ぐらぐらな放課後
「七尾じゃん」
低く聞き覚えのある声に振り返る。帰り道。少し後ろの方、青々と茂った草木の間に人影が見える。ゆるくカールした黒い髪と白い肌。割かし整った顔つきの知り合いといえば、思いつくのは一人だけ。
「久しぶり、か。最近あんまり会わなかったしな」
そう言って気さくに笑いかけるのは今日何度も噂した彼、内田拓海だった。
「そう言われてみればそうかも。部活、忙しいんでしょ?」
「まあ、そういうところかな」
「はぐらすね、そこ」
私がそう言うと、彼は困ったように空に目を泳がせた。きっと、麻美が言ったことについて考えているのだろう。言うべきか、言わぬべきか。ほのかな葛藤の匂いがする。
「告白されたんだって?」
私がそれを言うと、彼は露骨に表情を変え、
「なんでそれを……」
と狼狽えた。その姿が可笑しくて、つい笑ってしまいたくなったけれど、止める。今は笑ってはいけない、流してはいけない気がした。
「麻美から聞いた」
「出島か……。いや、言おうと思ってたんだけどさ、時間がなくて、それで……」
子供みたいに言い訳を並べるのをみると、堪えきれずぷっと笑ってしまった。
「笑うか、そこ」
「ごめんごめん。いやぁ、変わんないなあって思って」
「変わんない? 俺のどこが?」
失敬な、という目で私を見る。上から見下されるような構図には慣れたけれど、やっぱりどこか悔しい気もする。中学に入ってから彼は急に身長が伸び始め、瞬く間に私を抜かしていった。それに体格もよくなり、確かに身体面では彼は大きく変わったかもしれない。でも。
「そういうところ」
「え?」
「言い訳が多いところとか、それが無駄に長いところとか」
ふふふと笑うと、彼も困ったように口角を上げる。
「で。どうなったの? その後」
不意打ちをかますと、彼はやられたとばかりに顔を歪めた。
「どうなったって、言われても……」
語尾に近くなるにつれ小さくなる声に、また吹き出しそうになる。
「結果は? 付き合うの? 断ったの?」
ばりばりむしゃむしゃ。私の魚が彼と告白した子の魚を食べている音が聞こえる。少しの高揚感を持ちながら、美味しそうに、楽しそうに食べる。でも時折、魚はふっと食べるのを止める。それはいいのかな、胸が痛くならないかな。少し迷って、また獲物に歯を立てる。その胸は、誰の胸なのか分からずに。
「断ったよ」
何かを決心したような顔で、彼はそう呟いた。さっきまで光り輝いていた木漏れ日が、だんだんと陰っていく。
「俺に恋はまだ早い。それに、特にその子が大好きだ、というわけでもなかったから。ただの後輩。そういう風にしか思えない人と付き合うほど、俺は馬鹿じゃない」
地面に映った光が、少しずつアスファルトの色に染まっていく。彼の顔も少し暗く見えるようになった。
「何て言ったの?」
彼の顔はいつの間にか哀愁で塗りつぶされていて、少し怖い。それを振り払おうと、さっきよりも強く彼を見る。
「ごめんなさい。好きでも嫌いでもないので付き合えません、って」
好きでも嫌いでもない。淡々とした口調で、そんな事をさらりと言ってしまった彼に、私は思わず
「お前は馬鹿か。乙女心を踏みにじる気か」
と非難の言葉を投げつけた。一番傷つく言葉はそれだろう。……その言葉は、「貴方は私にとって、通行人Aと同じようなものです」と言っているようなものだ。そんなの、「恋人」なんていう「特別」な存在に成りたがっている子にとっては、どんな猛毒よりもひどい言葉じゃないか。
そんな私の怒りをよそ目に、彼は拗ねきった、ふざけた口調で私に言う。
「乙女じゃない奴に言われたくない」
「野郎に言われる筋合いはない」
嫌味を嫌味で返し、太陽はさっきよりも厚い雲に覆われる。
「せっかく勇気出して言ったのに、その返事は何」
「恋をしたことのない奴に、何が言えるんだよ」
言葉たちが強烈な摩擦音をあたりに響かせる。その音につられるように、次々と雨雲たちがやってくる。
「じゃああんたは恋の何を知ってるの? 知らないんでしょ」
「それこそお前に言われたくないよ」
訳のわからない議論は白熱し、意味のない言葉を刃に変え、お互いに向けて放っていく。その一言が刺さるたび、空には雨雲が一つかかる。彼が、私に向けて渾身の言葉を投げたとき、稲光が走った。
「うわっ」
驚いて空を見上げると、ぽつり、ぽつりと雫が頬に当たった。
「雨だ」
そう言い終わらないうちに私は駆け出していた。かばんの中の折り畳み傘を出すのも億劫で、それに、あんな口げんかをした後で、彼の前で悠長に傘を開くのは気が引ける。家までは横断歩道を渡ればすぐだ。その間ぐらいなら濡れても大丈夫だろう。
目前の横断歩道。信号機が点滅し始めた。残り十メートル。全力ダッシュで駆け抜ける。そのままの勢いで私は道路に飛び出した、その時。
右耳のほうで、低くくぐもった警告音がした。顔をそちらのほうに向けると、目の前にすごい形相をしたトラックが迫っていた。ゆっくりと、まるで静止画のように近づいてくる。
――――変わらないものなんて無い。
脳裏に麻美の言葉が舞った。そうだ。その通りだ。何もかも、終わりが来る。変わる。どんな形になれども、終わってしまう。
ずしりと重い衝撃が肌を覆い、視界が闇に飲み込まれる。
完全に意識がなくなる直前、私の名を叫ぶ声が聞こえた。




