表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

旧作・駄作・ほぼ没

「音楽が分かる」とは何か

作者: 住友


以前音楽について書いていて、

その話の最後に

「自分は楽譜が読めない」と書いたら

それは駄目だというようなことを言われたので、

楽譜は読めないのに音楽の美点は心得ているとは

どういうことかについて

少し詳しく語っていきたいと思う。


音楽が分かるとはどういうことか、

それを直接語るのは難しい。

だが反証ならばちょっと楽になる。

つまり、音楽が分からないとはどういうことか、

この問いを切り口にすれば

平易に語ることができそうだ。

まず、楽譜が読めることと

音楽が分からないことは矛盾しない。

その例は枚挙にいとまがない。

例えばブルックナーとマーラーの

両方を指揮する指揮者。

これは分かっていない。

欺瞞である。

誰が何と言おうと欺瞞である。

自己を見失っているのであり

愚劣な文化ごった煮主義、

強欲で浅薄なグローバリズムそのものである。

浅はかな、短絡的なマルチ願望、無神経な、

「上等な料理にハチミツを

ブチまけるがごとき思想」である。

レコード会社の欲望追求主義が

露見する顕著な例である。

目先の利益に飛び付いて

大きな信用を損ない

結果的に利益を減ずるということの好例である。

楽譜が読めない私だって

これを否定するくらいの良識は

持ち合わせている。


さてこんな風に

ブルックナーやマーラーのような偉大な音楽家を

これ以上巻き込むのは私としては

大いに不本意である、

その他の例を求めたいのであれば

今日における音楽の姿を省みれば

それで充分であろう。


商業主義のファーストフードのごとき音楽、

大量生産大量消費の精神の音楽、

人間に刺激を与え

飽きさせないためだけに作られる中毒罹患用音楽、

何かのコンテンツと

抱き合わせて売ることを前提に作られた

なにがし商法音楽、

こうした音楽がまん延しているのは、

背広の商売人がなまじ

楽譜が読めたりするからではないか?

音楽づくりに口を挟めてしまうからではないか?


私は問いたい。

安っぽい旋律、無意味な爆音、頭の悪い歌詞で

人間の感性の単純化を

謀っているとしか思えないような音楽を避けて、

バッハやシベリウスの音楽に

辿り着くために必要なのは

それこそ楽譜を読む能力などではなくて

「音楽が分かる」能力ではなかろうか?


現代では誰もが自主的に作曲をする。

楽譜を読み楽譜を書く人間で

溢れ返っている。

誰もが退屈な現実を音で

塗り潰したいと夢見て勉強に励んでいる。

だがひとまず真剣に

リヒテルのピアノを聴いてみるがいい、

それには人がロックに求めるような激情や攻撃力が

全て備わっている。

「クラシック音楽は退屈だ」という人間は、

ベートーベンをちゃんと

聴いたことがあるのか?

ベートーベンは誰よりもロックしている。

凡庸な現代人がただ

フォルティッシモを垂れ流しに

しているのとは違って

フォルティッシモに無限大の

アクセントを持たせている。

大いなる意味を持つ嵐が

眠り、祈り、苦悩、叫び、対話、行進によって

仄めかされ準備されるその美しい時間こそ

ベートーベンの音楽が

知的であり愛であるということの証明ではないか。


現代の作曲者や専門家の御仁は

楽譜を読む訓練をするより

まず本物の音楽を聴く方が

先決だとは思わないのだろうか?

もちろん技術は大事だ、商売も大事だ、

しかし私がエッセイ『読書とは何か』で

本を読むことの本質を説いたことと

ほぼ同様のことが音を聴くことについても言える。

小説でも音楽でも何でもそうだが、文化の享受とは

人間を丸裸にしてしまうような

厳しく危険な行為である。

商売とは本来関係のない、

それを商売にしようと思うのならば

商売の方から歩み寄らねばならないと

いうようなものである。

技術というものも全く同じ問題を抱えている。

創作の第一義は主張すべきものを持つことである。

つまり精神を持つことである。

精神を持たないことは道に迷いながら

うろうろ歩いているようなもので、

勢いがないのも当然のことなのだ。

虚ろで精神もなく迷走しているというのが

現代人のことを指すのは言うまでもない。

技術は一つ間違えればそれを駆使する人間の

空虚さを露見させかねない。

結局人間の質が問題になるのだ。


まず分かることだ、理解することだ、

純粋に受け取る側に立って、

偉大なものを偉大だと認めるところからだ。

素直さを見出だし、無駄のない鋭さを見出だし、

豊かさを見出だすことだ。

作曲とは、創作とは

その先にある行為なのではないか?



シェンカー理論の凄さは

ロマン・ロランが言うように

作曲家の創造の経緯を

文字化したところにある。


作家なら分野を問わず

ものを作る思考の中身に

興味を持って当然と

思うのですが、

その意図が前のエッセイでは

よく伝わらなかったらしい。


私が自分の言葉で

だらだらとシェンカーに

ついて語るよりも

ロマン・ロランを引用した方が

手っ取り早かったか。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ