょっと待ってください。いま老若男女って言いました?」
「恋の前には性別や年齢なんて些細なことでしかないからね。続けていいかな」
決まった恋人はつくらずに、その時々のときめきを追いかけるのが楽しかった。そんな時だよ、新宿のバーでジーンという男に出会ったのは。なんともミステリアスな人でね。その店に来るようになってずいぶん長いらしかったけど、彼の職業も年齢も、そもそも日本人なのかさえ誰も知らなかった。古い常連さんなんかは、「あの子のこと十何年も知ってるけど、ぜんっぜん年取らないのよ。どんだけー!」なんて言ってたな。
「えっIKK○さん?I○KOさんが常連のバーなんですか?」
それにジーンの周りにいると、どういうわけか不思議なことがしょっちゅう起きた。一緒に花見に行く約束をしていれば、その日はどんな大雨の予報が出ていても快晴になったし、ひどい二日酔いでもジーンに少し触れられるだけで魔法みたいに頭痛がおさまった。そういえば行きつけの店で飲んでいるときに苦手な常連客が入ってくると、いつのまにか姿を消してしまうこともよくあったな。本当に一瞬目をそらした隙に、煙みたいにいなくなってるんだ。そういう事がよくあって、彼を知る人たちはなんとなくジーンが普通とは違うと認識してたと思う。でもそれについて特に深追いはしなかった。ジーンも必ずはぐらかしたし、どういうわけだかそういう不思議なことについて質問すると、そのあとの記憶が曖昧になるんだ。
ジーンとは付かず離れずの、お互いのタイミングが合うときにデートするような関係だった。ジーンも特定の恋人は作らない主義で、それくらいの感じが心地いいみたいだったしね。
一度、酒が深くなった時にこんな話をした。
「おれはずっと同じ場所にはいられない。泳ぐのをやめたら死んじまう魚のようなもんなんだ……」
「ふふっ秀ちゃんのそういうとこ好き。おれは嫌でもおんなじところにいなくちゃいけないから、秀ちゃんみたいに振り返りもせずに通り過ぎてくみたいな人のほうが安心する……ねぇ、お願いだからずーっとそのまんまでいてね。秀ちゃんがそういう風でいてくれたら、おれも悲しくならずにいられる気がする。約束ね」
「心配しなくても、おれの心を永遠に留めておける人なんて、この世にはいないさ」
酔ってふざけたテンションも手伝って、ぼくはジーンと指切りをした。
けれどそれからほどなくして、ぼくは出会ってしまったんだ……自分の運命に!
ぐっと拳を握りながら言い放つ秀さんの隣で、花英さんがちょっと照れたようにはにかんだ。
花英さんと出会って、ぼくは生まれ変わった。遊ぶのはすっぱりやめて、彼女と穏やかで幸せな家庭を築くと決意したんだ……飲み歩くこともなくなったから、ジーンとはしばらく会っていなかった。けれど、誰かからぼくが結婚することを聞いたんだろうな。結婚式の当日、まさに誓いの言葉を言おうという瞬間に、彼は現れた。
「お揃いの皆さん、本日はお日柄もよく……なーんちゃって」
黒いレース生地のパンツスーツを着たジーンが指を鳴らすと、それまで抜けるように晴れていた空が一気に真っ暗になって、どしゃ降りの雨になった。すぐ近くで雷が落ちたのか、参列者が小さな悲鳴を漏らすほどの轟音が鳴り響いた。
「ジーン!来てくれたんだ」
「悪い魔女は招かれないパーティーに現れるものでしょ」
「招かれないなんてことないよ!この後の披露宴も立食形式だし、よかったら参加してって」
「あらーありがと!でも遠慮しておくわ」
ツカツカとヒールの音を響かせて祭壇のほうに近づいてきたジーンは、見たこともないくらい冷たい目で「嘘つき」と言った。
「ずーっと変わらないって、同じ場所にはいられないって言ったのに」
「……ジーンとあの話をした時は、本当にそう思ってたんだ。でも人生を変える出会いってあるんだよ。心の底から、帰れる場所をこの人と一緒に作りたいって思っちゃったんだ。ごめん、約束守れなくて」
濃いアイシャドウで囲まれたジーンの目には、涙が少し浮かんでいるようだった。彼は黒いマニキュアが塗られた人差し指をびっとぼくのほうに向けた。
「指切りの契約を破った代償は大きいよ。……おとぎ話よろしく、悪い魔女から若い二人に贈り物をあげる」
ジーンの指が、ぐるぐると何か絵を描くように宙を動いた。
「じきに生まれてくるあなたたちの子供は、健康で心もやさしいけれど、とても醜い姿をしているでしょう。二十五歳の誕生日を迎えるまで、その子は本来あるべき姿ではなくその醜い姿で過ごす。あんたたちのそのうるわしーいルックスから生まれるはずの美人には、二十五になるまでなれないのよ!」
「なっそんな……!ジーン、呪うなら子供じゃなくてぼくにしてくれ!」
「そうよ、生まれてくる子に罪はないじゃない!」
「うるさいうるさーい!呪いってのは本人じゃなくて子孫にかけるってのがセオリーなの!それじゃ、せいぜいお幸せに!」
結婚式場の入り口から突風が吹いてきて、次の瞬間にはジーンはいなくなっていた。
秀さんの話を聞いた私は、呆然としていた。さっき注いでもらったお茶にも結局手をつけていない。
「そ、それで……本当にそのジーンって人の呪いが、チョウさんにかかってたってことですか?」
「私たちも半信半疑だったのよ。周りの人にお子さん似てないですねって言われることはよくあったけど、隔世遺伝ってこともあるしなぁって」
まぁ確かに昔から、秀さんと花英さんからチョウさんが生まれるって不思議だなと思ってはいたけど……なんか触れちゃいけない複雑な事情でもあるのかと思ってた……。
「それがね、昨日の夜っていうか今日よ。秀さんからジーンには本当に不思議な力があるらしいって話もずっと聞いてたし、ちょっとドキドキしながら三人で日付が変わるのを待ってたの。そしたら本当に!みるみるうちに玲の顔が変わっていって……」
「で、この姿になったんだ」
そう言って秀さんは、相変わらず居心地悪そうに座っている男のほうを見た。
「ものすごく驚いたけど、納得もした。今の玲の顔は、若い頃のぼくによく似てるから」
秀さんはジャケットの胸ポケットから一枚の写真を取り出して見せてくれた。そこには確かに目の前の男によく似ている、若かりし日の秀さんが映っていた。
「ほ、本当にチョウさんなの……?」
私はあらためて、机の向こうに座っている男の顔をまじまじと見た。
「うん。ごめんねキノ、お父さんたちの話を聞いてても、ぼく自身あんまり信じてなかったんだ。呪いってそんな、ファンタジーじゃあるまいしって……話しても頭おかしいって思われるかなって、ずっと言えなかった。今日もすごいテンパっちゃって、いきなり見切り発車で来ちゃって……びっくりさせて、まじでごめん!」
胸の前で両手を合わせて謝るそのポーズは、私がよく知っているチョウさんの仕草そのものだった。
「キノちゃん、見た目がこーんなに変わっちゃって戸惑うのは当然だと思う。私たちだって正直まだ戸惑ってる。でもね、中身は今までどおりの玲のまんまだから。慣れるまで大変だとは思うけど、変わらず仲良くしてくれると嬉しいな」
ね、とやさしく笑いかけてくれる花英さんと、申し訳なさそうに、でも真剣にこちらを見ている男――あらためチョウさん――を交互に見ているうちに、私はなんだか泣きそうになってきてしまった。
キャバ嬢のときの源氏名。お気に入りのグラスの場所、謝りかた。ここにいるのは、本当にチョウさんなんだ。
「……ごはん……」
「え?」
しばらく続いた沈黙を破った私に、チョウさんが聞き返した。
「ごはん、食べに行こうよ。約束でしょ。誕生日なんだから」
鼻声でそう言うと、目の前のチョウさんは花が咲いたみたいな笑顔になった。
「うん!行こう、行きたい店調べてあるんだ」
「よーし!せっかくだから皆で行こう!お父さんがなんでもご馳走しちゃうぞ!」
それから四人で食べたイタリアンは、忘れられない味になった。