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海の中の夢の中



夢、なのだろう。目の前に現れた彼はとても幼くて、今の姿とは似ても付かない。


『奈緒ちゃん、泣かなくていいんだよ。別に奈緒ちゃんが奈緒ちゃんじゃ無くなるわけじゃないんだから』


『でも……。でも、私はななお奈緒になっちゃうよ! こんなの私じゃないよ!』


 真っ赤に熟れ落ちる夕日が見える。夢の中の「私」は、泣きそうなのをこらえてずっと強がっている。小学校中学年の秋、だっただろうか。母の再婚が決まり、私の苗字も代わることになった。その苗字が不幸にも私の下の名とほぼ同じ発音で、合わせると馬鹿みたいになる、と私が拗ねていた時、彼が慰めてくれたのだ。


『七尾奈緒でも変わらないよ。奈緒ちゃんを形作るものは何も変わってない』


『形作るもの?』


『そう。なおちゃんが何と呼ばれても、なおちゃんが持っているものは変わらない。例えば、思い出とか、友達とか、色々なもの、全部』




 すっとその光景が球に包まれ、ビー玉が転がるように私の元から去って行く。代わりに訪れたのはもう少し大きくなった彼の姿だ。


『七尾。大丈夫か?』


 この頃にはもう彼は私のことを「七尾」と呼び始め、私も苗字で彼を呼ぶようになっていた。


『うん……。多分』


『多分って……』


 きっと中学校に入りたてで緊張し、胃を痛めていたのだろう。同じ小学校の子などほとんど居らず――それこそ彼ぐらいだった――、私は新しい友達を探すのに疲れていた。


『部活、入らないのか?』


『特に面白そうなの無かったし、別にいいや、と思っちゃって……』


『勿体ないよ、それは』


『そう言う内田はどうなの? 何か入るの?』


『まあ、どこかに。楽しみは見つけるものだと思うからね。どこかに入れば、それ相応の楽しさが見つかる気がする』




 さっきと同じようにビー玉になったその光景に手を伸ばすと、それは逃げるように遠くに去っていった。それと入れ替わりになるように、別の光景が目の前に現れた。


『みんな、大切なものに名前を付けるのかな』


 ランドセルの中のものが、時折からりと音を出して揺れる。春の日の帰り道、寄り道をして近くのあぜ道を遊びながら通ったときの会話だ。


『特別だから名前を付けて区別するんじゃないの?』


彼は色々な草花を踏みつけながら続けた。


『クローバーとオオイヌノフグリの区別が付かなかったら困るし、第一こんな風に話ができないよ? 何も名前がなかったら』


『そうかな。そうかもね。でも、名前があることはそこまで特別じゃなくなってきてるんじゃないかな』


 私は周りで飛んでいる蝶達を見ながらそう答えた。


『何で?』


 彼は少し驚いたようにそう尋ねる。ひらひらと舞う蝶に目を奪われながら、私は言った。


『だって、私の周りには名前のあるのもばかりで、逆に名前が無いものの方が少ないし。希少なものほど価値が高いんでしょ?』


それはどうかな、と彼は苦笑いをしながら歩き出した。


 その時から、私は、心の中で、彼を「彼」と呼ぶことに決めた。




 次から次へとビー玉は出来ていき、気付けば真っ暗だった私の周りはビー玉の光りで埋め尽くされていた。今朝のことがまるで嘘のように、記憶はするりと外に飛び出し、ガラスに包まれ丸くなる。その一つ一つに触れようとしてみても、全て指と指の隙間をくぐり抜けてしまう。


 突然、そこら中にあったビー玉達が、ぐるりぐるりと私の周りを回り出した。新体操のリボンがくるくると回る真ん中にいるような感覚に、少し目眩がする。


 くるりぐるり。回りながら、ビー玉はいつの間にか魚の姿になり、此処は海の中だと言うように、光りながらぺちゃくちゃ話している。彼が私に言った言葉、その逆。麻美が私に言ったこととか、他にも色々な誰かの言動をはき出して泳ぎ回る。その全てが私の耳や胸に突き刺さり、その苦しいのか淋しいのか優しいのか、私の語彙では表現できない感触が体中を駆け巡る。


 魚たちは真っ暗な水の中、悠々と泳ぎ回る。それに触れるべく手を伸ばしてみると、魚たちは逃げずに、ただ泳ぎ続けている。思い切って指をかすらせると、触れた魚はぱちん、と風船が割れるようにはじけた。


 ぱちん、ぱちん、ぱちん


 一匹の魚が弾けると、その横にいた魚も同時に音を立てて消えていく。何匹も、何匹も。やめて、止まって、と叫ぼうとしても、声は弾ける音に霞んで届かない。消さないで、消えないで。ただひたすらに、願う。


 唐突にぐらり、と地が揺れた。慌ててつかんだ魚は、手の中で無情にも消えてしまった。落ちる、落ちるよ!


――――生きてるだけで吊り橋を渡っていることになるのよ。


 耳元で麻美が囁く。そうだよ、そうだ。でも落ちたくない。この魚たちを手放したくない。涙が無力にこぼれ、私は無我夢中に手を伸ばす。誰か掴んでよ! 助けて! 落ちたくない、消えたくない、無くしたくないのよ!


 もう少しで奈落の果てに落ちてしまう、その時。

真っ黒な海の底に一筋の光が差し、魚たちが驚いて一斉に消えていく。

消えた、消えてしまった!

 もう私には何も残らない、落ちて、墜ちて、堕ちるだけなの⁉


絶叫した私の手首を、誰かが強く引いた。


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