剣に誓い
天冥会戦の火蓋を切って落としたのは、ギ・ズー・ルオだった。燃えるような突撃に始まり、騎馬兵による敵の分断作戦が功を奏し、左翼は混戦。右翼は戦術機動による黒き太陽の王国の優位の内に戦況は動いていく。
敵味方合わせて約25万の人間が前代未聞の大戦の熱狂の中にいるその中にあって、冷静に戦場を観察する存在がいた。
「……」
鷹のような鋭い視線と、鍛え上げられた痩身。腰に差した曲刀は鍛工の小人が打った名刀である。彼の後ろに居並ぶのは、いずれも年若く燃えるような気焔を内に秘めたる剣士達。混沌の子鬼も、火神の子も、珍しいところでは森と水の神の子供達ですら、種族の区別なくギ・ゴーの強さに魅せられ私淑する者達が集まった部隊である。
ガイドガ氏族亡き今、アルロデナで最も攻撃力が高いと評価されるギ・ゴー・アマツキの剣士隊。
「ギ・ゴー殿」
「……ああ、少し昔を振り返っていた。この剣を、我が王に捧げたときのことだ」
「はい……」
彼の後ろに侍るのは、背中に担ぎ上げた大曲刀も禍々しい鬼面の娘。白銀の髪を背中まで伸ばした若き雪鬼の女族長ユースティア。類稀なその美貌を鬼面で隠し、戦場の死神となって剣聖ギ・ゴー・アマツキの後ろに控える。
人体の急所だけを守る革の鎧と布地だけの軽装で戦場に臨む彼女らは、命の危険を顧みず、敵の喉首を掻き切るまさに一振りの刃である。
「……狙いは、異様な力を持った者ども」
ギ・ゴー・アマツキの視線の先に、疾風の剣を振るう少女の姿。
「あの姿形に惑わされるなよ。あれは、化け物の類だ」
「承知しました」
新緑色の髪を振り乱し、大陸を制覇してきた同族を葬り去るその姿は、荒ぶる風の渦。己の射程に入るもの全てを切り裂かずにはおかない風の首狩り鎌だ。
だが、なればこそ、己の相手に相応しいとアルロデナ第一の剣士は嗤った。
地を蹴る足をの裏に大地の堅さを確かめ、ギ・ゴーは跳ぶように大地を走る。抜き放たれた曲刀の煌めきを背に隠し、風の渦に向かってひた走る。
進路上の敵を避け、あるいは切り倒し、徐々に近づく死の間合い。だが、速度を緩めることなく真正面からギ・ゴーはその間合いへ足を踏み入れ、剣を突き出す。
火花が散って弾き飛ばされたのはお互いにだった。
今まで縦横無尽にゴブリンの首を刎ねていた緑髪の少女は、感情を伺わせぬ無表情。ただ少しだけ目を細めてギ・ゴーを見据える。対するギ・ゴーもまた少女を見据える。その一挙手一動作を、わずかな隙も見逃すまいと、だがそれでいて少女の全景を捉えるようにぼんやりと。
じりじりと詰めた間合いの分だけ、二人の間に積み重なる圧力が周囲を圧する。強者の持つ威圧は、対峙するだけで弱い相手の消耗を誘うものだが、勇者より啓示を受けた聖人が、弱いはずがなかった。
握る柄の握りを確かめるように、あくまで柔らかく。
遠雷の如き声は、空蛇ガウェインのもの。天を覆う黒雲と率いる龍達の主にして、冥府の女神の眷属神。箱舟の火砲は地面を向き、放たれたそれが大地を削り、砂粒が風に乗って二人の間の吹き抜ける。わずかに視界を曇らせるその中を影すら置き去りにして、ギ・ゴーは踏み込んだ。
一閃。
銀の閃光が肩から腹へと袈裟掛けに振り下ろされ、その最中に火花を散らして弾かれる。首狩りの風が突き出す長剣は、ギ・ゴーの速度を超越していた。
瞬時に剣の軌道を修正。さらに一閃を加える。
またしても弾かれる刃の感触。
鋼鉄の塊を弾かれるほどに全力で振るって、尚その剣は刃毀れを起こさない。剣神の加護の元、絶人の域までに至った剣の求道者のなし得る業である。だが、それにも比して緑髪の少女の剣もまた健在を示す。
武器と魔法の神の作り給いし神の剣。超硬度を持つ神鉄と、無類の切れ味、そして持つものの俊敏性をあげる風斬りの剣。魔性とも呼ばれるその切れ味の鋭さは、斬られたゴブリン達の顔が痛みに歪むのではなく、不思議なことが起きたかのように驚いていることに見いだされる。
弾かれる度に軌道を修正した剣の激突が3度を数えたとき、どちらともなくその距離を離す。互いに相手の力量を探りながら、打ち合う剣戟は高速の応酬。
時間をかけるほどに命の危険も伴うその応酬に、見切りをつけたのはどちらだったのか。そしてどちらがより確かな目の持ち主なのか。結果を出す時が近づいていた。
「ギ・ゴー・アマツキ参る!」
「……」
中段からやや下に剣先を下ろして構えるギ・ゴー。対して少女は片手で風斬りの剣のをだらりと構える。
踏み出す速度は神速に迫り、繰り出す剣は神風を纏う。
突進の勢いのままに繰り出された突きは、少女の喉元を狙った最短の軌道を描き、それを凌駕する少女の剣速でもって左へ弾き飛ばされる。だが、そこからの変化は少女の予想外のもの、一度弾かれた突きの姿勢のまま、ギ・ゴーは地面を踏み抜く勢いで力任せに急停止。
手首を返して弾かれる衝撃を最低限に抑え、そこから変化を加えて首を薙ぐ。
細く可憐な首筋に銀線が奔る。落ちる首と、続いて吹き出す血飛沫を躱すように、再びギ・ゴーは走り出す。
狙うは次なる獲物。
ギ・グー・ベルベナ率いる斧と剣の軍の正面で、氷刃を振るう女がフェルドゥークの攻勢を粉砕していた。
狂信者ユーディット。聖騎士にして、勇者の啓示を受けた聖人。二刀一対の剣を扱う流水と氷結の魔女である。その狂信者とギ・グーとの戦いは既に始まっていた。そして当然のことながら、ギ・グーの分は悪い。彼は統率に関しては、ゴブリンの王に次ぎ、アルロデナの中でも突出しているが、個人の武勇という点に関しては、いささか劣る。
それを補うための連携が、聖人と化したユーディットの流水と氷結に粉砕されていくのだ。一騎打ちなどではない。ギ・グーはユーディットと戦いながらもフェルドゥークの攻勢の指揮を執っていたし、それなくばどこかでフェルドゥークの攻勢は頓挫していただろう。
咆哮とともに駆け寄ったギ・グー。その存在に視線だけを向けて、ユーディットは僅かに口元に笑みを浮かべた。だが、それが声音に乗ることはなく、吐き出されるのは絶対零度の怜悧な声だ。
「流れよ湖水!」
一連の動作によって、大地へ染み込む流水。
「氷柱よ、穿て!」
地面から突き出される氷槍の数は4つ。ほとんど同時に突き出た氷槍をくぐり抜け、更には手にした斧で叩き折り、ギ・グーは進む。背後で氷槍の餌食となったゴブリンの悲鳴が聞こえるがこの際は無視するしかない。
「氷弾よ、穿て!」
敵まで後10歩と迫ったギ・グーに対して、ユーディットは流水の剣から湧き出る水を、今度は空中にばらまく。即座に氷結の剣を振るって空中に氷弾を作り出す。
空中に漂う氷弾が、猟犬の如くにギ・グーに襲い掛かる。手にした斧と長剣で足を止めずにそれを弾くが、それは広範囲に向けての散弾である。まるで舞を踊るように彼女が腕を振るった一瞬の後に氷弾が死を誘う弾丸となって空中を走る。
ギ・グーは避けた。恐ろしいほどの反射神経であるが、それはギ・グーが高位のゴブリンであるからこそだった。彼の周囲にいたゴブリンは少なくない被害を受けて、その勢いを止められる。
その様子を見たユーディットは僅かに笑みを浮かべて悠然と流水と氷結の剣を構えた。
「……来い」
怒声を上げて迫るギ・グーに向けてユーディットは呟く。
「氷刃!」
空中を奔る水の斬撃が、急激な温度の低下により氷の刃となってギ・グーに襲いかかる。それすら斧で叩き割って進むギ・グーが、ついにユーディットに切りかかろうとした瞬間。首筋に走る怖気を感じて、咄嗟にその場から飛び退く。
突き出たのは氷槍。
先ほど地面から突き出たはずのそれが、時間差でギ・グーを襲ったのだ。
「ぐっ……あっ!」
悲鳴をかみ殺すギ・グーの方に突き刺さった氷の槍。骨を掠め肉を削ぎ皮を貫くその槍は、ギ・グーの片腕を奪った。動かぬ腕を、苦痛の中で睨み付けると、氷の槍を叩き折る。それだけで苦痛に脂汗が流れるが、ギ・グーはなおも戦意を失わない。
だが、体は彼の戦意を裏切る。
吠えるギ・グーの足元は痛みに揺れ、その隙を見逃す狂信者ではない。
「氷刃!」
氷の刃が、幾重にも重なりギ・グーに襲い掛かる。
免れぬ死が、今まさにギ・グーを捉えようとしたとき、疾風の如き勢い以て氷刃の只中に身を躍らせたるは剣聖ギ・ゴー。
「ここは、引き受けた。貴様は王を追え!」
「ぬ……わかった!」
駆け出すギ・グーに視線を流し、再び氷刃を放とうととしたユーディットに、ギ・ゴーの曲刀が迫る。放たれようとする氷刃が出来上がる前に、ギ・ゴーの剣が迫る。
氷の美貌に薄く笑みを浮かべながら、ユーディットは後ずさる。それほどにギ・ゴーの突進の勢いはすさまじく、また彼の振るう剣筋は鋭かった。
ギ・グーを殺すはずだった氷刃は、全て断ち切られ、ギ・ゴー自身はまったくの無傷。
立ち塞がる剣の申し子を目の前にして、もはやユーディットにギ・グーを追うだけの余裕はなかった。
「ギ・ゴー・アマツキ……推して参る」
「ユーディット・ファルネ……受けて立つ」
聖騎士としての矜持か、剣を嗜む者の心が残っていたのか、名乗るギ・ゴーに、ユーディットは視線を外さず名乗り返す。
じりりと、慎重に間合いを詰めるギ・ゴーに対して、狂信者ユーディットは、流水の剣を頭上に掲げる。
「流れよ湖水!」
振り下ろすと同時に、唱えられたのは、生み出される流水。
「氷槍よ、穿て!」
天に振り撒かれしは、凍結の雲。その雲を通り抜ける度、生み出された流水は、氷の槍となってギ・ゴーを襲う。そして二刀一対の剣をまるで舞い踊るように──否、ユーディットは舞っていた。人類発祥の地たる東方に伝えられし、剣舞。
生まれては放たれ、放たれ生まれるのは氷槍の乱舞。
打ち払うには数が多く、そして何よりも一槍ごとが重い。
「だが、斬れぬことはない」
迫りくる槍の雨を、自身にあたるものだけ確実に切り裂くギ・ゴーだったが、足は止まる。
一時の膠着状態に陥った彼らのそばでは、ユースティア率いる剣士隊が、ユースティアの近くの部隊に斬り込みをかけていた。
自身の身長ほどもある大曲刀を軽々と担ぎ上げて敵の放つ槍を躱すと、間髪入れずにその体に一撃を叩き込む。鬼面を返り血で濡らし、次なる敵を求めてさらなる一撃を以て敵の体を両断する。
同様の光景は、ユースティアの周囲各所で起きていた。
ギ・ゴーが聖人化した敵を抑えることによって、一時的に止まる敵の勢いを的確にとらえてユースティア達が斬り込みをかける。アルロデナで同数なら最も攻撃力に優れる、と言われるギ・ゴーの剣士隊の実質的な指揮官は、副官たるユースティアであった。
だが彼女と言わず、その部隊にいる彼ら全員が心酔しているのは、偽りなくギ・ゴー・アマツキである。誰も足を踏み入れたことのない領域へ登る孤高の登山家のように、あるいは広大な荒野に一人で立ち向かう古の祈祷師のように、ギ・ゴー・アマツキというゴブリンは、剣の道という頂きの最も高きに挑み続けているのだ。
その核心たる彼がいるからこそ、彼らは幾千の刃が振るわれる戦場の只中へも恐れず進んでいけた。
ギ・ゴーが一騎当千たる将を抑えその周囲をユースティアが制圧する。その連携あってこそ、ギ・ゴーの剣士隊の攻撃力が発揮される。そのユースティア達の視線の先で、ギ・ゴーと敵将ユーディットの膠着状態が崩れようとしていた。
迫りくる氷槍の群れを、徐々にギ・ゴーが上回り始めたのだ。
今までの戦歴から、放たれる槍からの変化を警戒していたギ・ゴーだったが、それがないと判断するや、紙一重で降り注ぐ槍の群れを躱すことに専念し、徐々にユーディットに迫る。
これに驚愕したのは、ユーディットだったが、剣舞をやめれば即座に迫ってくるのは目に見えていた。剣が届かない距離での打ち合いこそ、魔法剣士たるユーディットの領分である。ギ・ゴーにそこまでの長距離での攻撃はない。
ゆえに、どうしてもその間合いを侵蝕し己の得物の届く距離でギ・ゴーは戦わねばならなかった。己の得物が届かない以上躱すか、下がるかしか手段はない。だから、ギ・ゴーは躱しながら前に出る。
通り過ぎた氷槍が、指一本分だけ離れて通り過ぎる。己の目に絶対の自信を持っているからこそ、できる芸当であった。徐々に狭まる距離は心理的な圧迫をユーディットに与え、徐々にその精度を低下させていく。
距離が近くなれば、当然当たる確率も上昇する。
ユーディットにすれば狙う面積は広く、大きくなるのだから当然だ。だが、それでも当たらない。ほとんど事前に放たれる場所が分かっているのではないかと疑う確度で、ギ・ゴーは槍を避け続け、そしてようやく間合いが、至近へといたる。
振り切られるギ・ゴーの剣先に、ユーディットの流水の剣。
溢れ出る流水が、ギ・ゴーの剣先から刀身を伝う。
「まだ、氷柱の剣舞は終わらない」
ギ・ゴーの剣を受け止める流水の剣と、弾く氷結の剣。瞬時の間になされたそれは、ギ・ゴーの剣を凍らせていた。
刀身にこびり付く氷は切れ味を鈍らせ、鋭利な剣としての性能を封じる。
僅かに距離を取る。一瞬だけそれに驚いたギ・ゴーだったが、すぐさまそのまま剣を構えなおす。
「次に、氷結の剣に触れられれば、お前の剣は折れるだろう」
薄く微笑を浮かべたユーディットの宣言通り、剣神の加護を以て破損しないはずの剣だったが、それを上書きする何かがあれば、別である。ましてや相手は世界を支配する神々の先兵たる聖人。
「……」
ギ・ゴーは一瞬目を細めて、無言のままにユーディットに向き合う。口にせずとも、ありありと不愉快さは見て取れた。
再びじりりと間合いを詰めるのは、ギ・ゴーである。
プエルの開戦の嚆矢は、ギ・ゴーの耳にも届いている。
何があろうと、最後の一兵に至るまで攻め続ける。その気概なくして、どうして大陸が制覇できようか。ギ・ゴーもその意見に同意していた。
何よりも攻めることこそ、勝利への道だ。
たとえ、剣の切れ味が封じられたとて、その程度がどうして勝利を妨げることになるか。
僅かに詰めた間合いから、一足一刀の間合いの中へ身を躍らせる。水平に振り切られる流水の下をくぐり抜け、ユーディットのわきの下を潜り抜けるような形で、背後に回り込む一瞬。
振り返る体の回転を利用して、彼女の後頭部に凍ったままの曲刀を叩きつける。
防ぐこともままならず、ユーディットの頭蓋骨は陥没し、彼女の意識はそこで途切れた。
ユーディットの死とともに、ギ・ゴーの剣にまとわりついていた氷も解かれ、曲刀は元に戻っていた。
「……これでは剣士失格だな」
愚痴めいたものを残して、ギ・ゴーは次なる戦場を目指す。
「ギ・ゴー殿、あれを」
ギ・ゴーの視線の先に移るのは、天地を割く戦場の光景。ゴブリンの王が向かった先だった。
「……あそこに向かう」
細めた視線の先、ギ・ゴーは決戦後に向けて走り始め、それを追ってユースティアらもまた走り出した。
●●○
その光景を見たとき、ギ・ゴーは王と神との戦いに、参戦することを諦めた。
「……」
ゴブリンの王の存在は、全ゴブリンにとってかけがえの無いものである。己の死を賭した戦場であればこそ、その思いは強くなる。だがその戦いにかける王の思いの重さは、彼をして一騎打ちの邪魔に入るのを躊躇わせた。
文字通り、王は瀕死である。
聖人を殺し、龍とすら一戦を望めるギ・ゴーをもってさえすれば、その戦いに介入できなくはない。だが、ギ・ゴーにはできなかった。
宿敵とは、己の前に強大に立ちはだかるものだ。だが、それを己の手で乗り越えねば、ならない。そうでなければ、己は己でなくなる。その感覚を、ギ・ゴーはよく覚えている。
ゲルミオン王国の聖騎士ゴーウェン・ラニード。
かつても今も、ギ・ゴーの中で輝きを失わないその重さ。
「……王よ」
嫌な汗が握りしめた曲刀の柄に滲む。
「ギ・ゴー殿後ろから」
あるいは、王はここで死ぬかもしれぬという想像がギ・ゴーの脳裏を駆け巡る。あってはならないその想像に、だがギ・ゴーは一度頭を振るだけで考えを切り替える。王と刃を交えたときに、その煩悶は既に乗り越えているはずだった。
ギ・ゴーがユースティアの声に従って後ろを振り返れば、聖騎士の3番隊その姿。そしてその先頭には、ゴーウェンの忘れ形見の姿がある。
「邪魔をするな、ということなのか……」
激闘を繰り広げる神と王の姿に背を向け、ギ・ゴーは奥歯を噛みしめる。
「我が、王よ! 御身に武運長久こそあれ!」
ユースティアに視線を転じれば、彼女は黙ってうなずき、号令を下す
「我らが王の元に敵を行かせるな!」
ギ・ゴーが走り出すのに合わせて、ギ・ゴーの剣士隊もまた駆け出す。
「貴様ぁぁあああ!!」
繰り出される槍先の鋭さは、ギ・ゴーの予想以上のもの。聖人化したとはいえ、その意志に飲み込まれるわけでもなくユアン・エル・ファーランは、短槍を振るってギ・ゴーの前に立つ。
「忘れぬぞ、ゴブリン! ゴーウェン様の仇!」
如何なる辛酸を舐めたのか、その相貌は獣の如く。繰り出す槍の一撃は、獣の速度に申し分ない。だが、その程度でギ・ゴーは止まらない。獣の速度程度では、ギ・ゴーが止まるはずもない。
「ヌウウァアアアア!」
しかし、そこに円熟の技巧が乗る。
躱されたと同時に瞬時に引き戻される短槍。そして繰り出される再びの、刺突。絶妙の機、熟練した戦士にしか測り得ない間。突出した力ではなく、その技巧によってユアンは、わずかにギ・ゴーの剣を防ぐ。それに加え、その技巧に乗るのは裂帛の気合である。
ユアンにとってギ・ゴーは、まさに不倶戴天の敵である。
恩師たるゴーウェンを殺され、さんざんに敗残の味を舐めさせられたアルロデナの将帥の一人。どちらの陣営が勝利しても、これ以上の機会は巡ってこないだろうと思われるその中で出会ったのだ。
総勢25万もの両軍が殺し合いをする、その只中でである。
「絶対に逃がさん!」
槍先を下段に、わずかに間合いを詰めたのはユアン。繰り出される刺突は、まるで蛇の一咬み。ゆっくりとした動きから突如として咬みつくように一撃を加えるのは、駆け引きを知らない剣士ばかりを葬って来たギ・ゴーをして、油断ならない使い手と認識させるに至る。
だが、二人のその動きを知ってか知らずか、王と神との戦いは最終局面を迎えようとしていた。
そしてさらに彼らの周りでも状況は動く。
ユースティアに率いられた剣士隊が、3番隊へ切り込みをかけたのだ。狙うは、その指揮官アリエノールの首。縦横無尽に大曲刀を振り回し、敵を一刀両断で血の海へ鎮めるユースティアの視線の先に、ついに指揮官の姿を捉える。
ギ・ゴーと間合いを詰めながらも、ユアンは周囲の状況を察知していた。それが、前線指揮官としての類稀な有能さであるのか、勇者の権能の一つなのかは別としても、彼は決断を迫られてしまう。
ギ・ゴーに背を向け、アリエノールを助けるか。
亡きゴーウェンの仇討ちを優先させるか。
ギ・ゴーにしても、ユアンという油断ならない敵を前にして背後の状況が気になる。王は、どうなったのか。本来ならば今すぐ、この戦いを切り上げて、王の御身を助けるのが自身の役割ではないのか。
互いに迷いの中にいながらも、先に結論を出したのはユアンだった。
「おのれ、おのれおのれおのれええぇ!!」
槍を構えながらも、護身用に装備していた短剣を、ギ・ゴーに投げつけると即座に身をひるがえす。ギ・ゴーの追撃を封じるための策だが、本来ならばそれでもギ・ゴーに通じるはずもない。だが、追撃を覚悟したユアンだったがそれは来なかった。
ギ・ゴーの方も、鳴りを潜める神と王との戦いに気が気でなかったためだ。
そしてギ・ゴーの足は、自然とそこに向かう。
大地に大剣を突き立て、愛する女を見守る王の姿。そして、崩れ落ち、風に塵と消える王の腕を見た瞬間、ギ・ゴーは地面に胡坐をかいて座り込んでしまう。
この瞬間、彼にとっての天冥会戦は終わったと言って良い。
腰から抜いた鞘に曲刀を納め、大地に突き立て、ギ・ゴーは長らく地面を見つめていた。崩れゆく己の主の姿など、視界に入れればその場で喚きだすだろうことが、自分でもわかったからだ。
敗北である。
ギ・ゴーは少なくともそう思った。あるいは、その瞬間なら、ユアンがギ・ゴーを討ち取れる可能性があった。いや、ユアンだけでなく一兵卒だろうと、大陸屈指の剣士の首を落とすことが可能だった。だが、ユアンは結局アリエノールを守る為に、ギ・ゴーの前から離れ、それどころではない。
己の心に負けて以来、二度目の敗北。
主を守れずして、何のための剣。敗北を切り裂けぬ剣など、何の意味があるのか。
ギ・ゴーは深い敗北感に打ちのめされていた。
どのくらいそうしていただろう。遠く、勝ち鬨を上げる声が聞こえる。
「……ギ・ゴー殿」
「ユースティアか」
「申し訳ございません。最後の敵は逃してしまいました」
「そうか」
「勝敗は……?」
「……負けた。それ以外、言いようもあるまい」
ユースティアの視線の先には、既に傷ついた大剣が大地に突き刺さるのみ。あるべき存在は、すでにそこにはなかった。
「では、この敗北をどう償われるのですか?」
「敗北を、償う?」
ギ・ゴーは目を見開いたまま、地面を凝視していた。次第に歪んでいく地面に、己の命もここで尽きるのかと自嘲する。だから、その質問は、ギ・ゴーにとって予想外のもの。
「はい」
王に捧げたはずの剣。
誓いを守れぬといって死ぬのは簡単だ。
「はははは……確かに、償わねばならん。俺は、この俺の……くっ」
膝に当てていた手で、顔を覆う。
地面に座り込みギ・ゴーの震える肩を見ていたユースティアは、そっとその肩を抱いた。
「……俺は、またしても間違えたのか……?」
涙にぬれるギ・ゴーの問いに、答えてくれるものはおらず、混沌の子鬼一の剣士は、その後ユースティアだけを伴につれ旅に出ることになる。
自身の敗北、それを償う旅に。
生涯をかけることになるその旅は、歴史に残らぬものであった。だが、それは確かに大陸各地に足跡を残す。ギ・ゴー・アマツキがその答えを見つけるのには、長い年月がかかった。