エピローグ 向日葵の約束
七月最後の日曜日。
通い慣れた駅直結の文化ホールで行われるハニービーのコンサート。なんと今日は記念すべき二十周年や。
ハニービーもなかなか遠くへ来たなと、しみじみ思う。
去年はどうしても来られへんかった。だから今年はここに来るのがずっと楽しみやった。
身体が言うことを聞かなくなって、大好きな韓国料理も喉を通らへん。
家にはもうきっと、帰られへん。
今日は半年ぶりの外出や。
半年前は体調悪化を懸念して許可できないと言った主治医が、同じ口で行って来いと背中を押した。うちの残り時間は、悔いのないようにと医者が示すくらいの時間やということ。
全部、わかってる。
ハニービーを行うメインホールの前には人がぞくぞくと集まっている。人が多いから、うちの乗る車椅子が通るときはみんなが気を遣って避けてくれる。
救急車が道を通るときに、さっと道が開くようなもの。こういうのを見ると、世の中捨てたものやないと思う。受付に立つ夫婦がうちをハニービーに迎え入れてくれる。
「ようこそ、ハニービーへ」
「真紀さん、これをお渡しするのを忘れてますよ」
「あ、こちら二十周年の記念パンフレットをぜひご覧ください」
受付に立つ彼女は見覚えがあった。ハニービーのレギュラーメンバーや。本番前でも雑用に立つとは大変だろう。だが、良いサポーターの夫がいるようで微笑ましい光景やった。
「楽しんでいってくださいね」
人の良さそうな夫婦に見送られ受付を通り抜けると、うちの後ろから寛人の声が呼ぶ。
「母さん、今日は二十周年らしいから、特に人が多いね」
もう歩けないうちの車椅子を押すのは息子の寛人や。
「せやな。もう二十年かぁ……寛人、今年も向日葵の花束を送ってくれたんか?」
「うん、もうそれ聞くの十回目だけど。ちゃんと送ったよ」
「そうか。それ聞いて、すっとしたわ」
二十年間通い続けているハニービーに、うちは毎年匿名で向日葵の花束を送り続けてきた。うちが体調を崩してからは寛人が代わりに送ってくれるようになった。
うちに縁の深い向日葵を送って、いつしか向日葵の人と呼ばれる。
それがうちの浪漫や。
「向日葵の人って呼ばれたいんだよね。それももう何回も聞いた」
寛人は呆れたように言いながらも、それでこそ母さんだと笑いとばす。
「そんなに何回も言うたか?まあええわ。今日は恵ちゃんに会えるやろか」
恵ちゃんとの韓国料理ランチ会はいつが最後になってしまったか、もう思い出されへん。近頃顔を合わすのは、うちの病院に恵ちゃんがお見舞いに来てくれたときだけや。
「連絡しておいたから会えるよ。探して来るから母さんはここで待ってて。詩織も糸と一緒にもうすぐ来るから」
寛人は自動販売機の横のスペースに車椅子に乗ったうちを置いて、歩いて行った。二年前からどんどん体調が悪くなって、入院を繰り返した。
もうずっと寛人がうちの面倒をみてくれている。
しかしもう八十五歳も超えて、今さら怖いもんもない。
行きかう人波をぼんやり眺めていると、自動販売機に制服の男子高校生たちが飲み物を買いに来た。ラケットのケースを背負っている。身体は億劫だが、うちの耳はまだ健在な方や。二人の会話が自然と耳に入った。
「純也、セレンの最新曲、聞いた?」
「もうあれサイッコウだよね。結婚した幸せみたいなのが、どの音からもにじみ出ててるのにさ。絶対『好き』って単語使わないところ」
「執念感じた!」
「それ!僕も恋とかしてみたくなったよ。奏太はどの一途フレーズが好きだった?」
「さすが純也、話せる!俺はさ!」
しっかり日焼けした二人組の一人は背が大きくて、一人は小柄。でこぼこコンビは大きな声で笑い合っている。小さい子には大きな相棒ができるのが世の常や。話の内容はわからないが、楽しそうな若者を見ているだけで健やかな気持ちをもらう。
恵ちゃんの孫の顔を覚えてはいないが、もうこれくらいの歳になってるやろう。
ハニービーに毎年来ている常連のうちくらいになると、人がだんだんと増えてきた過程もよく知ってる。
最初は若い女の子たちの集まりだったハニービーには、毎年のように家族が増えた。彼女たちは結婚して、その旦那さんたちが受付に立ち、彼女たちの子どもがホールを走り回るようになった。
ハニービーは毎年ゆるやかに年輪を刻むように変わっていき、うちはゆるりと歳を取った。彼女たちハニービーの輝かしい二十年と、うちの老いていった二十年はまるで質が違う。
誰だって初めて結婚して、初めて出産して、初めて家族を築くように。
うちだって初めて老いの最中や。
けれど、さっきの高校生が言っていた言葉を借りると、うちの老いだってサイッコウや。
自販機の横で佇むうちの枯れ木のような足元に、とんと何かがぶつかった。
「ばーば!」
うちの足元にすり寄ってきたのは孫の糸や。まだ可愛い可愛い盛りの三歳。嫁の詩織ちゃんに似た、ほんまにかわいい大福ほっぺたが揺れる。
「おう、糸か。よう来たなぁ。おいでおいで、ばーばに抱っこさせてや」
糸の後ろをついてきていた心配性の詩織ちゃんが眉をひそめた。
「お義母さん大丈夫ですか?糸はもう重いですよ?」
「平気や。足が折れても抱きたいわ」
詩織ちゃんは糸を車椅子に座るうちの膝の上に置いてくれた。詩織ちゃんが糸にスティックのチョコを持たせて静かにさせる。
糸は重くなった。うちの枯れた足にとったらもう、岩のようや。
けど、抱けるうちに、抱いておきたい。
しっとりと汗をかいた糸の前髪を撫で、額を出して涼しくしてやる。幼子はこれから生きる膨大な時間を宿してるから、いつだって熱いんや。
うちは糸を撫でながら、隣に立ってきょろきょろと寛人を探す詩織ちゃんの横顔を見上げた。
「詩織ちゃん、お母さんの調子はどうや?」
「お義母さん、いつも心配してくださってありがとうございます。今は元気にタイで暮らしてますよ。よくテレビ電話もしてます」
「そうか。ガンの手術は成功したんやな。良かった良かった」
「ばーば、いっつも同じこと言うばっかり~」
糸が「もう!」と大福ほっぺを膨らませる。うちは同じことばかり言っているらしい。
何度聞いたかはもう知らん。けどガンになった詩織ちゃんのお母さんが回復した話は、何度でも新しく胸をほっとさせてくれる。
お母さんが元気になってくれたおかげで、詩織ちゃんは日本に帰ってきた。そして、うちと寛人と一緒の家に住んでくれた。
そのうちに糸ができて。うちの夫が買った古い家は手狭になってきた。
そしたら今度はうちが入院や。ちょうどええ。うちが終の棲家と決めたあの家は、役目を終えたんや。うちが死んだら今度は寛人がタイヘ行ったら良い。
全部、うまいことできてる。
いつか、良いように収まる。
老いてわかるのはそういうことや。
「まま、おしっこ!」
チョコを食べ終えた糸はばたばたとうちの足の上から下りて、走っていく。詩織ちゃんが慌てて追いかけていくのを見て、うちは笑ってしまう。そうやって何百回何千回と親はトイレに付き合う。がんばれ詩織ちゃん。
うちがくすくす笑っていたら、今度は横から声がかかった。
「道子さん、来てくれてありがとうございます!」
ええ感じに白髪が増えた恵ちゃんが明るい声をくれた。うちは思わず笑みがこぼれる。
「恵ちゃん、久しぶりやな。藤色のワンピースがよう似合ってるわ」
「いつも褒めてもらって嬉しいです」
「ええお嬢さんになってきたわ」
ほがらかで品良く微笑む恵ちゃんはうちより十歳も下で、まだまだ元気。恵ちゃんが笑いながら自販機で熱いほうじ茶缶を買って、うちに手渡してくれた。
「私のことお嬢さんだなんて言ってくれるのは、道子さんくらいですよ」
「恵ちゃんは、まだまだギャルやで」
「ギャルですか!?」
あははと大きな口で笑った恵ちゃんは、今日のハニービーではプロ歌手がゲストで登場すると興奮しながら教えてくれた。いつも指揮をしてる翠ちゃんは、ハニービーのリーダーで、恵ちゃんのお嫁さんや。
「今年も翠ちゃんはすごくがんばったんですよ!」
恵ちゃんはいつもお嫁さんを自慢してくれる。うちはその話の健やかさにいつも元気をもらってきた。恵ちゃんは嫁姑問題で悩んでいた可愛いころもあったけど、今ではどっしりした良いお義母さんになった。
でも、翠ちゃんのことで心から泣いたり笑ったりする恵ちゃんは、うちから見ればいつまでも清いお嬢さんや。
「もうそろそろ始まりますね。特別席をとってありますから、行きましょう道子さん」
寛人たちとは別れて、うちは恵ちゃんに車椅子を押されてメインホールへ進んだ。控室側のドアから入れてもらった。そこからだとホールの中段まで車椅子のまま進むことができる。気を遣ってもらって悪いなぁと思いながら、楽しませてもらおうと厚意に甘えた。
紅い座椅子が整然と並んだホールには大人も子どもも大勢が座って、舞台を待ち望んでいた。うちも公演前の興奮した雰囲気を味わっていると、男の子が座席の間の階段をたたたと風のように走り抜けた。男の子は控室側のドアから入ってきた男性に飛びつく。
「律哉くん!おかえり!おかえり!」
「律、大きくなったな」
「ハニービーのグランドピアノ調律したの?」
「したよ。あとでマスターの店のピアノも見に行く」
「ぼくもいく!」
男の子を抱きかかえて持ち上げた男性はえらく男前やった。けどそんなことよりも、とてもとても優しい顔をしてるのが目に残った。彼の周りに二人の男性が寄ってきて久しぶりと言い合うのも聞こえてくる。
ハニービーではよく「久しぶり」の挨拶も耳にする。
ハニービーの音楽を聴くためという一本の糸で、うちらはここにみんな集ってる。その細い糸をみんなで手繰って大事に守って、七月最後の日曜日に、ここへ帰ってくる。
それがなんや無性に嬉しくて、毎年、泣きたくなるんや。
ハニービーに来て、この目に見えない約束の「糸」を感じるのが毎年、たまらないくらいに愛しい。
車椅子の特別席から舞台を見つめるうちの横顔を、恵ちゃんは静かに見ていたと思う。涙腺が緩むうちを見て見ぬふりしてくれた。うちは恵ちゃんのそういうところが好きや。
客席の光が落ちて、ついに幕が開いた。
今年も翠ちゃんが指揮をして、見覚えのある顔が並んで合奏を始める。リーンと鳴るハンドベルが新鮮な音の震えを感じさせてくれて、ああ、これがテレビでもラジオでもない「今」の音やと耳が喜ぶ。
曲目がひとつ、またひとつと進むたびに、切ない。
夢や悩み、若い衝動や、過ちや嫉妬、孤独、そして恋。
どの曲が奏でる感情にも身に覚えがあり、うちにはもう過ぎたものや。
曲が終わり拍手が途切れた後、丁寧なアナウンスが入った。
「これより、プロ歌手『セレナ』によるハニービー二十周年 特別演目の演奏をお届けいたします。ピアノ伴奏は『蓮治』が務めます。どうぞ心ゆくまでご鑑賞ください」
隣に座る恵ちゃんが居住まいを正す。
舞台には誇り高い夏空色のドレスに身を包んだ女性が現れた。彼女は気品と余裕と自信にあふれる微笑みで一礼したあと、ピアノの前に座った正装の男性と目を合わせて頷き合う。彼らが自然な関係であることが一目で伝わった。
ピアノの一音目が鳴る。
一音で、見える景色が一変した。
うちの皺ばかり重い目蓋がはっと見開いて、音の世界をもっと見ようとする。身体が勝手に前のめる。耳には女性の声が物語を魅せた。
プロの音楽はこれほどまでに異質で惹き込まれるものなのか。
冷えた老人の身体が熱を持つほどに。
この歳でもまだ、知らないことがある。
この歳でもまだ、こんな経験ができるんか。
ホールを満たす音は圧巻で美しい。
なのに孤独で、なのに懐かしい。
震えるくらい感動してしまったうちは音楽の物語に導かれて、夏の夕暮れに立ち返っていく。
向日葵の人に出会った、あの夏。
昭和の真夏日。
暑い一日を働き切って疲れたうちは、長閑な駅の端にあるベンチでやっと腰を下ろした。
百貨店の化粧品売り場で働いてもう五年。
慣れたものだが、それでも一日たち続ければ足が棒やった。
だるい足折りたたんで、支えてくれるベンチの座面の優しさを感じながら顔を上げる。そこには純白のシャツを夕暮れ色に染めた駅員さんが立っていた。
次の電車までまだ十分もあるのに、もう駅員さんはそこで待っている。
彼が熱心に遠くを見ているように思ったので、声をかけた。
「何を見てはるんですか?」
うなじにたらりと汗を垂らした駅員さんが振り返る。生まれも育ちも大阪のうちが、そこかしこの人に声をかけるのはよくあることで特別なことやない。駅員の彼は標準語やった。
「あ、その……向日葵が綺麗だなと思って。仕事の合間に、よく見てるんですよ」
伸びた背筋と立ち姿が、向日葵みたいにまっすぐだ。
向日葵は太陽を追い続ける真摯な花。もし向日葵が男の人で声を持っていたら、こんな風に夕暮れに馴染む声なのかもしれない。
「へぇ、ここから向日葵なんて見えました?畑ばっかりや思ってましたけど」
うちは足が疲れているのも忘れて立ち上がり、駅員さんの隣にとんと立った。駅員さんが指さす方向を見ると、一面緑の畑の中に、ぶわっと花咲く黄色の一角がある。うちはわぁと声を上げて笑ってしまった。
「えーほんまや!畑やのに、何であそこだけ向日葵が?向日葵も食べんの?美味しいんかな?」
うちがおもしろがって次から次へと浮かんだ疑問を並べると、向日葵みたいな駅員さんはくくっと笑った。白い手袋の甲で隠した笑窪がうちの目に、残像を映すほどくっきり焼き付いた。
「あそこに向日葵を植える理由は……」
次の電車がやって来て、話はそこで終わってしまった。うちは電車に乗ってからも向日葵が見えなくなるまで見続けた。どうして畑に向日葵を植えたのだろう。今度また、駅員さんに聞かなくては。
それからうちは駅を使うときに、あの向日葵の人を探すようになってしまった。
駅員やからおるはずやのに、なかなか顔を見られなくて夏に焼けるコンクリートみたいにじりじりした。
毎日、畑の中に咲く向日葵を見つめながら、うちは向日葵の人と会えるのを待ち侘びていた。でも会えなくて、まだ初心やったうちは駅員の誰かに聞くこともできず焦げついた。
もう耐えきれんくなったうちは、駅から見える畑の中の向日葵をもっと間近まで見に行った。この夏の気持ちが枯れる前に近くで見ておきたくなったからや。
夕暮れの畑の真ん中になぜか、背の高い向日葵畑。
うちが向日葵畑の周りの細い畑道を歩いていると、畑の脇に男性が立っていた。白いワイシャツの彼は、向日葵の人やった。うちは走って彼の元へ近づいた。
「おった!ずっと探してたんやで!向日葵の話、途中やったやん!」
うちがぐいぐいと顔を近づけて迫ると、彼は両手を軽く前に出して夕暮れよりも頬を染めた。
「すみません。僕も気になっていたのですが、転勤が決まってバタバタしてしまっていました」
「そうなん……遠くへ行ってしまうんやな」
せっかく会えて膨らんだ気持ちがしゅんと萎えた。その笑窪が頬に刻まれるところを、もっと見てみたいと思っていたのに。うちがわかりやすく肩を落としたからか、彼は向日葵の話を始めた。
「畑の中に向日葵を咲かせるのは、緑肥のためです」
「りょくひってなに?」
「畑は同じ作物ばかりを育てるとだんだん育ちが悪くなるのです。連作障害といいます。なので、合間に向日葵なんかを植えて、土を休憩して肥えさせるんですよ。それを緑肥と言います」
「へぇ、じゃあ土の休憩中に向日葵でも愛でておこうかってことやな」
「そうです……」
向日葵の人は大輪の花を見上げてから、うちの顔を見て目をきょろりと彷徨わせた。言うか言わないか思案したような間の後、夏の風がうちの髪を靡かせた。
ゆっくりと一歩向日葵畑に近づいた彼は、向日葵の花びらを一枚摘んで、うちに差し出した。
「さすがに一輪摘むわけにはいかないので。この花びら一枚を、向日葵の花一輪ということにしてくれませんか」
「……え、どういうこと?」
「僕は転勤するのですが……また休みの日に会いに来てもいいですか。向日葵みたいに明るく笑うあなたに」
うちには「花一輪」の意味がわからんかったけど、休憩中に会いたいと言われたのはわかった。うちはそれから長い休みのとき、たびたび向日葵の人と会うようになった。
彼はうちに会うたびに花屋に寄って、別れ際に向日葵の花を一輪、手渡してくれた。
うちにとって向日葵の花は「また会いましょう」の約束。
向日葵を贈り続けた「向日葵の人」は、ぴんぴんころりと死んだ、うちの夫や。
夏空色のドレスを着た女性が物語る歌が終わりを迎え、ピアノがぴんと静かに結びの一音を誠実に奏でた。一瞬の静寂のあとにあふれたホールが割れそうなほどの大喝采の中で、うちは涙をぽろぽろ落とした。
今年もハニービーに向日葵を贈った。
向日葵を贈るとき、夫はここに、うちのそばにおるはずやから。
夫にもハニービーを聞いて欲しかったから。
うちはハニービーに向日葵を贈り続けてきた。それが、うちの浪漫や。
舞台ではドレスをまとった女性の周りに、いつものハニービーメンバーが集い、客席も含めた全員で「ふるさと」を歌い始めた。
うちも毎年歌ってきた。
でももう涙で喉がつまって歌声が出てけえへんかった。
ああこのふるさとが終わったら、ハニービーは終わり。
うちの人生で最後のハニービーや。終わって欲しくない。そう思いながらも「ふるさと」がうちを呼んでるのもわかる。
ハニービーが終わったら、向日葵の人が、天のお国でうちを待ってる。彼が待つそこが次の、うちの「ふるさと」になるんやろう。
向日葵の人はきっと待っている。花一輪を携えて。
「志を果たして、いつの日にか帰らん」とはよう言うたもんや。
息子は一人立ちして、嫁を持って、孫ができた。うちはうちの人生を謳歌した。何の思い残すこともない。
今はもうただ帰りたい。
花一輪に「一目惚れしました」と願いを託した彼のところに。
ハニービーが奏でる「ふるさと」を聞き終えて、熱い涙の余韻のままに目頭を押さえていた。すると舞台の上に、ハニービーメンバーが集合して挨拶を始めた。翠ちゃんがマイクを握っている。
「ハニービーは皆様のおかげで無事、二十周年を迎えることができました。本当にありがとうございます」
ドレスの女性も華やかな笑顔で魅せている。その隣では受付の彼女が笑っていた。彼女の胸元に、うちと寛人が毎年同じ形で贈っている花束が抱かれていた。うちは思わずその花束に注目した。
ずらりと並んだハニービーメンバーの中央に立つ翠ちゃんが、声を上げた。
「この記念の日に、ひとつ特別なお礼を言わせてください」
翠ちゃんがそう言うと、受付の彼女とドレスの歌手さんが一緒に向日葵の花束を高らかに天井に向けて掲げた。翠ちゃんは手のひらで、うちが贈った向日葵の花束を示す。
「この向日葵の花束は、ハニービーに毎年『匿名』で贈られ続けてきました。私たちの間では『向日葵の人』と呼ばれていまして、今年も見守ってくれていた名もなき応援者の代表です」
客席の名もなき一人であるうちが、いきなり舞台の上に立たされたようで息を飲んだ。翠ちゃんがしみじみと声を滲ませた。
「私たちは家族のみならず、その先の人、さらにその先の人。きっと私たちが知らないような、たくさんの人によって支えられてきたのだと思います。そのことを、この向日葵の花束がいつも……教えてくれていたような気がします」
うちは目からぽろぽろ涙が落ちるのも厭わずに、舞台だけを見ていた。ハニービーメンバーが全員、一斉に礼をする。
「向日葵の人、それに私たちの知らないところでハニービーを想ってくれていたたくさんの方にお礼を込めて、もう一度『ふるさと』を歌わせてください。ピアノは豪勢にプロの蓮治が務めます」
ピアノの前に座った男性が一礼し、ピアノが鳴った。
また最初の一音で景色がガラリと変わり、うちはあっという間にふるさとへ引き戻される。
夫が亡くなって暮らした古い家、世の理不尽に潰されそうになった息子、友だちと食べた韓国料理、嫁と一緒に語るドラマ、そして岩みたいに重い孫の熱さ。
全部が全部、愛おしい。
夫のところに帰りたいと思った。けれど、長年暮らした家に、そしてこのハニービーにもまた帰ってきたい。そんな熱が枯れた身体を駆け巡った。
ハニービーが奏でるふるさとの音は、どこまでも美しく遠く、優しかった。
夢のようなハニービーの幕は下りてしまった。
名残惜しみながら恵ちゃんに別れを告げて、ハニービーの熱気を胸に抱えたまま、うちは病院へ帰った。興奮冷めやらないうちは、病院の廊下で車椅子を押す寛人に言った。
「あの歌手の人の歌が、最高やったな」
「うん、すごかった。セレナって歌手なんだって」
「でもやっぱり、最後のふるさとがええよなぁ」
「毎年歌う歌って、曲自体が思い出を吸い込んだ感じがあって良いよね」
車椅子で廊下を進みながら、寛人が嬉しそうに語る。うちは病院の窓から見える夏空を見上げた。
「もう一回、ふるさと……聞きたいな」
ふと、寛人の足が止まった。うちの身体にハニービーでもらった熱を蘇る。うちは腹に宿った熱さをはっきりと声に乗せた。
「来年もはりきって見に行かなあかんで!なあ、寛人!」
うちが窓を見上げたまま言うと、後ろから寛人の鼻をすする音がした。しばらく間があってから、震えた息子の声が聞こえる。
「うん、また、また来年も……一緒に行こうね。母さん」
寛人が泣く意味はわかってる。
けれどうちは、彼女たちに向日葵の花を贈ったんや。
向日葵の花は「また会おう」の約束や。
だからうちは最期まで、約束を生きようと思う。
夏空色のドレスと向日葵の色を想いながら、ハニービーの客席に座る日を夢見るんや。また、来年のハニービーまで一日一日、生きていくで。
だから、七月最後の日曜日にまた、会おうな。
〈了〉




