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ふるさとのハニービー  作者: ミラ


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3/7

平成27年 筋トレニートおじさん

 三十五歳の俺は、母の年金と資産に寄生して暮らしている。


 外に出かけるのは母さん、道子の用事に付き添うときだけだ。運動量が少ない暮らしだと、すぐ太ってしまう年齢に突入していた。


 ぽこっと出てきた腹が気になり、筋トレを始めた。だが築40年の一戸建てで小太りが運動し始めると、家が揺れた。母さんに地震かと思うからやめろと言われ、家の駐車場で筋トレをしている。


 冬空を見上げながら駐車場で腹筋していると、家の前をランドセルを背負った男子二人組が通る。近所の子だ。何を話すわけでもないが、幼い時から存在は知っている。


 彼らと目が合ったが、二人はこそこそ話しながら去っていく。


「またやってるよ」

「出た出た、筋トレニートおじさん。働けよなー」


 「筋トレニートおじさん」だなんて小学生もうまいことを言う。的確で、残酷な事実だけを並べてくれる。社会的に底辺な俺が支配下におけるのは、俺の筋肉くらいだ。


 筋トレで汗をかいたあと、風呂から出ると母さんが作る味噌汁の香りがした。壁付の台所へと引き寄せられる。


 夕暮れの橙色の光が窓から入り、母さんの曲がった背中が台所の背景と溶け合っている。俺は今朝ケンカした母さんの隣に並んで、くつくつする鍋を覗いた。豚汁だった。俺はぼそりと言う。


「朝はごめん、母さん」


 母さんの韓国ドラマDVD収納箱に俺が躓いて、箱を歪めてしまったのだ。母さんがあんたはいつも鈍臭い!と怒り、俺は床に置かないでよとピリついた。だが夕方になれば、怒りも収まる。


 母さんのしゃがれ声に呼ばれた。


「寛人、魚を焼きや」


 俺のごめんに、母さんは何も言わないままいつもの会話を始める。それが俺たちの仲直りの型だ。俺もその型に添ってもうケンカは終わりにする。


「今日は何の魚?」

「そりゃあ、冬の旬はブリやろ。照り焼きがええな」


 母さんは鍋をかき回し、俺はぷりっとしたブリを焼き始める。もう三年ほど無職の俺は母さんに家事を叩きこまれてきた。


 家にいるなら家事をしろ、は真っ当な意見だったので素直に学んだ。


 白ご飯と味噌汁に、主菜。主菜は買ったものでも刺身でも何でもいいから、この型を整えろと仕込まれた。


 焼けた醤油の甘い香りが台所に漂う。


ブリの照り焼き、白ご飯の湯気と野菜の肉の旨味が詰まった豚汁を前にすると、「型」の意味のようなものが香りのようにふわりと立ち上がることがある。


 俺のように型からはみだした人間は惨めだ。されど型があることで、ああ今日も生きたな、と安心できる。


 居間の机で母さんと向かい合って定番の夕飯を食べ終わると、母さんに薬の箱を渡す。


「すぐ飲まないと飲み忘れるよ」

「ほんますぐ忘れるからな!」


 からから笑う母さんは通院のたびに薬を大量にもらう。俺が毎食ごとに整理してあるのだ。服薬管理が必要なんて、母さんも年を取った。


「お、ええ選曲や」


 薬を飲んだ母さんはテレビに食い入る。テレビの音楽番組で「ふるさと」の合唱が流れ始めた。母さんのお気に入りの曲だ。


 そういえば、母さんのふるさとはどこだろう。


 母さんの生まれは大阪だ。だが母さんは転勤族の父に付き添い、日本の各地で暮らしてきた。


 ひとところにいたわけではないので、母さんは訛りが抜けない。俺は各地で暮らしてきたからこそ、標準語だ。


 十年前、定年した父は朝起きたら布団で死んでいた。ぴんぴんコロリの心不全。


 今住んでいるこの古い家は、父が定年後に自分で改装すると言って買った中古住宅だ。改装する前に父が死んだので、家はぼろいまま。


 けれど全国を跳び回って暮らして来た母さんは、やっと落ち着いて暮らせる家を手に入れたと、この家に愛着を持っていた。


 俺が段差のない賃貸に引っ越そうと持ち掛けても「うちの終の棲家はここや」ときっぱり断られた。たぶん母さんは、この家を最後のふるさとにしようと決めたのだろう。


 母さんはテレビから流れるふるさとを聞きながら、食後のほうじ茶をすすった。


「夏のハニービーが楽しみやな」

「今年も向日葵を送るつもり?」

「あたり前や」


 ハニービーは母さんが毎年通う、アマチュア音楽コンサートだ。俺も送迎ついでに三年前から聞いている。母さんは毎年匿名で向日葵の花束を贈るくらい、ハニービーのファンだ。


「いつまで続ける気?匿名の花束」

「死ぬまでや。向日葵の人って呼ばれるようになったら、浪漫あるやろ」


 ふるさとの曲が終わり、母さんはテレビに拍手を送った。「向日葵の人」にどんな浪漫があるのかわからない。だが、今年も夏になったら、俺は母さんに付き添って花屋へ行く。

 七月最後の日曜日には、ハニービーで「向日葵の人」をする。それが俺と母さんの暮らしの決まったリズムだ。


 細雪が降る二月。母さんの病院帰りにスーパーに寄った。母さんはスーパーの買い物カートを押すと背筋がしゃきっとする。母さんにとって、スーパーはテーマパークだ。


 のんびり店内を巡っていると、後ろから声をかけられた。


「あの、もしかして寛人先生ですか?」


 今では懐かしいその呼び方に足を止め、くるりと振り返る。そこにはぽてっと丸い体の小柄な女性が立っていた。俺の口がぽかりと開いた。


「望月、詩織……?」

「そうです、覚えてくれてるんですね、先生。お久しぶりです」


 詩織は大福がたわむような頬で笑う。


 彼女は俺が塾講師をしていたときの教え子で、あの頃は高校生だった。だが、薄く化粧をした彼女は立派な大人になっていた。戸惑う俺に母さんの声がかかる。


「あんたら、立ち話するんやったら邪魔やから向こう行きや。私はまだゆっくり見て回るからな」


 母さんは俺と詩織を置いてさっさと行ってしまった。詩織は母さんの背中に会釈した。詩織が俺の顔を見て訊ねる。


「先生のお母さんですか」

「そう、二人暮らしで。まだまだ元気だよ。良かったら少し話す?」


 懐かしい詩織をレジの向こうにある休憩所へと誘う。年寄りや子連れ客がよく座っているベンチが並んでいる場所だ。紙カップ飲料の自動販売機で、熱いココアを二人分買った。


「先生は今でもココア派ですか」

「コーヒーは胃に合わなくてね」

「前も塾でそう言ってました」


 高校の頃からまるっこい印象だった詩織は、今もふくよかに微笑む。隣に座った詩織が紙カップの湯気に息を吹きかける。ココアを一口飲んだ詩織が甘い息で話し出した。


「あの頃、先生が英語を徹底的に教えてくれましたよね。私は今、海外ツアーガイドなんてやってるんですよ」


 詩織がちょっと自慢げに笑う。ほがらかな態度で、どこか自分の親戚にいそうな親近感を持たせるのが詩織だ。きっとツアーに来たお客たちに安心を与えていることだろう。


「詩織の英語力はあの頃から高かったけど、そのあとも努力し続けたんだな。立派になって、偉いよ」

「先生に褒められると嬉しいです」


 詩織は今の仕事のやりがいや、母親が海外にいることなど、身の上話を語った。彼女の充実感が詰まったような頬が笑うたびに、俺もやわらかい大福みたいな気持ちになった。


 ココアを飲み切ると、買い物を終えた母さんが俺を迎えに来た。


「ほら寛人行くで。お客さんもおいでや」

「え、いや彼女は」

「久しぶりに会ったんやろ?立ち話で済ませるなんてありえへんで」


 ハードな短髪で兎の襟巻をつけた母さんは、第一印象、どうしてもガラが悪い。詩織の背中がぴっと緊張したのがわかる。母さんは詩織に言った。


「あんた、夕飯食べに来るやろ?今日はキムチ鍋やで」

「は……はい、ぜひ!」

「さあ帰るで、二人とも。車に乗りや」


 母さんの有無を言わせぬ強い口調に俺も詩織もしぶしぶ従った。


 母さんの後ろを歩きながら詩織に「強引でごめん」と言うと、高齢の方から食事に誘われるのは仕事で慣れています、なんて大人な対応をされた。


 俺たちの家は古いが、清潔感はある方だ。母さんは整頓、俺は掃除の役割分担が行き届いている。


 居間の炬燵に母さんと詩織が入って温まり始めた。詩織がうちにいるなんて、変な感じだ。


 夕飯の準備は俺がして、二人には居間にいてもらった。俺が台所で白菜を切り始めると、二人の会話が聞こえてくる。


「詩織ちゃんは韓国ドラマを見るんか?」

「実は大好きです。ツアーガイドの仕事で韓国にも行くので、ドラマの撮影場所に行ったりしてます。道子さんはどのドラマがお好きですか?」

「うちは、ボゴムくんが出てるやつや」

「あーわかります!」


 詩織は意外にも母さんと韓国ドラマの話で盛り上がっていた。ツアーガイドの仕事柄、高齢者との関わりが多いのだろう。詩織は聞き役になりつつ、話をつなぐすべに長けている。


 にんにくと唐辛子が混ざったキムチの食欲そそる香りが居間を満たし、俺は大鍋を居間の机に置いた。詩織が明るい声を上げる。


「わぁ、美味しそう!寛人先生ってお料理できるんですね!」

「料理ってほどじゃないけど……」

「ようさん食べや」

「では遠慮なく」


 三人で炬燵の食卓を囲み、キムチ鍋をつついた。まるっこい詩織は食べっぷりが良くて、母さんが大いに喜んだ。母さんにビールをつぐのを忘れない詩織には頭が下がる。


 まるい詩織は好印象だが、小太りのニートおじさんはいただけない。


 小太りになりかけた体を筋トレで引き締めておいて良かった。しみじみ思いながらキムチの辛酸っぱさを噛みしめた。


 長居させようとする母さんを引き離して、俺は詩織を車で家まで送ることにした。もうすっかり日が暮れている。駐車場の車に二人で乗り込みながら、詩織が驚いたように言った。


「この車って、私が塾に通ってたころと同じ車じゃないですか?」

「そう、まだ現役なんだよ」

「もしかして車の芳香剤、金木犀の香りも同じ?」

「よく覚えてるな」


 感心して言うと詩織が明るく笑う。詩織を助手席に乗せた底冷えの細雪の夜なんて、十年前と同じ状況だった。


 詩織が大学受験を間近に控えた冬のこと、彼女が家を飛び出してしまう事件があった。自宅から塾へと連絡が入り、当時塾長を務めていた俺は詩織を探しに出かけた。彼女はすぐ見つかった。


 詩織は塾の駐車場に停めた俺の車の前にいたからだ。


 俺は助手席に乗せた詩織の顔を見ながら、軽く息をついた。


「詩織……お母さん、心配してたよ」

「……お母さん、ひどいんですよ先生」

「何があった?」


 詩織は俺が渡したハンカチで、鼻をぐじぐじと拭きながら声を震わせる。


「好きな人がいるってお母さんにバレて、今はそんなことしてる場合じゃないでしょってキレられて……せ、先生がくれたお、お守りを取り上げられたんです」


 詩織は頭の良い子だが素直すぎる。今の話では、俺のことが好きだと言ったようなものだ。お守りは塾生全員に渡しているものだが、受験生が塾講師に惚れたような感情を抱くことはよくある。


 けれど、俺は仕事で献身的であるだけだ。詩織のお母さんは大事な娘が塾講師に現を抜かすのが嫌だったのだろう。


 しかし、ここで俺が大人の態度を突き付けて、詩織の受験が不調に終わるのは困る。俺は詩織に言った。


「そのハンカチ、取り上げられたお守りの代わりにあげるよ」

「え……いいんですか」

「お母さんに見つからないようにな」

「だ、大事にします!」


 餅みたいに柔らかそうな頬で笑った詩織に、ほんの一滴だけ、可愛いなと思ったことは秘密だった。


 その冬、彼女は無事に志望校に合格して塾を去って行った。たまに顔を見せにきてくれたりしたが、そのうち俺が塾を辞めた。


 今また大人になった詩織が助手席に座っている。その横顔をちらりと見てしまいたい衝動を抱えながら雪の夜を走る。静かな車内で詩織がつぶやいた。


「先生は、今も塾講師をしているんですか?」


 耳に痛いが、どうあっても聞かれるだろうなと思っていた質問だった。今の俺が教え子に授けられるのは大人の現実だけだ。俺は正直に答えた。


「あの塾を辞めてから講師はできなくなったんだ。今は、働いてすらいないよ」


 詩織の視線が俺の横顔に刺さる。きっと丸い目が見開いているだろう。


 懐かしさは、どうしようもなく人を惹きつける。だから、彼女が元塾講師への郷愁の想いをうっかり再燃させたりしないように、俺の今を伝えるのが誠実というものだ。


「近所の小学生からは、筋トレニートおじさん。なんて呼ばれている体たらくさ。事実だから何の文句もないけどね」


 詩織はしばらく黙っていたが、一言だけ言った。


「……大変なことがあったんだろうなとだけ、わかりました」


 詩織はそれ以上、何も聞かなかった。車で十五分ほどの詩織のマンションの前に車を停める。詩織はドアノブに手をかけたが、手を戻してぐるりと振り向いた。


「先生……実は今日会ったの、偶然じゃないんです」

「え?」


 詩織が一度きゅっと唇を閉じてから、顔を上げ、意を決したように口を開いた。


「一年くらい前から、何度もあのスーパーで先生を見かけていて。でもなかなか声をかけられなくて……今日、私の誕生日だったので。勇気をふり絞ったんです」


 詩織の声はあの日と同じように、震えた。


「私、今でも……先生のハンカチを大事に持っています」


 耳が痺れて、頭の奥がじんわりと熱を帯びた。かつては迂闊だった彼女が、今は意図を持ってそれを伝えたことがわかる。


「二十五歳になりました。いい大人です。だから先生、私に……大人としてチャンスをいただけませんか」


 詩織が言い逃げるようにドアを開けると車内灯が点いた。俺を振り返った彼女の火照った顔が照らされる。ほんのり染まった彼女の頬は桜大福のようだった。


「先生……おやすみなさい」


彼女はそう言い残して帰って行った。俺は手のひらで口元を覆った。寒い冬の真っただ中で俺の頬も火照ってしまった。


 心臓ばかりが早打ちして、今ここで何が起きたのか噛み砕くのに時間がかかる。いつまでも車を発進させられないまま、彼女が座っていた助手席のあたりを見やる。


 そこにはいつもよりぐっと、金木犀の香りが残っていた。


 

 母親と二人暮らしの俺に降ってきた、詩織の誘い。俺は甘い香りに誘われて、詩織と時間を過ごした。恋人と明言しなくても、詩織は居心地よく隣にいてくれた。


 冬来たりなば、春遠からじという。春夏秋冬の流れ通りに、季節はすべからく春を迎えた。


 詩織と桜を見に近所の公園まで歩いて出かけた。梅干しのお握りと水筒のほうじ茶、母さんに持たされた蜜柑を持って、満開の桜の下でピクニックだ。詩織がタッパに詰めたお握りの列を見せて笑う。


「お握りいっぱい作ってきちゃいました」

「花の感想よりその報告が先か」

「花より団子なので!」


 詩織がお握りを頬張り、水筒から熱いほうじ茶を飲んでほっこりするのを見ていると笑えた。でもどこかずっと夢心地で、地に足がついていない気がする。


 熱いほうじ茶で落ち着いた詩織が、レジャーシートに寝転んで空を見上げる俺に聞いた。


「先生……どうして塾講師をやめたか、聞いてもいいですか」

「……うん、話したいと思ってた」


 二人でいることが増えて、俺たちの距離が埋まるのを詩織は待っていたのだと思う。早く聞き質したい気持ちを飼いならしていただろう彼女の理性は信用できた。俺は空に向かって声を放つ。


「あの塾で……俺は雇われ塾長だったんだ。経営者の社長から生徒数のノルマを与えられて、しょっちゅう叱責されていたよ」


 詩織の眉がくいっと下がる。俺は今でもたまにあの日々を悪夢に見る。


 生徒は皮肉も言うが年相応で、対応は苦ではなかった。けれど、親の相手をするのが重荷だった。あの母親の甲高い声は今でも耳の奥で痛みを持っている。


「高い塾代を払っているのに、どうしてこんな成績なんですか?」


 あなたのお子さんのやる気がないからと明解に答えるわけにはいかない。塾は指導の場であり反復、定着は自宅学習が重要なので協力して欲しい旨を俺は伝えた。


「結局、親のせいにするのね。訴えるわよ、この無能!」


 無能、無能とこの母親はよく言った。塾長からもノルマを達成できないと無能扱いされ、給料を減らされた。


 俺はいつでも自習室を開けて生徒を待ち、一人で見切れない数の生徒を担当していたけれど、誰も置いて行かないよう尽くした。


 あの頃は塾で寝て、食事もろくに取っていなかった。何をしても全て指の間からすり抜ける砂のような虚しさが胃を締めつけ、俺が減っていく職場だった。限界を迎えた俺は倒れ、母さんの元へ無様に舞い戻った。


 何をする体力も気力もなく、布団に寝転んで天井を眺め続ける俺の横で正座した母さんが言った。


「こんなに痩せて……よう、がんばってきたんやなぁ」


 圧に締められていた俺の胃がやっと緩んで、目からありったけの涙が出た。唯一、俺を褒めてくれた母さんの涙声を俺は生涯、忘れない。


 レジャーシートに寝転ぶ俺の隣で、詩織は桜の花びらみたいに小さくぽつりと言った。


「先生のお母さん……道子さんに、会いたくなってしまいました」


 俺も、そう思っていた。俺の話をまるっと受け止めた詩織が目頭を拭った。


「あの頃の私って、先生に憧れていただけでした。忙しいのに迷惑をかけて甘えて、先生に守られていたのにも気づけていなかった」


 深く息をした詩織は、手早く荷物を片づけて立ち上がった。彼女は咲きこぼれる桜の花びらを見上げ、一身に受けた。


「でも先生が必死で教えて、守ってくれたおかげで、私は今順調に働けています」


 詩織は俺に向き直り、綺麗にお辞儀した。


「先生、あの頃はお世話になりました。本当にありがとうございます」


 桜の中で強い風が俺に吹き付ける。


 詩織からもらったお礼はあまりにまぶしく、あまりに尊く、唐突にすべてが報われた。



 俺は顔を両手で覆って、涙を隠した。次から次へとあふれ出てしまう。


 あの頃の自分に、よくがんばったと、初めて言える。


 詩織の将来を守れたならば、それは本当にやりがいのある、やって良かった仕事だった。こんなに時間がたって、報われることがあるなんて、知らなかった。


 詩織はまだ寝転んだまま涙を覆う俺に、手を差し伸べた。


「道子さんに、先生を守ってくれてありがとうと言いたいです。道子さんのところに一緒に行きませんか」


 俺は何度も頷いて、自然と詩織の手を握った。ふわふわやわらかい詩織の手を握り返すと、強い力で引っ張られて起き上がった。


 俺たちは手を繋いだまま桜降る道を歩いて、母さんに会いに行った。


 二人で実家へ戻ると、母さんの元には恒例のハニービーのチラシが届いていた。母さんはそのチラシを詩織に渡し、三人で見に行こうと約束した。


 母さんと二人で見に行っていたハニービーを、今度は三人で見に行く。いつもと違う夏が来るのがとても、楽しみだった。



 だが、梅雨が明けたころに事態が変わった。


 タイに住む詩織のお母さんが体調を悪くして入院したのだ。一度タイヘ飛んだ詩織はお母さんが落ち着いたのを見届けてまた帰って来た。


 詩織から連絡を受け、長雨が降る夜の駅へと車で迎えに行った。頬がほっそりして憔悴した様子の詩織が、助手席でぎゅっとスカートを握った。詩織が恐る恐る言葉を並べる。


「お母さん……癌が見つかって。でも、何度帰ってきてって言っても、日本には絶対帰らないって、聞いて、くれなくて」


 年上の俺には、若い彼女の人生の転機の先が見渡せた。詩織のお母さんはタイをふるさとと決めたのだ。年を取って「ここ」と決めたら、人は絶対に動かない。俺の母さんのようにだ。


 詩織は目からぽろりと涙をこぼした。詩織が何に悩んでいるか、聞かなくてもわかる。


 タイに移住すべきかどうかだ。


詩織にはツアーガイドの経歴がある。きっとタイでも新しい仕事ができる。


 だから今、詩織の足をひっぱっているのは、俺だろう。


 俺は雨の中、車を走らせ始めた。手の甲で涙を拭う詩織に、俺は言わなくてはいけない。詩織と新しい暮らしの流れをつくっていきたいと思っていた。けれど、それはやはり夢だったようだ。


 俺は老いた母さんを置いて行けない。だから俺は、詩織を支えるためにタイへ行く選択肢を持てない。


 けれど、詩織はまだ若く、タイに行けばまた新しい出会いがある。詩織と再会してからずっと浮ついていた胸の奥にやっと、重しが乗って、どっしり現実に落ち着いた気がした。


 一時の夢を胸に押し込めた俺は、彼女にありったけの誠意を放った。


「……別れようか、詩織」


 詩織はびくりと肩を震わせた。彼女は俺の母さんとも仲が良く、俺が動けない事情も知っている。嫌だと、できないとは言わない彼女は顔を上げて、涙ぐむ声で言った。


「道子さんに寄り添う先生が、相変わらず素敵だと思ったから……あの日、スーパーで声をかけたんです。だから、そう言われるだろうなって思っていました……」


彼女が魅力的だと思った俺でいられて良かった。俺はさめざめと泣き続ける詩織の肩を抱くこともできず、彼女を家に送り届けた。


 ハニービーへ三人で行く約束は、はらりと解けてしまった。


 七月最後の日曜日が訪れ、俺はお決まりのハニービーを過ごした。文化ホールの客席で母さんと並んで、「ふるさと」を聞いた。


「雨に風につけても、思ひいづる故郷」


 俺もふるさとの歌を小さく歌いながら、俺のふるさとはどこだと考える。


 女声合唱の沁みる歌声を指揮する彼女には見覚えがある。ハニービーのリーダーだという彼女の指揮は、この歌の型を貫いているはずだ。


 俺のふるさとは母さんと築いた暮らしの型だ。何もかも崩れ去った俺をこの型が癒してくれた。俺はきっとこの型を死ぬまで守る。


けれど、思ひいづるという歌を聞いて目に浮かぶのは、詩織のやわらかい笑みばかりだった。メインホール全体が人の声で一体となるその瞬間。また一人になるのかという切ない想いが膨らんでしまった俺は、歌を最後まで歌えなかった。



 ハニービーの帰りには文化ホール近くの純喫茶に行くのも決まっている。母さんのお気に入りの店だ。紅いソファ席で向かい合って、母さんはミックスジュース、俺はココアを飲み始めた。母さんが微笑む。


「今年のふるさとも、良かったなぁ」

「沁みるよね。今年も無事に向日葵の人もできて良かったね」

「せやな。喜んでくれてるとええなぁ」


 母さんがふと音の鳴る方に目をやる。店の端にあるアップライトピアノを業者の人が調律している最中だった。来店時に、店長からちょっと騒がしくてごめんよと言われていた。手入れが必要なピアノを見ながら、母さんが言葉をこぼした。


「あと何年ハニービーを見て、向日葵を送れるやろか……」


 母さんには珍しい弱気な発言だ。手がかかるピアノに老いてきた自分を重ねたのかもしれない。詩織の事情を伝えたから、俺がいなくなることも想像したのだろう。俺はココアを一口飲んだ。


「母さんが死んだら、俺が代わりに毎年、匿名で送っておくよ」


 母さんは目をぎょっと見開いて、それは良いとからから笑い出した。


「でもまだまだ先やで!」


 母さんは俺が詩織と暮らすから出ていくと言ったら、引き止めないはずだ。だが、俺がここにいるとわかった母さんは、安心したようにミックスジュースを飲む。母さんの向日葵の浪漫が、今年も達成されて良かった。


 母さんの暮らしを彩る型は崩したくない。だから、俺はこれでいい。


 そう思おうとしていると、ピアノの調律をする若い男性と店長が話している声が聞こえてきた。


「どう?うちのピアノ」

「ピアノは生きているので、湿気とかいろんなものの影響を受けて変形して、ズレてしまうことがあります。元のピアノの型に戻すのが基本ですけど……」


 俺はつい聞き耳を立ててしまった。


「実はもう決まった型には、二度と戻れないんですよ」

「へぇ、そうなのかい?いつも元に戻ってるのかと」


 店主の驚いた声に、俺の心情も重なる。若くて、えらく男前な調律師は微笑んだ。


「微調整を重ねて、そのピアノにあった新しい型を探るのが調律です。元の型に戻れないことは悪い事ではありません。そのおかげで、そのピアノにしか出せない音というのが生まれますから」


彼の言葉が、耳に残った。俺はココアをぐいと飲む。


 再会したあの日に、詩織とココアを飲んだ。俺はきっとこれから、ココアを飲むたびに詩織を思い出す。死ぬまでずっと苦いココアを飲むのは嫌だ。


 正当な理由を立てて、最初から潔く引いた。でも、そんな綺麗に終われるはずないだろう。塾講師だったとき、がむしゃらにやったではないか。


 あの時よりもさらに今、俺はかっこ悪くあがくべきじゃないのか。わきまえていたはずの俺の欲が、一気に噴き出した。母さんのしわしわの顔をまっすぐに見つめる。


「俺、母さんを必ず看取るよ。一人にはしない。でも俺……」


もう二度と、決まった型には戻れないと彼は言った。


前は事足りていた母さんとの暮らしに、詩織の存在がない日々に、俺はもう戻れない。俺は母さんに、はっきりと告げた。


「詩織とも、生きたい」


 俺の中でくつくつと煮えたぎるエネルギーが生まれる。もう諦めきっていたことを、心から今、やりたいと思えた。


「だから俺、働くよ。働いて稼いで、詩織にいつだって会いに行けるようにする」


 母さんは一瞬言葉を失ったかのように口をぽかんと開けたが、すぐに皺を刻んでにっかり笑った。


「よう言うた!人生にはな、欲張らなあかんときも、踏ん張らなあかんときもあるんや。今どき、海越えたぐらい何やねん。がんばりや、寛人」


母さんのしゃがれ声が、俺の背を押す。


俺はココアを飲み切り、その苦味を忘れないうちに詩織の元へ走って。


「結婚しよう」と伝えた。



 詩織がタイに移住してから一年が経ち、秋がやってきた。


 再就職すると決めたものの、「塾」という場所にいると酷い胃痛が襲った。俺は結局、塾講師として復職することはできなかった。けれど、何とか俺の能力と、仕事を調整する道を模索した。そこで、最近増えてきたユーチューバーに目をつけた。


 塾講師として現場に立つことはできない。だが、動画を通して画面の向こうの生徒に授業をするようにしたのだ。無料の教材配布も喜ばれている。


 派手に認知されているわけではない。だが、ユーチューブを入口に、オンライン家庭教師を求める生徒を得て、安定した稼ぎを持つようになった。この働き方は、自分で仕事量を調整することができる上に、自由が利くのが最大の利点だ。


 俺は今まで通り、昼は母さんの用事に付き合い、筋トレをして、夜に仕事をしている。


 澄んだ秋空を見上げて駐車場で腹筋をしていると、また下校中の小学生二人組と目が合った。


「あ、またやってる」

「出た。筋トレニートおじさん」


 俺は腹筋を中断して、気をつけて帰れよと小学生に挨拶をした。俺が喋ったので小学生はそそくさ去って行った。怖がらせてしまったかなと思っていると、ふわりとした声が俺を呼んだ。


「寛人先生、本当に筋トレニートおじさんって呼ばれてるの笑っちゃいました」


 ふくよかな頬が相変わらず健康的な詩織が、家の前に立っていた。俺はハニービーが終わったらタイへ赴き、金木犀の頃には詩織が俺の家に帰ってきてくれる。


 海を挟んだ俺たちの、新しい暮らしのリズムだ。


 詩織が駐車場に座り込んでいる俺に手を差し伸べる。


「ただいま、寛人先生」

「おかえり、詩織」


 詩織が差し出したふわふわの手には、俺とお揃いのシルバーリングがついている。俺は彼女の手をしっかり握って立ち上がった。


「今夜はキムチ鍋、作るよ」

「先生のキムチ鍋大好きです。道子さんにお土産いっぱい買ってきました!」

「詩織が来るの楽しみにしてたよ母さんも……俺も」


 詩織が幸福感をいっぱいにつめこんだ頬で笑ってくれる。


 俺は俺の場所、詩織は詩織の場所にいる。離れて暮らす俺たちの間に「ズレる日」が来たら、また、何度でも調律する。俺たちなりの音が見つかるまで、がむしゃらに変わり続ける。


 俺たちはそうやってずっと、一緒に生きていこうと誓ったから。


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