剣姫恋歌(後編)
その日、ゴ・ライの経営する剣術道場は、常日頃の比ではなく気迫に満ちた稽古がなされていた。上座に座るのは、すでに生きる伝説として語られる剣聖ギ・ゴー・アマツキ。
長身痩躯の鍛え上げられたその全身には、大小さまざまな戦場の傷跡が見える。中でも目立つのは、額から頬までに刻まれた傷跡。それはかつて、ゲルミオン王国のゴーウェン・ラニードに付けられたものだった。
赤銅色の肌は鋼のように鍛え上げられ、朱色の瞳は、眼光鋭く道場を睥睨する。蓬髪から覗く天に反逆するような一本角は、折れぬ彼の鋼鉄の意思の表れ。
ジェネラル級というゴブリンの中でも頂点に位置する階級にまで上り詰めた彼の醸し出す雰囲気は、ただそこにいるだけで強力な重力となって周囲を圧迫していた。
使い込んだ曲刀を肩に預けるようにして、両手で抱え込み、胡坐をかいて座るギ・ゴーの眼光は鋭く、睨み付けられれば気絶してしまいそうですらある。本物の戦場、その真ん中を渡り歩いてきた者だけが持つ凄みが、座るギ・ゴーから発せられていた。
ただギ・ゴー自身が何か言って指導しているわけではない。
彼は唯そこにいるだけ、それだけで道場に集まった者達は、やる気をいつも以上に奮い立たせた。
ゴブリンの王亡き後、ゴブリンを含めた大陸の中で最強は誰かと問われれば、必ず名前の挙がるその人が自分たちの振るう剣を見ている。言ってみればそのような理由で、その日道場に来たゴブリン達は奮い立っていた。
常より激しい打ち合いに剣同士は悲鳴を上げ、火花すら散る。
ゴ・ライですらも、常よりは叱咤の声に激したものがある。
そんな道場の片隅から、遅れていたユースティアが現れる。今までは激しい剣戟を撃ち合っていたゴブリン達も、一抹の風のように外からの涼風を運んできた彼女の姿に見惚れる。歩くたびに揺れる腰まで伸ばした銀色の髪と雪原のように白い肌が、彼女の美貌を引き立てる。
一瞬だけ剣戟の止まったゴブリン達に、ゴ・ライの怒声が落ちる。
それで再び活気を取り戻した彼らに構うことなく、ユースティアはギ・ゴーの斜め後ろに立つと、そのまま道場を睥睨した。そこはやはり、戦場で部隊を指揮したユースティアである。冷徹ともいえる視線の鋭さは、彼女の美貌に見惚れていた彼らの浮ついた心を随分と引き締めた。
さすがは剣王の副官。
ゴ・ライなども内心で称賛して、いつも以上に声を張り上げ、ゴブリン達を指導する。
終日の稽古を終えて、ゴ・ライはギ・ゴーに最敬礼をすると、それに倣ってほかのゴブリン達もギ・ゴーに敬礼をして稽古を終わる。
三々五々に帰っていくゴブリン達は、いまだ興奮冷めやらぬ様子で、ギ・ゴーのことを話し合う。天冥会戦から2年も経てば、ゴブリンの王を直接知らない世代のゴブリン達が、現れ始めている。
既に彼らの間では伝説としてその名前が残り、それに付従った今の軍部の中枢にいるゴブリン達は、彼らの憧憬の的だった。
ギ集落出身の者達からすれば、鬼のような教官から、その強さを語り聞かせられたその当人が目の前にいたのだ。いまだ夢うつつとなっても仕方ないだろう。
あるいは、ベルベナ領出身のゴブリンなどもその武勇は同じく聞いている。彼らの尊敬する偉大なるギ・グー・ベルベナも、その兄弟達も口を極めて対人戦における彼らの強さを語り聞かせていたのだ。
天冥会戦においては、命を救ってもらった恩義もある。
律儀なところのあるギ・グーからしても、ギ・ゴー・アマツキの強さというのは、別格のものだった。ギの集落に負けず劣らず、武勇を尊ぶベルベナ領では、ギ・ゴーの人気は高く、剣兵隊の標準装備に彼の使う曲刀と同じ型の物が採用されるほどの熱狂ぶりだった。
前ゴブリンに鳴り響いていたといっても良いギ・ゴー・アマツキの強さ。
伝説の中他の人物が、ひょっこり現れたのだから、彼らの熱狂は推して知るべしといったところ。
ミドルドの町全体がそんなゴブリン達の熱狂の中にあって、何やら浮き立っている中、ユースティアはギ・ゴーと帰り道に一大決心をして歩んでいた。
それは、つい昼間に友人であるシャルナの話を聞いたからだった。
──ギ・ゴー殿も男なのだから、手を繋げばきっと。
思わず立ち上がって問い返したユースティアに、シャルナは真顔で頷いた。赤裸々なシャルナとノディーの話を聞いて、顔を赤くしながらもユースティアは食い入るようにその話を聞いた。
『手を握れば、自然と視線が絡み合って、そのまま歩いてたら距離が縮まって、そして……』
慌ててその先を遮ったユースティアは、ぎゅっと両の手を握り締めてギ・ゴーの後ろに続く。
いつもは警護の為と彼の三歩後ろを歩む彼女だったが、今日は勇気を振り絞ってギ・ゴーに並ぼうと少しばかり速足になっていた。
「ギ・ゴー殿」
どうにか、声が裏返らないように声をかけることが出来て、ユースティアは自分でも驚くほど安堵する。
「……気づいたか、流石だな」
鋭い視線を飛ばすギ・ゴーだったが、ユースティアはそれどころではない。何度も頭の中で想像し、繰り返してきた内容と、ギ・ゴーの返答はどこか食い違っている。それだけで彼女は混乱の極致にいたといっていい。
「あ、あの……」
「ああ、前には3人組と後ろには2人組……多い方は、俺が受けもとう」
内心で戸惑いの声を上げているユースティアを置いてきぼりに、ギ・ゴーは段取りをさっさと決めてしまう。準備はいいか、と視線で問われ、訳も分からずユースティアは頷いてしまう。
「……では、合流は宿だな」
敵の出方が分からない以上、どの程度かかるかもわからない。合流地点を定めて、そこに向かう方が合理的だろう。
「あ……うっ……はい」
「どうかしたか? 具合が悪いなら」
「いえ、大丈夫です」
だが、そこまで来るとユースティアの方も気持ちを切り替える。沈んでしまった気持ちはどうしようもないが、息を吐き出し気持ちを戦闘へと切り替える。
それが出来ねば死ぬという環境なのだ。
「そうか、ならば頼むぞ」
「はい!」
前へ走るギ・ゴーと背後を振り返るユースティア。
握りしめた大曲刀に力が入る。
「出てきなさい」
静かに歩みを進める。雪鬼の強さは実は歩行の独特の妙技にこそある。吐き出す息とともに、独特の歩幅、歩調をとることによって相手に気配を悟らせない。これが出来て初級程度。
そして相手に偽りの気配を掴ませるのが中級。最終的には、敵が目の前にいるのに、己の姿を相手に掴ませなくなる。それに付随してだが、自身の体重すらも感じさせない絶妙の足運びで雪の上だろうと、砂の上だろうと軽々と駆け回ることが出来るようになる。
それゆえに雪の上には彼らの敵はいなかったのだ。
抜いた大曲刀の切っ先が地面を削るように構え、彼女は歩みを進める。
こちらの気配を掴ませないようにできるということは、相手の気配を正確に読み取ることが出来るということだ。
「……私は今、非常に機嫌が悪い」
小さな声で語るのに、その声には鬼すらひるませる迫力がある。
「貴方たちが出てこないなら、冥府の女神への謁見の機会を作ってあげるわ」
視線にこもるのは、氷点下の眼光。
彼女の放つ殺意は本物で、その様子に慌てたように、2人組の人間が出てきて武器を投げ捨て、地面に膝を突く。
「貴方たちは?」
見下ろす視線の冷たさは、さらにいや増す。
「お、俺たちは、この近くの村の剣士で……」
「なぜ、私たちを付け回していたの?」
「つ、付け回すだなんて、そんな……ただギ・ゴー殿に、稽古をつけてもらおうかと」
「……去りなさい。死にたくなければ」
「そ、そんな──!」
そういって立ち上がろうとした男の眼前に、風斬り音とともに大曲刀が奔り抜ける。瞬きの間に成された初太刀は、男の眼前を通り過ぎ、羽虫を一刀両断にしていた。
「二度目はない」
愕然とする男たちは、それでも再びユースティアが一歩踏み出すと、慌てたように逃げ出した。
「……安全には、違いないけれど」
気配が去っていくのを確認すると、ユースティアは踵を返す。
沈んだ気持ちをどうしようもなく口を突くのは愚痴めいたものだった。
「煩わしい」
うっすらと目元に光るものを浮かべ、地面に転がった小石を蹴飛ばした彼女は、宿へと向かった。
●○○
宿へ到着したころには、既にギ・ゴーが先に到着していた。
「遅かったな」
「申訳ありません。斬る価値もない者達でしたので、追い散らしておきました」
「ああ、それで問題ない。こちらも、そのようなものだった」
部屋の窓ガラスから眼下に広がる景色を眺めていたギ・ゴーは、肩越しに振り返ってユースティアを気遣う。
「ユースティア」
「……はい?」
「人間は感謝の気持ちを伝えるときに、贈り物をすると聞いた」
「はい。そうだと思います」
「で、だ。普段からお前には、ずいぶんと苦労をさせている」
「いえ、私が好きでしていることですので」
首を傾げるユースティアに、ギ・ゴーは振り向いた。
彼女の視界に映ったのは、ギ・ゴーの手に握られている包装された小箱。
「これは感謝の印だ。受け取ってもらいたい」
「わ、私にですか!?」
驚きに目を見開き、震える手を胸の前で組み合わせる。
「ああ、そうだ」
平然と答えるギ・ゴーの差し出す手から、彼女はその小箱を受け取った。
「開いてみても?」
「ああ、構わん」
「──これはっ」
中から現れたものに、ユースティアの息が止まる。あるいは本当に心臓が一瞬止まってしまったのかと思った。
中から現れたのは、銀細工も美麗な指輪である。
「──」
言葉にならぬ驚愕を、そのままに、口すら閉じるのを忘れてユースティアは指輪に見入る。
「ユースティア」
「は、はひ」
ユースティアの脳内は既に融解寸前であった。
思いを寄せる人から指輪、指輪、指輪である。彼女の頭の占めるのは、その意味するところを思い至って、茹でたヤルドスのように真っ赤に染まる。あるいは薄紅色かもしれないが、次の言葉が彼女の心身を崩壊させることは確実だった。
「喜んでもらえただろうか?」
「え、はい。とっても!」
「うむ、それは良かった。最近は何かと苦労ばかりかけていたからな」
自然な会話の流れに、ユースティアは首を捻る。
──あれ、こうだっただろうか?
その後も、普通の会話をするギ・ゴーにユースティアは首を傾げつつも、その会話に相槌を打つ。なかなかギ・ゴーと共にゆっくりと話す機会はなかったのだから。
これも一つの幸せには違いない。
「体を労れよ、ユースティア。お前のことは大切に思っているぞ」
奇襲めいたその一言と肩に置かれたギ・ゴーの手。
それに、ユースティアの心臓は跳ね上がり、思考を無視して肩に置かれたギ・ゴーの手を両手で掴んだ。
「わ、わたくしも、ギ・ゴー殿のことを、大切に思っております」
言った。言ってしまった!
ユースティアは悲鳴を上げる心臓の鼓動に耳をふさぐように、目をつむる。
「うむ。では、休むか」
「は、はい」
だが、ユースティアはさらに大きく踏み込む。龍の住む天嶺から飛び降りるときだって、千人の敵に切り込む時だってこうまで緊張はしないだろう。
「ん?」
手を離そうとしないユースティアに、ギ・ゴーは首を傾げる。
「で、出来ればその……手を握っていていただいても、よろしいでしょうか?」
「ふむ、寝苦しくないのなら構わんが」
「あ、ありがとうございます!」
翌日、再び道場へ向かうギ・ゴーの後ろで上機嫌で歩むユースティアの姿が見られることになる。
そのはるか後方で、2人を伺う挙動不審な2人組の姿。
「ユースティア様、頑張って!」
「……うぅ、俺の貯金が」
「指輪の一つぐらいで、ガタガタ抜かさないでよ! 甲斐性なし」
「……手下もびびって逃げちまうしよぉ」
「し、仕方ないじゃないのよ、ギ・ゴー殿本気だったし」
「まぁ、良いけどな。俺は」
「なによぉ」
「別にぃ~」
大戦を生き延びた者達は賑やかに、その時を生きる。
ユースティアの想いが結ばれ、ギ・ゴーと彼女の子が生まれるのはもう1年と半年後であった。
幸せは分かち合うものですよね。