吊り橋に揺られる昼休み
下らないような、そうでないような授業は、私がぼぅっとしている内に四つ積み重なり、いつの間にかお昼の時間になっていた。朝の私の予想は当たったようで、外では太陽が猛威をふるい、私たちを焼き尽くそうとしている。暑さに耐えられない人達は、早くも冷房のスイッチに手を伸ばしかけ、それを止めようとする子達と言い争っている。その喧騒を横目に、私はお弁当箱のふたを開ける。
昼休み、友達と談笑しながらおかずをつつくとき、私はいつも、この場所が海の中だと思ってしまう。有限を知らぬ水の中、私たちは互いの話題を探すため、ぎろりじろりと教室の中を見渡す。獲物を見つけるとすぐさま噛み千切り、仲間と一緒に分け合って食らう。
いや、違う。きっと、私たちは海の中で魚を飼っているのだ。自分の話題という名のそれは、ある者には厳重に守られ、ある者にはあけっぴろげにされながら存在する。私たちが昼食を取っている間、そいつらは動き回り、主人が手に入れた話題を元の持ち主から食いちぎる。魚は互いの肉を食いちぎろうと必死なのだ。主人が誰かの話をした途端、従順な魚はその誰かの魚を食いちぎってしまう。食いちぎられた魚は何も感じないけれど、それを見てしまった主人には強烈な痛みが走る。
むしゃりもぐり。気づかないうちに、私たちの魚は食われているのだ。いつでも、どこでも、誰にでも、魚たちは無防備にただ食われるだけ。まるで、私が今食べている玉子焼きみたいに。
「なーお。聞いてる?」
はっと気がつくと、目の前に親友の麻美の顔があった。二つのぐるりと動く目に驚いて小さな悲鳴を上げると、彼女は呆れたように、
「やっぱり。聞いてなかったんだ」
と言った。私は少し申し訳なくなって、目を泳がせながら言い訳をした。
「ごめん、ちょっと他のこと考えてて」
しょうがないなぁ、と麻美はため息をつく。その姿はいつ見ても美人で、短く切った髪から覗く大きな瞳とすっきりした鼻筋は、出会ったときからずっと私の憧れだった。
「で。何の話をしてたの?」
黒豆の甘みを噛み締めながら尋ねると、もういいよ、と麻美は箸にご飯を携えて言った。
「で。内田とはどうなってんの、奈緒。話聞いてなかったんだから、この際白状しなさいよ」
「またその話ぃ? だから何も無いって言ってるでしょー」
麻美にふざけるような口調で返事を返す間、私の脳は、「彼」と「内田」をつなげるために必死だった。内田は彼。彼は内田。間違えちゃいけない。そう言い聞かせながら麻美の目を見る。
「嘘吐くな、奈緒。男と女が一緒にいると、発生するのはラヴ・ロマンス、だって、相場は決まってるのよ」
どうやら麻美も私と彼との関係に浪漫を求める一人のようだ。何度もしつこく同じことを訊いてくる。何の面白みも無い答えしか返ってこないことは分かっている筈なのに、麻美は飽きずに何度も同じ質問を繰り返す。
「だーかーら、何度も言ってるでしょ? 何も無いって」
「いや、ある」
ピーマンを齧りながら断言する姿は、勇ましいのか何なのか。
「だから、何もな」
「内田さ、告白されたらしいよ」
私の話を遮って麻美が告げたのはそんな情報だった。きっとこれは私が動揺するのを期待して言ったのだろう。その手に乗らぬよう、ふぅんと冷静そのものに相槌を打つ。
「ふぅんって、何、聞いてなかったの」
「別にいちいち報告する必要ないでしょ、中学生にもなって」
「そりゃそうだけどさー。内田が隠し事するとは思わないよ、普通」
麻美は人参を噛みながらのんきに尋ねる。その姿を見ながら、ふつふつと胸の内から溢れ出す怒りをどうしようかと考える。
普通って何よ。心の中の私は主張する。いくら月日が経とうとも、決して彼のことなど分かりはしない。と、いうより、人の普通なんて本人にすら解明できないのに、なぜそれを麻美が知っているのだ。
「相手は後輩らしいよ? 部活の」
「へぇ」
全く声が入ってこない。適当に返事を返し、御飯で気を紛らわせる。終われ終われ。心の私に言い聞かせても、彼女はまだ怒っているらしい。
「へぇ、って……。ほんっと、あんたって何なの?」
「何って……、奈緒ですけど。人間ですけど」
真顔で言うと、麻美はけらけらと笑った。でも、急に真剣な表情になり、冷酷そのもので次の言葉を告げる。
「そうじゃなくて。奈緒はそれでいいの?」
「それでいいって、何が?」
「そんな冷めた考えで、ホントにいいの?」
初夏の空気に、一筆の冷気が走った。
「何かさ、話聞いてると、諦めてるような気がするんだよね、奈緒は」
別にそうじゃないよ、と否定しようとしても、心の何かがそれを止める。結局何も言えずに終わる私に、麻美はまた言葉の棘を投げつける。
「奈緒は、楽譜のフォルティッシモをずっと読み飛ばして、どんな名曲でも単調に、平凡にしてしまう指揮者、なのかな。上手く言えないけど」
違う? と問うように私を見つめるけれど、答える言葉は私の手をすり抜けてしまった。その言葉の代わりに、私の元にやってきたのは、麻美の鋭い眼光と言葉だった。
「もったいないよね、それ。素材は申し分ないのに、使わない。諦める。……、よくさ、あたしが奈緒だったら、ってことを考えるんだけど」
「麻美が私だったら?」
初耳だった。私から見ると麻美の方が完璧で、何も悩まなくていいように思えるのに。
「そう。あたしが奈緒なら、ゆらゆら揺れる吊り橋の上でもちゃんと『揺れている』と認識して、それ相応に楽しむのになぁ、って」
「吊り橋?」
何だか今日の麻美は変だ。いつもなら笑って見過ごすような本質を、今日は何度も突いてくる。おかげで多分、今、私の魚は骨だけになるほど食われ、傷付けられているんだろう。ぎすぎすと不協和音を鳴らす胸の内が、そう告げている。
「そう。人は、吊り橋に乗って生きている、って話、知らない?」
首を傾げられても知らないものは知らない。私がふるふる首を振ると、麻美は可笑しいと言うように微笑んで、
「そりゃそうでしょ。あたしが考えたんだから」
と自信満々に言う。
「吊り橋理論、って聞いたことない?」
と、今度は少し真剣な表情で問うてきた。
さっきの返答に笑いながら、私は少し考える。たしか吊り橋理論っていうのは吊り橋がゆらりぐらり揺れる恐怖と、恋の心の高ぶりを同じだと勘違いしてしまうものだったはずだ。
「ある、けど?」
「やっぱ奈緒ならあるよねー。で、それは恋限定じゃん?」
「そう、だけど」
私の記憶が正しければ、と付け足す。麻美はその言葉など耳に入らないと言うように箸の先を私の方に向け、そこから電撃を放つように、
「あたしはね、それは人生全体にも言えることだと思うのよ」
と、ピーマンを持つ箸を振り上げながら力説する。私が目を見開いているのも知らぬように、麻美は続ける。
「それが顕著に表れるのが恋ってだけで、本当は生きてるだけで吊り橋を渡っていることになる、ってわけ」
と言い切った後、麻美は私の顔をじっと見た。何か言わないの、と催促されているみたいで居心地が悪い。目を逸らそうとすると、そうはさせぬとばかりに麻美は口を開く。
「『生きてる』ことが元々不安定で、右も左も、上も下も全部恐怖で囲まれているのよ。今、この時だって」
そう言う麻美の瞳ので、私はただ呆然とそこに座っているだけだ。ひとつも言葉を発しようとはしない。その私に、また麻美は話しかける。
「でもさ、奈緒はその橋が石橋だと錯覚して渡っちゃってる。この道は動かないと、信じて叩いて歩いてる。でもさ、そうじゃないんだよ」
麻美は私の目を見つめる。私の中の何かを、その目で探すように、じっくりと。
「変わらないものなんて無い。それは、奈緒が気付いていないだけ」
麻美が静かに口を閉じると、図ったかのようにチャイムが鳴り響いた。
急に出てきたフォルテッシモは、これを載せたときの部誌のテーマでした。昔過ぎて自分でも忘れてましたが^^;
予備校は午前中の授業が2コマだけなので、冒頭の記述に自分で違和感を覚えてしまいました…




