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海の中、吊り橋の上で生きるには



 もうその足は動かないのよ、と消え入りそうな声で母は告げた。


 あの時私はトラックに跳ねられて、綺麗に宙を舞ったらしい。その際地面に叩きつけられて、脊髄を痛め、下半身が動かない体になってしまった。所々が欠けた母の話をまとめると、そんなところだった。


 夢を見ていた。私が「平凡」だとか、どうでもいい「日常」だと言っていた風景が、弾けて無くなってしまう夢。その通りだ。今の私にはもう、そんな日々は訪れない。何がどうなっても、決して。


「生きてるから、まだ、いいの。もし、奈緒が死んだら、私はどうすれば」


 自分に言い聞かせるように母は何度もそう呟く。生きていたから、大丈夫。大丈夫。重ねる度にどんどん信憑性は剥がれ落ちていき、ただの絶望の屑と化していく。


 何も出来ない。もう、何も。


「おばさん、先生が」


 あの壁から彼が姿を現した。いつもと打って変わった暗く疲れた表情に、心の奥が低くくぐもったベルを鳴らす。


 母は何も言わずに立ち上がり、浮かない顔で部屋を出て行く。去り際に、母は彼に何か囁いた。


 ばたり、とドアのしまる音が、部屋中に響いた。私と彼は無言のまま、ただ視線を合わせる。彼の瞳は今にも泣き出しそうなほど怯えていて、見ている方も悲しくなってくる。


「ごめん、七尾。本当に、ごめん」


 彼は勢いよく土下座をした。床に打ち付けそうなぐらいに強く頭を下げ、謝る声は悲痛の色に染まっていた。


「いいよ、別に……。あれは、私も悪いんだし……」


 それに、と思う。それに、私はあの生活をずっと送り続けたところで、それが幸せだとか、手放したくないと叫ぶ程のものだと気がついたのだろうか。ぐるりぐるりと思考回路を飛ばしてみると、出てきた結論は、間違いなく、「否」。


「ごめんなさい、本当にごめんなさい」


 彼はずっと謝り続ける。一つ一つと言葉が増えていく度、私はその音が言葉と認識できなくなっていく。彼はずっともごもごと言葉の山を積み上げていく。ひどく、ひどく無意味。


「ねえ。この世は、何なのかな」


「え?」


 耳の奥では、昼の麻美との会話が幾度も繰り返し再生されている。生きているだけで吊り橋を渡っていることになる。あの時と同じ声と顔で、麻美は何度も何度も執拗に繰り返し、悪夢のように私の頭を悩ませる。


「麻美は、人生は吊り橋を渡ることだ、って言ってた」


 夜の闇と病室。きっと、その空間に相応しくない話を私は口にしている。悲劇に似合わない、春の日の海に少女が一人考えるような話だ。彼は立ち上がってベッドの傍にあるいすに座り、私の話に耳を傾ける。


「……、ああ、あの昼休みの」


「見てたの?」


 彼が見ていたとは意外だ。いつも私のことなど気にもしないという風に過ごしているから、てっきりあの時の話など知らないものだと思っていた。もう去年とか十年前みたいな感覚だけど、確かにそれは数時間前のことなのだ。


「ああ。いつもと違って不穏な感じがしたから、気になって……」


「そう」


 彼の返答もぎこちない。遠慮、よりは引け目に近い感情が、普段の彼を隠している。


「海」


唐突に、呟くように彼は答えた。


「海……?」


 彼の顔は困っているような笑みを静かに浮かべていて、その表情に、頭の奥の何処かが、とくりと音を立てた。


「普段は穏やかに満ちているけれども、時々大きな波を立て襲い掛かる」


「陸は何なの?」


 海と対になるのは陸。どちらか一方だけ、という訳にはいかないのだろう。だったら、片割れは何になるのだろうか。


「多分、陸は無いんだと思う。透明な球の中に、水が半分ぐらい満ちていて、その水の揺れが人生を名乗ってる」


 ふっと夢を思い出した。思い出が閉じ込められたビー玉。彼はその中に海を入れたのだ。


「ビー玉? 海の?」


「そういうところかな。……七尾は?」


「私?」


 こう振られるとは思っていなかった。鈍く回りの遅い頭を回転させ、答えを探す。


と、そのとき、私の目の前に青い海の中に沈む吊り橋の姿が現れた。


「海に沈んだ吊り橋」


忘れぬうちに言葉にしておく。彼は私の言葉に当惑して、


「え?」


と、何だか間抜けな声を出した。


「生きることは、波の抗力に耐えながら、吊り橋を歩くことなんだと思う」


水の流れに吊り橋と共に揺れ、それに怯えながら進んでいく。この道がいつ切れるのか、いつ落ちてしまうのかと不安になりながら、それでも歩き続ける。


「あ、」


 思い出した。朝一番にビー玉になって、まだ私の元に留まっている記憶。私はそれを忘れかけていた。


「妖精も、一緒にいる」


「妖精?」


 どこから妖精が出てきたのか分からない様子の彼は、目を大きく見開いて私を見る。


 果ての無い水の中、妖精と励まし合いながら、吊り橋の上をひたすら歩く。私の分身のような妖精は、私の疑問に逐一つきあう。ここはどうやって渡ればいいのだろうか。どうしよう? 妖精は真剣なのか、面倒なのか、どちらともつかぬ様子で私に答える。そうじゃない、そうすればいいんじゃない? その答えに、心を揺らしながらも、私は歩を進める。きっと、もしものときは、妖精が助けてくれるから。そして多分、妖精も、何かあったときは私が助けてくれると信じている。そんな不安定な信頼を糧にしながら、私たちはずっと進み続けるのだ。


 分かった。今、分かった。これが、私が歩いていた道なのだ。


でも。


今の私は、吊り橋を渡れる、動く足を失った。そんな私を、妖精は見捨てるんじゃないだろうか。こんな奴に付き合っていては自分の身が危ないと、どこかへ飛び去ってしまうんじゃないか。そんな不安が言葉を作り上げ、気がつけば口から飛び出していた。


「ねえ。妖精は、ちゃんと来るのかな」


「え?」


 私の言葉の意味を考えるように彼は少し黙り込み、はっと目を開く。そしてあの時と同じような微笑を、少し困ったように浮かべた。


「来ないよ。妖精は七尾――、奈緒の所には来ないよ」


 奈緒。久々に聞いたその響きに気をとられて、彼が何を言ったのかがよく分からなかった。


「妖精はさ、奈緒みたいな子の所には来ないよ」


 あの日の私たちが、ビー玉に入って浮かんでいる。消えないで、と願いをかけて、あの時と同じ言葉を返す。


「何でよ」


 彼はその言葉に苦しそうに顔を歪める。これは言ってもいいのか、迷うように目を泳がし、呟くように言う。


「妖精なんか来たら……。俺は……」


 急に、ふわりと自分のものじゃない匂いが鼻腔をくすぐり、生暖かい温度が私を包んだ。抱きしめられている、と気付いたのは、彼が次の言葉を発した時だった。


「ごめん。嘘を、吐いてた」


「何を……?」


 嘘。彼がそんなものをいつ吐いたのだ? 動転する頭では、正しい答えなど導けるはずがなかった。


「奈緒が我儘だから妖精が来ないんじゃない。俺が我儘だから、来ちゃだめなんだ」


「どういう……?」


 と、いうことはあの妖精を解放した話は関係なかったのか? でも、何故? 全く分からない私を見て、彼は困ったようにため息を吐き、少し頬を赤くして口を開いた。


「俺が奈緒と遊べなくなるから」


「嘘っ」


 初耳だ。まくし立てるように彼は早口で一言、


「本当」


と言った。可笑しい、彼がそんなことを言い出すなんて、それをずっと思っていたなんて、私が知っている彼とは違う。思わず笑ってしまった。


「何で笑うんだよ」


「いや、私の知ってる内田――。拓海とは違うなって」


 すんなりと出てくる彼の名前。その音の滑りは新しいような、嬉しいような、今までとは違う感情を夜空に乗せて運んでくる。


「ずっとそうだったの?」


 私が問うと、彼は逃げ道を探すように困ってから、小さくそうだと答えた。


 彼の後ろを見ると、あの日の思い出の玉が消えていた。その代わりだろうか、妖精が持っ魔法の粉のように、光り輝く欠片たちがひらひらと宙を舞っていた。私がその光景に目を見張ると、途端にその欠片は一箇所に集まって、光り輝く球体になった。しばらくその光景に見入っていると、光はだんだんと収まり、さっきと同じようなビー玉が姿を現した。でも、中身は始めと違って、真っ青な海と、その中に切れ落ちて沈んだ吊り橋があった。


「ねえ」


 思わず彼に話しかけてしまった。その次の言葉も衝動が紡がせる。


「吊り橋から落ちても、人は生きられるのかな」


 すうっと体から体温が抜けた。さっきまでの気力が根こそぎ玉の中に吸収されたように、急に力が無くなった。


 いきなり、ぷっと彼が吹き出してけたけたと笑い声を立て始めた。


「何で笑うのよ」


 私のその反応も、彼には面白いらしい。小時間笑った後、彼は自信たっぷりに言う。


「そんなの簡単じゃないか。生きられるに決まってる」


そして、満面の笑みを浮かべながら、彼は続けた。


「だって周りは海なんだろ? 泳げばいいだけじゃないか」


 彼の瞳に影はなく、純粋に私を励ましているように見えた。でも、そんな言葉さえ、冷たい氷のように、私の心を冷やしていく。


「でも! 私の足は、もう動かない……」


「なら」


 絡めていた手を離し、冷静にじっと私の瞳を見つめ、言う。


「引っ張ってもらえばいいじゃないか。妖精に」


 言い終わるや否や、彼はさっきよりも強く私を抱きしめた。見える耳は真っ赤に染まっていて、思わず口角が上がってしまった。さっきまで凍てついていた心は、ゆるゆると幸せの温度に向かっていった。


 視界の端に、何か光るものが見えた。はっとそちらを見ると、さっきまで吊り橋と海で一杯だった玉の中に、二匹の魚が仲よさそうに泳いでいた。色々な光を纏ながら、楽しそうに、嬉しそうにそこに存在している。


 ふいに、ぴきん、という音がした。その瞬間、玉が裂けて中から水が勢いよく吹き出し、部屋の中が海水で満ちた。溺れる、と思った刹那、彼がまたさらに強く私を抱きしめる。




 大丈夫だ、と思った。ここにいれば、私は大丈夫。足が動かなくても、誰かに不幸だと言われても、平気だ。私は、生きていける。




 耳の奥の奥に、波の音が届いた。


 それはゆったりと全てを包み込むような、穏やかな音だった。

完結です。

中3の時に書いた作品なので、もはや自分で書いた実感すらありませんが、手前味噌ながらこれが今までで一番よく書けたと思います。

正直、これを超えるものを作れる自信がありませんが、勉強の合間に何か書けたら投稿していきますので、今後ともよろしくお願いします。

それでは今回はこの辺で。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。



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