平成23年 ふるさとの作り方
あれは翠ちゃんがお嫁に来てくれて、一年くらいたった時。
妊娠した翠ちゃんと息子を家に招いて、私が作った長芋たっぷりお好み焼きをみんなで食べた後だった。私がトイレで席を外して戻ったときに、たまたま聞いてしまったのだ。
テーブルで隣同士に座る翠ちゃんと私の息子、悠太がひそひそっと話す声。不明瞭だったが、尖った単語だけは聞き逃さなかった。
「お義母さん……苦手なの」
「俺が母さんに言おうか?」
「やめてよ。お義母さんに失礼よ」
ぴんと、聞こえないはずの超音波が差し込んだように耳が痛かった。
私はしばらくリビングの入口に立ち尽くしていて、後ろからやってきた夫に背中を押されてやっと動き出す体たらくを晒した。私はそのあと、上手に愛想笑いできていただろうか。
お嫁さんがひねくれていたなら、私だって意地悪する。けれど、翠ちゃんはハキハキして愛想良く、気配りまでできる子だ。おっとりした悠太のことを大切にしてくれていて、孫も見せてくれた。感謝ばかりで文句なんてない。
あの分け隔てなく人と付き合える素養がある翠ちゃんが、私を苦手だと明言した。
私は相当なことをしでかしているはずだ。
その日から私は、悠太や翠ちゃんからお願いされたことだけをしようと決めた。
秋高し空の下、澄んだ空気のおかげか北アルプスの峰が今日は綺麗に映えていた。遠くに峰を感じながら、庭で物干し竿に洗濯物を干す。
「うーさーぎおーいし、かーのやーまー」
青い山が目に映るとついこの歌を口ずさんでしまう。翠ちゃんが指揮を務める音楽コンサート、ハニービーでこの曲「ふるさと」を聞いて以来、私の口ずさむ歌はいつもこれ。
「志をはたしてーいつの日にか帰らんー」
歌い終わるとちょうど洗濯カゴの中身が空っぽになった。風になびく私たち夫婦の服の間に、翠ちゃんのシャツが一枚だけ揺れていた。彼女たちが家に遊びに来た時に、孫の純也が汚してしまったシャツを私が染み抜きして洗ったのだ。
「余計なことをしてしまったかしら……」
揺れる淡い青色のシャツにつぶやいた。言われたことだけしようと思っていたのに、汚れたシャツを引き取ってしまった。翠ちゃんは代わりに私の服を着て帰った。
「お義母さんなら……どうしたかしらね」
ふるさとを口ずさんだ唇に風がそっと触れた。
秋麗の山並みにお義母さんを想う。
夫とは中学の同級生で地元の縁で結婚した。ほどなく夫のお父さんが亡くなって、一人になったお義母さんと同居しながら悠太を育てた。
昭和も終わり近くとなれば、同居を避けられる時代になってきていた。それなのに、私がわざわざ同居を受け入れたのは、ひとえにお義母さんのお人柄ゆえだ。
お義母さんはいわゆる良い所出身のお嬢様で、品があり物腰柔らかな人だった。豊かな白髪のお義母さんはよく若い私に尋ねてくれた。
「恵ちゃん、またお洋服を作ってもいいかしら?藤色の良い布があって」
「いいんですか、嬉しいです」
「夏らしいワンピースにしようかと思っているのだけど、どう思う?」
「ええ、もう想像するだけで素敵!」
お義母さんは洋服作りが趣味で、私にも悠太にも何着も仕立ててくれた。お料理は少し苦手で、得意料理は蜂蜜大根だった。
私は実母を早くに亡くしていたので、お義母さんを頼りにしていた。
仕事に忙しい夫が帰らず、私が熱を出したときにお義母さんが作ってくれた蜂蜜大根の優しい味は、忘れられない。
あるとき、三歳の悠太がコンセントに髪留めのピンを突き刺そうとしたことがあった。私は慌てて悠太の手を叩き、叱り飛ばして家の外に追い出して懲らしめた。厳しい躾だったと思う。だが、お義母さんは私を嗜めず、悠太のそばにそっと座っていてくれた。
「悠太ちゃん、お母さんは悠太ちゃんのことが大好きだから叱るのよ。それだけは忘れないでちょうだい」
お義母さんが悠太を諭す声を立ち聞きして、涙したことは一度や二度ではない。お義母さんは私の行き届かないところに、こそりと必要な分だけの手を貸してくれた。
お義母さんみたいな姑になりたかったのに。
秋風になびく翠ちゃんの淡い色のシャツを見つめて、私はきゅっと唇を引き絞った。
中秋の名月が過ぎ、日差しの緩やかな日が増えてきた。窓を開けると網戸の隙間からは風ではなく虫が入ってくるような家で、額が薄くなってきた夫がだらけている。
夫は昨年定年を迎えて一年間、ソファの上が指定席だ。夫と同い年の私は専業主婦として家事育児、お義母さんの介護まで一手に担ってきたが、引退は訪れていない。私はソファに寝転ぶ夫に向かって注意する。
「このままごろごろし続けたら、頭だけじゃなくて脳みそも薄くなってぼんやりしてきてしまうわよ」
「んー」
毎度注意するが、彼の脳みそに私の忠告が刻まれている気がしない。
夕時のリビングで夫と再放送の韓国ドラマを見ていると、ファックス付きの固定電話が鳴った。
固定電話よりもう携帯電話が主流になってきているよと悠太は言う。だが、この古い電話で事足りている。電話に出ると相手は悠太だった。
「……翠ちゃんが入院?」
私の緊迫した声に、夫が立ち上がって寄ってきた。
「翠ちゃんは無事なのね?大丈夫なのね?」
私は事情を聞きながら、病院の名前をメモした。悠太の用事は、保育所に通う純也を迎えに行って欲しいということだった。私たちの家と悠太たちの家は車で十分程度の距離で、保育所は歩いて行けるほど近い。
快諾して電話を切ったが、私はよろよろとソファに座った。夫が隣に座る。
「翠ちゃんがどうしたって?」
「過労で倒れたらしいわ」
「若いのに、過労だって?」
翠ちゃんはエネルギーの塊であるが、ここ最近の忙しさは聞いているだけで大丈夫だろうかと思うところがあった。私は夫に後の祭りの心配事をぼろぼろと話した。
「翠ちゃん育休が明けて、音楽の先生に復帰したばかりよ?翠ちゃんが今いる中学校は難しい子が多いって言っていたわ」
私は両手の指先を揉んで、過去を遡り始めた。
「純也はすぐ熱を出すし、純也から熱をもらって一家総倒れも珍しくなかったわ。翠ちゃんご飯も一生懸命作るから、全部手を抜かずにがんばっていたのかもしれない」
もっと彼女のためにできることがあったのではないだろうか。だが、夫はのんびりと腕を組み、首を傾げた。
「音楽の先生は慣れた仕事だろう?」
「慣れただなんて、産後に子どもを抱えて仕事をするのは初めてよ」
「今どきは共働きをするものだろう?みんなができることを、翠ちゃんができないわけない」
時代がそうだから。
みんなができるのだから。
彼女もできる。
目も当てられない乱暴な持論だ。この夫はしばしば想像力に欠けている。嫁が倒れた事態なのに、まだ危機感もない。
「あなたと話すとうんざりするわ」
「どうして俺が怒られるんだ?」
ぴしゃりと叱ったつもりだが、夫はまだぴんとこない。私は立ち上がり、さっそく純也のお迎えの準備を始めた。
「純也を迎えに行って、帰りに翠ちゃんの病院にお見舞いを……」
寝室のクローゼットを開けると、長年気に入りのワンピースが目に留まった。お義母さんが作ってくれた藤色のワンピース。
お義母さんが見ている気がした。ふと、我に返る。
「……いけないわ」
すぐにでも翠ちゃんの顔を見に行きたかったが「苦手」の言葉を反芻して踏みとどまる。体調が悪いときに苦手な姑の顔など見せて、愛想笑いをさせてはいけない。
「言われたことだけをするのよ……」
自分に言い聞かせた私は、その後も入院中の翠ちゃんのお見舞いには一度も行かなかった。顔を見に行かない分、純也の世話に精を出した。翠ちゃんが一番心配しているのは純也のことだ。
聞かなくても、それくらいわかった。だが、悠太から一歳の純也の世話を全面的にお願いされたので堂々と世話を焼けた。
まだ歩き始めたばかりのよちよちした純也の、紅葉みたいな愛おしい手を引いて、保育所から毎日我が家へと連れて帰った。
翠ちゃんが退院する週末、悠太が翠ちゃんを迎えに行く間にも純也を預かった。
「じー!ぱっか!」
片言で舌足らずのちんまい純也。小さな彼が我が家にいる時間が増えたので、夫はずっとパカパカ遊びと称して馬になっていた。私はリビングで笑いながらその光景を見つめた。
「純也、じーのためよ。もっとやってやりなさい」
「じー!」
「勘弁してくれよ」
夫はそう言いながらも薄い額を光らせ、まんざらでもなさそうだった。相手の立場に立つのは難しいが、言われたことはできる夫は孫の言いなりが丁度いいかもしれない。
翠ちゃんが退院してしばらくしてから、家族三人そろって私たちの家に顔を出してくれた。元から細い翠ちゃんの身体が、一段と薄くなっている。そんなに痩せて!なんて声高に言わないよう痛ましい気持ちを折りたたむ。
たくさん食べてもらおうと、ごろごろ緑黄色野菜のクリームシチューを振舞った。野菜嫌いの純也はスープの部分と白いご飯だけを食べていた。翠ちゃんが申し訳なさそうに頭を下げる。
「お義母さんすみません、純也、好き嫌いして」
純也にご飯を食べさせる翠ちゃんのクリームシチューが冷えていく。私にまで気を遣って、翠ちゃんは気が利きすぎる。
「好き嫌いなんて当たり前よ。気にしないで」
「あー」
私が純也にご飯を食べさせてもいいけれど、余計なことは言えない。勝手なことはしないと誓ったが、さすがに冷えたシチューは温め直した。シチューを口にした彼女が笑う。
「お義母さんのクリームシチュー美味しいです」
「そう?ありがとう。たくさん食べてね」
「はい、体力つけないと、と思っていて」
翠ちゃんが頑張らなきゃと言いながらシチューを口に運ぶのを見ていると、もどかしかった。もう一杯食べる?と押しつけがましくならないようにだけ聞いた。
食卓を囲んだあと、純也がテレビでアニメを見始めた。
私たち夫婦と息子夫婦。リビングテーブルで大人たちだけでコーヒーを飲み始めたとき、翠ちゃんがしおらしく言った。
「入院なんてしてしまって、ご迷惑をおかけしてすみませんでした」
「そんな、謝る事じゃないわ」
迷惑だなんて少しも思っていないのに、私は気の利いたことも言えない。翠ちゃんはテレビを見る純也の小さな背中を見ながら、悔しそうに眉をひそめた。
「自分なりにがんばったつもりでしたけど、結局、家族にも職場にも迷惑をかけてしまって……子育てしながら働くってこんなに大変なんだって痛感してます」
翠ちゃんの細い声が震える。
「家庭だけでも精一杯だから……今年のハニービーは諦めようかと思っているんです」
「え……!」
私は漏れた声を押し込めるように口を覆った。翠ちゃんと知り合ってからハニービーコンサートには毎年お邪魔している。
本格的な音楽を無料で聞かせてもらって、舞台で指揮する翠ちゃんがかっこよくて、私はハニービーの練習に差し入れに行くくらい応援している。
なのに、翠ちゃんは生活の圧に耐えきれなくて、音楽活動を止めてしまうのだろうか。
「少し休んで、純也が大きくなったらまた始めることもできますから」
現実と折り合いをつけようとする翠ちゃんは、母親の顔だ。母としてどうしても諦めなくてはいけないことは往々にしてある。けれど、翠ちゃんにはまだ諦めずに済む方法がある。
私に一言「お義母さん、手伝って」と言ってくれたら。
私が真っ黒のコーヒーの水面を見つめて無力に沈みかけたとき、斜め向かいに座る悠太が凛と言った。
「ハニービーを諦めるのは反対。翠は絶対に、音楽から離れちゃいけないよ」
悠太は夫譲りでちょっとぼやっとした穏やかな子だ。そんな悠太が「絶対に」という強い言葉を使ったことに驚いた。翠ちゃんも私と同じような顔をしている。
「ハニービーは商売のための音楽じゃない。音楽を愛する人たちが集まる『場』を守る素晴らしい活動だよ。決して絶やしちゃいけない。翠はその、リーダーなんだよ」
悠太の声には固い意志があった。対する翠ちゃんの声は脆い。
「でも、悠太……今でもいっぱいいっぱいなのに、これからハニービーの練習が始まったらと思うとどうにもできない」
「諦める前に、やれることを全部しよう」
「悠太だって全力で協力してくれてた。なのに、倒れたんだよ?まだできることって何?」
翠ちゃんはテーブルの上でぎゅっと拳を握り締めていた。悠太は障害者入所施設で支援員として働いていて、夜勤がある。翠ちゃんは夜の悠太の世話を一人でやらざるを得ない。それが翠ちゃんにとって負担であったことは明らかだ。悠太が静かに言った。
「僕が仕事を辞めて主夫になるのはどう?」
「え?」
声を漏らしたのは私ではなく、隣に座る夫だ。薄毛の頭がゆらりと揺れた。悠太が続ける。
「福祉業界は万年人不足だからね。入所施設勤務五年のキャリアがある僕はもう、いつだって再就職できる」
もし一度離職したとしても、福祉業界の人不足が悠太の再就職の根拠となる。悠太が主夫になれば、純也の世話も家事も丸ごと引き受けられる。教職の翠ちゃんが仕事を途中で抜ける必要もなくなる。
主夫なんて私たちの時代には考えられない発想だ。だが、新しい発想には柔軟でありたいと私は思う。悠太はコーヒーを飲んでゆるやかに語った。
「僕は夢や目標なんて持ったことがないよ。だから、目を輝かせて音楽と生きる翠を守る役割が持てたら、最高に嬉しい」
私は拍手したくなる手を押しとどめるのに必死だった。
我が息子ながらよく言ったと、誇らしかった。
悠太は幼い頃から競争や、努力なんて熱いものに縁のない子だった。そんな悠太だからこそ、熱い想いを体現する翠ちゃんに惚れるのは道理だ。
「僕は翠が音楽を愛しているところを、すごく愛しているからね」
悠太のやわらかい声に翠ちゃんはぽかんとしたが、耳たぶの先がほんのり赤かった。
なんて微笑ましい、若き夫婦だろうか。
友だちに息子夫婦が可愛いと自慢しようと思っていると、冷や水をぶっかける夫の声がした。
「俺は男が主夫だなんて、反対だ」
私は顔を歪めた。悠太は昭和男のこの夫に慣れているが、翠ちゃんは肩を竦めてしまった。
「……そうですよね。悠太の提案は嬉しいけど、やっぱりもっと考えないと……」
「そうだな。よく話し合いなさい」
純也が眠がる時間になって、三人は帰って行った。玄関で息子一家を見送り、ぱたりとドアが閉まってすぐ、私は夫に向かって眉をつり上げた。
「あの子たちが決めることなのに、どうしてあんなことを言うの。嫌がられるわ」
夫はなぜ怒られたのかわからないと首を傾げた。
夫の言い分もわかる。しかし、翠ちゃんに直接言うべきではなかった。額の薄ら禿げからもっと毛を引き抜いてやりたいと思いながら、私は夫の横をすり抜けた。
そのあと、しばらく息子夫婦からの連絡が遠のいた。夫が言わなくていいことを言ったからだ。私は夫の昼ご飯を納豆だけにすることで鬱憤を晴らそうとした。だが、夫には通じなかった。
私は翠ちゃんや純也がどうしているのか心配で我慢しきれず、悠太の携帯に電話した。固定電話では誰が出るかわからないが、携帯なら個人に直通。これは便利だ。
「悠太、翠ちゃんはどうしてるの?みんな元気なの?」
「ああ、ごめん連絡してなくて。みんな元気にしてるよ」
悠太ののほほんとした声に脱力した。
聞けば、翠ちゃんは一ヶ月だけ仕事をお休みして、年明けまで休養する予定だという。ほっと胸を撫でおろしたが、夫の無神経のせいで、私まで息子一家と距離を取らされるのは納得がいかなかった。
翠ちゃんは現実的な子だから、悠太が主夫になったら経済的にはどうだろう、対外的にはどう見られるかなどを考えているだろう。
どうにか嫌がられない方法で、私を頼る選択肢を示すことはできないだろうか。
良いアイデアがないまま、師走の昼時に、私は友だちと韓国料理ランチをしに行った。
居酒屋がいくつも入ったビルのワンフロアの韓国料理屋は、真っ赤な内装がいかにも韓国のイメージだ。ここのサムギョプサルのタレが気に入っている。
「恵ちゃん、こっちやで」
奥のボックス席で待ち合わせた道子さんは、ハードに短い白髪をほんのり紫に染めた小柄な女性だ。兎の毛皮の首巻きをした道子さんが手を上げた。私はテーブルを挟んで彼女の前に腰かけた。
「道子さん、お久しぶりです」
「ほんまやな。元気にしとった?」
関西弁の道子さんは七十歳だが、いつもシャキっとキパッとしている。彼女とは地域の小さな韓国語教室で知り合った。同じ韓国ドラマにハマっていて隣同士に座ったよしみですぐに仲良くなった。それ以来、定期的に韓国料理ランチを共にしている。
紙エプロンをつけた道子さんの前に丸い鉄板が運ばれて来た。丸い鉄板の上でじゅうじゅう豚バラ肉とキムチが焼けている。道子さんがにんまり笑う。
カリッと焼けた肉厚豚バラをタレに通してサニーレタスに巻き、道子さんは大きな口に放り込んだ。
「肉、ようさん食べや。体さえ元気やったら、何とかなるからな」
肉が焼ける煙に燻されながら、私は笑ってしまった。
「今の道子さんの言葉丸々。私が翠ちゃんに言えなかったやつです」
道子さんは口をもぐもぐさせながら、目をぎょろっと見開いた。私も焼けた豚バラ肉に箸を伸ばした。
「翠ちゃんてお嫁さんやろ?なんでそんなん言われへんの?言うたらええやん」
「そうですよね……でもこれ以上嫌われたくなくて……」
肉に塩わさびをつけてサニーレタスでくるんと巻いていると、道子さんは忙しく手も口も動かした。
「恵ちゃんが嫌われるなんて、何したん?」
「何をしでかしたかは……聞いてないんですけど、私のことを苦手と言っているのを聞いてしまって」
渋い話だが、サムギョプサルにかぶりつき、肉汁たっぷりの豚バラ肉と塩わさびを味わう口の中だけは幸せだ。肉の後はビールで口を整える。
「翠ちゃんのために何かしたいけど、何がうざったいと思われるのかわらかなくて……」
私は肉とビールを往復しながら、道子さんに翠ちゃんが入院してしまったことや夫が無神経なことを話した。道子さんはキムチを食べながら全部聞いてくれた。
彼女はズバッとものを言うが、まずはきちんと耳を傾ける姿勢がある。だからいつまでもこのランチ会は気持ち良く続くのだ。
あっけらかんと見える道子さんだが、息子さんが働かずにずっと家にいるという。そういうのを最近はニートというらしい。
そんな事情を聞くと気の毒に思ってしまうが、道子さんは「でも息子にもええところあるんや」と言いながら笑うのだ。私より少し先を生きる道子さんは私よりずっと器が大きい。
サムギョプサルの鉄板が空っぽになったころ。道子さんがぐびっとビールを飲んでキパッといった。
「なあ、恵ちゃん。それだけ翠ちゃんを想える気持ちがあるならな、そんな鬱陶しいことは頑張ってもでけへんと思うで?ハタ迷惑な奴ってのは自分が迷惑って自覚ないねん」
「……そうかしら。だって私って時々すごく間違うんです」
「どんな風に?」
道子さんは私が誘ったハニービーコンサートを気に入ってくれていて、毎年見に来てくれている。私はハニービーに関する失敗を語った。
「ハニービーの応援をしたくてね。練習に差し入れを持って行ったんです。そしたら翠ちゃんにもう差し入れはこれで最後でいいからって、やんわり言われちゃったんですよ」
「それは、やりすぎや」
悠太にも翠ちゃんにも苦い顔をされ、あれは大いにやらかしたとわかった。私のそういうところが、翠ちゃんは苦手なのだろう。道子さんは顔に皺を刻みながらけらけら笑った。
「ハニービーのふるさと、ええよなぁ。毎年楽しみにしてるんや」
道子さんはふるさとの曲を鼻歌で奏でた。
「翠ちゃんは実家が遠いんやったな?」
「そうなんです。翠ちゃんはどうしても音楽高校に入学したくて、高校に入学するときに一人暮らしし始めて、それからずっと親元を離れたままで」
「ふるさとからずっと離れて暮らして、気骨ある子や」
そう、翠ちゃんはずっと頑張り屋さんだ。私は道子さんの話の意図を探った。
「翠ちゃんのふるさとは遠いから、私がふるさとになってあげないとってことでしょうか?」
私がお義母さんにふるさとを感じていたように、私もやはりそうなるよう努力すべきなのだろうか。自信がない。へにゃりと眉が下がる。道子さんは大きく手を横に振った。
「ちがうちがう。本物の母に義理母が勝てることはまあないわ!」
「そ、そうですよね……」
私の母は他界していた。だから、私はお義母さんに自然と懐いたが、翠ちゃんは違う。翠ちゃんは今だって実のお母さんと仲良しだ。
「翠ちゃんはこれから『ふるさとをつくる人』や。幼い子抱えて一生懸命、ふるさとを築こうとしてんやろ?そんなん恵ちゃんがぐいぐい手伝ってやらな」
道子さんはマッコリをくいと飲みほして言った。
「うちはうちの年金で暮らしてる息子の嫌なところなんて、いくつでも言えるで?でも家族やから。また何とかなるし、何とかすんねん」
ふっと夫の顔が頭に浮かんだ。夫の嫌いなところなんてたくさんある。でも夫だから、また一緒にご飯を食べる。
私はこれ以上傷つきたくないばかりで、潔く引く良い姑を装って、どこか逃げ腰だったのかもしれない。
「嫌なところなんていくつも言えて、それでも一緒に手を出しあうから家族やろ」
道子さんのはっきりとした声に、夫が「主夫は認めない」と言った声が重なった。夫は慮るばかりではなく、苦言を呈する役を買っていたのだ。夫がそこまで思慮深いとは思えないが、少なくとも彼は翠ちゃんから嫌われることを恐れてはいない。本当に娘だと思うからこそ、口も出すのか。
「ちょっとくらい嫌われたからって何やねん」
道子さんのしゃがれ声が私の怯えを止めてくれた。
「どんとしときや、恵ちゃん。歳食うたら色んなことに鈍くなっていくやろ?うちらは若い子にお節介焼くため、そのために歳食うてんやで?」
道子さんがにやりと笑う。
「今、うちがまだまだお嬢さんの恵ちゃんに、説教垂れてるみたいにな」
道子さんのイタズラ顔に、私はふっと笑みがこぼれた。六十歳も過ぎて、お嬢さんだなんて。でも道子さんからすれば、私はまだお嬢さんなのか。
「説教だなんて、思ってませんよ。さすがだなと思います」
「ほら、見てみ。若い子は思ったより優しいやろ?」
道子さんがまた笑うので、一緒にマッコリの入ったコップをぶつけ合って大笑いした。
私は杯を交わして、決意と、マッコリを飲み干した。
あなたが私を嫌っても、私はあなたを絶対に嫌いにならない。
そう言ってのければいい。歳を食ったからこそできる、図々しさを見せてやろう。
忙しない年の瀬を迎えた大晦日の夜、私は翠ちゃんを除夜の鐘を聞きに行こうと誘った。大胆な誘いだったが、年始に休養が明ける翠ちゃんが塞いでいたらしく、悠太の後押しもあって実現した。
家から一番近いお寺へと夫に車で送ってもらった。小高い山の上にある寺は傾斜が厳しい。真冬の寒い夜風の中、本堂を目指して石階段をのっそり上って行く。
翠ちゃんは健脚だが、私の足は鈍い。次々に他の参拝客に抜かれて行ってしまう。けれど翠ちゃんは私の隣をゆっくり歩いてくれる。
少し息が乱れた私は、立ち止まった。翠ちゃんの足も止まる。
「お義母さん、大丈夫ですか」
「大丈夫、ちょっとだけ休憩ね」
私の前に無数に並ぶ石の段差を見上げる。階段を上り切った先には薄く輝く月が見える。私たちは一緒にこの階段を上り切れるだろうか。
私は息を整えて、翠ちゃんの横顔に声をかけた。
「翠ちゃん、大晦日ってね、打ち明け話をするには良い日らしいのよ」
「へぇ、そうなんですか」
「だから誘ったのよ。今日は翠ちゃんに全部すっきり話そうと思って」
私がまた一歩階段を上り始めると、少し難しい顔をした翠ちゃんも二人三脚のように踏み出した。翠ちゃんは私に何か叱られると思ったのか、早口に話し出した。
「あの、お義父さんが言ったように、悠太に仕事を辞めてもらうなんてのは考えてなくて」
翠ちゃんが言い訳をし始めたのを聞いて、私は頬が緩んだ。翠ちゃんも大概、私に気を遣ってくれているようだ。私は首を横に振った。
「それは二人で考えたらいいのよ。私たちの意見なんて聞かなくていい」
「え、その話じゃ……」
「違うわ」
私は一歩ずつ石階段を進みながら、マッコリの決意を胸に口を開いた。
いざ、嫌われてやろう。
「翠ちゃんあのね、良かったらもっと、私を頼って欲しいの」
私は夫のように、はっきりと声を出せた。
「純也のお迎えでも、夕飯作りでも、翠ちゃんの愚痴を聞く相手でもいいわ。何か私にできることはないかしら?」
ふと気づくと、翠ちゃんを二段分置き去りにしてしまっていた。ゆっくりと振り返って翠ちゃんの顔を見ると、彼女の眉間は開いて、口も開いていた。私は翠ちゃんに笑いかけた。
「翠ちゃんがふるさとをつくっていく、手伝いをさせて欲しいの」
翠ちゃんの瞳に水分が増して、月明かりに光った。翠ちゃんの泣き顔なんて初めて見た。私たちは、まだまだ知らないもの同士だ。私は二段分の階段を下りて、翠ちゃんの隣に立った。
「こんなこと言って、迷惑だったら本当にごめんなさいね。でももう言わずにはいられなかったのよ……」
きっと私のお義母さんなら、こんな不格好な宣言なんてせずに、さりげなく嫁を助けただろう。私はお義母さんのようにスマートにはできない。
けれど、嫁を可愛がろうとする気持ちは、お義母さんと同じだ。
「頼ってい、いいんですか……きっと、たくさんご迷惑をおかけしてしまいますよ」
隣に立った翠ちゃんの声が細く震えて、瑞々しく若い頬にするりと涙の筋ができた。翠ちゃんの頭を撫でてあげたくなってしまったけれど、私はそっと背を撫でた。
「迷惑だとか、しんどいとか、苦手だなって思ったりしたら、きちんと言い合うっていう決まりにしたらどうかしら?前に……翠ちゃんが私のことを苦手って言っているのを陰から聞いてしまったのよね」
「そ、そんなことありました?!」
翠ちゃんの涙は急に引っ込んで、代わりに大きな声が響いた。階段を上る参拝客から一斉に目を向けられて、私はしーと言いながら階段を上り始めた。また翠ちゃんと上るリズムが合い始める。翠ちゃんが矢継ぎ早に尋ねる。
「わ、私、お義母さんのことそんな風に言ったことありません。いつのことですか?」
翠ちゃんが取り繕おうとしてくれることは嬉しいが、私は打ち明けた。
「一年以上前よ……たしか、うちにお好み焼きを食べに来た日だったわ」
「あ、それ」
翠ちゃんはすっかり涙が乾いた目元に片手を当てた。身に覚えがあったようだ。肩がきゅっと緊張した。今から私のどこが至らないのか聞かなくてはいけない。同じ轍を踏まないためだ。そう思っていると翠ちゃんが言った。
「お義母さん、それ……私ずっとその……言えなくて」
「いいのよ、翠ちゃん。私に悪い所があったんでしょう。思い切って教えてちょうだい。今日は大晦日よ」
また翠ちゃんの足が止まった。私も覚悟を持って足を止め、振り返る。
「……実は私」
俯いた翠ちゃんがきゅっと拳を握って顔を上げた。
「長いもが苦手なんです」
「長いも?」
「お義母さんが作るお好み焼き、長いもがいっぱい入っていて、どうしてもその……苦手で……」
翠ちゃんが勢いよく頭を下げた。私は瞬きを繰り返した。
「食べ物の好き嫌いの話だったの?」
「はい……私ったら純也が好き嫌いするなんて言えなくてもう、ごめんなさい!」
彼女の打ち明け話はなんとも些細なものだった。私の勘違いだったようだ。私は噴き出して笑ってしまった。
「そんなこと、早く言ってくれたらよかったのに」
「いえ、そんな、せっかく作ってもらったものに文句をつけるなんてありえませんから」
私は笑いが止まらないまま、翠ちゃんの背中をぽんぽんと叩いて一緒に階段を上り始めた。解けてしまえば呆気ない誤解だ。
けれど、お互いに黙り続けた配慮、こうやって打ち明けた夜。
家族を始めたばかりの私たちとってはどちらもきっと、必要な段差だった。
やっと階段を頂上まで上ると、ざわつく人波の中であったかい甘酒が配られていた。境内の端の方で、二人並んで甘酒を飲んでほっとする。甘酒の湯気が冴えた月も温めた。私は月を見上げながら翠ちゃんと打ち明け話を続けた。
「翠ちゃんはきっと、私が無償のお手伝いをするのって気が引けるんじゃないかしら」
「……そうかもしれません」
「だから、私が翠ちゃんと悠太をお手伝いする、見返りを要求しようと思うの」
翠ちゃんの喉をごくりと甘酒が通った。私は歳を食った皺を目に携えて笑った。
「毎年、ハニービーで『ふるさと』を聴かせてちょうだい」
翠ちゃんの目にぶわっと涙の雫が溜まって、瞬く間に流れ落ちた。翠ちゃんに張りつめていたものが解き放たれたような気がして、私も鼻の奥がつんと染みた。
「誓います。ハニービーを必ず続けるって」
「ええ、期待しているわ」
二人で赤い鼻をすすりながら、甘酒を飲みほす。
私の中で決意のマッコリと、誓いの甘酒が混ざり合った。
禊を済ませて迎えた新年に家族会議を持ち、翠ちゃんを支える体制を話し合った。
悠太は「純也が三歳になるまで短時間勤務」を選択した。私は週三日、二世帯の晩ご飯を用意。そして夫には週三日の純也の送迎と遊び相手を任命した。
指示される方が働ける夫に「引退してヒマなのだから、孫を抱きなさい」とぴしゃりと言った。夫は純也とぱっか遊びをしているときが一番、生き生きとして、額も輝いている。
私たちは新しい家族体制で、翠ちゃんを全力サポートした。翠ちゃんといつでも連絡がつくように、私は携帯電話を買った。
そうして家族全員で走り抜き、たどり着いた、七月最後の日曜日。
駅直結の文化ホールで、今年も無事にハニービーが開催された。
今年もハニービーメンバーの家族が一堂に会し、道子さんも息子さんと一緒に来てくれた。
ハニービーの本番前に、控室で向日葵の花束を抱いた翠ちゃんと少し話をした。聞けば匿名の方から毎年向日葵の花束が贈られてくるのだという。
「みんなで向日葵の人って呼んでるんですよ」
「まあ素敵な人もいるのね。今年も向日葵の人に楽しんでもらえそうで良かったわね」
「はい!」
二人で笑い合いながら、今日までの道のりを振り返って称え合った。
「ハニービーをつくるには、頼る覚悟を決めて、協力してもらう家族体制をつくる必要があったんですね……」
翠ちゃんが私の正面に向き直った。
「お義母さん、これからもたくさん迷惑かけますが、頼らせてください。よろしくお願いします」
花束を抱きしめて向日葵のように笑った私の「娘」がなんとも可愛く、愛おしかった。
毎年彼女が向日葵の花束を受け取れるように、ふるさとを歌い続けられるように、私も彼女にお節介をし続けようと思う。私のお腹の中で、いつだって決意のマッコリと、誓いの甘酒が温め合っているから。
ハニービーコンサートは今年も素晴らしい音楽を奏でてくれた。
コンサートの最後に会場全員でふるさとを歌う。
藤色のワンピースを着た私の腕の中で、小さな純也がふるさとを聞きながら気持ちよさそうに眠っている。




