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ふるさとのハニービー  作者: ミラ


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6/7

令和7年 志を果たして

 毎年のように帰郷しない年末に、風邪を引いただけだと思っていた。けれど、私の喉は鉛でも詰められたように声が出なくなった。


 まるで、もう使わないなら声なんていらないでしょうと喉に通告された気分だった。


 たしかに。そう、なのかもしれない。




 声が出なくなって二週間後。都内にある一等地の一軒家、豪華なオープンキッチンで、私は蓮治の晩ご飯を作っている。


 蓮治の専属マネージャーとなってもうすぐ15年。トマトとモッツァレラチーズをスライスしたものを彩りよく交互に皿に並べると、私の背後からにゅっと手が伸びた。


「セレナさん、俺はモッツアレラチーズだけ食べたい。球体のやつ」


 伸び放題のぶ厚い前髪で目が隠れてしまっている蓮治は、口をへの字に曲げた。私は声が出ないので両手でバツを作った。つまみ食いしようとした手を叩く。


 蓮治はえーと言いながら、結局モッツアレラチーズを一枚摘まんで去って行った。


 二十畳のリビングの半分は蓮治の音響機材で埋まっている。マイクやアンプにスピーカーにキーボード。音楽が信号として流れる画面パネルはまるで宇宙コクピットのように何枚も置かれている。蓮治が音楽コクピットの真ん中に座ると、彼が滑らかな声で歌いだす。


「モッツアレラチーズ丸ごと食べたいよ~」


 私は眉をひそめつつも、つい笑ってしまう。


 世に名を馳せる覆面歌手「セレン」の正体が、この蓮治だ。


 今では映画の主題曲も手掛ける、いわゆる売れっ子。作曲も歌も一級の人気歌手セレンとなれば、モッツアレラ食べたいと歌うだけでCM依頼が来そうだ。


 私は結局、新しくモッツァレラチーズの封を切り、丸のまま皿に置き、蜂蜜を大量にかけてダイニングテーブルに出した。


 蓮治が戻って来て、丸ごとモッツァレラにフォークを突き刺してかぶり始める。


「蜂蜜もかけてくれてる~セレナさん優しい」


 私はハイハイと手だけで雑に返事をする。ダイニングテーブルに肘をついて、丸ごとモッツァレラだけの夕食を取る蓮治を眺める。


 私はすでに主菜と副菜のあるきちんとした夕食を食べた。なので、彼の偏った食事を眺めるのがマネージャーの仕事だ。


 食事だけ与えて私がどこかへ行くと、機嫌を取るのに三日はかかる。仕事に支障が出るのだ。彼は私以外のマネージャーに絶対に懐かない。


 気難く奔放な猫みたいな蓮治。だが彼ももう32歳か、と思っていると長い前髪をちょんまげに括った蓮治が首を傾けた。


「何?何考えてるの?書いて」


 声が出なくなって二週間になる私は筆談で答えた。ぼちぼちこの会話の手間にも慣れてきている。蓮治は私がメモに書いた字を覗き込む。


『マネージャーになって15年近くになるなって思ってた』

「ああ、俺も最近よく考えてて……もうそろそろセレナさんが俺の曲、歌いたいと思ってくれたりするんじゃないかなって……?」


 蓮治が私の顔を伺うが、私が真顔のまま無言を決め込む。すると、蓮治が猫背をさらに丸めた。


「まだかぁ……ああやっぱりあそこでちょっと妥協したのがダメか、いやそれより」


 蓮治はぶつくさ言いながら、ひとり反省会を始める。どれだけ売れても、蓮治は驕らず省みる。


 蓮治はテーブルに常備された「蜂蜜ボトル」をひっつかんで、ごくりと直飲みした。


 今では見慣れた光景だが、蓮治が最初に蜂蜜ボトルを直飲みしてるのを見たときは度肝を抜かれた。私は何度聞いても納得いかない問いを書いた。


『蜂蜜だけ飲んでおいしい?』

「おいしい!もうずっと蜂蜜に溺れてたい!」


 蓮治が屈託なく笑う。彼のそばに長くいて、極めて個性的でないと偉業は起こせないと思い知らされてきた。私はアーティストとして凡庸、常識的過ぎた。


 約17年前、歌手になるために私は東京に出てきた。父さんは私が歌手を目指すことを応援してくれなくて、ケンカ別れしたままだ。だが、ハニービーのメンバーに見送られて意気揚々と東京の地を踏んだ。


 東京の空気は新鮮で楽しかった。歌手養成学校での私の成績はトップクラスで、諸先生方にも気に入ってもらっていた。貯金を切り崩す生活だったが、音楽だけに打ち込んだ私の歌唱力は認められ、縁にも恵まれ、歌手「セレナ」として芸能事務所に所属することができた。


 デビューまでとんとん拍子で、瞬く間だった。


 けれど、翠と真紀とは連絡を欠かさなかった。彼女たちは二人で女子会をするたびに、私に電話をくれた。電話で二人の明るい声を聞くと、いつだって初心を思い出せた。


「翠、真紀、聞いて!あたし、デビューすることになった!」

「ええ!ほんとなのセレナ?!やだもう一瞬で涙出た」

「すごい、すごいじゃない、おめでとう、セレナ……!」


 電話を挟んでだけれども、三人で大興奮しながら同じ夜を味わった。最初に泣くのはいつも真紀で、電話口で泣き始めた真紀に釣られて私と翠が泣きだすのがいつもの流れ。


 三人で泣き合ったあの夜が、私の人生で最良の日だったのかもしれない。


 デビュー曲を発表した直後は、事務所が全力バックアップしてくれてラジオやローカルテレビにも出してもらった。少ないけれどファンもいた。


 特に握手会イベントでは、毎回来てくれる濃いファンの子がいたのだ。ブレザーの制服を着た男子高校生だった。


「セレナさんの歌声は……俺にとって蜂蜜です」

「は、蜂蜜ですか?表現独特ですね、なんか甘くてとろりって感じですか?嬉しいです」


 それまでも大好きですと言ってくれるファンはいたが、蜂蜜だと言われたのは初めてで印象的だった。私はふふっと笑いながら手を差し出す。すると目元に若い笑いじわを称えた彼は、私の手を大事そうに握った。


「俺、作曲やってるんです。いつか俺が、セレナさんが歌いたいと思える曲を作るアーティストになったら……結婚してください」

「ええ?いいんですか?じゃあ、期待してます」


 蜂蜜を語る男子高校生にプロポーズされたのは、ファンとの数少ない綺麗な思い出。



 そして、この蜂蜜の彼が、またのちに出会う蓮治だった。



 デビューしたはいいものの、どんなに頑張ってもCD売り上げ数は底辺を這ったままで。二曲目を出せない歌手「セレナ」は事実上の引退となった。


 夢を叶えることと、夢を生き続けることは別だった。


 引退宣告を受けるために事務所の社長室に呼ばれた私に、女社長は頭を下げて謝った。


「歌手のセレナを守り切れなくてごめんなさい……本当に私の力不足で」

「いえ、そんな……社長のせいじゃなくて、私の歌がダメなせいなので」

「違うわ、セレナ。それは違うの。時代の流れに、売り方、楽曲の質、それに運……色んな要素があるの。決してセレナだけのせいと思わないで」


 社長は涙を浮かべながら私の手を握って、俯く私の足元を照らしてくれた。


「セレナ、良かったらうちの事務所で働かない?あなたの人柄や現場感覚に、音楽の教養。どれもぜひうちに欲しい人材よ」


 社長の笑みは優しく、私には救いの提案だった。


「……ぜひ、お願いします」


 歌手としては打ち切られてしまったけれど、私は芸能事務所で働き出した。どうあっても音楽業界にかじりついていたかった。いつかまたチャンスがあるかもしれないと思ったからだ。


 新人発掘部門で働き始めた私に、ストリートミュージシャンとして人気がある「セレン」をメジャーデビューさせたいという企画が回ってきた。


 セレンはうちの事務所の名前を聞いただけで「センスない事務所とは仕事しない」と切って捨てたそうだ。キレキレな回答に眩暈がした。すでにフラれた先輩方から私はバトンを渡された。


「セレナの可愛い顔と、気合いと、ガチミュージシャントークで彼を口説いてきて!」

「が、がんばります!」


 まだまだ新人発掘部門の新人だった私は緊張しながら、セレンに会いに行った。



 日曜の夜の公園で、大勢の人が座り込んで輪を作っている。その中心に、彼はいた。公園に一歩踏み込んだ瞬間に彼の声に耳が囚われた。


 あまりに独創的、けれどあまりに孤独。なのにどうしてか懐かしいメロディに、鷲掴みにされた。私は彼のパフォーマンスの前に直立して、思わず泣いてしまった。


 その曲のせいで、私の目の前にお母さんとお父さん、翠や真紀が笑っているのが浮かんだから。聞いた人に映像と思い出を思い起こさせ、感情を振り回す。


 セレンには一生勝てないと、一瞬で悟った。


 アーティストとしての格が違う。彼は音楽に愛され、そして彼も音楽を最愛とした。相思相愛の奏でる音に圧倒され、ひれ伏した。


 なのに、なぜかずっとその音に包まれていたい、そんな魅惑の体験だった。


 パフォーマンスが終わり、客が散った。私はひとりで片づけをする彼に近づいた。声をかけると、蜂蜜のボトルを口に咥えた彼が振り返る。


「あの、私、芸能事務所の」


 蜂蜜ボトルを直吸いする姿に気持ちは十歩くらい引いたが、営業スマイルで誤魔化す。ぶ厚い前髪で彼の表情が見えなかった。私が名乗ろうとすると、ボトルを手に持ち直した彼が先に言った。


「セレナさん?え、声も顔も本物だ。マジで?」

「え、あ……はい、元歌手のセレナです。今は芸能事務所で働いていまして、あのもしよかったらうちの事務所で一緒にお仕事を」

「やる」

「え?」

「俺は生涯セレナさんのファンだから。もしセレナさんが俺につきっきりでいてくれるなら、どんな仕事でもやる」

「う、上と相談してみます」


 予想外の快諾に私の方が動揺していると、彼は私に蜂蜜ボトルとサインペンを渡した。


「俺、本名は蓮治っていうの。サインください」


 蜂蜜とファン。二つの単語の繋がりに覚えがあった私は、ボトルを受け取りながら彼の顔をじっくり見た。


「もしかして、握手会に来てくれていた高校生の?」

「え、覚えてくれてるの?すごいねセレナさん。『セレナ』と『蓮治』を連ねて、歌手名は『セレン』にしたんだ。良い名前でしょ?」


 蓮治はどうだと胸を張って笑う。


 すでに引退した私にとって、彼は心情的に非常に重いファンだ。蜂蜜直飲みで十歩。歌手名の命名方法でさらに二十歩。私は彼から距離を取りたくなった。


 けれど私は、社長の指示で蓮治の専属マネージャーとなってしまった。


 「セレン」は時代の波と運を一手に取り、一世を風靡した。社長が私に運がなかったと言った意味が、彼の隣に居るとよくわかった。


 彼の実力は間違いない。けれど、音楽に愛された強運は実在する。


 あの公園の夜から15年たち、笑いじわが深くなった蓮治の顔を見つめた。私のサイン入り蜂蜜ボトルは今、蓮治の口に咥えられている。蜂蜜を飲む蓮治が嬉しそうに私にボトルを差し出す。


「セレナさんも蜂蜜飲む?」

『いらない』


 私は声の出ない唇で、そう言った。





 心因性失声症と診断されて一ヶ月がたち、私はいよいよ焦り始めていた。蓮治のマネージャー業務は声が出なくてもそれなりにできる。だが、一生このままだったらと思うとますます声帯が縮こまるような窮地を感じた。


 蓮治の仕事が滞り始めていたからだ。


 蓮治は音楽コクピットの真ん中の椅子に座って、天井を見上げ始めて二時間が経った。ぴくりとも動かない。煮詰まったときの症状だが、もうこのぼんやりが二週間続いている。時おり蓮治のつぶやきが耳に入る。


「セレナさんの声……」


 音楽コクピットからは私のデビュー曲が流れ続けている。だが蓮治はもうその録音された声だけでは、創作の源として足りないらしい。


 おもむろに立ち上がった蓮治は、キッチンで洗い物をする私に向かって言った。


「セレナさんが言いたいこと言わないから、声が拗ねてどっか行ったんだよ」


 限界を超えたような切羽詰まった声だった。


「俺わかってたよ。ずっとセレナさんの声が、なんか我慢してたこと……」


 蓮治のぶ厚い前髪の間から、黒い瞳が私を見つめる。耳が良い彼は音で感情を読み分けるのだろう。蓮治の拳がぎゅうと縮まり、泣きそうに顔が歪んだ。


「……もしかして、もう、俺のマネージャー辞めたい?」


 私は無声で、え?と聞き返した。予想外の方向から来た蓮治の問いに、一拍ついていけなかった。


 蓮治は自分の中の世界が壮大なので、考えが煮詰まり突拍子もないことを言い出すことがある。まさにそれが今だ。


「辞めたいのに言い出せなくて、声が出なくなったならもう……俺、嫌だけど絶対嫌だけど、セレナさんを手放す覚悟だって……」


 私は大急ぎで手も首も大げさに横に振って、蓮治にストップをかける。


「え、何?違う?」


 私は何度も勢いよく頷いた。私の喉を詰まらせているのは蓮治ではない。私はわかっているのに、向き合っていないだけなのだ。これ以上、蓮治の中で拗れる前に話さなくてはいけない。


 蓮治をダイニングテーブルの席に座らせて、私も隣に座った。私は筆談した。


『声が出なくなったの蓮治のせいじゃない。マネージャーも辞めたくない』

「ほんと?じゃあどうして声が……?」

『たぶん私……お父さんに会いに行かなくちゃいけないんだと思う』


 蓮治が角度90度どころか100度まで首を傾げた。


「お父さんって、デビューしたときも喜んでくれなかった人でしょ?会わなくて良くない?」


 正論だ。けれど昨年の年末に一度だけ、スマホに着信があったのだ。


 故郷を出てから一度も変えなかった電話番号に、お父さんから。


 「お父さん」と表示された着信画面を見つめているうちに切れてしまって、二度目はかかってこなかった。


 もう十年以上一度もかかってこなかったのに、今さら、どうしたのかと思って何も手につかなくなった。その夜、久しぶりに死んだお母さんの夢を見たりして。お父さんに何かあったのではと思って動悸がした。


 それでも躊躇して電話をかけ直すことができないでいるうちに、声に見捨てられた。声が出ないので物理的に電話もできなくなってしまったのだ。


「そういうことね。わかった」


 筆談で少しずつ事情を話しきると、蓮治がまた急に立ち上がり上着を着た。蓮治は私のコートを勝手に持ってきて私の肩にばさりとかける。


「帰ろう、セレナさん。俺もセレナさんのふるさと、見てみたいから一緒に行く」


 蓮治はスマホを片手に、もう片方の手に私の手を引いて家を出た。衝動的な蓮治に引っ張られて如月の寒い外を歩かされる。


 蓮治は私の手を離さない。冬の強い風の中をぐいぐい前に進んでいく。厳しい寒風が全身に吹き付けて、私の鼻の奥をつんと刺激した。


 私は誰かに「ふるさとに帰ろう」と言って欲しかったみたいだ。もう良い歳だというのに、いまだに一人で親にも会いにいけないなんて。情けないにもほどがある。


 でも、もう15年も蓮治の側にいる。蓮治は私のそういう子どもみたいなところだって隅々まで知っている。それでもなお蓮治はずっと、セレナさん、セレナさんなのだ。


 泣きそうになる手前でなんとか留めて、道でタクシーを拾おうとする蓮治の横に並ぶ。言いたいことがあるのに声が出なくて、もどかしかった。


 私の手首を握ったままの彼の手を外して、彼の手の平を広げる。


「何?」


 私は蓮治の手の平に、指先で字を書いた。


『ありがとう』


 照れたように目元に笑いじわを増やした蓮治と一緒に、タクシーに乗り込む。ふるさとへ一歩近づくと、喉が少し楽になった。






 蓮治は電車を好まないので、このままタクシーで私のふるさと、長野県の北アルプスの麓まで行くことになった。あったかい車内で蓮治が私の肩にもたれて居眠りし始める。


 私は流れる車窓の景色をぼんやり眺めていた。戻っていく景色の流れの先に、お父さんがいる。


 お父さんと最後に会ったのはデビューした直後。上京したお父さんを高級料亭の座敷に招いた。私は歌手として稼いだお金でお父さんにご馳走できるのが誇らしく、見栄を張って高い店を選んだ。


 お父さんの好きな鮭が美味しい店の座敷で、生前お母さんが編んだ藍色のセーターを着たお父さんと向かい合った。


 その時も寒い冬で、座敷は温かかったはずだ。けれど料亭の鮭御膳を前にしたお父さんの声は、どこまでも冷え冷えとしていた。


「セレナ、帰って来い」

「……やっとデビューできたんだよ?これからなんだから。一度くらいおめでとうって……言ってくれてもいいじゃない」


 歌手を続けていけると希望に満ちていた私は静かに反発した。お父さんは鮭の西京焼きに手を付けないまま、また言った。


「音楽は厳しい世界だ。もう十分やったじゃないか。帰って来い、セレナ」

「……わかった。もうお父さんには、何も言わない……!」


 私は首を振って、泣きながら立ち去った。どうあっても、お父さんは応援してくれないのだと思うともう、お父さんに伝えるべき声はないと思った。


 けれど、お父さんの言う通り、厳しい世界に揉まれた私は歌手としての活動を終えた。今思えば、お父さんは私に傷ついて欲しくなくて、帰って来いと言ってくれていたのだとわかる。


 でも私はそこで逃げ帰るほど、お行儀良くも、潔くもなかった。


 お父さんは今の私を見て、なんと言うだろうか。「ほら見たことか」と渋い声で言うのだろうな。そう思うとまた、声帯の奥でごりっと鉛が詰まる。


 三時間ほど車に揺られ、実家の最寄デパート前でタクシーを降りる。最寄りと言っても実家までまだ車で三十分以上かかる。


 久々の帰郷だ。ささやかながらお父さんにお土産を買うことにした。蓮治は猫背で私の後ろをとろとろ歩く。


「もう、買い物なんて良くない?」


 「私は買いたいの」とスマホのメモアプリに打って蓮治に見せると、彼は肩を竦めた。蓮治に蜂蜜のボトルを買い与え、デパ地下の端にあるベンチで待たせた。


「セレナさんの実家近いんだよね。住所送ってよ。地図アプリで見て遊ぶから」


 蓮治のおもちゃとして実家の住所を与えて、私はデパ地下でお土産を物色し始めた。なかなかお父さんの好きそうなものが見つからずに一旦戻ると、蓮治がベンチにいなかった。蓮治にメッセージを打つが既読もつかない。



 ひやりと背に冷たい予感がした。



 お父さんのことばかり考えていて、油断してしまっていた。

 まさか、蓮治ひとりで先に実家へ行ったのか。


 不穏な予測が立つ。

 いや、蓮治ならやる。


 やりたいと思ったら、やらなくては気が済まない男だ、あれは。


 私は慌ててデパートを出てタクシーに飛び乗った。堅物のお父さんと、礼儀の欠片もない蓮治。相性が良いわけがない。



 タクシーを飛ばして実家に到着した。昭和新築が築四十年になった実家の建物は古びてはいたが、壁面補修したばかりなのか小綺麗だ。そんな壁にちょうど日暮れの陽が反射して赤くに染まっている。


 家の手前の角で緊張を整えようと深呼吸していると、蓮治が角を曲がって歩いてきた。蓮治が何事もなかったかのように私に手を上げてへらりと笑った。


「セレナさん、遅かったね。セレナさんのお父さんに怒鳴られちゃったから、また出直そ」


 蓮治は音楽であれば繊細に人を揺さぶるくせに、現実となるとあまりに不躾なのだ。怒りよりも呆れた。


 またタクシーで移動して、何とか田舎のビジネスホテルに部屋を取った。蓮治はベッドが変わると一人で眠れないので同室でツインの部屋だ。蓮治の仕事が遠出のときはいつもそう。


 蓮治の好きな激辛カップラーメンで夕食を済ませたあと、蓮治はベッドで寝転びながらスマホをとんとん叩いて作曲している。蓮治がくすくす笑い始めた。


「セレナさんのお父さん、元気だったよ。怒鳴れるくらい」


 全然笑えないが、私は眉をひそめたたまま筆談する。蓮治が実際に何を言って怒らせたのか確認したかった。


『何を話したの?』

「セレナのこと応援してあげなくちゃダメじゃんって。心配するのもいい加減にしなよって」


 私は床を抉れそうなほどの大きなため息をついた。もうすでにお父さんから怒鳴られても良い所だが、蓮治の話はまだ続いた。


「それでお前は誰なんだよって聞かれたから、歌手って言った」

『それで?』

「セレナさんに衣食住世話してもらって、今みたいに同じ部屋にも泊まるし、すごく世話になってるって言ったら」


 もはや地雷原をスキップして渡っていく蓮治に、私の息が絶え絶えだった。蓮治は歌詞なら幾層にも言葉を編むのに、実際の口からは直球しかない。


「結婚してるのかって言われて。今のところ予定はないって答えたら、めっちゃくちゃ怒鳴られた!え、なんで!?」


 あはははと蓮治が大笑いしながら、スマホを叩く手が加速する。何やら創作のツボを突いたらしいが、何がおかしいのかさっぱりわからない。


 お父さんはだらしない男が娘を食い潰しているとでも思っただろう。蓮治を突撃させて混乱させたのは私のミスだ。この件についてはお父さんに素直に謝りたい。


 でも、声も出ない状態で、お父さんと会って何を伝えたいのか、まだ準備ができていないのも本当のところだ。なので、蓮治のせいにして会うのが少し延期できて、ほっとしたところもある。





 次の日、めずらしく朝から起き出した蓮治が起きぬけに言った。


「セレナさんピアノ、最低でもピアノが欲しい」


 むっくり起き上がって寝ぐせのまま立ち上がる蓮治の要望に応えて、私はすぐにスマホで音楽スタジオを探す。機材も貸してくれるところだ。


 しかし田舎でそんなところはなかなかない。私は考えた末に、古巣に世話になることにした。


 蓮治と訪れたのは駅直結の文化ホール。


 毎年ハニービーコンサートが行われているところだ。ここの練習室ならピアノがある。


 文化ホール一階の受付で「橘」と名札がついた男性に手続きをしてもらった。橘さんは私が書いた申込書を見て小さくつぶやいた。


「セレナさん……ですか」


 そういえば真紀も今は「橘」姓だったはずだ。


 デビュー直前にあった真紀の結婚式には、忙しくて行けなかった。私は真紀の旦那さんの顔も知らなければ、もうずっと真紀たちと連絡も取っていない。


 私は歌手を引退したことを真紀たちにどう報告していいかわからなくて、毎年律儀に送られてくるハニービーのチラシを見て見ぬふりをし続けていた。


 デビューしてから一切連絡しなかった私を、真紀も翠も見限っているだろう。この懐かしい文化ホールの空気と「橘」の名札に、生乾きの傷が抉られるようだった。


 受付の橘さんは、私の顔を妙にじっと見ている気がした。橘さんが申し訳なさそうに言った。


「練習室が満室でして、メインホールのグランドピアノでしたらご用意できます。高額になりますが」


 私はそれでと頷いた。お金なら蓮治が稼いだものがいくらでもあるので、グランドピアノが弾けるならその方が良い。


 ハニービーの会場になるメインホールには、明るい陽が満ち満ちていた。清浄な空気が満ちるホールに入ると、蓮治は真っ先にグランドピアノの鍵盤を一つ叩いた。ホールに反響した硬質で品の良い音に蓮治が笑った。


「調律ばっちり、良い所だねここ。気に入った」

「ありがとうございます。毎年同じ調律師の方が丹念に見てくれているので、うちの自慢です」


 案内してくれた橘さんが誇らしげに微笑んだ。この文化ホールが調律に力を入れているなんて知らなかった。私がいない間に、このホールにも時間が流れていたのだと実感する。


 橘さんが去ったあと、四百人が入るホールの客席に私は一人だけ座った。壇上でピアノを奏でる蓮治から生まれる音を聞き続ける。


 音が満ちるホールにいると、ハニービーの音もどこかに混ざっているような感覚に陥る。ハニービーを背負っていくと豪語したかつての私が、真紀や翠と一緒に舞台に立っている情景が浮かんでは消えた。


 客席に座る今の私と、舞台に立っていた私が、遠い。


 蓮治と出会ってから鎮火していた「私も舞台の上に」なんて想いが久しぶりに燻ってしまう。喉がちりちりした。懐かしいって、危険だ。


 ふと集中が切れた蓮治が、客席の私に問いかける。


「セレナさん、この曲はどう?歌いたくなった?」


 蓮治が何百回と繰り返すこの問いには、軽く答えられない。良い曲だとは思うけれど、私がその曲を「歌いたい」と言ったらそれは、蜂蜜の彼のプロポーズと直結してしまう。


 私が曖昧に首を傾げると、蓮治はダメかと言いながらまた鍵盤を叩き続ける。


 そうして彼の一日は音に溺れてすぐ終わってしまうのだ。





 文化ホールの営業時間が終わって夜が訪れた。


 けれど、蓮治はまだ弾き足りないと訴え、私は次のピアノを探すことになった。スマホで検索しても見つからないので、私は記憶を頼りに文化ホールの近くの純喫茶へ蓮治を案内した。


 上京する決意を翠と真紀に伝えた、あの純喫茶だ。


 まだ営業が続いているか心配だったが、記憶通りの場所にまだあった。廃れている様子はなく、純喫茶の名の通り、時間を吸った趣のある外観に進化していた。


 ドアを押し開けるとカランと耳障りの良い音が鳴る。店の奥では今もアップライトピアノが佇んでいた。かつて見たぴかぴかのアップライトピアノは、落ち着いた質感になっている。音は、まだ鳴るだろうか。


 カウンターの中から店主の声が迎えた。


「いらっしゃいませ」

「あ、ピアノある」


 私が店主にメモアプリでピアノを弾かせて欲しいと交渉している間に、蓮治は私の横をすり抜けた。さっさとピアノの蓋を開けて鍵盤で和音を鳴らす。蓮治の口端がにやりと上がった。


「こんな古い店でも調律ばっちりなの?町全体に専属の調律師でもいるの?さすがセレナさんの地元だね」


 私の地元であることと調律は関係がないのだが、私もこの店のピアノまで調律が利いているとは驚いた。老年の店主は自慢げに笑った。


「友人が調律師でね。毎年、調律してくれるんだよ。閉店まで好きなだけ弾いてくれていいよ」


 蓮治は店主の話を聞いていなかったが、私は深くお辞儀をして礼を示した。店主は注文を受けたあと、私の顔を何度もじろじろ見てからスマホをいじった。受付の橘さんからも受けた視線だ。


 まさか私のことを知っているのでは、なんて勘ぐってしまう。


 ピアノが必要なので文句は言わないが、あまり気分のいい接客ではなかった。でも蓮治の音は機嫌が良さそうだ。

 

 太麺石焼ナポリタンを食べ終わり、コーヒーを飲み始めるとカランとドアが開いた。独占していたピアノを明け渡さないといけないかもと思って、振り返る。


 ドアの前には翠と真紀が立っていた。


 少し見慣れない大人になった感じがするけれど、二人だとすぐわかった。私は思わず腰を浮かせた。真紀が大きな声を上げた。


「セレナ!」


 真紀が走り込んで私の胸に飛び込む。真紀が私を強く抱きしめる。彼女の腕の熱さと確かさに、身動きが取れなかった。翠がカツカツと足音を立てながら私の前に歩いてくる。表情は険しい。翠はみんなのリーダーで、誰かを叱る覚悟がある女だ。


 けれど翠の目はもうすっかり、泣いていた。


「セレナ、連絡くらい……しなさいよ」


 私に抱きつく真紀ごと、翠が私を抱きしめた。私の胸元で真紀の声が震える。


「そうだよ、セレナ。東京って危ないところだし、芸能界なんて怖いところだって噂だしもう……心配してたんだから」

「ばかセレナ、もう本当にばか」


 私は二人の背に手を回して抱きしめて、抱きしめられて。許しの体温に絆された喉が震えた。言いたくて言えなかったことが詰まっていた喉から、自然と声がこぼれた。


「ごめん、二人とも……」


 私の声を捉えたのだろう蓮治のピアノが一瞬、止まった。


 けれどまたすぐに音の海があふれて、今度は「声おかえり」の音が鳴り始める。蓮治の音は本人よりずっと誤解なく、人に気持ちを伝えることができる。


 三人で抱き合った腕を少しだけ離して顔を見合わせる。翠がくすっと笑った。


「セレナ、いい女になったね」

「真紀も翠もね」


 みんないい歳になっているけれど、元気そうなのは一目でわかった。私たちはカウンター席で三人並んで座り、かつてのようにお喋りを始めた。話したいことを伝えようとする私の声は、今まで出なかったのが嘘みたいに滑り出た。


「それで私、もう二曲目を出すことはできなくなって……」


 次から次へと二人に話したいことがあふれた。時おり涙がこみあげる私の背を、二人は撫でてくれて、そのたびに一緒に涙を浮かべてくれた。


「夢を……続けられなかったことが情けなくて。私、どんな顔すればいいのかずっと、わからなくて。連絡しないうちにずるずる時間がたって……ハニービーに帰れなかった……ごめん」


 胸のわだかまりを吐露すると、翠と真紀は私を挟んで顔を見合わせて、同時にため息をついた。


 蓮治のピアノが鳴り続ける店内で、私は二人にやれやれと子どもに向けるような視線を向ける。翠がはっきり言った。


「セレナはハニービーを背負って旅立ったんだよ?」


 そうだ、かつてこの店で私はそう言った。だからこそ、戻れなかった。真紀が年齢を重ねてなお朗らかに微笑む。


「私たちはここで待ってたけど、セレナはもがきながら前に進み続けたんでしょ。だから、セレナは情けなくて戻って来れなかったんじゃない。ただ遠くへ遠くへ音楽を伝えに行ってたから、なかなか戻ってこなかっただけだよ」


 優しく笑む真紀に、私は不思議に思った。


「……私がもう、戻ってこないって思わなかったの?」

「一度だって、思ったことないよ。これは本当に本当」


 真紀が言い切った言葉に、翠もうんうんと何度も頷いた。


「ハニービーのメンバーで毎年言ってたんだよ。セレナはきっとハニービーの誰より音楽と生きてるって……だから、いつでもセレナが帰って来れるように。ハニービーを守り続けようって決めてたよ」


 二人の揺ぎない声に包まれて、私はとめどなく流れる涙を両手で覆った。彼女たちが私の帰りを疑うことなく待っていてくれたことに、喉が燃えるくらい熱かった。


 今の彼女たちには家庭がある。それでもハニービーコンサートを続けてきた。それは決して生温い簡単なことではなかったはずだ。


 けれど彼女たちは、私が舞い戻るはずのハニービーを守り続けてくれた。


 帰って来る場所はずっとここにあった。彼女たちが固めていてくれたがっしりとした地盤に、私の根が張っている。常にぐらついていた私の両足がやっと地を踏んだ気がした。


 地を踏みしめた足を得てやっと、私は私に立ち返ることができる。


 蓮治の音が私の背後でずっと鳴り続けている。私に良かったねとやさしい音で祝ってくれている。


 歌手の道は潰えても、音楽業界に齧りついた。そのおかげで、「セレン」が世に羽ばたく様を誰よりも近くで見つめ、手助けできた。


 蓮治は音でしか主張できない。明確にコミュニケーション能力に欠如がある。私が蓮治のしたい音楽を翻訳して周りに伝えることで摩擦を押さえ、協力者を増やし、彼を支えてきた。


 蓮治のためにこそ、私の音楽の才もあったのかもしれない。


 真紀が私を送り出すために選んでくれた曲「ふるさと」が、蓮治の指から流れ始めた。どうして今、それを弾くのか。蓮治は音で会話してくる。それを受け取るのが私だ。


 蓮治のアレンジが利いたふるさとの音が語る。そこに乗るはずの歌詞が意味を与えてくれる。


 『志を果たして、いつの日にか帰らん』


 私自身は歌手として大成できなかった。けれど、音楽と生きるという夢は形を変えて続いてきた。私が選んで、自ら続けてきたのだ。


 それは私にとって、私の中で、何よりも誇れることだ。


 私は私の「志を果たした」


 そうか。私はきっとお父さんに、そういう話がしたいのだ。


 翠は清々しい顔で笑い、真紀が涙ぐんだ。


「セレナは、私たちの誇りだよ」

「おかえり、セレナ。今年はハニービーコンサート、一緒にやろうよ!」

「……ありがとう、二人とも。うん、出たい。私、歌いたい」


 歌いたいなんて、意地でも言えなかった。言ってはいけないとさえ思っていた。鍵をかけた言葉が解放されて、喉の鉛がしゅぽんと消えた。


 喉に詰まっていたのは、私の切実な願いだったのだ。



 すっきりした私は振り返って、蓮治がピアノを弾く背中を見つめた。真紀と翠が、私の視線を追ってひそひそ言い始めた。


「ねぇ、真紀。あの人プロだと思わない?」

「わかる……ピアノのプロって感じはしないけど、編曲とか作曲のプロ?童謡ふるさとの独特アレンジからオリジナル曲だろう音まで、多彩過ぎる。さっきから気になって仕方なかった」


 私はくすりと笑った。音楽の耳が肥えた二人には蓮治の腕がわかるだろう。なんだか少し自慢に思ってしまう。


「もしかしてセレナの、彼氏……いやまさか、夫?」

「え、早く言ってよセレナぁ!」


 翠と真紀が勝手に盛り上がり始めると、おもむろに蓮治が立ち上がってピアノの蓋を閉めてしまった。


 私の真後ろに立った蓮治が、翠にも真紀にも目もくれず切実な声を出した。


「セレナさんコンサート出るの?俺も出たい。絶対出たい。ピアノでも何でも弾くから」


 挨拶もできない蓮治に、翠も真紀も高速で瞬きをしていた。私は蓮治を紹介しようとしたが、私を遮った翠がすかさず前のめって蓮治に問う。


「プロの方ですよね?ハニービーではささやかしか報酬が出せないのですが……出演可能ですか」


 ハニービーの質を上げようとする翠はチャンスを逃がさない。現実的な問題を提示した翠に蓮治は即答した。


「セレナさんと同じ舞台に立てるだけで名誉なのに、俺が金なんて求めると思う?」


 誠実に対応した翠に向けて、蓮治は「金欲しがるとか愚か者の発想」とでも言いたげな軽蔑の目を向ける。


「あんたが主催者?俺も出して。むしろ俺の方が金払って出演したい。言い値払うよ」


 おかしなことを言う蓮治に翠と真紀が揃って噴き出した。一発で蓮治が変だと理解されただろう。だが面白がる翠と蓮治の間で、すぐにハニービー出演が決まった。


 翠と真紀にまた連絡すると約束して別れた。とっくに閉店時間を過ぎていたのに、店主は私たちを追い出さずに待っていてくれた。


 真紀の説明によると、私の目撃情報が文化ホールの橘さんから真紀に伝わっていたそうだ。真紀が店主に私を見かけたら連絡して欲しいと根回ししていたらしい。


 古巣の情報網のおかげで、私は二人に再会できたようだった。


 おかげで、良い夜になった。




 旧友と再会した純喫茶を出て、冴えた月の下を蓮治と並んで歩く。蓮治がまだ二月の夜中を歩きたいと言い始めて、ホテルまでの道を付き添っている。寒さの凪いだ夜ではあるが、冬の道を歩きたい人は早々いない。


 車通りも人気もない夜の歩道を、街灯だけを頼りにのんびり歩くと街に二人だけみたいだ。


 私は歩道の真ん中でふと立ち止まって、彼を呼び止めた。


「蓮治」


 隣で鼻歌を歌いながら歩く蓮治が二歩前で立ち止まった。


「何、セレナさん?」


 振り返った蓮治の声が、私の握手会に来てくれた、蜂蜜の彼の声を鮮明に思い出させる。


『いつか俺が、セレナさんが歌いたいと思える曲を作るアーティストになったら……結婚してください』


 寒さで鼻先がほんのり赤くなり始めていたが、喉を冬の空気が通り抜けると清々しい。言いたいことが全部言えそうな夜、私の喉が澄んだ声を奏でた。


「ハニービーの舞台で……蓮治の曲を歌いたいんだけど、どうかな」


 蓮治の口が半開きになり、ぶ厚い前髪の奥の目が大きく見開いた。


「マジで……?」


 私ははっきりと頷いた。耳の周りで冬風の舞う音がして、蓮治が両手で顔を覆う音さえ聞こえそうだった。蓮治は歩道の真ん中で、しゃがみこんでしまった。私もそっとその前にしゃがみこむ。


「……ッ」


 蓮治がすすり泣く音が、蜂蜜みたいに甘く響いた。私はしゃがんだまま、泣いてしまった蓮治を微笑ましく見つめる。


「泣かなくてもいいのに」


 でもその素直さが彼らしい。しばらく膝を抱えてふるふる泣いていた蓮治がふっと顔を上げる。彼の涙目が、ぶ厚い前髪の間から覗いた。


「セレナさん……どの曲にする?」


 私は結婚しましょうと言ったのに、お返事はどの曲に?だ。さすがの蓮治で笑ってしまう。私は歌うならこの曲と、前から決めていた。


「セレンのデビュー曲、ビーハイブ」


 初めて蓮治がストリートで歌っているのを見た時に聞いた、圧倒的で孤独で、なのに懐かしいあの曲。ビーハイブは蜂の巣の六角形を意味する。ハニービー出身の私はその曲を「ふるさと」と解釈しているのだ。ハニービーで蓮治が作ったふるさとの曲を歌いたい。


 目を見開く蓮治が、震えた声で私に訊ねる。


「セレナさんそれってもしかして、俺の曲に……さ、最初から惚れてたって意味……?」

「あたり前でしょ。じゃないと蓮治の隣になんていられない」


 私が歌いたいと思う曲を作りあげ、私と結婚するのが蓮治の原動力だった。その目標を折るわけにはいかず、私は曖昧に答え続けていた。


 けれど私はアーティスト「セレン」のマネージャーだ。その曲に誰より惚れこんでいるに決まっている。


 どう考えても困った男だけれど、音楽と私だけに徹底的に真摯であり続ける姿を側で見てきた。


 音楽に愛された男に、音で口説かれ続けたのは、音と生きていくと決めた私だ。


 さすがに惚れないわけがない。


「もっと早く言ってくれたらいいのに……」

「なんかアーティストとして負けたのを認めるみたいで悔しくてね。ずっと言えなかった」


 私がさっぱり明かしてしまうと、蓮治は摩訶不思議なものを見たかのように真顔だった。


「俺がセレナさんに勝てるところとか、生涯で一つもないんだけど」

「……そういう男だよね、蓮治は」


 私は冴えた空に向かってあははっと笑った。私がぐるぐる考え続けたことなんて、全部飛び越えて行ってしまうのが彼だ。そんな彼の隣にいれば、私は死ぬまで音と生きていける。


 立ち上がった私は、蓮治に手を差し出した。


「蓮治、カラオケ行こうか。歌いたくて仕方ない」

「セレンさんの歌を俺が独占?最高。行く。もう絶対ホテルに帰らない」


 蓮治は私の手をぎゅっと握って、すぐに立ち上がった。私たちはカラオケまで待ちきれず二人で歌いながら夜の道を歩いた。


 初めて指を交互にからめて繋いだ手を、きゅっと握り合ったまま。




 

 カラオケで夜通し歌い続け、迎えた凛と冷たい早朝。

 私の声に酔った蓮治を連れて、私はついにお土産も買わないまま実家の前に立った。


 私が結婚すると言った手前、蓮治がいつ一人でお父さんのところに突撃するかわからない。そんな心配を抱えるよりも、もういっそ蓮治を連れてお父さんに会おうと思ったのだ。


 蓮治と生きていくなら、腹を据えるのだ。

 それに今なら大丈夫。もう、お父さんに会う準備はできてる。


 インターホンを押して、家の中から誰か出てくる気配を感じている間、蓮治は私の緊張と裏腹に隣で鼻歌を歌っている。蓮治はいつもこうだ。ふっと力が抜けた瞬間に、ドアが開いた。


 すっかり白髪になったお父さんがドアを開けて、私と目があった。


「お父さん……」


 お父さんの開いた口から帰れと言われたらどうしようかと思って、やっぱり身が竦んだ。でも一瞬で涙ぐんだお父さんの口からは、小さな言葉が一つ落ちただけだった。


「……よく帰って来たな、セレナ」


 私は涙を堪えきれなかった。耐える間もなくぶわっとあふれた涙で、年老いたお父さんの藍色のセーターが滲む。家の中からはお父さんの好きな焼いた鮭の匂いが漂い、私のデビュー曲が聞こえてきた。


 蓮治が私の隣でふふっと笑う。


「俺がこの前来た時も、セレナさんのデビュー曲が鳴ってたよ」


 お父さん、私の曲をずっと聞いていてくれたのか。それだけでもう、帰ってきて良かったのだと喉が潤った。


「お邪魔しまーす」


 蓮治は涙ぐむ目を擦るお父さんの横を素通りして、私より先に家の中に入ってしまう。お父さんが私と蓮治の背中を交互に見やる。


「セレナ、この前も来たが、あいつは……?」


 鼻をすすったお父さんは呆然と蓮治の後ろ姿を見ていた。私は泣いて笑って忙しい顔をしながらお父さんに言った。


「お父さん、あのね。話したいことが……たくさんあるんだ」


 お父さんは白髪の頭で大きく頷いた。お父さんに招かれて、私はお父さんと一緒に焼鮭の朝ご飯を食べた。鮭をつつきながら、お父さんは私に電話してきた理由を語ってくれた。久々にお母さんの夢を見たからだったそうだ。




 春を迎え、夏で育ち、七月最後の日曜日がやってくる。


 志を果たして、「ハニービー二十周年」のこの日、私はハニービーに帰ってきた。




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