継承者戦争《応酬》
アルロデナの掲げる大紋章旗が揺らぐのに、最も過敏に反応したのは、アルロデナ総軍の脇を守る旧王家らの連合軍だった。
戦姫の右腕、メラン・ル・クードが精神的支柱となって彼らの紐帯をつなぎ留めてはいる。しかし、かつて幾度も挑み、そして敗れ去った過去を思い返した彼らの思いは如何ばかりか。
グリムロックに陣地を敷いて、指揮を執るメランその人だとて、思わず奥歯を噛み締めて、その光景を──幾度も夢に見た光景を凝視した。
そして、眼下に広がる攻勢を仕掛けているグー・ビグ・ルゥーエ率いる長槍と大楯の軍を睨みつける。
「……ぬぅ」
思わず漏れた声は、悔悟か苦鳴か。
防御に徹するグリムロックは山上の利をとっている。容易に崩されることはない。理性はこのまま凌ぎきれと判断するが、心はその反対を訴えていた。
──指揮下にある全軍をもって、逆落としに一撃を加え、敵将の首を挙げてくれん!
握りしめた剣の柄が、その強さに音を鳴らす。
かつて渇望にも似た夢に見た光景が、今まさに悪夢となって現実に襲い掛かってくるなど、悪い冗談にしても出来すぎであった。これは過去の亡霊か、それとも──。
──戦姫ブランシェ・ルルノイエ。
かつて崇拝した彼女の最後の別れが、メランの脳裏を掠める。
王都リシューの玉座を奪ったその姿。あくまで鮮烈に、己が胸に短刀を突き立てた最期の姿まで!
今こそ、積年の思いを遂げるとき、斧と長剣の軍に──いいや! アルロデナのゴブリンどもに、かつて我が祖国を滅ぼした奴らに目にもの見せて──!!
そのとき彼の握りしめた手に、そっと触れるものがあった。
小さな手、かつて出会ったブランシェよりもさらに幼い。
「……メイディア姫」
心配そうにメランを見つめるのは、メイディア・デオ・アルサス。王冠に太陽を戴く、アルサスの末裔。
「ご気分が優れませんか?」
自ら象徴たれと願う彼女の視線は、熱に浮かされたメランの心を洗い清めるかのようだった。あれほど狂おしく暴れていた感情の波が引いていく。
「なぜ、こちらに?」
「あ、はい。アリエノールに、こちらが最も安全だからと……」
最前線で兵を指揮する聖騎士アリエノールの困った顔を思い浮かべ、メランは傍目にはわからないほどに小さく苦笑した。
「……あなたは、御旗ですな」
首を傾げメランの言葉の真意を問うメイディアに、メランは苦笑した。
「いえ、御礼をメイディア姫。おかげで助かりました」
「そう、ですか? 私がお役に立てたのなら、幸いです」
同じ姫でも、こうまで違うものだとメランは笑った。かつて忠誠を捧げた姫は、すぐに平手が飛んでくるようなじゃじゃ馬だったものだ。
──曰く、痛みがなければ覚えないであろう? 悔しければ我が平手を受けぬほどに、精進することじゃ。
黄金の髪をなびかせ、鳶色の瞳で挑発的に笑う黄金の姫。
同じく黄金の髪を持ちながら、まるで優しく包み込むようなこの違いは、人となりとしか言いようがない。その当たり前のことに、いまさら気が付いて、メランは声をあげて笑った。
その笑い声は、メランの周囲にいた者たちを振り返らせるほどに大きく、まるで戦場の只中で談笑する様子に、メランの周囲にいた者たちはぎょっとした。
だが、次第に彼らの目にはメイディア姫とメランの様子が頼もしく感じていく。
「うちの指揮官は、しかめっ面ばかりしてると思ったが、随分と余裕じゃないか?」
「……勝てるのかね?」
「空元気ってわけでも、無かろうよ。なにせ、草原の覇者の右腕だからな」
周囲の兵士のそんな心情は、徐々に最前線にまで広がっていく。
一気呵成に攻め寄せ敵を撃破したいという欲求は次第になりを潜め、軍全体が落ち着きを取り戻していく。その功労者たる希望を探す小さな姫は、己のなしたことなど思いもせずに、メランの隣で右往左往していた。
◆◇◆
対する長槍と大楯の軍を率いるグー・ビグ・ルゥーエは、意外な諸国連合軍の粘りに、眉をひそめた。
「これは、評価を改めねばなるまいな……」
圧力を強め続けていけば、所詮烏合の衆だろうし、早々に統率が崩壊すると読んでいた。かといって、舐めていたと言うわけではない。
正面に圧力を掛けつつ、奇襲的に精鋭を後方から攻撃させたり、攻め口を幾度も変えて、勢力の不均衡を作り出したりと、あの手この手で工夫を重ねていた。
しかし最後のどこかで、やはり連合軍──旧諸国の兵など不安要素でしかなく、その持ち味を十全に発揮するなど不可能だと考えていた。
だからこそ、眼前の連合軍の粘りに驚嘆せざるを得ない。彼等には、統一された訓練をする時間も信頼を醸成する時間も与えられなかったはずなのだ。
にもかかわらず、精鋭たるガルルゥーエと互角に戦えるのは、地の利も当然あるが指揮する者の力量と、兵の質を見誤っていたことに帰結する。
もし、この指揮者が東征当時にいたら、如何なる強力な壁となって立ちはだかっていたかと、苦笑とともに長槍を握りしめた。
「まだまだ、青いな。俺もっ!」
己の未熟さを知ってなお奮い立つ心を抑えきれず、グー・ビグ・ルゥーエは、一層の攻めに力を入れる。
強い敵と戦い、そしてそれを乗り越え勝利することに酔っていると自覚しつつも、グー・ビグは、止まらない。
知らず知らずの内に彼の口許は獰猛な笑みが浮かんでいた。
同時に歴戦の指揮官としての理性が、状況の悪さを分析する。猛る内心とは、裏腹にこのまま攻撃を続けて望むような成果を得られるのか、それが徐々に不可能になりつつあるのを認めざるを得ない。
このまま戦い続ければ、敵の殲滅は可能かもしれないが、その間にギ・グー・ベルベナ率いる本隊が押し込まれたのでは、何のための攻撃なのか本末転倒であった。
端的に言って、時間がない。
背後に聞こえる喚声は、軍団長二人の攻勢によるもの。だとすれば、彼も決断をせねばならなかった。
「第1から第3大隊を残して、後退!」
「……後退ですか?」
近くに居た戦士が、怪訝そうに聞き返すが、グー・ビグは、さらに繰り返すだけ。
「そうだ。早くしろよ」
「御大将はこのこと……」
「しらんよ。当然だろう」
微塵も揺るがぬ命令を受けて、ゴブリンの戦士は伝令に走る。ここで、グリムロックの戦場を放棄することは、戦場全体で左翼を放棄することに他ならない。
ギ・グー・ベルベナの描く戦場の姿に、どのような影を落とすか、伝令に走ったゴブリンの戦士には分からない。
自らの信じる軍団長の判断、ギ・グーの思惑から外れることを恐れない胆力に、震えるほど瞠目する。だがそれでもフェルドゥークの最古参たるグー・ビグがそれを命じるなら、活路はあるのだと信じて、走る。
長槍と大楯の軍は、グリムロックに抑えの殿を残して、後退していく。
◆◇◆
大紋章旗が揺らぐことは、左翼右翼に動揺を走らせたが、逆に奮発した部隊もある。それが、中央アルロデナ総軍である。
グー・ジェラの攻勢に、戦列を食い破られ、中級指揮官たる百人隊長らを殺され、追い散らされた兵士達は、近くに居た他の百人隊を頼って逃げた。
しかし、彼等を待っていたのは、温かい抱擁では無く、冷たい叱咤の声だった。
「貴様ら、何の故あって逃げ延びてきた?」
呆然とその言葉を聞く兵士達に、百人隊長は更に言いつのる。
「見よ。貴様らの旗を。今や敵の掌中にあり、侮蔑の限りを受けている。貴様らは、勇敢な百人隊長を、我が戦友を見捨てて逃げ出した臆病者だ!」
「それは、敵の攻勢が余りに予想外で……」
「貴様らは、予想外のことがあれば、戦友を見捨てるのか!? そうせよと貴様らの百人隊長は、言ったのか?」
兵士達は、精鋭と言って良い。大陸を制覇した覇権国家の精鋭部隊。年齢構成も、出身地も、兵士に辿り着く生き方すら全く違う彼等を精鋭と呼べるまでに鍛え上げ、育てでも来たのは、彼らの百人隊長であり、古参の兵士であり、彼ら自身であった。
血反吐を吐き、寝ても覚めても訓練に明け暮れ、あらゆる戦場を想定して、あらゆる精神的肉体的苦痛を耐え抜いてきた。
肩を並べた友を、教え導いてくれた先達を、何よりアルロデナの精鋭たる己自身を、彼等は裏切ったのだ。
百人隊は、もう一つの家族ですらあった。
「……も、もう一度、もう一度機会を! 今度こそ、アルロデナの精鋭に相応しい働きをして見せます!」
その思いを、叱咤によって気づかされた彼らの心に敗残者の面影は既にない。
恐怖の色に染まっていた青い顔は、いつの間にか憤怒の色に変わっていた。
「よろしい。だが貴様らは隊も散り散りになり、力を十分に発揮出来る状態にない。我らが左翼を進め! 貴様らの、我が戦友の名誉を、何より、我らが偉大なるアルロデナの栄光を取り戻すぞ!」
多かれ少なかれ、このようなやり取りがアルロデナ総軍の各所で見られた。戦列を食い破られれば、そのまま崩壊につながるものだが、思いも掛けず、激烈な反撃が始まる。
ルゥー・ヌミアが、自身の精鋭をすり潰しながらなし得た優勢が、おもわぬ抵抗に押しとどめられる。
それを認めた軍師ヴィラン・ド・ズールは、悔しげに表情を歪ませた。
「兵士の士気に頼るなど、軍師としての名折れ……だが!」
兵士の士気の高さを計算に入れることは、恥じることではない。かつてゴブリンの王がしたように、爆発的な士気の高さは計り知れないほどの破壊力と粘り強さをもたらす。
士気が低ければ、当然ながら兵士は力を発揮するどころか足の引っ張り合いを始めてしまう。
だから、士気を計算することは間違いではないのだ。
だが、今起きているのは、それとは似て非なるもの。軍師たる己が全く手を打てず、兵士達が自発的に士気を高め、それが軍全体を支えている。
ヴィランをして、全くの予想外でしか無かった。だが、そこで全て投げ出さないだけの矜持が、彼にはある。
淡々と、崩された戦列に補填をする。
分厚い防御陣の遊兵を作らないよう、移動させ、敵の選択肢を削っていく。
堅実にして、計算高く先を読む。
敵が最高でなくとも、最適と信じた判断を繰り返し、気付いた時には、どうしようも無い状態に追い遣る……まるで詰め将棋のような作戦術は、フェルドゥークには、無いものだった。
一つには、ガルバディン率いる青銀鉄装備の約三千が、楔のようにルゥー・ヌミアとグー・ジェラの戦力発揮を阻害していた。
更にもう一つには、アルロデナ総軍の兵士達の予想外の奮闘があった。
この二つの要素が、フェルドゥークをして背骨をへし折ったはずのアルロデナ総軍を攻め切れていない理由だった。
そうして時間を掛ければ掛けるほど、不利になるのはフェルドゥークだった。
「踊り子達は、支度をしたな?」
「折角の大舞台、疲れたなど言っておれんでしょう?」
美顔麗髪の妖精族の弓兵の言葉に、剣を手にした妖精族の剣士が笑う。
「では、踊れ!」
衝撃力が徐々に弱くなった交差する大槍のグー・ジェラに襲いかかる。
早足の獣を撃破して、更に新たな戦場に連戦してきた彼等は、やはり相応に疲労がたまっていた。
当然、疲労がたまれば動きが鈍る。動きが鈍れば、精彩を欠く。そこを狙い澄ましたかのように、蛮族エルフが、舌なめずりしながら攻める矛先を変えてきた。
しかも、恐らく世界最強の弓兵を援護につけて。
「くはっ! たまんねぇな!!」
繰り出された槍を鼻先で躱し、穂先を刎ね飛ばしながら、蛮族エルフが笑う。巌のように密集した盾を構えるジェラミアの兵士を蹴り、空中へ飛び上がると、密集しているただ中へ飛び込んでくるのだ。
「フハハ! 右を向いても左を向いても敵だらけ、狙いをつける必要もない! 最高だなァ!!」
自身が傷つくのも全く恐れず、暴れ回る姿は狂戦士のそれだった。
中にはそのまま力尽きる者もいるが、血だらけになりながら生還し、また体力が回復したら暴れだすと言う有様だった。
「くそ! やりづらい! 味方でいるときは、どうにも厄介な奴らだと思ったが、敵にすれば尚厄介だとは、始末に負えん!」
愚痴るグー・ジェラが隣を見ると、三本槍に楯を率いるルゥー・ヌミアに、ガルバディン率いる重装備歩兵が、襲いかかっていた。
通常であれば負けるはずのないドゥーヘレヌミアではあるが、後背から襲われさらに前からは勢いを取り戻したアルロデナ総軍が、一息に揉み潰そうと、彼等に迫る。
「……ええい!」
いらだち混じりに、舌打ちするとルゥー・ヌミアは、敵に槍を突き刺しながら、瞬時に戦況を再確認する。
このままでは、届かない。
アルロデナ総軍の壁は、フェルドゥークの一軍団長には、やはり厚すぎたのかと歯嚙みする。
次々に倒れていく股肱の臣下の姿に歯を食いしばり、更に敵を倒す。
「……ぐ、ぬぁ……お先、に!」
隣を共に進んでいた戦友が倒れゆく。道連れに倒した兵士共々その屍を乗り越える。
「……おう! 先に待っていろ!!」
歯を食いしばり、無理矢理笑みを浮かべると、背中にかいた冷や汗をを無視して、更に足を進める。
「──ゴルォウゥアァ!! 進め! 同胞よ! 戦友よ! 死力を振り絞れ!」
だが、己は賭けたのだ。今更何を迷うことがある!
死地にあってなお、ルゥー・ヌミアの足取りは迷いはない。
「俺はァ、貴様らの前にいる! 常に前に! 進めぇぇい!」
敵を貫いたその槍を、高々と掲げる。血を滴らせたその槍先に合わせて三本槍に楯の紋章旗が一層高く掲げられた。
◇◆◇
「進め、ゆっくりとな!」
ギ・グー・ベルベナの号令に基づいてフェルドゥークの選び抜かれた精鋭が進む。まるで息を潜めた獣のように、或いは槍を構えた戦士のように、眼前の三千からなる騎馬隊を見据える。
二万の軍勢が、まるで恐れるが如く警戒する様子を侮る者は存在しない。目の前に居るのは、警戒に値する相手なのだ。
「虎獣と槍の軍……」
フェルドゥークの先頭を進むのは、黒き大紋章旗を掲げる騎馬隊。僅か二百騎に満たぬ黒き騎影は、アルロデナの始まりと共にあった当時から寸毫も変わらぬ陰を刻む。
まるで、過去から抜け出たようなその姿。しかし、本来ならいるはずの先頭に立つべき王の姿だけがない。彼等の太陽は、既に冥界にある。その意味では、既にして彼等は亡霊に似ていた。
振るい続けて巌のようになった掌に力を込めて、変わらぬ槍を手にギ・べー・スレイは、じっと馬上からアランサインの先頭を見据える。そこに居るのは、堂々たる総大将の威厳を纏う一騎。掲げる紋章旗の誇らしさ、揺るぎのなさはかつて駒を並べた時のままだった。
細く吐き出した息は、感嘆のためか、それとも胸に去来する昏き炎のためか。最早呼吸をするのと同じように、本能でアランサインとの距離を測る。
互いに疾駆するには、まだ幾許かの余裕がある。そう判断したギ・べー・スレイは、意識してギ・ガー・ラークスから視線を外した。
まず視界に入るのは、左右に並ぶ派手な三ツ目の悍馬を駆る騎馬隊だった。赤や青の派手な装飾と手には短弓、馬体の後ろには馬上槍を備えた草原の国伝統の装備品。
更に、手には杖を持ち、ローブを身につけた集団も散見される。
弓騎兵隊と魔道騎兵隊、どちらも草原の覇者を破り吸収した軍種だ。地面の高低差がないため、それ以上は視界に入らないが、他には黒虎、槍騎兵隊などがいたはずだった。
フェルドゥークに相対するに、左右に広がる幅はそれ程必要としていないらしく、一塊といっても良い。
かつては鼻の利く灰色狼、亜人の一団も加わっていたが、今回彼等は実戦経験の少ない亜人連合に戻っているようだった。
畢竟、馬に差はない。
ならば、勝負を決するのは、馬上の腕前のみだと結論を出して、ギ・べー・スレイは、粛々と速度を上げる。
徐々に、距離は互いの間合いに入りつつあった。




