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至福の味

 私は小さな頃から虐げられて生きてきた。父親には殴られ蹴られ、幼い私のいくつかの骨は砕け、その暴力のせいで耳が少し遠くなってしまった。母親は私にまともな食事を与えてくれず、生ごみや地下室で死んでいたネズミぐらいしか与えてもらえなかった。私がそれらを残すと、母親はそのとき手に持っていた物で私を殴りつけた。


 周囲に住んでいた人間達からも同じような仕打ちを受けた。唾や汚水をかけられ、石やビンを投げつけられた。同年代の子供たちは私を中心に輪を作り、代わる代わる私を殴った。私がそれに耐え切れなくなり地面に倒れると、彼らは私に小便をひっかけるのだ。そして両親も周囲の人間も私の事を悪魔と呼んだ。


 悪魔、怪物、化け物と私は呼ばれ続けた。確かに他の人たちとは耳の形も違うし、瞳と白目の色が逆かもしれない。紫の血管に緑の血かもしれない。だが、それの何がいけないというのだ。


 私に救いの手を差し伸べてくれる者などいなかった。毎日毎日、地獄のような日々が続き、つらく悲しかった。しかし、私は決して死を選ばなかった。何故か? それはとても簡単なことで、他の人間たちが私の死を望んでいたからだ。だから私はどんなことがあろうとも生き続けた。私にとって生きるということは最大の抵抗であり、周囲の人間にとっては最大の苦痛なのだ。だがある日、私の抵抗に嫌気がさしたのか、奴らは私を完全に殺しに来た。私は逃げた。血まみれになりながらも必死に逃げた。その日から逃げるということが生きるということになった。


 逃亡生活をしているうちにかなりの年月が経った。そして逃亡生活の末に行き着いた場所、それは使い捨てられていた山小屋だった。森の中は美しく静かで、森に住む動物たちはたくましく生きていた。私は初めて安らぎというものを経験することができ、充実した生活を送っていた。さらに、私には幸福なことが続いた。天使と出会ったのだ。


 その天使はもちろん本物の天使ではなく、ふもとの湖に近い町に住む女性で、私とも年齢が近かった。初めて森で出会ったとき、私は驚きと共に落胆した。また逃げなければならないと思ったからである。だが彼女は優しく微笑み、ゆっくりと私に近づいてこう言った。


「綺麗な目をしているのね」


 そのとき私は、自分の心に湧いてくる初めての感情を覚えた。その出会いからというもの、彼女は私の山小屋へと遊びに来てくれた。読み書きのできない僕に文字を教えてくれ、料理も教えてくれた。僕もお返しにと、泳げない彼女に川で泳ぎ方を教えたり、木材で作った髪飾りなどを彼女に送った。そして僕は考えてしまった、彼女と共に暮らしていきたいと。


 優しく聡明な彼女にも両親がいるだろう。互いに、身の上話は一度もしていないので何とも言えぬが、彼女は私の事を家に招待してくれていない。両親には秘密にしておきたいのか、もしくは両親が秘密をしってしまい色々な意味で反対をされているのかもしれない。彼女の事を考えればこのまま静かに身を引いたほうが良いのかもしれない。だが彼女も私と同じ気持ちならば、彼女の両親と話し合いをして解決したい。もし、それでも許しを得られなかったら………


「あなたを私の家に招待したいんだけど…… どうかしら?」


 彼女は私の心を見透かしているかのようなタイミングで、僕を家に招待してくれた。素直に幸せを感じることが出来た。そして夕暮れ時、私は彼女の案内で森を抜けて静かな湖畔へとやってきた。そこには味わいのあるログハウスが私を出迎えてくれた。


「遠慮してないで中に入って」


 彼女の言葉や動き、全てが私の心を豊かさでいっぱいにしてくれる。幼かった頃の私にはとうてい想像もできなかったことが、いま目の前で起きている。私にとって抵抗策でしかなかった「生きる」というものは、完全に生まれ変わった。生きるとは、喜びを知ること。そして喜びを知るために、つらく悲しいことも経験しなくてはならない。


「そこのイスに座って待ってて。あなたのために腕を振るって料理を作ったんだから」


 相変わらず彼女は優しい笑顔で私に話しかけてくれる。だが一つ気になることがある。彼女の両親がいないのだ。私は思い違いをしていたのかもしれない。考えてみればそうだ。彼女は一人暮らしなのかもしれないし、両親は高齢でどこかの施設に住んでいるのかもしれないし、すでに亡くなっている可能性もある。


「お待たせ。いっぱい食べてね」


 サラダにパン、ビーフシチュー、カップケーキにレモネード。料理の名前を言えるのも彼女が教えてくれたおかげだ。それにしてもどうだ、見ただけで美味しいと分かってしまうほどの出来栄え。私の腹は太った蛙の鳴き声のようにグゥーっと鳴ってしまった。それを聞いた彼女は頬を少しだけ赤く染め、手で口元を隠しながらクスクスと笑いだした。私も一緒になって笑い出したが照れ隠しである。どうにか流れを変えようと、私はサラダを口にした。


「どう? おいしい?」


 野菜の上にドレッシングがかけられているだけとは思えない味がした。ドレッシングは柑橘類の香りがして、その香りがもう一口と私をせかす。だが私は次にパンを食べた。小麦の香りが口に広がり、自然の甘さがほのかに感じられた。そして私はビーフシチューに手を付けた。ニンジンなどの根野菜も美味しそうだが、やはり肉を一口目に選んだ。スプーンでほぐせるほど煮込まれた肉。口に入れた瞬間、何とも言えない幸福感が訪れた。何とも表現のしにくい味。だが素晴らしく美味い。


「そんなに嬉しそうな顔をしてくれるなんて、作った甲斐があったわ」


 その時だった。先ほど私が考えていた解決策の答えが急に頭の中に浮かんだ。もし、それでも許しを得られなかったら、子供の時と同じように、いつものように、殺してしまえばいい。それで全てが片付く。()っちまえばいい。


「大丈夫よ」


 突然、彼女はいつもの笑顔でそう言った。


「そんなことしなくても、あなたと私は二人で暮らしていけるわ」


「……何がだい?」


「今あなたが考えてたこと」


「……考えてたこと?」


「あなたが私の両親を殺す必要はないの」


「………どうして?」


「だって、お父さんとお母さんで作ったんだもの、そのビーフシチュー」


 私はもう一度、ビーフシチューの肉を口にした。先ほどと変わらず素晴らしく美味い味。噛めば噛むほど美味い。そして私はようやく気付くことが出来た。この味こそが至福の味なのだと。


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