眠れぬ夜は羊を数えて
不覚だった。という表現が一番適している気がする。今更私は、自分を弁護してやるつもりなどない。自分以上に、責めるべき対象も見つからない。
ずっと、静かにひっそりとそこにいたのは夏樹の方だった。夏樹の中の私が消えうせようとも、私はしつこく私の中に彼を留まらせていた。彼を疎ましいと思いながらも、私は私を好きな彼を手放すつもりなどなかったのだ。
たとえ自分勝手に彼をひどく傷つけ、そこに居てくれた彼の場所を奪い、そ知らぬ顔で私の隣に別の男を座らせたとしても。それでも愚かな私は、彼は結局いつでも私を思い続けるだろうと疑うこともしなかった。
私はずっと、夏樹を好きだった。
「どうして、急にそんなこと?」
いきなり核心をついてきた彼に精一杯の冷静を装ったつもりの声は震えていて、見えないように隠して握った手はこの蒸し暑さの中冷たくなっていた。
「本当は最初からそんな気がしてた」
横目で私をチラリと見ると、彼は遠くの空を見ていた無表情な目を私に向けた。夏樹と同じ顔で、夏樹とは違う目に醜い私が隠されることもなく写っていた。
私はとてもよく似た彼等をもう間違えることは出来ない。私は知っている。夏樹はそんな目で私を見ない。夏樹の目には醜い私の姿など、けして写されない。
「言わない方がいい気もしたんだ。だけど長谷川さん苦しそうだし。俺と居ても、夏樹の代わりにはならない」
ハッとした。彼は全部知っているような気がした。
全部知った上で何も知らぬフリをしていてくれていたのかもしれない。それだけの言葉に私は彼から目が離せなくなった。彼の目には相変わらず醜い顔の私が写る。
冬路君の目は私に何か訴えかけるでもなく、私を非難するでもなくただただその漆黒の瞳に私の姿を写し続けた。
「……私、今彼氏がいるのよ?今更、『やっぱり、好きでした』なんて、言えると思う?」
「それを決めるのは長谷川さんだ。好きなようにすればいい」
彼はそれだけ言うと、席を立ち屋上を後にした。空は雲ひとつない快晴で、見上げると気だるい暑さが体にまとわりついた。
「なんか、久々かもな。こうやって会うの」
健康的に日焼けした海斗の向かいで、私は静かに目の前に置かれたアイスティーの氷の音を聞いていた。白いミルクと混ざってキレイに透き通った茶色がだんだんとまだらなマーブルになり、やがて白が茶色の中に溶けていき、ミルクティーが出来る。
「海斗、今日は謝らなきゃいけない事があるの」
「愛美、何か俺にした?」
不思議そうな顔をしながら海斗は手にしていたグラスの水をいっきに喉を鳴らして飲み干した。店の窓からは何組ものカップルが楽しくうでを組んで歩く姿が見える。
「……私、海斗の他に好きな人が居る。本当は海斗と会う前から、その人が好きだった!」
ミルクティーの付けた水滴の跡を見つめながら私は海斗に向かっていっきに全てを打ち明けた。体が震えていた。私は夏樹だけじゃ飽き足らず、海斗までもを傷つけた。
「来週の日曜暇?映画の割引券もらったから見に行こう。俺見たいやつあってさ」
頭を下げて、震えと涙を必死に耐える私に降ってきた意外な言葉に思わず顔を上げて海斗を見た。
目の前の海斗は特別変わった様子も無く、楽しそうに私の前に券をヒラヒラとちらつかせて見せた。まるで、私と海斗は同じ場所にいながら全く別の時間軸にでもいるように。
けれど、私と海斗は今ここで話していた。
「……私、好きな人がいるの。だからもう、海斗とは付き合えない」
もう一度伝えた言葉に海斗はニッコリと頷いた。
「だから、来週映画付き合ってよ。それとも、友達としても俺とはもう会いたくない?」
海斗の言葉に私は激しく首を横に振った。
「よし。じゃあ決まり♪」
嬉しそうに微笑む海斗に私は混乱していた。何故海斗は、微笑んでいられるのか。
何故、こんな残酷で自分勝手な私を誘うのか。私の視線に気づいたように海斗が再びニッコリと微笑んだ。
「俺と愛美は、今終わった。何も無くなった。だったらその後俺が愛美を好きになるのは俺の自由だし。何も無いなら、また最初から作ればいいだろう?」
海斗の笑顔に、涙腺が緩んで涙が溢れた。別れ話にも取り乱すことなく冷静だった海斗がようやく大慌てで訳も分からず「ごめんごめん」と何度も謝罪の言葉を述べながら私を慰めようと必死だった。
優しい海斗に甘えながら、私はこの涙が止まったら、海斗に「ごめんなさい」と「ありがとう」のどちらを先に伝えようか少し悩んだ。どちらも何度言っても言い足りない。
しきりに私を心配する海斗に「大丈夫だから」と何度も言い聞かせた帰り道、薄暗くなった道を歩きながら大きく深呼吸して震える指で携帯を操作して通話ボタンを押した。再び不安に高鳴る心臓を押さえて携帯を握る手に力を込める。プルルという音の後に慣れ親しんだ声が聞こえた。
「もしもし?」
「…夏樹?急にごめんね」
「愛美かぁ。どうした?なんか元気無い」
声だけで、夏樹はそんなことまで分かってくれる。幸せな瞬間をそっと滲み出てきた涙と一緒に噛み締めた。
「何でも無い。あのさ…私達、ずっと友達だよね?」
「何当たり前なこと言ってんだよ」
声を聞いただけで、彼の優しい笑顔を思い浮かべることが出来る。そのくらい、優しい人だった。大好きな人だから。
「ごめんね急に。ありがとう」
私は夏樹が好きだ。だけど、もう言わない。私の気持ちで、夏樹を押しつぶしてしまわないように。前を向き始めた夏樹に、私のわがままで後ろを向かせちゃいけないから。
だからしばらくはあなたを思って眠りに付く。羊を数えるうちにまぶたが重くなれたらきっと、あなたと本当の友達になれる。
「急にどうしたんだよ?変な奴だなぁ」
「なーんでもないの♪じゃあ、また明日ね」
受話器の向こうで戸惑った表情をする夏樹が容易に想像出来て、涙を流しながら笑って電話を切った。両手が空いても私は一人子供みたいに顔を拭こうともせずに泣きながら歩いた。涼しい夜風がそっと優しく熱くなった体を冷やしてくれた。
最後まで読んで頂きありがとうございました。