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ゴブリンの王国外伝  作者: 春野隠者
継承者戦争
51/61

継承者戦争《背を追うもの》

 時は少し遡る。

 ギ・ゴー・アマツキがギ・グー・ベルベナを斬ることができず、立ち去ったことをユアンは如何にして知りえたのか。

 それは彼の周りに控えていたザフィーユ率いる“犬”と呼ばれた密偵達だった。戦闘員は極々少ないながらも、その諜報能力は戦場と戦場外を問わず、ユアンの判断の一材料になっていた。

 その彼女らが、ギ・ガー・ラークスの強襲を凌ぎ切ったユアンに耳打ちした剣王の参戦は、積年の恩讐を晴らす絶好の機会であった。

 その報せを受け取ったユアンは、壮絶な笑みを浮かべて、足をギ・グー・ベルベナ本陣へと向けたのだった。その後ろに、ザフィーユは、無言のまま従う。忸怩たる思いを抱え、絶えぬ後悔に身を苛まれながら、彼女はユアンの後に続くのだった。


◇◆◇


 ユーゴ・アマツキは、グランハウゼに入った後、父親であるギ・ゴー・アマツキの足取りを追っていた。情報屋と呼ばれる者たちに金を払い、昼夜を問わず歩き回り、その噂を拾い集める。足を棒にして歩き回った結果、つい先日までグランハウゼに滞在していたことを知り、同時に戦場へと旅立ったことを知りえて、思わず舌打ちした。

 あと少しで追いつけるという期待、まだ追いつけないのかという焦燥が、少年の心の中で不協和音を奏でていた。情報を集めるついでに、つい酒場で酒に手が出てしまったのも、思い返せば彼のそんな心の隙間に、魔が差したとしか言いようがない。

「あれ、ユーゴのお兄さんじゃないか!」

 嬉し気にかけられた声の主を振り返ると、彼に命を救われた娼婦──確か名前はと、考えたところで、目の前の彼女は噎せ返る香水の香りとともに、酒に口をつけようとしていたユーゴの腕に、自身の腕を絡みつかせた。

「こんなところでどうしたのさ?」

 大きく胸元の開いた煽情的なドレスをまとい、夜の酒場の決して明るいとは言えない店の中で、ランタンの炎に照らされた彼女の肌は、ひどく蠱惑的だった。体の線を強調したドレスは、くびれた腰から、豊満な胸へと視線を誘導する。群青色のドレスからこぼれる様に視線を引くのは、触れれば吸い付くような若く瑞々しい潤いのある肌。服の布越しに当たる胸の柔らかさを、半ば意識的に無視しながら、ユーゴは酒の入った木製のコップをカウンターへ置いた。

「あれ、もしかして私のこと忘れちゃった?」

 自身の豊かな胸をユーゴの腕に押し付けながら、見上げてくる彼女が首をかしげる。その甘えたような声に、ユーゴは視線を逸らす。

「……ティマ」

 ユーゴの口から洩れた自身の名前に、ティマと呼ばれた少女は花が咲くように笑みを浮かべた。

「覚えててくれたんだ! 嬉しい!」

 すぐ隣で大陸の覇権を決める決戦が行われる最中にあっても、いや、だからこそグランハウゼの歓楽街は活況を呈していた。一つにはギ・グー・ベルベナの決心で物流を遮らないことが決まったこと。もう一つには、大陸の覇権を決めるその戦いに、多かれ少なかれの関係者達が集まってきていたからだった。

 人が集まればそれを目当てに商人達が集まる。

 十五年の平穏は、商人同士の連絡網を大陸全土に網の目のように構築していた。結果として商機とみれば、多少の危険を冒してでも、遥々やってくる。表でも裏でも動く彼らを監視するように、酒場には裏社会を牛耳るレッドムーンの配下の者たちが、常よりも多く見受けられた。

「お兄さんの探し物は見つかった?」

「ああ、どうやら戦場にいるらしい」

 ユーゴは、大陸の各地を回る彼女達にも、探し人の情報を求めていた。大陸一の剣士の行方を探すには、多少の危険を承知の上で情報を求めねばならなかった。

「……お兄さん、場所移さない? とっておきの話があるんだけど」

 周囲を伺いながらのティマの言葉に、ユーゴはちらりと彼女の表情を盗み見た。声音は誘惑のままに、その視線は真剣そのもの。先ほどまでの色香で男を惑わす娼婦の顔から、もっと切羽詰まった彼女なりの真剣さが見えて、ユーゴ・アマツキは考え込む。

 うまく隠しているが彼女の表情から読み取れるのは、焦りだった。

 問題はそれが、何に対して焦っているかだ。ユーゴは置いたコップを手に取り、口元に運びつつ、横目でティマの提案を試案するかのような表情を見せた。

「とっておきね」

 駆け引きとも言えないような、間を持たせ考えを整理するだけの言葉に、ティマの方が狼狽えた。手練手管をわきまえた妖艶な娼婦、とはお世辞にも言えない年齢の彼女の視線は、ユーゴと周囲を忙しなく行き来していた。

 酒場で特に目立つのは、レッドムーンの揃いの服を着た連中、何かを探すように、周囲に視線を走らせ、鋭い目つきで酒も飲まずに歩き回る。

 歓楽街の大半の店がそうであるように、もめ事の仲裁や、酔っ払い客のあしらいなどをレッドムーンに依頼しているとも、取れるが……。

「構わない」

 口元に運びつつ、一切口をつけなかったアルコールをカウンターに置き、彼女の腕をとる。

「あっ……」

 驚いたようなティマの声を無視するように、カウンターに代金を乗せて席から立ちあがると、人ごみの中を縫うように歩き出した。

 酒場から出ると、酒場の熱気とは反比例するように、人通りは少ない。

「こっち」

 腕を引くティマに任せて、そのまま姉妹月すら分厚い雲に隠れた夜の道を歩く。王都レヴェア・スーでは、夜を照らす街灯すら一部の区間で設けられていると聞くが、未だ地方都市には遠い話であった。

 そのまま歩いたユーゴの視界に、宿の看板。

「ここで……」

 迷いなく人の居ない方向へ向かう彼女の足取り。そしてそれに連れて増える監視の気配。そこまで来れば、ユーゴにとって結論は見えていた。

「一つ聞くが、ティマ、狙われているのは、君か? それとも、俺か?」

「……え?」

 あまりに突然、ユーゴの核心を突く質問に、ティマは驚愕とともに振り向き──。

「あたし達の目的は、そっちのお嬢さんさ。雪鬼(ユグシバ)御子(ぼっちゃん)

 砂を踏みしめる音をわざと立てながら、現れたのはレッドムーンの構成員達。そして──。

「あんたは……」

 彼らの中心にいるのは自由への飛翔(エルクス)を率いるソフィア。そして、その後ろには凶刃のヴィネ・アーシュレイ。

「っ……」

 息をのむティマの気配に、ユーゴはその視線をソフィアに向ける。

「……理由を聞いても?」

「企業秘密って感じかな?」

 薄く微笑むソフィアの態度。しかし、その瞳には絶対零度の冷たさを宿して、ソフィアはユーゴとティマを見る。

「……逆らえば?」

 肩をすくめるだけで無言を貫くソフィアに代わって、一斉にレッドムーンの構成員が得物を抜く。

「ユーゴのお兄さん、私を置いて逃げたら……」

「それで、君はどうする?」

「一応女なんで、命までは取られないかな……とか、甘い判断、かな?」

 会話の中でも、包囲の輪は狭まっていく。

 不幸な女だとユーゴは思った。こんな状況でも、他の人間を助けようとしてしまうほど、不幸に慣れてしまった女。ユーゴの腹の底で、何かが蠢いていた。

 それは、まるで溶岩のようにドロドロとしていて、粘り気がある怒りだった。怒りにも種類がある。吼え猛るような類のものではない。世の理不尽に怒りを覚えるような青く若い、だが、正しい怒りだった。

 この薄幸な女の身に降りかかる不幸を、少しでも減らしてやらねばならない。

 少なくとも、ユーゴが剣をとった幼い日に誓ったそれは、圧倒的な暴力に震える女を不幸にするためではないのだ。

「……ねえ、雪鬼の御子(ぼっちゃん)、そこの娘を置いて、引いちゃくれないかな?」

 ソフィアの提案に、ユーゴは自然とティマを背にかばう。

「……不幸な娘が好きなら、いくらでも見繕ってやる。その娘より、上等で、裏のない娘らを紹介してもやれる。だからねえ……そこの国に逆らってるあたし達の敵をさ、置いて行ってはくれないかな?」

 ため息とともに吐き出された言葉は、説得と諦めの入り混じったもの。それでもソフィアは言わざるを得なかった。

「……それがこの娘を、狙う理由か?」

 ソフィアの言葉を聞いて、視線を鋭くしたユーゴの言葉に、ソフィアは応じる。まるで氷塊に触れるような、温度の感じさせない言葉は、彼女の歩いてきた道の険しさと、怒りの大きさを示しているようだった。

「ああ、そうだよ。あたしを生かしてくれた恩人が、それこそ命を掛けて繋げてくれた平穏だ。それにあたしの友達がね、やりたくもないのに、幾千万の屍を積み上げて打ち建てた偉業さ。あたしの可愛い子供たちを、光の当たらない道に突き落として、命まで失わせ、守り抜いてきたのが、あたしの道だ。その邪魔をする奴らは、地獄に落ちてもまだ生ぬるいと思わないかい?」

 大陸の安寧を影に守り続けてきた女の、それは慟哭の声だった。その思い深さに、寒くもないのに背筋が震えていた。

 動かないユーゴを見て、ソフィアは再びため息をついた。

「……あとは、任せるからね」

「ふん、勝手なもンだな?」

 不機嫌そうに鼻を鳴らしてソフィアの前に出てくるのは、ヴィネ・アーシュレイ。

「……まァ、ちょっとした因縁もあるし、お誂え向きでは、あるよなァ?」

 血の滴るような哄笑を浮かべ、狂刃のヴィネが歩を進める。歩いてくるその姿だけで、ユーゴには目の前の敵が、いかに危険なものかがわかった。

 雪鬼の古き里──銀嶺山脈の奥に広がるそこで幼い頃にみた獰猛な肉食獣を、何倍にも危険にした香りがする。五感のすべてが危機を知らせ、かつてないほど心の臓が早鐘を打つように、鳴り響く。

 若きユーゴ目の前にいるのは、かつて相対したことのない剣士。

 夜の風が吹いていた。

 まるで姉妹月を隠していた分厚いはずの雲が、畏怖とともに道を譲るように、赤く青い月々の光を地上に降らし、その伝説を照らし出す。

 震える夜よ! レヴェア・スーの死神よ! 十五年を経てなお語り継がれる伝説の剣士ヴィネ・アーシュレイ。

 あるいは、父ギ・ゴー・アマツキと肩を並べる遥か高みにいる剣士、とそこまで考えに至ったとき、ユーゴの腹は座った。

 父であるギ・ゴーを、超えるために剣の頂を目指したのではなかったか。病に苦しむ母を見て、自分にできることは何かと問いかけたとき、答えを出したのではなかったか。人を不幸にしないで済む、そんな剣の頂を──。

 吹き出る汗が、頬を伝う。早鐘を打つ心臓が、吐き出す息が、押しつぶされそうな心を物語る。

 だが、だが!

「あん?」

 その極限の緊張の中、ユーゴは頬の筋肉が引きつるように笑っていた。

「あぁ……てめェも、そっち側か?」

 仕掛けるのは、狂刃のヴィネ。僅かに姿勢を前傾にした瞬間急加速──極限まで低く保たれた姿勢から鞘走る白刃の煌めきは、剣神から授かった万物切り裂く万能の剣閃。細身の曲刀が、空気を切り裂いて三閃を刻む。吹き抜ける疾風の如く、あるいは流れる水の如く、剣舞の如き歩みとともに放たれた三条の銀線は、闇夜に月光を受けて妖しく円を描く。

 抜き掛けの一太刀、返す刀の二の太刀、追撃の三の太刀。

 刹那に成しえた三閃を躱せたのは、ユーゴにしてみれば奇跡に近かった。左の下段から繰り出される抜き掛けの一太刀を躱せたのは奇跡。吹き抜けたその一太刀を認識した時には、既に回避のために下がっていた。まるで自然の摂理のように、降りぬいた細身の曲刀が舞い戻る。それを鼻先で躱せたのは、幸運のなせる業。そしてこのまま終わるはずがないと、確信をもって次の三の太刀の軌道を読み切ったのは、幸運だけでは片付かない確かな実力の賜物。

 息をする間もなく迫りくる三太刀目に、人生最速の抜刀で長曲刀を合わせる。一瞬の後に飛び散る火花、逸れる軌道に、命を拾ったのだとわかる。

「ッチ」

 舌打ちが聞こえた方を見れば、既にヴィネは、納刀を終えていた。一体いつ戻したのか、知覚できない程に、すさまじい技量。

 長い黒髪が余韻に踊る。

 腰だめに構えたヴィネの姿勢だけが、先ほどの剣戟が嘘ではないことを物語る。

 目を細め、忌々しそうに睨みつけるヴィネの視線の先で、ユーゴは抜いた曲刀を構えなおす。その動作一つでさえ、極限の緊張を強いる。

 一瞬たりとも狂刃のヴィネから視線を外さず、中段に構え直したユーゴの剣先が、ヴィネに向かう。

「はん、いい子ちゃんがっ!」

 ヴィネの攻めの強さに、ユーゴは驚愕を禁じ得ない。だからこそ、彼は一転攻めに出る。出なければ、早晩押し負けると判断してのことだった。

 雪鬼独特の歩行による幻惑の歩から、長曲刀を一突き。最短の軌道、ほぼ予備動作のない所見殺しの一撃必殺の片手突き。当たれば、岩すら貫く一撃が、ヴィネの長い黒髪の幾本かを散らす。

 直前まで知覚の外に居たはずのユーゴの必殺の突きに対して、ヴィネはしっかりとその剣筋を見極めていた。あわよくば反撃を狙ったヴィネの目論見を阻んだのは、ユーゴの使う長曲刀の長さが、彼女の予想以上だったことだ。

 繰り出す寸前半身を入れて捻りを加え、威力を増すとともに長い射程を獲得するアマツキ流の工夫が、ユーゴの命を救った。自然、ユーゴの懐は深く、ヴィネの間合いになるまで幾許かの余裕が生まれる。常のヴィネならば反撃と同時、瞬時に間合いを殺す踏み込みで敵の喉首を掻き切るところであるが、さすがに雪鬼の薫陶深いユーゴにそれは通用しない。

 直前までヴィネが技を見極めようとしたのもまたユーゴの生存に一役買っていた。ヴィネとしても流石に反撃と同時にユーゴの命を取るまでのは、欲をかきすぎだった。

 反撃は、無いと瞬時の判断からユーゴは息をする間もなく、突き出した長曲刀を捻る。送り狼のようにヴィネの首筋に喰らい付かんとするその剣は、火花とともに軌道をずらされる。ユーゴの放った片手突きからの切り払いを跳ね上げたヴィネの細曲刀、横っ飛びに飛び退くヴィネの姿──。

 ──好機ッ!

 すかさず、突き出した長曲刀を引き戻しながら、身体をひねってため(・・)を作る。限界まで引き戻したと判断した瞬間、さらに追撃の突き。初動の一歩、おそらく人生最速の踏み込みと同時に、繰り出すのは、最速の片手突き──そして、ユーゴはそこに先ほどにはなかった誘いを入れた。

 ヴィネならば──伝説の域に生きる剣士ならば、この速度にも対応してくる。そう判断して、一度剣先を体の中心を狙う軌道を見せる(・・・)。着地したばかりのヴィネは、その恐ろしく冴え渡った勘だけで、そこに細曲刀を合わせてきた。

 ヴィネの体の中心を狙った見せ(・・)の突きに実際の殺気すら乗せ、繰り出す寸前──さらに一歩逆足を踏み込んで、無理矢理突きの軌道を変化させる。ヴィネの体の中心を狙った切っ先が、うねる蛇のように軌道を変えて、喉首を狙う。

 組み立ては完璧、身体の中心に反射的に合わせたヴィネは、僅かに反応が遅れる。その僅かな遅れこそ、生死をかけた勝負の中では、大きな差だった。

 ユーゴの繰り出す突きの間合いはもはや、避けられる限界を超え、ヴィネの体を刺し貫くだけとなったそのとき──ヴィネの口の端が吊り上がり、妖しく嗤う。

「……」

 繰り出したユーゴの突きは、空を切った。だけでなく……。

「──確か、幻惑の歩だったなァ?」

 聞こえる声は至近。姿を探し求めることすら馬鹿げている距離に、吐息のかかる距離にその死神の気配を感じて、ユーゴは驚愕に言葉を失った。

「相手の認識をずらすってのが、こんなに嵌るとはねぇ。便利じゃねぇか」

 細曲刀で肩を叩く音が聞こえる。低く嗤う声は、嘲笑そのもの。だが、ユーゴは動けずにいた。動けば死ぬ。何より明確なヴィネの殺気が、それを物語る。

 動いた瞬間に一撃、それを防ぎえたとしても、崩れた態勢のまま、ヴィネの追撃を躱し切れる自信が、ユーゴにはなかった。何よりも、雪鬼の秘伝たる幻惑の歩を、目の前の剣士が使いこなしている事実。その驚愕が、一瞬ユーゴから思考を奪っていた。

「ん~? 不思議な顔してやがるなァ、なぜアタシが雪鬼の秘伝を使えるんだろう、って面だ」

 嘲笑の声に、動きの取れないユーゴは、ヴィネの声を聴くしかなかった。

「ハッ、馬鹿が! あんなもン、一度でも見れば、盗み取れるんだよ! アタシはなァ!」

 ヴィネの言葉が、もし事実であるのなら──。

 その考えに、ユーゴは氷塊を背筋に突き刺されたような悪寒に震えた。もしも、ヴィネの言葉通り、一目見てヴィネに秘伝を盗まれたのだとしたら、大陸最大の流派であるアマツキ流よりも、このヴィネ・アーシュレイと言う剣士は、強いのだ。

 日々研鑽し、練り上げてきた技。それを最高純度に、煮詰めた自信はある──。

 ──だが、足りないのだ。今、目の前のこのレヴェア・スーの死神を倒すには、全く足りていないのだ。悔恨が自然とユーゴの歯を喰いしばらせ、ギリリと音を立てる。

「ハッ、良いねェ。良ィい顔だァ」

 歪むユーゴの表情を見て、ヴィネは嘲笑う。

「お坊ちゃん。てめえは、命のやり取りなんざァ、してねえのさ。だから弱い。お前がやってるのは、いつも相手の命のやり取りだけで、自分の命は極力賭けてないんだよ。そんな奴が、アタシに勝てるわけがねえだろうがよ」

 違うと否定する言葉も、狂笑に歪むヴィネの迫力に負けて喉の奥から出てこなかった。

「てめぇに技を教えた奴は、過保護なんだよ。幾重にも工夫を重ね、使うアンタが死なないように、傷つかないようにと、考えられた技だ。まったく、死なない剣士を作って何が面白いンだかなァ? さて、おじゃべりも飽きたし、そろそろ……」

 ユーゴの喉首に、ヴィネの細曲刀が添えられる。肌を舐めるような刃の冷たさに、ユーゴは自然と視線が吸い寄せられる。

 事態が動いたのは、二人の間ではなく、その外側。ティマとそれを囲むように配置していたレッドムーンの配下達から騒ぎが起こった。

 月光に照らされる宿の前で、いきなり煙幕が焚かれ、視界を遮る。

「新手か?」

 蹴り飛ばされたユーゴと入れ替わりに、遠距離から投擲される小剣がヴィネに襲い掛かる。舌打ちとともにそれを躱し、細曲刀で弾くのと、蹴り飛ばされたユーゴが手を引かれるのは同時だった。

 辺り一帯を覆った煙幕が消えるころには、ユーゴとティマの姿は既になかった。


◇◆◇


 息を切らして走るティマに手を引かれ、ユーゴは走る。姉妹月さえ隠れた路地の暗闇の中を、敗北の汚泥を噛み締めながら、ただ足を動かした。

 父であるギ・ゴー・アマツキに辿り着くまで、敗北など考えたこともなかった。言葉には出さなくとも、名だたる強者にも決して引けを取らないと自負していた。

 だが、蓋を開ければ惨敗と言っていい。

 その挙句、死ぬこともなく助けようとした女に手を引かれて逃げている有様。

 何より、ユーゴ自身が死の恐怖に怯えていた。初めて目の当たりにする本物の殺気。しかも、飛び切り強烈なものを受けたのだから、仕方ないといえば仕方ない。大陸を探しても、ヴィネ程その扱いに長けたものは稀だった。

 だが、当のユーゴ自身はそこまで考えが回らない。敗北の衝撃に思考停止状態に陥っていたのだ。だからこそ、本来であれば気づくべき処にまで、思考が届かない。

「こ、ここだ」

 息を切らしながら、その間から吐き出すように零れた言葉に、視線を上げれば、スラム街の一角だった。普段なら好んで近づかないその場所に到着して初めて、ユーゴはその場所を取り囲む気配の多さに気が付いた。

「ティマ、周囲にだれか……」

 囁くように忠告したユーゴに、ティマは笑顔を見せて頷く。

「大丈夫。みんな仲間だから」

「仲間……」

「ティマ、無事だったか!?」

 廃墟の一つから走り出てきた女の声に、ティマはユーゴに背を向けると、その女に向けて走り出す。

「ザフィーユ様!」

 ザフィーユと呼ばれた女は、ティマを抱きすくめると、まるで親子のように短い抱擁を交わす。

「すまない。お前にばかり負担をかけた」

「いいえ、とんでもありません。一族のためですもの。あっ、ご紹介します。私を助けてくれた恩人です」

 ザフィーユの手を引いて、ユーゴの近くまで来ると丁寧に頭を下げた。

「本当に、ありがとうユーゴお兄さん。紹介させて、私の姉さん。ザフィーユ」

「この度は、妹を助けて頂き感謝いたします」

 ザフィーユの整った顔立ちにしては、きつめに吊り上がった目尻が優しく下がる。

「いえ、俺は……」

 ユーゴにしてみれば、感謝される言われはない。生き残ることが精いっぱいで、ティマを助けた、とはとても言えないからだった。

「このようなところで何もできませんが、せめてお寛ぎになって、お身体を休めていってください」

 ユーゴは若者特有の潔癖さ故に、相手の好意だと分かっていても素直に受け入れられない。

「是非、お休みなってください。そうでなければ、私達が困ります。恩人に何もせず、帰したなど、一族の名折れです」

「あっ、私達は、イェールフルトという一族なの」

 娼婦然としていた先ほどとは、打って変わって明るく笑うティマは、年相応な無邪気さでザフィーユの言葉を補足する。

「さあ、こちらです。貴方にとって有益な情報も提供できると思いますよ。どうぞ」

「ユーゴお兄さん、こっち──」

 戸惑うユーゴの腕を取って、案内しようとしたその瞬間、その場にいる誰もが、もっとも聞きたくない声が聞こえた。

「──へぇ、そいつァ良いね。アタシもお邪魔しようかね」

 たった今、ティマとユーゴが駆けて来た道を通って、狂刃のヴィネが姿を現した。

「……そんな!? どうやって此処が」

「どうやってぇ?」

 嘲笑に歪むヴィネの口元から、吐き出されるのは言葉の刃に他ならない。

「まさか、アタシが、てめぇらを見失うなんて、幸運を期待してたのか? わざと逃がして巣穴を探し出したに決まってンだろがァ」

 舌なめずりするヴィネの視線は、獲物を前にマテをさせられた獰猛な肉食獣のソレだった。

「ンでェ? どいつから来るンだ? 雪鬼の餓鬼か? 娼婦の真似事してる女狐か? それとも野良犬の頭目か? アタシはどいつでも良いンだぜ? 冥府の女神に拝謁したい奴から、掛かって来いよォ!?」

 ククク……と、低く笑うヴィネは、既に臨戦態勢だった。腰だめに構え、手は細身の曲刀にかけている。狙われた三人は、動けなかった。動けば死ぬ。それが、何よりも明確に分かったからだ。

 僅かな物音ひとつでも立てたら、即座に首が胴から離れる。

「待ちなさい。殺したら約束が違うでしょう?」

 猛獣の如きヴィネを止めたのは、さらに後ろからやってきたソフィアだった。

「……ふ~ん、ここが貴女方、犬の巣穴というわけね」

 周囲を見渡すと、ため息交じりに近くの箱に腰かける。彼女の周囲を固めるのは、自由への飛翔(エルクス)赫月(レッドムーン)の選り抜きの戦士だった。

「……貴様っ、エルクスのソフィアか」

 百の罵詈雑言を飲み込み、憎々しげに呟いたのは、犬の頭目と罵られたザフィーユだった。過去の因縁を思い浮かべ、叫びだしそうなのを必死に耐えていた。

「ンだよ、やらねえのか」

 舌打ちとともに吐き捨てると、ヴィネは臨戦態勢を解く。たとえ、そうしたとしても、どうとでも対処できるからという自信からだった。

 不遜な自信と言えるだけの者は、その場には誰もいなかった。

「……話を戻すけれど」

 鋭い視線は、それこそ人を殺す冷たさを持っていた。

猟犬(イェールフルト)のザフィーユ。東部十三武家の影働きをする一族の末裔。最盛期には千を超える構成員を抱えたその組織も、打ち続く動乱に数を減らし、主家と仰ぐ東部十三武家も悉くが没落。今は一族を放浪の民として逃がし、僅かに十数人の実働部隊とともに、叛乱軍に与して影働き。どう、あっている?」

 ソフィアの口から、言葉紡がれるたびザフィーユの顔色が蒼白に変わっていく。

「ああ、逃がしたんじゃないわね。娼婦や大道芸人として情報収集ってところかしら。良い目の付け所ね」

「……どこで、それを」

 呆然と呟くザフィーユの声に、至極当然のことのようにソフィアが答える。

「この大陸を支配しているのは、アルロデナ。そしてアルロデナの諜報を担うのは、エルクスよ。あまり舐めないで貰いたいわね」

 ため息交じりに、ソフィアがつけたす。

「それと、国家反逆罪は、死刑よ。実働の有無にかかわらず、情報を渡した者も、ほう助で罪に問われる。当然ながらね。言っておくけど、情状酌量は期待しない方が良い」

 視線を向けるのはティマ。

「っ!」

 ソフィアの視線の鋭さに、ティマが悲鳴をかみ殺して一歩後ろに下がる。それを庇うように前に出るザフィーユ。

「そこまで、わかっていて、私達に何の用だ!?」

「……ギ・グー・ベルベナ、ジョシュア・アーシュレイド、ユアン・エル・ファーランあとはそうね……ギ・ゴー・アマツキの居場所をこちらに流しなさい」

 無視できないユアンの名前に、ザフィーユが口を開いて反論する。

「主家を売るなど!」

「貴女、諜報員としては二流ね。私は相談しているんじゃないの。命令しているのよ」

 ソフィアが手を挙げると、廃墟のそこかしこから、乾いた音が響く。

「……っ!?」

 驚愕に左右を見渡すザフィーユの表情を確かめて、ソフィアが口を開く。ザフィーユの視線に映ったのは、仲間に持たせていた武器が無造作に投げ捨てられていたのだ。

「この周辺は、制圧させてもらったわ。言ったわね? エルクスを舐めないで。貴女の返答で、今捕らえている全員をこの場で殺す」

 息を呑むザフィーユの顎から、緊張のために汗が滴り落ちる。

「……動かないでね。雪鬼(ユグシバ)御子(ぼっちゃん)。これは、貴方にも利益のある話よ。貴方の目的剣王ギ・ゴー・アマツキの居場所、正確なその位置が掴めるわ」

 あまりの一方的なやり取りに、僅かに動いた心の内を読み取られ、ユーゴは機先を制せられる。

「ヴィネ」

「なンだよ。動いてもいいンだぜ?」

 ソフィアのくぎを刺す一言に、嘲笑を顔に貼り付けヴィネは、なおもユーゴを見据えて離さない。獲物を狙う猛獣の凄みをもって口元を笑みの形に歪めているが、目は冷徹なまでに冷たく見据え、そのその隙を狙っている。

 底冷えのするその視線は、まるで魔眼のようにユーゴの動きを縛る。

「……わかった」

 いかなる葛藤の末か、ザフィーユの返答は簡潔なものだった。

「良い返事が聞けて嬉しいわ」

 それだけ確認すると、ソフィアは暗い路地裏へ消えていく。先の見えぬ暗闇こそが、自らの居場所だと言わんばかりの背中を見送って、その背に続いてヴィネも嘲笑を残して後を追う。

 どこまでも続く夜の闇が、彼らの間に沈黙を強いていた。

切りの良い所まで書けたので更新します。明日も更新予定です。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 更新ありがとうございます。 ヴィネが出てくると血生臭くていいですね。 [気になる点] 誤字報告 〉吐息のかかる距離にその死神の気配を感じて、【ヴィネ】は驚愕に言葉を失った。 →ユーゴ
[一言] 待ってました。 継承者戦争、いろんな因縁が絡まり合っての総決算という感じですね。 明日も更新とのことで続きに期待しています。
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