令和5年 次世代のハチミツ
緊張の糸が張り巡らされた豪華なホールで息をひそめ、僕は観客席の一つに埋もれている。次のアナウンスを観客席の誰もが固唾を飲んで待っていた。
僕以外。
「キッズ部門、金賞は橘 律くん」
二つ左隣に座った僕の母さんと、律のママの真紀ちゃんがきゃあと両手を取り合った。
観客席から湧きあがった拍手に包まれて壇上へ向かうのは、遠く四つ左隣の席に座っていた、五歳の律だ。
僕のすぐ左隣から、雫ののんびりした声が聞こえた。
「純也くんも、金賞はりっくんだと思ってたでしょ?」
「それな、意外性なさすぎ……」
僕は一人っ子だけど、小四の雫はずっと一緒に遊んできた妹みたいな幼なじみ。親同士が仲良しで、雫の家と僕の家は年中行き来がある。
「雫は今日、あんまりノれなかったからダメだね~」
「雫は予選に残ったんだから十分だろ。僕なんて全部予選落ち」
雫はムラッ気があるので、ずどんと高い成績を取る時と、今日みたいに鳴かず飛ばずの日がある。でも雫はいつだって平気そうで、その安定したメンタルがうらやましい。
「雫いつも思うけど、コンクールって変だよ。だって雫が審査員なら純也くんが金賞。雫は純也君のピアノ好きだもん。純也くんと同じくらい」
「はいはい」
励ましてくれる雫を適当にあしらう。彼女は昔から、純也くんは王子様だと評してくれていた。だが近頃はすっかり王子様、なんて言ってくれなくなった。
ふがいない僕は、雫にまで格下げされたのだ。
律も雫も、僕と同じピアノ教室に通っている。
まだ五歳ながらピアノコンクールで賞を総なめにする律は才能の塊。おっとり見える雫も、実はピアノコンクールの上位受賞常連者である。
それに比べて僕は、万年予選落ちの中学生一年生。
もうどう考えたって、ピアノのプロは無理だろ。ピアノやる意味とかもうないだろ。コンクールはそんなことを思い知らされるだけの場所だ。
律の金賞に興奮した母さんが僕に話しかける。
「いやもう、さすが真紀と橘くんの子だよね。どこまでも基礎に忠実なのが見事。ねぇ純也、すごいね!」
「……うん」
壇上の律に猛烈な拍手を送る母さんを見ていると、何も言えなくなる。母さんはきっと僕にも、ああなって欲しいのだろうなって思うから。
僕は目の焦点をわざとずらして視界をぼやけさせながら、律に拍手を送った。
毎年七月末には母さんがリーダーを務める音楽コンサートのハニービーがあって、その後はピアノコンクールの季節だ。コンクールの結果が出てやっと解放されたと思っても、僕のレッスンは毎日続く。
朝早く起こされて、母さんから一時間のピアノレッスンを受ける。
母さんは音楽教師で帰りが遅い日が多い。なのでレッスンは朝なのだ。幼い頃から続けてきた習慣だけど、中学生になってからなかなか寝付けない日も多くて朝が辛い。
ピアノ部屋のアップライトピアノの前に座って、鍵盤をおざなりに叩く。母さんの厳しい声が飛ぶ。
「ちょっと純也、集中しなさい」
「だって眠くて」
「眠い眠いってもう。りっくんの受賞を見て、うわぁ僕も弾きたい!とかならない?」
「ならないよ……別に」
「そっかぁ……母さんはなるけどなぁ」
母さんはつまらなそうな顔をして肩を竦めてから、僕の指のタッチを丁寧に指導する。母さんは僕を理不尽に怒鳴ったり、叩いたりしない。
けれど、やんわりとした羽毛布団の上からずっとぎゅうと抱きしめられているように、僕はピアノから逃れられない。
できるだけ母さんの指導を守って弾いたつもりだが、泥船のような曲が流れてしまう。二人でずんと重い空気になっていると、ピアノ部屋のドアが開いた。
「翠、雨だから駅まで送る。もう行かないと時間ないよ」
父さんの優しい声がピアノの音を割ってくれて、やっと今日一番マシな音が出た気がする。
「え!つい集中しちゃった、急ぐね。ありがとう悠太」
母さんがばたばたと駆けて行って、僕はピアノの片づけを始める。父さんが僕の肩を抱いて笑った。
「純也、今日も雨だけど、部活あるのか?」
「うん、地味に筋トレとかする」
「そうか、今日は恵ばあばの家でご飯だからな」
「はーい」
父さんがにかっと大柄に笑って、母さんを車で駅まで送って行った。うちは父さんが家事の中心で、週の半分は恵ばあばのご飯だ。家族全体が母さんの音楽活動をサポートするように動いている。
僕が小さいときに母さんが過労で倒れてしまってから、今の形になったそうだ。
それくらいうちの家族は母さんの音楽活動を大事に想っていて、父さんは音楽を愛する母さんを心から応援している。
そうやって全力でサポートされた母さんが、僕に音楽の道を熱望するのは当然なのだ。
「いってきまーす」
両親が家を出てすぐに、僕も雨の中をひとりで登校する。通学中に音楽を聴くのは危ないので本当はダメだ。だけど、片耳だけワイヤレスイヤホンで好きな曲を流しながら歩く。
母さんはクラシック大好き。
クラシックは嫌いじゃないけど、僕が一番好きなのはJポップ。
日本語の美しい響きや意味の重なり、Jポップが刻んで来た歴史感じる日本独特の音の流れが肌に合う。秋雨が傘を打つ音に合わせて通学路を歩き、自分で選曲した「雨の日に聞きたい曲」のプレイリストを聴くのなんて最高だ。
授業の合間に好きな曲の歌詞をノートに書いたりしながら過ごし、放課後には男子ソフトテニス部に顔を出す。
母さんが勧めた合唱部ではなく、男テニを選んだ。
母さんに向けた「もう音楽からは距離を置きたい」のメッセージのつもりだった。だが、母さんには「部活は別のことをやったほうがピアノへの集中力が上がる」なんて言われてしまった。
男テニは六十代の顧問が一番燃えている部活で、二年生の先輩たちはしょっちゅう集団サボタージュする。
今日は雨なので先輩はほぼいなくて、廊下に響くのは一年生の声ばかり。教室前の廊下で筋トレをやってから、筋トレよりも長い間お喋りする。
一回目の筋トレメニューを終えた僕と奏太は、廊下の端であぐらをかいて座った。前歯が大きくて、同学年の誰よりもとびきり小柄な奏太が言った。
「なあ純也。俺、最近セレンにハマってるんだけど、セレンの曲どれが好き?」
セレンは独特の世界観を持つ楽曲を作り出す名手で、歌も抜群にうまい。
目元を隠した覆面のキャラクター性が特にもてはやされていて、中高生で知らない子はいないと言っていい人気アーティストだ。
「セレンいいよね。歌のテクがヤバい。僕はアルファポリスかな」
「え、デビュー曲じゃん?!どの曲が好きか聞いたら大体みんな、最近のドラマの主題歌を言うのに!」
「最近のもいいけど、デビュー曲はやっぱり圧巻だよ。セレンを語るならそこからじゃなくちゃ」
「うっわ、俺もそう思う!純也、話わかる~!」
そこからJポップの話が盛り上がり、音楽談義は尽きなかった。奏太とは音楽の趣味が合うのだ。
音楽の話では特に早口になる奏太は、同じ一年生で、僕のダブルスのペアだ。
奏は背が低いから、ペアになって損だなと正直思っていた。背が小さいとスポーツは勝ちにくい。僕は背が高くて運動神経も悪くないから、やるからには勝ちたい気持ちがあった。
でもペアになって、一緒に時間を過ごすようになってわかったけれど、奏太は小柄な体にたくさん背負っているのだ。
奏太は「家が貧乏なんだ~」とか「俺、身長伸びない病気なんだよね!」なんてあっけらかんと言う。傍から聞くだけで「なんか大変そう」が揃ってるのに、奏太には悲壮感が全くない。
他のペアが「あいつ負けても自分のせいじゃないって顔して腹立つ」なんて相棒の陰口を言い始めているのを聞くと、勝てないけど「良い奴」の奏太がペアなのはアタリだと思う。
廊下の端で話し続けていた奏太が、ひょいと立ち上がって言った。
「純也、そろそろもう一回筋トレやろっか」
「え、奏太まだやる気あったんだ?」
「だって先生が5セットやれって言ってたでしょ」
前歯を出してふへっと笑った奏太と一緒に腕立てを始める。
奏太は「部活は無料でできる習い事、神!」と言ってしまう軽さなのに、思いのほか生真面目だ。目上の人の言いつけは守る長男っぽさがにじみ出る。
一人っ子で躾厳しめで育った僕と、真面目さの基準が同じな奏太と一緒にいると、すごくラクだった。
奏太といるときは、僕をやんわり逃がさないピアノの綿を感じないのも、とても良い。
秋のシルバーウィークには、雫の家族と、僕の家族でバーベキューをする。今年は雫の家の庭で開催されることになった。
爽やかな陽気の庭に置いたバーベキューセットで、雫パパと父さんが炭で火を起こして肉を焼いてくれる。母さんと真紀ちゃんはそれぞれサラダやおつまみを用意していた。
肉汁がほどばしる牛肉が炭火で焼かれ、香ばしい香りに誘われた大人たちはビールを飲み始める。酔い始めた母さんと真紀ちゃんはいつも同じことを言い合う。
「セレナ、元気にしてるよね……」
「もう真紀、あたり前でしょ!」
母さんはそう言いながら真紀ちゃんの背中を撫でるのだ。真紀ちゃんが母さんを抱きして慰め合うまでがいつもの流れだ。
親友だというセレナに、僕は一度も会ったことがない。もはや本当に存在するのか俺の中では怪しくなっている。
母さんたちを横目に肉をがっつり食い終わると、雫に呼ばれた。
「純也くん、あーそぼ!」
「うん、いいよ」
大人たちの宴会の先はまだまだ長いので、僕と雫は家の中に戻って遊ぶことにした。整頓されたナチュラルっぽい家具が可愛いリビングに入ると、雫がトランプを持って来た。
「純也くん、ブラックジャックやろ」
「いいよ。負けても泣くなよ」
「じゃあ、純也くんは雫を泣かさないようにいい感じで負けてね」
「なんだそれ」
雫がくすくす笑うので、僕も釣られて笑いながらカードを配る。雫はどうも憎めなくて、まあたまには負けてやるかと思う。
僕の手加減で雫がにこにこ三戦連勝したとき、庭から律も戻ってきた。五歳の律が小さな声で定型句を言う。
「ぼくも入ーれーて」
雫がしゃっと断る。
「ダメ~律はまだ足し算わかんないでしょ。それに純也くんは雫とだけ遊ぶの」
「ぼくも……純也くんと遊びたい」
雫も律も引かなくて、同じ応酬が続く。
僕も、律を仲間に入れたくなかった。
律は賢くてわがままも言わない。輪の中にいるだけで一緒に遊んでると思える物静かな子だ。でも小さい子がいるとできる遊びが減って窮屈になる。
なんて言い訳を並べたけど。
正直に言って僕は今、あまり律と仲良くしたい気分じゃないだけだ。
なぜかって、その理由を認めるのが嫌で、僕は立ち上がってブラックジャックを終わりにした。
「雫の部屋でYouTube見ようよ。セレンの新着動画が良かったからさ」
「見る見るー!」
僕がスマホを見せて、雫の部屋へ行こうと誘って階段を上り始める。律も静かに僕たちの後ろをついて来た。
「りっくんはダメ!」
雫が振り返って大きな声ではっきり言う。姉は弟に容赦がない。
「……ぼくも」
「りっくんは庭でパパと遊んで!」
「雫、行こう」
律が引かないので僕はさっさと雫の部屋に入った。雫は何度も律に庭に行ってと言ったが、律は部屋の前までついて来ていた。僕は雫の部屋のベッドに座ってぽろっと言った。
「ドア閉めたら?」
「りっくんあっち行って!閉めるからね!」
「やだ!」
「あぁ!」
雫が部屋の引き戸を勢いよく閉めたとき、律の手首が戸と壁の間にバンと挟まってしまった。一瞬のできごとで、僕もハッとしたけどもう遅かった。戸に手を挟まれた律が烈火のごとく泣き出した。
「いたいぃ!」
「りっくんごめん!大丈夫?!」
律の泣き声に雫が反射的に謝った。
すぐ真紀ちゃんが飛んできて、律は手を冷やしてもらった。幸い大事には至らず、少し赤くなっただけで済んだ。だが、雫と僕は事情を聞かれて、それぞれの親からじっくり叱られた。
家に帰ってからも僕はリビングのテーブル席に座らされ、母さんの大ため息を受け続けた。父さんは隣でもういいだろうと何度か言ってくれたが、母さんは懇々と僕を責めた。
「どうしてこんなことになるのよ……一緒に仲良く遊べば良かっただけじゃない。そうでしょ、純也。あんたが一番年上なんだから」
律は僕が得られない栄誉を持っている。だから少しくらい寂しい想いさせたって良いだろうって、ちょっとだけ、思っただけだ。
けれど、律の手はピアニストの手。
律の手を壊したいだなんて、一瞬だって思ったことはない。僕は母さんに、僕の気持ちを一音だって口にできず、ただごめんとだけ言った。
自室のベッドで布団に入った僕はその晩、自分のやったことに心底からゾッとした。布団をいくら身体に巻きつけても背筋が痛いくらい冷たくて、律に謝りながら泣いた。
シルバーウィーク明けの放課後、部活着替え用の教室で奏太と顔を合わせた。奏太は僕の顔を見た途端にこてんと首を傾げた。
「あれ?純也、お腹痛い?」
「え、別に痛くないけど、なんで?」
「なんか痛そうな顔してたから」
へへっと笑った奏太が着替えをし始める。僕は目をしばたかせた。
「奏太って察し良いね。何で?」
「あれ、当たった?空気読めるってよく言われるのはねぇ、たぶん長男だからかな。ママの機嫌と、弟妹の機嫌。俺がみーんな読まないと家族に平和がないからね!」
奏太が笑うと前歯がのぞく。僕より背がずっとちっちゃいのに、奏太は家族を守ってるのか。奏太の器はでっかいな。
「じゃあ僕も、奏太お兄ちゃんに甘えようかな」
「ええー?何か甘えたいことあるんだ?」
もう体操着に着替えていた僕は、律の手を怪我させてしまったことを告白した。僕の俯いた声がしぼんでいく。
「一緒に遊んであげれば良かっただけなのに……僕、意地悪だった」
「えー純也めっちゃ優しいね。俺そんなのしょっちゅうやるよ?」
「どういうこと?」
着替え終わった奏太とお揃いのラケットを持って中庭に出る。奏太と準備運動をしながら僕は話の続きをねだった。奏太は不思議そうに言う。
「年下の子と揉めて、ちょっと怪我した話でしょ?俺は弟にも妹にも、あっち行けとか、遊びたくないとか、余裕で言うよ」
さっき、家族の平和を守っていると言った口で、奏太はけろっと言った。
「奏太は妹とか弟に、け、ケガさせたことあるの?」
「あるある。わざとじゃないよ?でもちょっと押したら妹が机の角で顎をがーんてやって、青紫になったことある」
奏太はけらけらっと笑って悪びれない。僕たちは中庭の開いた場所で、ソフトテニスボールを打ち合い始めた。ラケットの面に当たるとパシンと小気味よい音が鳴る。
「ケガして、どうなったの?」
「ごめんって言って、いいよってなった」
「それだけ?」
「それだけ。そんでまた同じようなこと何回もやってるけどー!」
あっははと奏太は俺って悪いな~と言いながら、僕の取りやすいところに優しくボールを打ち返す。ラリーを続けながら、僕が重く背負っていたものがどんどん打ち落とされていった。
きょうだいってそんなに雑にぶつかり合って、回復するものなのか。
年があまりに離れているからわからなかったけど、もしかして僕と律は初めてケンカをしたのだろうか。ボールとともに奏太の間延びした声が届く。
「もしかして純也って、ケンカしたことないのー?」
奏太に問われて考えてみると、確かにあまり覚えがない。
雫とは小さい頃はしたかもしれないが、互いの親がすぐ間に入っていた。それに親とはケンカというほどぶつかったことはない。すぐ理性的な話し合いに持ち込まれる。
「な……ないかも!」
「へぇ、うらやましい!ケンカも仲直りも、練習すればいいだから~!だいじょーぶだよ!」
奏太がボールを大きく打ち上げた。ボールを追って顔を上げると、澄んだ青空が目に入った。見上げた視界が高く抜けた。
そっか、練習するのって、ピアノとか、テニスだけじゃないのか。
もう取り返しがつかないと思ってしまった。でも練習なら、何回もやり直せる。そう思ったら、ものすごく軽くなった。奏太の声が聞こえる。
「ミスった、ごめーん!」
「いいよ!」
僕は奏太が打ち損じたボールを取りに、走った。
部活が休みの週末、僕は初めて奏太の家にお邪魔した。ケンカも練習と聞いて、ケンカを重ねても仲が良いきょうだいってどんなものなのか興味があった。
同じような家が立ち並ぶ住宅街の一戸建ては、渋い橙色の瓦屋根が古めかしく、色褪せた壁は昭和風ながらとでも言うのかも。
古風なドアを開けて奏太が顔を出した。
「純也、いらっしゃい!今、妹と弟が絶賛バトル中だけど、どうぞ~」
さっそく妹は泣いているらしいが、奏太はへらっと笑っている。家の中からはわーわー泣いている女児の声が聞こえた。
「僕、今お邪魔して大丈夫?」
「平気平気。うち、ケンカしてない日とかないから」
うらやましくはないが、なんて逞しいのかとは思った。
奏太に案内されて子ども部屋っぽいところに案内された。畳の居間と子ども部屋が地続きでどちらも狭く、玩具や服が床に散らばっていた。お客さんが来るのに片づけない家なんてあるのかと、ちょっと驚いた。
「だれ……?」
「俺の友だち。来るって言ってただろ」
「お邪魔します。純也です」
挨拶をしたが返事はない。律と同い年くらいに見える妹ちゃんは僕の顔を見てはたと泣き止んだ。隣でむすっとした顔をしているのが小学生の弟くんか。
弟くんは僕をじろっと睨みつけてから、泣いていた妹の手を引いて二階に上がって行った。奏太がくすくす笑う。
「弟、照れてるね」
「そうなの?てか、二人ケンカしてたのに、弟くんは妹ちゃんを置いて行かなかったね」
「そりゃあ妹だもん。二階に行ったらまた二人で遊ぶよきっと。そんでまたケンカすんのウケる~」
なんかそういうのって良いな。いくらぶつかったってパキっと折れたりしなくて、しなやかにびよんと元に戻る感じ。何かあった時にいちばん、強い感じがする。
奏太はけけっと笑いながら、テレビ台の中からニンテンドースイッチを取り出した。
「純也、ゲームしようよ」
「うん、いいけど。奏太のお母さんは?」
「仕事~うちは父さんも、ばあちゃんも、じいちゃんもいないから。夜まで三人でいることよくあるよ」
僕も留守番することはあるが、奏太はきょうだいの世話もしつつの留守番か。僕の頭に家族みんなの顔が浮かんだ。僕には全部いるのに、奏太はいないのか。
家を片づける時間がないほどお母さんは忙しくて、きょうだい三人でケンカしても、子どもだけでがんばらなくちゃいけない。
古い家に、散らかった床。
ここにはピアノなんてお金がかかるものはなくて、背が伸びない奏太は習い事に行けず、弟妹の世話をして過ごす。ふと、憐れむような気持ちが湧いてしまう。
でも、たぶんだけど、そんな中でも、毎日楽しそうに生きている奏太を、可哀想なんて言ってはいけないんだと思う。
けれど奏太の事情を目の当たりにして、僕は恵まれているんだと、気がついた。
家族がみんなそろっていて、何の苦労もなく好きな音楽に囲まれ、当然のようにピアノに触れてきた。それがどれだけ裕福でラッキーなことか。
それに今まで気づかなかったことが、なんだかじくりと痛かった。
奏太が考え込んでいた僕を覗き込む。
「純也、どうしたの?お腹空いた?」
「……奏太ってすぐ身体の心配するね」
「人間の機嫌が悪くなるのは、お腹空いたか、お腹痛いときだからね」
「たしかに、それはある」
お互いに前歯を見せて笑い合った。僕は部屋をきょろっと見回してたずねた。
「奏太は家で何して遊んでるの?」
「お下がりのスマホでYouTube見たり、サブスクで音楽聞きまくったり!」
「家が貧乏って言ってたのに、それはできるの?」
「母さんが音楽好きならこれくらいはって課金してくれた。音楽サブスクって安いから助かる」
僕もサブスクを使うが、周りの音楽と言えばピアノのクラシックが主流だ。発表会もコンサートもレッスンも全部お金がかかる。
でも奏太にも音楽が届くなら、お金がかからない音楽って絶対大事だと思う。
僕は音楽って、みんなのそばにあって欲しい。
僕が持って来たポテトチップスを食べてから、奏太が去年の誕生日に買ってもらったというバトルゲームで遊んだ。たくさんゲームを買ってもらえない奏太は一つのゲームをとことん極めているそうだ。
奏太は今の環境で楽しくする方法を知っていて、そういうところ、本当にかっこいい。
でも初心者の僕と奏太がチームになってゲームに参加すると負けが混んだ。勝敗率はぐっと下がってしまった。僕はテレビの前でしょんぼり肩を丸めた。
「下手でごめん……」
「えー?上手にできなくちゃダメなの?」
「え……?」
奏太の短い声が、僕の頭にある何かのスイッチをカチンと弾いた。
奏太がはいどうぞと僕にコーラのペットボトルを渡してくれた。ぷしゅっとさっぱりした音を立てて、奏太が蓋フタを開ける。
「友だちとゲームするときは勝ち負けどうでもいい。一緒にゲームしてたらそれだけでなんていうの?良い時間って感じだよ」
そういえばいつの間に、上手じゃなくちゃいけなくなったんだろう。
今朝も弾いたピアノの感触が思い浮かぶ。
勝ち負けはどうでも良くて、ピアノを弾いているだけで、良い時間があったじゃないか。どうして僕は忘れていたんだろうか。
記憶のフタが開いたみたいに、律と一緒にピアノを弾いた日を思い出した。
あれはたぶんいつかのハニービーの日だ。
まだお客さんを入れる前の静まり返ったメインホール。本番前の静寂な光が満ちる壇上で、プロに調律されたばかりのグランドピアノを弾かせてもらったことがある。
まだ小さい律と一緒に二人で並んで座って、二人で鍵盤を叩いた。
誰もいないホールに反響する一音が透き通るように美しくて、全身に降り注ぐような音の鮮明さにわくわくした。まるで光に透けた虹の彩りみたいな音の粒は、蜂蜜みたいに耳に甘かった。
たどたどしく子犬のワルツの主旋律を弾く律に合わせて、僕が伴奏を弾いた。律はへたくそで、僕も間違ってばかりだった。
でもあのとき、僕はただ、楽しかった。下手で、上等だった。
あの泣きたくなるような、笑いたくなって抱きしめたくなるような一音の粒の美しさと、人とともに奏でた音にしかない極彩色の歓びを。僕は知っていたじゃないか。
あの音の甘さが胸いっぱいに蘇る。
ああ、そっか。母さんはこの代えがたい歓びを決して失くしたくないから、仲間とハニービーを続けるのか。母さんがハニービーにこだわる意義が僕の心にぴたりと重なった。
指先が急にむずがゆかった。
僕の指が、猛烈にピアノが弾きたがっていた。
奏太がぐびぐびコーラを飲んでから、げぷっとゲップを出してげらげら笑いだす。
僕も思わず笑ってしまいながら、奏太にコーラを傾けて乾杯しようと誘った。
僕は奏太とコーラのペットボトルをぶつけ合う。
「よし!下手くそだってやってやるー!」
「そうだそうだー!人生楽しんだもん勝ちー!」
二人でごくごくコーラを飲んで、二人合わせてげっぷをして、バカみたいに笑いまくった。帰ったら母さんに言おう。律に謝りたいって。
次のピアノの教室の日、レッスンを終えたあと橘家に寄った。雫の家はいつだって綺麗に整っていて、僕と律と雫の三人でピアノ部屋に閉じこもった。僕は大人に聞かれたくないからと言って、母さんも真紀ちゃんも追い出した。
アップライトピアノが置いてある五畳のピアノ部屋のフローリングに、三人で三角形に座った。
「純也くん何のお話?」
「なーに?」
律と雫はそろって首を傾げる。二人はすっかり仲直りしているようだ。やっぱりきょうだいって柔軟だなと思いながら、僕は律にぺこりと頭を下げた。
「律、この前は遊びに入れてあげなくてごめん。手も痛かったよね?」
「え、もうなおったよ?」
「そうだよ、純也くん。りっくんはあの後すぐにピアノ弾いてたし、大丈夫だよ?」
二人からするともう遥か前の出来事みたいで、今さら何の話だという顔をされる。でも僕の中では終わっていなかったから、考えたことをちゃんと話す。
これは僕の家の、流儀だろう。
「律にきちんと話したかったんだ。僕さ律の金賞……あんまり喜べてなくて、いいなぁっていっぱい思ってて、それでちょっと意地悪な気持ちで仲間外れにしちゃったんだ」
律の丸い目が僕をまじまじと見ている。中学生が五歳にうらやましかっただなんて情けない。
けど、そういうのって隠す方が僕はカッコ悪いと思うんだ。奏太みたいにさらっと明かして笑い飛ばす方がつき合いやすい。
僕も律にとって、そういう良い感じのお兄ちゃんでいたい。
「だから、この前はごめん……」
自分の小ささを晒すのって、舞台上で急に楽譜が頭からふっとんだ時みたいに怖い。でもそういうとき自分を支えるのは、いつだって練習だって僕は知ってる。律は大きな声ではっきり言った。
「いーいーよ!」
律の定型句は小さい子が反射的に口にするものかもしれない。でも僕は嬉しくて、へへっと笑った。雫がぱっと立ち上がって、ピアノのフタを開け始めた。
「じゃあさ、仲直り終わったから、ひさびさに三人で何か弾く?」
「弾く!」
「僕さ、最近好きな曲があるんだ。クラシックじゃないけど良い?」
「即興耳コピかーできるかな~りっくんは無理じゃない?」
「できるよ!」
雫と律がまたいーっと言い合い始めたが、僕はまあまあと言いながらYouTubeをかけてセレンの歌を紹介した。
「セレン良いね!雫好き!」
「ぼくもぼくも!」
「だろ~」
なぜか僕が自慢げに鼻を伸ばしながら、三人でパート分けしてしばらく練習した。さすがに実力者の二人は呑み込みが早くて、サビ部分までならすぐなんとなくの形にはなった。
「じゃあ行くよ」
三人で立ちながらピアノを連弾して、思わず三人の足が飛んで跳ねて踊ってるみたいに夏の青空みたいな曲を奏でた。最後の一音がパンッとそろって、三人で顔を見合わせて弾けるように笑った。
「雫たちめちゃうますぎじゃない~?金賞より優勝って感じ!」
「やった!ゆうしょう!」
二人と一緒に僕もハイタッチしてはしゃいだ。興奮冷めやらぬ勢いだけで、僕はちょっとだけ考えていたことを二人に言ってしまった。
「あのさ、大人になったら三人で『ハニービーJポップ』をやらない?」
「え、まさかハニービーのJポップバージョン?!」
「そうそう、有名アニメの曲とか、日本のフォークソングとかクラシック寄りじゃない曲目でやるの!」
「ぼ、ぼく、ジブリの曲やりたい!」
「律それいい!僕も思ってた!」
三人でありもしないハニービーJポップの話で夜遅くまで盛り上がった。クラシックと童謡は母さんたち元祖ハニービーが続けていくんだから、遊び心いっぱいのJポップバージョンを立ち上げたら面白そうと思ったのだ。
アップライトピアノの前で三人、三角形で座って頭を寄せる。僕はこそりと言った。
「母さんたちには内緒な。大人になったらびっくりさせてやろう」
「おっけ~雫、そういうの大好き」
「ぼくも内緒できるから!」
三人で小指を出し合って、指切りげんまんと、約束の指を絡めた。いつの日か、この約束を叶えるためにだけでも、音楽を続けていけるなと僕の遠い楽しみができた。
二人と絡めた僕のピアニストの指が熱く、たぎっていた。
僕は中学二年生になり、次の夏が訪れた。七月最後の日曜日。
開場前のメインホール前で、僕と雫はソファに座って一緒にセレンの動画を見ていた。今年もプロの調律師が来てくれて、コンサート前の最終微調整を見せてもらった。
雫の父さんの友だちだというプロ調律師は腕が最高なのに、顔がモデルみたいにかっこいいのだ。あれこそ王子様。律が特別に懐いていて、調律師さんが来たら離れない。
僕は隣に座る雫に聞いた。
「雫はあのイケメン調律師の人のこと王子様って思わないの?」
「え、まあイケメンだな~と思うけど別に」
興味なさそうなそっけない返事がセレンの歌に溶けていく。静かな開場前の空気で僕は胸にひっかかっていたことを聞いてみた。
「なぁ雫、どうして俺のこと王子様って言わなくなったの?」
雫がスマホから顔をあげて僕をまっすぐ見た。雫の声は風鈴みたいに涼やかだ。
「え、だって、雫は庶民でしょ?純也くんが王子様だと、身分がちがいすぎて結婚できないんだって。だから純也くん庶民でいてね~」
雫がにぱっと笑うと、蜂蜜の匂いがした。さっき食べていた蜂蜜アメのせいだ。僕は甘い香りにふふっと笑った。雫にまで格下げされたかと思ってたけど、全然違ったみたいだ。
自分がお姫様だとは思わないらしい。コンクール常連者の雫は、上には上がいることを身に染みて知っていて、意外と現実的だ。
雫のそういう地に足つけてるところ、隣に居やすい。
「雫、僕もアメちょうだい」
「はいどうぞ~あ、純也くんの最近の練習動画見せてよ。純也くん教室が変わったからなかなか弾いてるとこ見てないし」
「いいよ、最近やっとセレンの曲弾かせてもらえるようになったんだ」
「やったね~」
雫と同じ蜂蜜アメをなめながら、僕が確認用に撮っている動画を二人で見た。去年、律と仲直りしてから、僕は母さんに正直な気持ちを伝えた。
「僕、Jポップを学んでみたいんだ。クラシックのコンテストはもう下りたい……音楽を好きでいたいから」
ケンカも練習だ。もしケンカになっても仲直りすればいいと思えば、ありったけの気持ちを言えた。
「純也が……音楽を好きでい続けるための決断をしてくれてよかった」
僕をクラシックに引き止めることは一切せず、涙目で笑った母さんの声を忘れないでいようと思った。
僕は今、新しいピアノ教室でクラシックとJポップ、さらに作曲も習っている。
せっせと音を運んで遊び続けると、たまにとろりとした蜂蜜みたいな瞬間が訪れてものすごく高揚する。そしてまた僕は働き蜂みたいに、蜂蜜を求めて音を運ぶ毎日だ。
がりっと蜂蜜アメを噛むと、開場が始まった。ホール前に来場者がぞくぞくと増えてきた。雫と別れ、メインホール前で、僕は奏太を迎えた。部活の時に奏太をハニービーに誘ったのだ。
「純也~」
「いらっしゃい、奏太」
僕と同じく部活ですっかり日焼けした奏太はそわそわして、周りを見回していた。こういう音楽コンサートに来るのは初めてだと言っていた。
「本物のコンサートホールだね。俺、お金ないけど、大丈夫?」
「無料だから平気」
「本格的なのにすごいね」
「母さんが、生の音楽の音を色んな人に聞いて欲しいから無料にこだわるんだって言ってた」
僕もそう思う。奏太みたいに裕福でない家の子だからって、音楽との繋がりが絶たれるのは嫌だ。サブスクで音楽を聴くことはできるけれど、生の音楽には生の震えがある。僕も奏太に、生の音を知って欲しい。
へぇと感心する奏太を客席に案内して、ハニービーが始まった。指揮をしているのが母さんだと伝えると、奏太が隣に座る僕に耳打ちした。
「純也の母さんマジかっこいいね」
「でしょ」
僕は前歯を見せて、にかっと笑った。生の楽器合奏に、ゲストに招いたプロのヴァイオリン奏者の演奏、ピアノ連弾に女声合唱。どの演目にも奏太の口は半開きで前歯が乾いてしまうくらいの集中だった。
最終演目はいつも決まって、日本の古い童謡「ふるさと」の客席を巻き込んだ全員での合唱だ。
普段はJポップの話ばかりする僕らだけど、僕と奏太は時おり顔を見合わせながら一緒にふるさとを歌った。
ハニービーの幕が下りた瞬間、奏太は焼けた肌で明るい夏みたいに笑った。
「古い歌もいいよな~!」
「それな!」
前歯を見せて笑い合いながら、僕はずっと蜂蜜の音を紡いでいく。




