見えない××の証明問題
その人をよく知るには、好きなものと嫌いなものを聞くとよい。
というのは、うちの担任の言葉。本当かどうか分からないけど、私もそれに倣って自己紹介してみたいと思う。
好きなもの、国語。ペンギン。給食のチーズタルト。少女漫画。アイドルが歌うポップス。ロゴの入ったパーカーワンピ。小学校から続けているピアノ。ひんやりした空気の図書室。保健室のやさしい先生。
嫌いなもの、数学。カエル。給食のポークビーンズ。ホラー映画。演歌とヘヴィなロック。紺色のじみな制服。途中でやめてしまったスイミング。椅子がやたらつめたい理科実験室。エレガントが口癖の数学教師。
でも、ここに書いた全部を知っている友達はまだ誰もいない。
入学式のあとのホームルームでも自己紹介をした。私の自己紹介は、
「第一小学校から来ました、一之瀬めいです。好きなテレビ番組はミュージックファクトリー、嫌いな食べ物は納豆です。入りたい部活は吹奏楽部です」
こんな感じだったと思う。
他のクラスメイトも、好きなものと嫌いなものをひとつずつ言っていた。好きな芸能人とか好きな漫画とか、嫌いな食べ物とか嫌いな科目とか。
そう、当たり障りのない、無難な感じ。当たり前だけど、そんなところで好きな人や嫌いな先生を言う子なんていない。何を言ったら悪目立ちしないか、みんなにノリのいい子って思ってもらえるか、真剣に考えている。本当は好きではないものを好き、って言った子だって、もしかしたらいるかもしれない。
私たちはもう、自分のぜんぶを知ってもらう必要なんてないことを知っている。本当に好きなものや嫌いなものは誰にも言えないんだってこと、よく分かっているの。
*
五月。校庭のポプラの木も緑を濃くして、吹奏楽の部室から聴こえる一年生の音も、だんだんとマシになってくる季節。ある人は制服を着崩し始め、ある人は五月病になる、そんな季節。
もともと騒がしい時期だけど、今年はちょっと事情がちがう。
今日も朝から、クラス中にいやな空気がうずまいている。嫌悪感の裏に、そわそわと期待感、ほんのちょっぴりのシリアスを含んだ空気。みんなの熱量でむわっとしていて、なんだか気分が悪い。
「め~い~。めいは、例の掲示板、見た?」
前の席のあいちゃんが話しかけてくる。名字が「あいかわ」と「いちのせ」で席が前後だったため、入学して最初に仲良くなった子だ。いい子なのだけど、ミーハーで噂好きなところがある。
「うん、見た……。家のパソコンで。親には学校のホームページに何かあるのかって聞かれたけど、ごまかした」
「まあ、親に知られたら面倒だしねえ……。でも、もうばれてるんじゃない? これだけ噂になってたら、どっかの親には漏れてるでしょ」
「そうだね。そしたら親の間で広まるのも時間の問題か」
「先生もその前にプリント出すとかするんじゃないかなあ、保護者あての」
「親に注意されておさまるようなら、こんな騒ぎになってないと思うんだけどね……」
中学校のホームページが話題になったのは、一か月ほど前のこと。
うちの中学には学校が運営しているホームページがあって、そこには誰でも書き込める掲示板がある。地域の人や保護者の声を聞くためらしいけれど、そんな書き込みをする人はほとんどいない。
私は新入生だから知らなかったのだが、その掲示板に好きな人の名前を書くと恋がかなう、という都市伝説があるらしい。ただし、書き込む人も、好きな人も、両方うちの生徒じゃないとダメだとか、書き込んだら一か月は誰にも言ってはいけないとか、いろいろ約束事はあるらしい。
私も掲示板を見たけれど、「野球部の○○先輩」とか、「3年2組の○○さん」という書き込みが数か月に一件ずつくらい、何年も続いていた。
でもそれだけじゃ事件にならない。現に今までは、先生たちも暗黙の了解で見逃してくれていた。
「ねえねえ、去年の書き込みにあった生徒会長の人って、すごいイケメンだったらしいよ~。私たちと入れ替わりで卒業しちゃって、残念だね」
そう、今までは、誰が書き込んでもおかしくないようなモテる人たちの名前しかなかった。それが変わったのは四月から。急に、ちょっとクラスでは目立たないような――悪く言えば異性にはモテなそうな人の名前ばかりが連続して書き込まれるようになった。一件、二件ならまだしも、ここのところは毎日何人も書き込まれるようになったから、学校中で騒ぎになっている。
「うちのクラスでも書き込まれた子いるじゃん」
「……黒岩さん、だけだよね?」
私はちょっと声をひそめて、彼女の席を見やる。黒岩優花は、黒縁眼鏡とおかっぱ頭がトレードマークの、ごく普通の真面目な生徒だ。
「ちょっとかわいそうだよね~。やっぱり、嫌がらせなのかな」
私たちの中では、地味な生徒に対する嫌がらせ、ということでまとまっている。
「早く犯人見つかって欲しいよね。なんだかすっきりしないし」
真剣な顔でそう言っているけれど、本音ではみんな、わくわくしている。代わり映えのない毎日に突如降って湧いた事件。犯人が見つかるまでがちょっとした一大イベントのようで、早く見つかって欲しいような、このままもっと事件が大きくなってほしいような、ドラマを見ているような気持ち。書き込まれた当事者はそんな気持ちじゃいられないのを知っているのに。
私は書き込んだ犯人よりも、書き込まれた人に「掲示板に書き込まれる可能性のないモテない人」という烙印を押した私たちのほうが、ずっと残酷なんじゃないかと思う。
黒岩優花は、先生が来るまでの間、ずっと机に顔を伏せていた。
*
「この間の中間テストの回答を返す。出席番号順に取りに来なさい」
六時限目、今日最後の授業は数学だった。
テストを返して解説するだけの授業は楽なはずなんだけど、私はちょっと気が重い。檀上で答案用紙を返している数学教師――。私の数学嫌いの一因はこの教師にある。
二宮証、推定二十七歳。細身の長身、ワックスではなくおそらくポマードできっちり固めた髪に眼鏡。数学教師なのに、チョークの粉で服が汚れるのを嫌っていつも白衣を着ている変人。
この学校に若い教師は少ないため、最初は「うちのクラスの数学担当、わりとイケメンでラッキーだね」なんてみんなで話していた。
なのに今では、「顔だけ見れば悪くないのに、オーラが残念すぎる」「数学にしか興味のない変人」「生徒のことは動物だと思っている」「実はロボットなんじゃないのか」と散々な言われよう。
笑った顔を見たことがないし、授業は雑談もなく淡々と進めるし、小テストは多いし――ただでさえ苦手な数学の授業が、より苦痛になっているのだ。
受験を控えた三年生の先輩には、「あの先生、教え方が上手いんだよ、いいなあ~」とうらやましがられたけど、理解に苦しむ。一部の成績優秀な生徒には人気らしいけれど、優秀になる予定のない私からすると、せめて優しい先生が良かった。
「次、一之瀬めい」
そうこうしているうちに、私の順番になる。席を立って自分の答案用紙を取りにいくと、
「…………」
二宮先生は眉間に皺を寄せて私をにらんでいた。
「あ、あの。テスト、返してください」
「何なんだ、この点数は」
「何って言われても」
「……放課後、数学準備室に来なさい。補習プリントを渡す」
「えっ」
「次」
しばし、ボーゼン。なぜにここまで怒られないといけないのか。
「めい、怒られてたね。そんなに点数悪かったの?」
席に戻ると、あいちゃんが興味津々という顔で声をかけてきた。
「悪いと言えば、悪いけれど……」
答案用紙を覗きこんだあいちゃんが驚いた声を出す。
「えっ、これで怒られたの? 私より点数いいじゃん! 私何も言われなかったよ?」
「ええ~っ。なんで私だけ? しかも放課後プリント取りに来いって……」
「ドンマイ。めい、ほかの教科はいいから、テスト手抜いたと思われたんじゃない?」
「真剣にやってこの点数なのに! 数学だけ苦手なだけなのに!」
「……声大きいっ。ほら、先生こっち見てるよっ」
はっとして教壇を見ると、二宮先生はひんやりとした眼差しでこちらを見ていた。――このまま放課後が来なければいいのに。
*
放課後。いつもだったら、吹奏楽部でフルートを吹いている時間。私は意を決して数学準備室の前にいた。グラウンドからは運動部の賑やかな声が聴こえてくるのに、準備室前の廊下は水の中にいるみたいに静かだ。
「失礼しま~す……」
おそるおそるドアを開けると、そこには二宮先生の姿も、他の先生の姿もなかった。
「無人だし……どうすりゃいいのよ」
一度帰ると出直す勇気はないと思って、遠慮なく待たせてもらうことにする。
数学準備室は、本棚とスチール机が四つ並べられただけの小さな部屋だった。天井まで届く高さの本棚には、数学書や参考書がみっちりと並べられている。無機質さが病院の診察室と似ていて、あんまり長居したい雰囲気の部屋ではない。
二宮、とネームシールが貼ってある机の上に、ノートパソコンが置いてあるのに気付く。
私物がほとんど置いてない机がいかにもあの先生っぽいなあと思いながら近づくと、蓋の閉まっていなかったノートパソコンがウィーンと音を立てながら起動した。
「うわあ、やばいっ」
どうやらスリープ状態だったらしく、マウスが動いた振動で起動してしまったみたいだ。
テスト問題とか作っていたらまずいよね……見ないようにしなきゃ、と思いつつ、ついついちらっと横目で見てしまった。
「えっ……これって」
数字が並んだ画面を予想していた私の目に飛び込んできたのは、予想外のカラフルな画面だった。それは二宮先生には似つかわしくない意外なもので、私は目をみはった。
「なんで、二宮先生が」
思わず、身を乗り出してパソコンに手を伸ばすと、
「何をしている」
わずかに怒気をはらんだ声が、私の全身をビクッと震わせた。
「……一之瀬。待たせたのは悪いが、人の私物に勝手に触るのはやめなさい」
準備室のドアには、たくさんのプリントを抱えたスーツ姿の二宮先生が、いつの間にか立っていた。
「……ごめんなさい」
二宮先生はそれ以上何も聞かず、自分の椅子に座ると、私にも予備の椅子をすすめてくれた。放課後は白衣を脱ぐんですね、とも言えない気まずい空気がただよう。
「ずいぶん、緊張しているようだが」
「すみません……」
「別に君を怒るために呼んだんじゃない。クラスに配るプリントを頼みたかったのと――少し聞きたいことがあったから」
「私だけが補習するわけじゃなかったんですね」
「当たり前だ。このプリントが必要な生徒は他にも大勢いる」
な~んだ。ただ代表で頼まれただけだったのか、と安心すると、急に力が抜けた。
「あの、聞きたいことって?」
むしろ疑問は今は私のほうにあるのだけど。
「君の中間テストの成績を見せてもらった。君は他の教科はよくできている。特に国語はクラスで一番点数が良かった。なのになぜ、数学だけ平均点を下回っているんだ?」
「なぜって言われても、ただ苦手としか……」
「他の先生に、僕の教え方が悪いんじゃないのかと言われた。君たち新入生の間で僕の評判が良くないのは知っている。授業の進め方に問題があったら言って欲しい」
私は、驚いて先生の目を見つめてしまった。眼鏡の奥の瞳は真剣で、「生徒のことを動物だと思っている鬼数学教師」だと思っていた自分の価値観が崩れていくのが分かった。二宮先生はちゃんと、生徒のことを対等な人間として見てくれている。……気がした。
「先生、私が数学だけ手を抜いたとか、テスト中居眠りしてたとか、そういうことは考えなかったんですか?」
「君はそういうことをする人間なのか? 授業も真剣に聞いてくれているだろう。君自身に原因があるとは思えなかった」
この先生が先輩たちには人気がある理由が、分かった気がした。
「授業に問題があるわけじゃないです。本当に、ただ苦手なんです。……小学校の算数までは平気だったんですけど、数学になってから、急にダメになって」
「確かに、そういう生徒は多いな。これからの授業の参考にしよう。他に苦手な原因は何かあるか?」
「うーん……」
「例えば、君の得意な国語との違いは何だろう」
「……作者の気持ちが分からないから、かな」
「サクシャ……?」
「国語だと、登場人物の考えとか、出題者の意図とか、そういうの考えるじゃないですか。でも数学って……数字だけ見ていても、何の気持ちも感じないっていうか……」
「……なるほど。君の言いたいことは分かる。でも君は数学を誤解しているかもしれない」
「そうなんですか?」
「ああ。数学は一種の芸術だと、僕は思っている。数学が世界に誕生したのは遥か昔のことで、その頃の数学は、宇宙の真理に辿りつくための学問だったんだ」
「数学が、芸術……」
「君は数学に感情を感じないと言ったが、例えばこの問題ひとつでも――よく見れば、出題者の意図が見えてくる」
先生が、プリントの中のとある問題をトントンと指でたたく。私は問題に目をこらすけれど、なにも浮かんでこない。苦手な文章問題だというだけ。
「う~ん、どんな意図ですか?」
「例えば、ここまで基礎的な問題が続いたから、ここで引っかけ問題を入れてやろうという意図が感じられる」
「それは作った先生の意地悪じゃないですか~!」
ふっと二宮先生が笑う。それは片頬をあげただけの意地悪な微笑みだったけれど、私にとっては初めて見た先生の笑顔だった。
「出題者の意図だけでなく、この問題ひとつをとっても、数式を生み出した先人たちの知恵、希望、そんなものが見えてこないか? それで苦手意識が消えたら苦労はないが、少し数学に対する意識も違ってこないか?」
そうか、私にとっては厄介な公式や数式だって、それを発見するまでに苦労した昔の人がいて――きっと発見したときはすごく喜んで。
それだけで急に数学ができるようになるわけじゃないけど、前より数学が身近に感じられるようになったら、きっと。
「そうですね。確かに、そうです」
「問題を作るほうも、ただ君たちを苦しませようとしているわけじゃない。問題が解けたとき、よりエレガントな解を君たちが生み出せるように、日々研究を重ねている」
エレガントな解。先生がよく口にするそれを目指せば、いつか私でも数学が得意になる日が来るのだろうか。
「君のほうも、僕に聞きたいことがあるという顔をしているな」
話も終わったし、プリントを受け取ったら早く帰りたかったはずなのに――なかなか腰をあげずそわそわしている私に、先生は自ら話を振ってくれた。この先生なら、私の話も適当にあしらわないで聞いてくれる。そんな予感があるので、思い切って単刀直入に切り出した。
「……さっきの、パソコンの画面ですけど。なんで見ていたんですか? ……学校の掲示板」
先生のパソコンに映っていた画面は、学校サイトの例の掲示板だった。こういった噂に興味なさそうな先生がどうして? まさか二宮先生が犯人なんじゃ、という気持ちもさっきはあった。今はもう、そうではないことを祈っている自分がいた。
「君は掲示板の騒ぎは知っているな? ……学年主任から頼まれた。いつまでも事態が収束しないから、手がかりがないか調べるようにと」
「なんで二宮先生に?」
「主任は、数学教師はみんなオタクで、オタクはみんなパソコンに詳しい、と決めつけているようだったな」
うちのクラスの担任でもある学年主任はステレオタイプの体育教師なので、さもありなん、という感じだ。
「それで、何か分かったんですか?」
「詳しいことは言えない。けれど、たぶん明日には解決すると思う」
「それって……先生にはもう犯人が分かって……?」
先生は何も言わなかった。ただ、その横顔が、少しだけ悲しそうだったのがいつまでも、部活に戻っても、ずっと心にひっかかったままだった。
*
事件が急な終わりを迎えたのは、二宮先生の予言どおり、次の日の放課後だった。
ショートホームルームでざわつく教室の中、担任教師の顔だけが険しく、緊張していた。いつまでたっても話し始めない担任の様子に気付いて、私たちもしん……と静まり返る。
担任はその時を待っていたように、みんなの顔を見回して、話し始めた。
「あー……。今君たちの間でも話題になっている、学校の掲示板のことだが」
ざわ、と教室の空気が動いた。
「パソコンに詳しい先生に書き込みを調べてもらったところ、ここ一か月の書き込みは、すべて同じパソコンから書き込まれていたことが分かった。つまり、悪質な行為を繰り返していたのは、一人だけということになる」
そうだよね、そうだと思ってた、という声に出さなくても分かるざわめきが、クラス中に広がっていく。
「もしこのまま誰も名乗り出なかったら、生徒指導の先生に個別面談してもらい、強引に犯人を割り出すこともしなくてはいけないかもしれない。先生たちもそんなことはしたくない。もちろん生徒以外のしわざということも考えられるが、もし君たちの間に犯人がいるなら、どの先生でもいいから正直に打ち明けて欲しい」
再びクラス全員の顔を見回すと、担任は一仕事終わったように大きく息をついた。
「では、この話は終わりにする。みんなもあまりこのことで騒ぎすぎないように――」
「先生」
一人の生徒が突然、ガタッと音を立てて立ち上がった。
「天野、どうした」
教室中の視線が、立ち上がった生徒――天野梢に注がれる。
「――私です。掲示板に書き込みをしたのは、私です」
あまりにも予想外の人物とその告白に、クラス全員……担任教師すら、一言も声を発せずに凍り付いてしまった。
天野梢は、俯いたまま肩を小刻みに震わせている。
被害者の黒岩優花は、呆然とした顔で天野梢を見つめていた。
*
天野梢は、すらりとして手足の長い、ショートカットの女の子だ。スポーツができてさっぱりした性格で、同性に人気がある。陰湿な行為の犯人像とはかけ離れているし、それより何より――黒岩優花の親友でもあった。
少しぽっちゃりしていておっとりした黒岩さんを、さばさばした天野さんが世話を焼いている姿はとても微笑ましく、その仲の良さがうらやましくもあったのに――。
天野さんは、担任に背中を抱えられるようにして教室から出て行った。クラスのみんなが重い雰囲気を抱えながら部活に散り散りになったあとも、私は自分の席から動くことができなかった。
「めい~、部活行かないの?」
「うん……」
「ねえ、遅刻しちゃうよ?」
「……補習プリントの質問しに、二宮先生のとこ行ってくるっ! 部長に言っておいてっ!」
あいちゃんのえーっという声を後ろに聞きながら、私は駆け出していた。
廊下は走ってはいけません、の張り紙も無視して、誰にも会わないことを祈りながら、あの人だけを目指して走っていた。
きっとあの人だけが、この事件の解を知っている。
――私にはどうしても、解けない証明問題があった。
息を切らせながら数学準備室のドアを開けると、そこには二宮先生だけが静かに座っていた。
「一之瀬、どうした。もう部活が始まっている時間だろう」
先生は走ってきた私の姿を見ても驚かなかった。まるで私が来るのを最初から分かっていたみたいだった。
「……昨日のプリントの提出とっ……、先生に質問があってっ……」
掴むようにして持ってきたプリントには、くしゃりと手の跡がついていた。
「数学の質問ならいつでも受け付ける。そんなに急いで来なくても……」
「違います! 先生、私が何を聞きたいか、分かっているんでしょ? 昨日の時点で犯人が天野さんだって、先生は分かっていたんですよね?」
先生は立ち上がって、窓に背を向ける。
夕陽の射し込む数学準備室。向かい合う私たち。まるでミステリードラマのラストシーンみたいだけど、私は探偵でも犯人でもない。ただの平凡な一生徒で、現実はドラマよりも切なくて苦しい。
「――君は犯人を知って、どう思ったんだ?」
「みんなは、天野さんが嫌がらせのためにやったんだろうって……。黒岩さんのことも、仲良くしていたけれど本当は好きじゃなかったんだろうって……。でもっ」
「君は納得しなかったんだな?」
「だってそんなの……エレガントな解じゃない。そうですよね?」
なんでだろう、私は泣きそうになっていた。溢れそうになる涙をごまかすため、唇をきつく噛みしめて、二宮先生の顔をじっと見つめる。
オレンジ色の逆光がまぶしくて、先生の瞳の色はよく――見えない。
「天野さんは、本当は誰かをかばっているんじゃないんですか? 犯人は別にいて――」
「書き込みをしたのは天野梢だ。それは間違いない」
「でも、それじゃあ、あまりにも……っ」
あまりにも、残酷すぎる。
「いいか、一之瀬。一連の出来事は一見複雑そうに見えるが、実はシンプルな証明問題だ。――これを見なさい」
二宮先生は、机の上のノートパソコンを立ち上げる。昨日と同じ、学校の掲示板の見慣れた画面が映し出された。
「この掲示板は、去年までは数か月おきにしか書き込みがなかった。それが急に変化したのはいつだ?」
「今年の、四月――」
そう、一か月前だった。
「同一人物と思われる書き込みの、一番最初の人物は?」
事件の発端となった、最初の書き込みは? 私はマウスを手に取り、掲示板の画面をさかのぼっていく。
「黒岩、優花――」
友達から聞いた、掲示板の都市伝説が頭の中でリフレインする。
書き込む人も、好きな人も、うちの生徒でなければいけない。そして、書き込んだら一か月、それを誰にも話してはいけない――。
「まさか、そんな」
「黒岩優花の名前が書き込まれたのは、今日からちょうど一か月前。僕は君たちの担任の先生に、今日このタイミングで話をするように頼んだ」
「一か月たてば、犯人が名乗り出ると思ったから……。ううん――天野さんが名乗り出られるタイミングが、ちょうど一か月後の今日だった」
「ああ」
「天野さんは――黒岩優花さんのことが、好きだったんですね。嫌がらせでも何でもなく、恋を成就させるために、掲示板に書き込んだ」
「そうだ。それが、この事件の解だ」
一か月前。掲示板の存在を知った天野さんは、きっと半信半疑、神頼みのような気持ちで掲示板に書き込んだ。最初から叶わないと分かっている恋だったから、誰にも言えず、掲示板にだけ吐き出して、楽になりたい気持ちもあったのかもしれない。
本当だったら、それだけで終わるはずの事件だった。天野さんが予想していなかったのは、掲示板の書き込みを見つけた生徒が黒岩さんを囃し立ててしまったこと――。
――誰が黒岩のことを書き込んだんだよ?
――オマエじゃないのか?
――誰が、こんなブス好きになるかよ!
そんな会話を、私も教室で聞いていた。あまりにも遠慮のない暴力的すぎる言葉は、黒岩さん、そして天野さんを傷つけるには充分だった。
自分のしたことで、黒岩さんが半ばいじめの対象のようになってしまった。天野さんは悩んだ末、被害者を分散させることにした。
「黒岩さんの書き込みから次の書き込みまで数日空いているのは、クラスで騒ぎになるまで時間がかかったから……」
「天野は、それから毎日他の生徒の名前を書き込んでいった。詮索の対象が黒岩一人に向いていれば、自分が黒岩に好意を抱いていることが明らかになってしまうかもしれない。しかし無差別的な嫌がらせということにすれば、犯人像は自分から遠ざかる――。ただ、本来天野は真面目で正義感の強い生徒だ。一か月たったタイミングで名乗り出るよう促せば、良心の呵責に耐えられなくなった天野は僕たちに打ち明けてくれると確信していた」
「そう、だったんでしょうか」
そうだとしても、私にはまだ疑問が残る。今日の天野さんの行動、肩を震わせ何かに耐えているようだったあの姿――。
「私、クラスで黒岩さんが男子にからかわれているのを聞きました。ひどい言葉でした。そして口に出さなくても、黒岩さんの名前を書いた物好きは誰だって――みんなが思っていた。私だって……」
関心がなかったなんて言えない。こんな事件になる前は、黒岩さんの名前を書き込んだのが誰なのか、単純な興味だけで成り行きを傍観していた。それが二人を傷つけていることも分からずに。
「天野さんは黒岩さんを、守りたかったんじゃないでしょうか。リアルな書き込みにしてしまうと、誰が黒岩さんを好きなのか、長い間好奇の目にさらされることになる。でも大きな騒ぎにすれば、黒岩さんは被害者になって、非難の目は犯人だけに集まる。あえてクラス全員の前で名乗り出たのも、きっと――」
私の知っている限り、天野さんは平気で人を傷つけられるような子ではない。一人ずつ、異性に好かれないような生徒を考えて書き込むときも、悩んで苦しんで、その人に心の中で何回も謝りながら書き込んだのだと思う。
そこまでして守りたかったものは、自分じゃなくて。
「この事件の被害者は名前を書かれた人全員だけど、加害者は天野さんじゃなくて、私たち生徒全員です。みんなの見えない悪意が、天野さんを追いつめたんです――」
泣きそうだったのは、それに気付いていたからだった。とうとう涙をおさえきれなくなった私に、二宮先生はハンカチを差し出してくれた。アイロンのビシッとかかった、シンプルなストライプのハンカチ。
「本当のことは、天野本人にしか分からない。他の生徒全員が君のように、自分の罪に気付くかどうかも分からない。でも――」
先生は赤ペンを手に取ると、私の補習プリントの回答に、花丸マークを書き足した。
「それは、僕が出した解よりも、ずっとエレガントだ」
二度目に見た二宮先生の笑顔は、思っていたよりもずっと、優しい笑顔だった。
*
次の日から、天野さんは一週間の自宅謹慎になった。
謹慎が解けて登校してきた天野さんを、黒岩さんは今までと同じ態度で迎え入れた。
今まで人気者だった天野さんは、みんなからひややかな目で見られていて、それをかばうようにいつも黒岩さんが彼女のそばにいた。
そんな二人の姿を見て、みんなは「あんな嫌がらせされたのに、黒岩さんは優しい」と言っているけれど――。私はもしかして、黒岩さんはすべて知っているのではないかと思う。
二人がお互いのことをどこまで知っているか分からない。
けれど、今までと変わらず寄り添う二人の姿は、この事件の中で唯一のきれいなものに思えた。
本当に好きなものは誰にも言わない。だから二人の本当の気持ちも、誰にも分からなくたっていい。周りから否定されても、理解されなくても、お互いが分かっていればそれでいいんだ。
みんなが知らないことを私だけに話して良かったのか、と訊いた私に、二宮先生は「君はきっと誰にも言わないし、真実を知っている者が一人でもいるほうが、天野も救われる」と答えた。
登校してきた天野さんにも、それを待ち続けた黒岩さんにも、私は気の利いた一言さえかけることができない。
でも、今は二人きりで戦っている彼女たちに、味方は他にもいるよ、といつか気付いてもらえたなら嬉しい。
そして私には最近、好きなものがふたつ増えた。
ひとつめは、数学。
成績はまだ伸びないけれど、自分から進んで授業の予習をするようになった。これはすごい進歩。
そしてふたつめは――。
私の好きなもの。
国語と数学。ペンギン。給食のチーズタルト。少女漫画。アイドルが歌うポップス。なじんできた紺色の制服。吹奏楽部で始めたフルート。放課後の数学準備室。アイロンのかかったストライプのハンカチ。
そして――。
本当に好きなものは誰にも言わない。教えたくない。
だから、エレガントが口癖の数学教師にも、あなたにも。
絶対に、教えてあげない。