第1話 新米貴族は夜闇に覚醒する
揺れる馬車の中、僕は極度の緊張に襲われていた。
呼吸が整わず、鼓動がうるさい。
汗を掻いているし、貧乏ゆすりも止まらなかった。
貴族服を脱ぎ捨てて、逃げ出してしまいたいのが本音だった。
もっとも、残念ながらそれはできない。
今は大事な役目があるからだ。
馬車の窓から外を見ると、そこには夜の街が広がっていた。
前方には大きな屋敷が見える。
あそこが此度の目的地であった。
今日は僕が貴族になって初めての社交界だ。
大切な日であり、今後の人生を左右する催しである。
そこに参加するのだから、直前で逃げ出すなど論外だろう。
まあ、貴族と言っても名誉男爵だ。
一代限りの特権階級であり、末席も末席と言える。
領地を持たず、権力も皆無だった。
聞こえが良いだけで、伝手さえあれば誰でもなれるようなものらしい。
実際、僕も伝手で名誉男爵になれたのだから、その説を見事に補完している。
(僕は社交界の主役ではない。目立たずに過ごすだけでいい)
そう自分に言い聞かせるも、緊張はなかなか拭えない。
こうした行為も今夜だけで何度目になるか。
我ながら情けない。
この段階にあってもまだ決心できずにいるのだ。
「もう少し肩の力を抜きたまえ。貴族は堂々としているものだよ」
余裕のある声を受けて顔を上げる。
発言したのは隣に座る女性だ。
僕は汗を拭きながら謝る。
「すみません……」
「何も緊張することはない。ただ雑談をしながら飲み食いするだけだ」
彼女は赤髪を掻き上げながら苦笑した。
優雅な横顔だ。
瞳に星空が反射して、見惚れてしまうほどに美しい。
我に返った僕はすぐに目を逸らす。
彼女はラトエッダ子爵だ。
僕にとっての恩人であり、名誉男爵に推薦してくれた人物でもある。
今回の社交界は、彼女の紹介によって参加することになった。
だからこそ、下手な真似は絶対にできない。
(子爵に励まされたんだ。頑張るぞ)
決意しているうちに屋敷に到着した。
馬車を降りた僕は子爵の後ろを歩き始める。
「君は横で立っているだけでいい。私が促した時だけ自己紹介を頼むよ」
「わ、分かりました」
僕は襟首を正しながら応じる。
慣れない貴族服で少し窮屈に感じるが、ここは我慢だ。
係の人間に招待状を渡して僕達は屋敷に入る。
会場には既にたくさんの招待客がいた。
立食形式で、あちこちで和やかに会話をしていた。
ほとんどが貴族だろう。
そうでなくても社会的に地位のある者だ。
僕には誰が誰がか分からないが、子爵はきっと把握しているに違いない。
貴族は人脈が重要だ。
派閥等も含めて記憶しなくてはいけなかった。
「さて、我々も行こう。時間は有限だ」
子爵が歩き出したので、彼女についていく。
それからは他の貴族や商人に挨拶をしていった。
僕がやることは少ない。
愛想笑いでやり過ごすくらいである。
僕に興味を持つ者は一人もおらず、まるで目立っていなかった。
これでいい。
上出来とは言えないが、迷惑はかけていない。
今の僕にはそれが精一杯だった。
子爵は涼やかに対応している。
やはりこういった場に慣れているようだ。
彼女は若くして領主となった。
爵位は低いものの、国内でも一目置かれている。
武勇の面でも優れているため、兵士からは英雄としても見られていた。
ラトエッダ子爵は、国を支える貴族に相応しい人格者である。
こうして贔屓にされることが申し訳なくなるほどだった。
とは言え、せっかく同行できたのだ。
貴族として公の場に出る初めての機会である以上、しっかりと役目を果たさねばならない。
邪魔をしないようにしつつ、少しでも学んでいくべきだろう。
その後も僕達は挨拶をして回った。
たまに休憩を挟み、食事をしながら子爵と会話を交わす。
所作や言葉選びについて細かな助言を貰ったりもした。
やはり満点ではなかったが、大きな失敗はしていないと思う。
このままそつなく終わるのではないか。
そう考えた時、芝居がかった声が聞こえてきた。
「これはこれは! ラトエッダ子爵ではないかっ!」
一人の男が歩み寄ってくる。
それは社交界の主催者である伯爵の息子だった。
敏腕領主として有名だが、同時に黒い噂の絶えない人物である。
女癖の悪い浪費家で、犯罪組織とも繋がりがあるらしい。
彼の視線は今、子爵だけを捉えていた。
当の子爵は笑顔で応じる。
「レイク殿。お久しぶりでございます」
「呼び捨てでいい。他ならぬ我々の仲だろう?」
手を取ろうとしたレイクに対し、子爵はさりげなく躱す。
笑顔のままだが、きっとそれは表面上のものだろう。
子爵は少し咎めるように注意をする。
「伯爵のご子息が、誤解を招く行為をされるのは如何なものかと」
「すまない。君を前に舞い上がってしまったようだ」
レイクは大げさに肩をすくめて笑う。
そこで彼の目に僕が映った。
笑いを止めたレイクは、剣呑な調子で詰め寄ってくる。
「貴様は誰だ」
「彼は友人のエリスです。先日、名誉男爵となったので、本日は社交界に参加しております」
「ほう……」
子爵の説明を聞いたレイクは顎を撫でる。
そして、これ見よがしに鼻を鳴らした。
レイクは吐き捨てるように僕を罵倒する。
「成り上がりの平民風情が。貧相な面構えだな」
「え、いや……その」
僕は言葉に詰まる。
いきなり真正面から馬鹿にされるとは思わなかったのだ。
「よくも堂々と参加できたものだな。まるでドラゴンに睨まれたゴブリンのように怯えているではないか!」
レイクはわざと声を張り上げて言う。
それによって周囲の貴族達が注目し始めた。
渦中に立つ僕は、床を睨むことしかできない。
身分差が大きすぎる。
迂闊な発言をすれば、その場で処分されかねなかった。
無論、僕を推薦した子爵にも迷惑がかかってしまう。
一方、レイクは自慢げに右手を動かした。
そして僕に装飾品を見せつけてくる。
「この指輪は竜の涙と呼ばれている。貴様が一生かかっても買えないほど高価な品だ」
レイクが僕の耳元に顔を寄せた。
彼は誰にも聞き取れないほどの小声で言う。
「同じ貴族だと考えないことだ。格が違うのだよ」
「くっ……」
僕は後ずさる。
その際、レイクの足に引っかかった。
おそらく意図的に引っかけられたのだろう。
僕は体勢を崩して転倒した。
「うわっ!?」
背後のテーブルにぶつかる。
弾みで料理を床にひっくり返してしまった。
皿の割れる音が連鎖して、歓談の声は静まる。
誰もが僕を見つめていた。
僕は身を起こす。
ワインで服が汚れていた。
きっと洗っても落ちないだろう。
洗濯担当の使用人に謝らなくてはいけない。
極度の混乱によるものか、思考は現実逃避を始めていた。
誰からともなく嘲笑が起きる。
会場の使用人が僕を引き起こしてくれた。
別の使用人はひっくり返った食事を片付け始める。
(最悪だ……)
僕はその場に呆然と佇んでいた。
汚れた服の不快感など気にならない。
吐き気を催すような状況だった。
今すぐここから逃げ出したかった。
そんな中、レイクが子爵の手を引いていた。
彼は会場の前方へ進もうとしている。
「あのような下らない男は放っておけばいい。君にちょうど相談したいことがあるのだ。向こうで話そう」
「…………」
子爵が僕を一瞥した。
感情を出さないようにしているが、苦悩している。
優しい彼女のことだ。
きっと僕を助けたいと考えているのだろう。
だけど、それはいけない。
僕は小さく首を振った。
これ以上、子爵に迷惑をかけるわけにはいかない。
悔しいがレイクに大人しく従うべきだ。
それでひとまずは場が収まる。
こちらの考えが伝わったのか、子爵は頷いた。
そのまま二人は立ち去っていく。
釣られて周りの参加者達も続々と散っていった。
残された僕なんて、どうでもいいのだろう。
向けられる視線には、憐みと蔑みが含まれていた。
それからは僕は会場の端を陣取り、誰とも話さずに時間を過ごした。
ほどなくして、主催者による全体挨拶が始まった。
レイクによる自慢話もあったが、耳を貸したりしない。
すぐに戻ってきた子爵がしきりに励ましてくれたが、その内容すら頭に入ってこなかった。
こうして社交界は終了した。
貴族として初めて参加する催しは、散々な結果となってしまった。
◆
その日の深夜。
高級宿の一室にて、寝苦さから僕は目覚める。
ベッドで身を起こすと、異常な動悸に襲われた。
ひりつくような焦燥感を伴って、視界が狭まっている。
(ついに、来たか……)
耐え難い衝動だった。
僕はこの正体を知っている。
「駄目、だ……」
手足を動かそうとすると、装着した枷が鳴った。
魔術の封印も施されている。
夜明けまでは外れない仕組みにしてあった。
これでなんとか誤魔化すしかない。
しかし、衝動は際限なく膨らんでいく。
癇癪を起こしたように手足が動いて、枷と封印を一気に破壊した。
僕は残骸を捨てながら立ち上がる。
ワインで汚れた上着を破り捨てて、床に転がる鞄を漁った。
荷物を掴んでは外に放り出し、目当ての物を手に取る。
鞄の底から出てきたのは、薄汚れた鉄仮面であった。
革のベルトで頭部に固定できるようになっている。
古めかしく、所々が錆びていた。
表と裏の両面に赤黒い染みがこびり付いている。
気が付くと僕は、仮面を顔に近付けていた。
凄まじい誘惑だった。
このままでは絶対に抗えない。
離そうとする理性と、装着したい本能が衝突する。
しかし、拮抗とは程遠い。
後者の勢いが圧倒的に強かった。
時間稼ぎにもならない。
ついには鉄仮面が顔に触れた。
僕は流れるようにベルトを締めて固定する。
刹那、心臓の鼓動が極限まで加速した。
「……うァッ」
僕はベッドに倒れ込んだ。
浅くなる呼吸。
ベッドを掻きながら唸り、必死に意識を保とうとする。
煮え滾る激情が沸き上がるので、それを懸命に抑え込んだ。
妙な笑い声が聞こえてくる。
何度か耳にしたところで、それが自分の口から洩れていることに気付いた。
笑いたくもなるだろう。
心のどこかで冷静に考えている。
酩酊に近い感覚を経て、身体の異変が治まった。
いつの間にか目を閉じていたので、ゆっくりと開いてみる。
「…………」
無言で立ち上がる。
両手が小刻みに震えていた。
指の爪が剥がれかけて、血を滲ませている。
これは、歓喜だ。
叫び出したくなるのを堪えている。
部屋に備えられた鏡を見る。
そこには、仮面を纏う狂人の姿が映っていた。
(僕――いや、オレは)
裏返った。
裏返ってしまった。
せっかく社交界をやり過ごせたのに、ついに我慢が限界に達したのだ。
最近は無理やり我慢していたので、その反動もあるのだろう。
こうなってしまっては、もう手遅れだった。
撫で付けられた髪を掻き上げて、部屋の窓を開ける。
吹き抜ける夜風を受けながら飛び降りた。
三階分の高さから着地して、静かに移動を始める。
向かう先は社交界の会場だ。
隣接する屋敷にレイクが宿泊しているはずだった。
今から会いに行ってやろうと思う。
あいつは最低だ。
大勢の前でオレを侮辱した。
それに愉悦を感じていた。
貴族としての晴れ舞台をぶち壊された挙句、子爵のことも狙っている。
どれも許せない行為だった。
一つでも万死に値するというのに、どれだけ罪深いのか。
どのような罰を与えるのが相応しいのだろう。
行き道でよく考える必要がありそうだ。
とにかく決まっていることは一つ。
今宵、レイクのクソ野郎は報いを受けて死ぬということである。