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ふるさとのハニービー  作者: ミラ


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平成20年 ハニービーのハニービー

 


 これは、女性アマチュアたちによる音楽コンサート「ハニービー」を巡る、二十年間の物語。





 桜の花びらの香りがする夜。オープンしたての純喫茶の赤いソファで、セレナが言った。

「あたし、今年で抜けるわ」

 セレナは明言しなかったが、「ハニービー」から抜けるという意図だと、すぐわかった。

 私はミックスジュースとともに息を飲む。私の声はなかなか出なかったが、隣に座るみどりが、向かいのセレナにさっと確認する。

「ハニービーからってことだよね?」

「そう」

 私たち三人は、長野県にある音楽女子高校の同級生だ。大学時代には少し疎遠になったものの社会人になって「久しぶりにみんなで歌いたいね」とまた距離が近づいた。

 Jポップを歌わせたら、カリスマ的な歌唱力を誇るセレナ。

 みんなのリーダー翠。

 そして雑用係の、地味な私。

 そんな私たち三人を中心に、当時の同級生十人を集め、年に一度の音楽コンサート「ハニービー」を立ち上げたのだ。声楽独唱やクラシックピアノ連弾演奏、女性合唱などの演目を披露している。

 そのハニービー活動が今年で三年目。

 だが、花形であるセレナが抜けるという。

「どうして抜けるの?」

 翠が聞いた。私もそれが聞きたかった。高校の時よりずっと化粧映えしたセレナは、ベリーショートの髪をかきあげて笑った。

「プロの歌手になるために、東京に行って歌手養成所に入るから」

「……ついに行くんだ」

 翠のしみじみと感じ入るような声。私もそうか、と納得した。

 私たちはもう二十五歳だ。セレナが今から本格的に歌手を目指すのは、遅すぎるのではないかという懸念もある。

 けれど、高校時代からのセレナを知っているから、反対する気持ちは出てこなかった。

「お金はずっと貯めてきたから、資金繰りの目途も立ってる。やっと音楽だけに集中できるよ。いろいろあったけどね!」

「そうだね、セレナはよくがんばってきたよ」

 翠は大きく頷いた。高校卒業のとき、セレナは大学へ行かずに上京しようとしていた。だが、父親の反対を受け、大学は卒業するように言われたのだ。しぶしぶ進学したセレナだったが、在学中に母親が病を患い、闘病を支える立場になった。

 セレナの母親は亡くなってしまったが、セレナは寄り添い切った。社会人となり、お金を貯めて、彼女は今やっと夢に向かうのだ。父親はいまだに歌手の道を反対しているようだが、遅すぎる、なんてことはないと信じたい。

 音楽女子高に入学した当時の私は、それなりに歌えてピアノも弾けるつもりだった。だがセレナと出会って、本物の音楽家を知った。そのときの衝撃は忘れられない。

 彼女の歌を聞いたとき、私には、物語と色と世界が見えた。

 彼女の歌は、私の憧れそのものだ。身の程を痛感した私は立ち位置をわきまえ、大学は経済学部に進み、そのまま小さな企業に就職した。

 音楽との関わりは、車のBGMにクラシックかけて聴く程度になっていた。

 けれど私がそうして音楽から距離をおく間も、セレナはボイストレーニングを続け、着実に夢への貯金を重ねていたのだ。

「応援してるよ、セレナ」

 翠がそう言うと、セレナは未来への希望を宿した瞳で頷いた。

「ありがとう。今年で抜けるけど、あたしはハニービーを背負って歌手になるから。二人は私のこと、ハニービーで待っていて。いつかプロ歌手として、ゲストに呼んでよね!」

 にっと白い歯と紅い唇で笑うセレナが、眩しかった。きっとセレナが言うなら、それは現実になるはずだ。化粧っ気のない私の目に、涙が浮かんできた。セレナが私の潤んだ瞳を指摘して笑う。

「やだもう真紀、泣いてる!一生の別れじゃないんだから!」

「いっつも真紀って最初に泣いて、周りを泣かせるよね。もう私まで泣けちゃう」

 翠が私の背を撫でながら鼻をすすった。翠はその素直なリアクションと軽やかなフットワークでみんなを指揮するリーダーだ。

 けれど私は、翠のように百パーセント、セレナを祝福して泣けたのではない。

 セレナはものすごく歌がうまいのに、それを鼻にかけたことなんて一度もない。音楽学校で成績が底辺だった私と、たくさん一緒に歌ってくれた。

 音楽は巧い下手ではなく、ともに奏でてこそ楽しいものだと、彼女は誰よりも私に伝えてくれた。

 セレナのことが大好きで、セレナの真っ当な努力を知っている。

 なのに、喉の奥がざらざらした。

 この前もそうだった。

 先日も三人でハニービーのミーティングを兼ねて集まった。そのときに翠が、結婚を決めたと報告したのだ。そのときも、私は涙ぐんでしまった。

 翠の新しい門出は我慢できたのに、セレナまで旅立ってしまう。そう思うと、こみ上げたものを抑えきれなかった。

 だって、私には何もないから。

 将来を共にしたい相手も、情熱をかける仕事も、目標も向上心も、音楽を愛する強い気持ちもない。

 それなのに、ここにざらつきだけがある

 何も頑張っていないくせに、彼女たちに置いて行かれる焦燥だけは一人前に持っている。なんておこがましい。

 私には何もない、二人が羨ましいと明かして、慰めてもらいたかった。真紀にもいい所があるよと言ってもらいたかった。

 けれど、そうやって慰めを請わないことだけが、私が今できる最大限の慎みと祝福だ。

 全部ぐちゃぐちゃに混ぜてすり潰したミックスジュースが私みたいで、飲み干せなかった。



 桜が新緑を携えるころ。

 ハニービーメンバー十人が、文化ホールの練習室へ集まった。

 駅に直結した大きな文化ホールは、七階立てのビルだ。各階に料理室や研修室、ギャラリーなどが完備されて、地域の文化発表会の場として成り立っている。この大きな文化ホールの四百名を収容できるメインホールで、毎年ハニービーコンサートを行っている。

 七月の最終日曜日が、毎年、ハニービーの開催日だ。

 今年はいつにするかと悩まなくていいように。みんなで決めた毎年の約束の日だ。

 ハニービーの約束の日を目指して、ハニービーメンバー十人で練習を重ねていく。

 練習の日を決め、文化ホールで練習室を予約をして、練習室の鍵の開け閉めといった雑用を私が担っている。

 セレナは観客を満足させるために歌の研鑽を積み、翠は今年の選曲に力を入れる。私は誰にでもできることをする。

 アップライトピアノが一台ある練習室に集まったメンバーの前に、翠が立った。翠が明るく報告する。

「みんな、今年でセレナはハニービーを卒業します。プロになるために上京するからね!応援しよう!」

 翠の音頭でうわぁと盛り上がった面々が、誇らしげに笑うセレナに押し寄せてがんばれと抱きしめた。私と翠は、一歩後ろでその騒ぎを見つめる。私もああやって、セレナの胸に飛び込んでがんばれと言えたら、どんなに自分のことが好きになれただろうか。

 興奮冷めやらぬまま、今年のハニービーで歌う曲を十人で確認して、軽く合わせてから練習は終了した。

「飲みに行くよ!」

「私は鍵を返してから行くね」

「先に店で席を取っておくよ」

「うん、よろしく」

 飲みに行こうと逸るみんなを翠が先導した。彼女たちを見送ってから、私は一人で練習室の鍵を受付に返しに行った。二十一時まで練習室にいたので、一階の受付周りはすでに照明が落ちかけていた。薄暗い受付の奥へ向かって呼びかける。

「すみません、鍵を返しに来ました」

 奥から急いで現れたのは、私より少し年上だろうスーツの男性。彼は右目の真下に小さなほくろが一つある。

 目の下中央の泣きぼくろは「幸運の証」なんて言ったりする。

 愛情豊かな人で、望んだ相手と結婚できるというのが人相学の見解だ。

 人相学は占いではなく統計学を用いた学問である。占いよりも当てにできる。でも、そういう不確かなもので自分の運命を調べてしまったりする私は、なんとも頼りない。

「ハニービーの方ですか。五階の練習室の鍵ですね」

 つややかで低い声で彼が言った。彼が声楽をやったら魅力的だろうななんて考えながら、鍵を滞りなく渡した。

 文化ホールでは毎日多くの人に、様々な部屋を貸し出している。そんな文化ホールの職員である彼は、私の顔を見ただけでハニービーの練習室の鍵だと言い当てた。顔覚えが良い人だ。

「次の予約をされますか」

「あ、はい、お願いします」

 私が継続してハニービーの練習室の予約を取っていることも、把握しているようだ。接客力が高くてプロ意識が高い。

「お疲れ様でした。またのご利用お待ちしております」

 彼はきちんとお辞儀をしてくれた。気持ちの良い対応だ。私は会釈してから、喉がざらつく飲み会へと足を向けた。

 セレナや翠に、私がざわついた気持ちでいるなんて悟られたくない。だから、飲み会には行かなくてはいけない。私は自分がきちんとしていると装うことにばかり懸命だ。



 次の練習日に、私は文化ホールの受付に鍵を借りに行った。受付には泣きぼくろの彼がいた。幸運なことはありましたかと聞いてみたくなる。

「道幸真紀さん」

 彼は私が出した練習室の貸し出し申請書を何度も見ているのだから、名前を知っていて当然だ。けれど、名前を覚えてもらった、なんて思ってしまう。

「ハニービーの練習室の鍵ですね」

「お願いします」

「七月の最終日曜日にメインホールを取られていますよね。練習がんばってください」

「あ、よくご存知ですね」

 彼の対応はいつも気持ちが良いので、私は気が緩んで愛想よく笑いかけてしまった。

「もし時間があれば聞きに来てください。誰でも入って良い無料のコンサートなので」

 彼は数回瞬きをした。馴れ馴れしいことを言ってしまったと今さら後悔したが、彼は目を細めて微笑んだ。幸運のほくろが、ふにゃりと動く。

「私はその日も勤務しているはずなので、覗きに行かせてもらいます」

「ぜひ」

 彼のプロ意識の高い対応に、気持ちが和んだ。幸運のほくろは、本人ではなく周りにご利益をもたらすのかもしれない。

 ハニービーには私の両親や兄弟も見に来てくれる。だが、身内ではない人に見に来てと言うのは久しぶりだった。しかも爽やかな返答をもらった。

 彼は文化ホール職員として、無難な返答をしただけだろう。それでもいい。今日はほわっとした歌が歌えそうだ。

 ほくほくした気持ちで鍵を受け取り、エレベーターへ向かう。

 エレベーターの前で六十代くらいの婦人が、あっちこっちとうろついていた。品の良いワンピースをまとった彼女に見覚えがある気がしたのだが、誰かは思い出せなかった。

 私は迷っているような彼女に声をかけた。

「何かお手伝いが必要ですか?」

「あら、ご親切にどうも。実はどのエレベーターに乗っていいかわからなくて」

「このエレベーター最初はわかりにくいんですよね」

 エレベーターは四つあって、上階まで直通のものと、各階に停まるものが混在している。私は荷物を抱えた彼女にどこへ行くのか聞いた。

「ハニービーの練習室に行くのだけど、たしか五階って聞いてるわ」

 私ははたと彼女を見つめた。見たことがあると思ったのはハニービー関係者だったからか。ハニービーメンバーは十人いて、ハニービーコンサート当日にはその親族が一堂に会す。さすがに全員を把握できていなかった。

「私、ハニービーメンバーなんですよ。ご案内します」

「そうだったの!覚えてなくてごめんなさいね」

「いえいえ、私もです。道幸真紀といいます」

 二人で一緒にエレベーターに乗のりこみ、五階を目指した。

「誰の関係者の方か、聞いてもいいですか?」

「ええもちろん。私は今度、翠ちゃんの義理の母になる予定の、佐藤恵よ」

「え、翠の義理のお母さん!?」

「ふふっ、そうなのよ。翠ちゃんがお嫁に来てくれるのを楽しみにしているのよ。今日はハニービーの練習だって聞いたから差し入れを持ってきたの」

 翠の結婚の話を聞いていたが、義理の母が現れるとは予想外だった。

 恵さんは品があって雰囲気の柔らかい人ではある。だが、お嫁さんの音楽活動に差し入れを持ってくるなんて、ちょっと踏み込み過ぎのような気がする。しかもまだ結婚前だ。

 翠はこれからこの、いささか距離感をはかりかねている義理の母と一生付き合っていくのか。そう思うと、少し心配になってしまった。

 義理の母がお節介で困る、なんてのはよく耳にする話だ。

 羨んだ翠の未来に、一滴の墨が落ちた感覚。

 翠が選ぶ道も、当然、いい事ばかりではない。私はそんなことさえ見過ごしてしまっていたようだ。翠はそういう不確定な要素もすべて飲み込んで、覚悟して、結婚を選んだのだ。

 差し入れの袋を抱え直した恵さんは、私に向かってぺこりと頭を下げた。

「手間をかけてごめんなさいね。すぐ迷子になってしまうのよ」

「いえ、大丈夫です。私もよく迷子になります。人生の……なんちゃって」

 私は翠の覚悟も見逃して、勝手に喉をざらつかせるような迷い子だ。そんな気持ちがぽろっと出てしまった。

「あら真紀さんも迷子なの?」

 恵さんは私の声を受け入れて、顔をほころばせた。

「それは良いわ」

「良い、ですか?」

「たくさん迷ったら、その分いろんなことを考えるから。悩んでしまう気持ちがわかるようになるでしょう?」

 恵さんはエレベーターの回数が上っていくパネルを見上げる。穏やかに微笑む彼女も、少しずつ人生の階数を上ってきたのだろうか。

「迷った分だけ、誰にも偉そうになんてできなくなる。迷いは、優しさの幅になると思うわ」

「優しさの幅、ですか……弱さの幅かと思っていました」

 恵さんはうふふと品よく笑って、そんなわけないでしょと手を振った。

「迷ったからこそ優しくなれて、素敵な扉に出会えるものよ。ほら、今の私は迷ったおかげで真紀ちゃんとお話できたでしょ?エレベーターの扉も開くわ」

 恵さんのお茶目な笑顔に、私もくすりと笑う。すると同時に、エレベーターの扉が開いた。恵さんはお嫁さんとの距離感がちょっと不安定だけれど、優しさの幅が広い人だ。

 恵さんの差し入れ、蜂蜜柚子ドリンクが抜群に喉に優しくて、久しぶりに練習の音が楽しいと思えた。


 半袖のブラウスで過ごしながらも、冷房対策に上着を持ち歩く夏が訪れていた。

 ハニービー本番まであと二週間。

 次回の練習は、最終リハーサルだ。セレナと一緒に歌えるのはもう、あと二回だけだとハニービーメンバーは名残惜しんでいた。

 熱が入った練習を終えて、今日もセレナとの別れを惜しむ飲み会が行われる。あと、二回だからとみんなが口にした。翠が私に声をかけた。

「真紀もみんなでご飯に行くでしょ?」

 翠が楽譜を抱えてにこりと笑う。私は行くと答えようとする口をきゅっと噤んだ。恵さんとエレベーターで話してからずっと、優しさの幅を広げたいと考えていた。私は練習室の鍵をかけながら言った。

「今日はやめておく」

「あれ、用事があった?」

「そうじゃないんだけど、今日はちょっと……一人で考えたくて」

「……そっか、うん、わかった。何かできることあったら言ってね」

 翠はそれ以上追求せずに、にっこり笑ってまたねと背を向けた。

 翠は指揮者だ。メンバーを満遍なく見て導いてくれる。きっと私がこのところ浮かないのにも気づいているだろう。けれど、見守ってくれているのだ。

 私はいつもの職員さんに鍵を返し、一人で車に乗って夜の街を走り出した。食べる度に喉の奥にできた口内炎をちくちくさせるような飲み会を断ることができて、私の足取りは軽かった。

 私は何も感じていませんよと装うのではなく、きちんと悩むべきだ。どうやったら、セレナを笑って送り出せるのか。

 ぐるりと目的なく夜の街をドライブしていたら、小腹が空いてきた。以前にセレナと翠と一緒に行った純喫茶へと向かった。あのときは飲み切れなかったミックスジュースに未練があって、太麺のナポリタンを食べたい口だった。

 夜遅くまでやっている純喫茶なんてなかなかない。良い店を見つけたなと思いながら、重い扉を開けると、カランカランと昔ながらの鐘が鳴る。この音にも期待していた。

 夜の純喫茶はステンドグラス調のランプの淡い光が満ちていて、あまりにトーンが遅い生のピアノの音が流れていた。

 純喫茶の端にあるアップライトピアノを弾いているのは、黒エプロンをつけた男性だ。おそらく店長さんだろう。店内のテーブル席には誰もおらず、カウンター席に一人男性が座っていた。

 ピアノを弾く店長さんの背中を見つめながら、私もカウンター席の高い椅子に腰かけた。

 ぎこちなく奏でる曲は童謡の「ふるさと」だ。「うさぎ追いし、かの山」と始まる、有名な童謡。

 たどたどしい音に、懐かしさと親しみがあふれる。曲が終わったので私は静かにぱちぱちと拍手した。振り返った白髪交じりの店長さんは、後頭部に手をやった。

「いらっしゃいませ、気づかなくて申し訳ありません」

「いえ、素敵な演奏でした」

「もったいないお言葉です。何にしましょうか」

 店長さんは恥ずかしそうにカウンターの中に入って、私の注文したナポリタンを調理し始めた。先に出してもらったミックスジュースを今日こそ飲み干してやると意気込む。一口飲むと、席を二つ開けた向こうに座っていたお客さんが声をかけてきた。

「あの、道幸さん?」

 名前を呼ばれて振り向く。隣に座っていたのは、文化ホール職員の男性だった。ストローで吸ったミックスジュースが口端から零れそうになった。彼の泣きぼくろがふわりと動く。

「こんなところで偶然ですね」

「びっくりしました。よく来るんですかここは?」

 ミックスジュースをごくりと飲んで口を開く。ここは文化ホールの近くの店なので、彼がいても不思議はない。

「はい、仕事帰りにちょうど小腹が空いて、よく寄ります」

「わかります。私も練習帰りにお腹が空いて」

 不意にお腹が鳴ってしまうなんてことがないように、私はミックスジュースで小腹を埋める。ハヤシライスを食べていた彼は声楽向きの艶やかな声で問うた。

「隣にお邪魔してもいいですか」

「ど、どうぞどうぞ」

 席に置いていた荷物を退けると彼が二つ席を詰めて、隣に座った。それだけで店の空調の温度が上がった気がした。そしてすぐに、食べたら確実に口元が汚れるナポリタンを頼んだことを後悔した。

「お待たせしました」

 私の選択ミスなど知らず、店長さんは赤オレンジ色が映える石焼太麺ナポリタンを私の前にどんと置いた。もう食べるしかない。

 私は両手を合わせてから食べ始めた。彼に食べるところを見られていないように祈ったが、彼は泣きぼくろを揺らして薄く笑う。

「僕、ここのナポリタン好きなんですよね」

 しっかり見られていた。微笑む彼に、私は美味しいですと返すしかなかった。

 どんなに気をつけても口周りが汚れるナポリタンを食べ切るころには諦めて、ナポリタンの美味しさを隣の彼、橘さんと語り合うことに専念した。

 どんなに良く見せようとしても私はこんなもの。

 もうそわつく心は置いて開き直った。

 気が楽になって再びミックスジュースのストローを口に咥えると、橘さんもミックスジュースを飲み始めた。あの日、セレナもミックスジュースを飲んでいた。

「この前、ミックスジュースを残してしまったんです」

「どうしてですか?」

 彼は赤いストローを口に咥えて首を傾げた。お腹が痛かったとかと真面目に言う橘さんに笑ってしまった。

「私の中がぐちゃぐちゃになっていて、ミックスジュースみたいだなって思うと飲み切れなくて」

「……ぐちゃぐちゃになった理由を聞いてもいいですか」

「小さい私の嫉妬の話ですよ?」

「聞かせていただけるなら」

 橘さんはミックスジュースのグラスの中で赤いストローをくるりと回した。泣きぼくろが真っ直ぐ私に向く。私はセレナが旅立つと知った日からずっと続く、喉のざらつきについて事細かに話した。

「ハニービーの仲間は私の自慢です。なのに、一歩踏み出そうとする二人の親友を心から祝福できなくて。私ってつまんないなと思ってぐちゃぐちゃでした」

 こんな狭量なところを明かしてしまってはもう、橘さんとときめく関係になれないだろう。だが、話してしまった。

 ずっと、ハニービーを知らない誰かに聞いて欲しかったから。

 悩み抜こうと決めた、夜だから。

「私はセレナや翠みたいにハニービーで役に立たないし、ただただ地味なくせに。焦ることだけはするんです」

 また店長さんがゆっくりとピアノを弾き始めた。ふるさとの響きが耳に染み込む。橘さんはしばらく考え込んでから声楽向きの艶やかな声を出した。

「でも、ハニービーの鍵を管理しているのは、道幸さんですよね」

 橘さんの泣きぼくろが私に向いて、私は何を今さらと思いながら頷いた。

「そうですけど、それがどうかしたんですか」

「道幸さんは自分を役立たずと思っているようですが、ハニービーの扉を開いているのはいつだって、あなたですよ?」

 私に鍵を渡し続けてきた橘さんが、事実を述べる。

 ミックスジュースの中の氷がカランと崩れる。

 鍵を持って、練習室の扉を開けているのは、たしかに私だ。それが何だと言うのか。

「道幸さんがいないと、ハニービーは始まらない。ハニービーの鍵を握っているのは、あなたなのではと思いました」

「そんな雑用、誰にだってできることですよ……?」

「そうですね。でも僕が知っている限り、道幸さんがずっと鍵係ですよね?何の見返りもなくそれをずっと続けることは、なかなか骨のある事だと思います。少なくとも私はやりません。交代制にしようと申し出ます」

 合理的な意見だった。

 そういえばセレナと翠を始め、メンバーたちは練習室の準備をありがとうといつも言ってくれる。何度も言わなくていいのにと思っていたが、鍵係はそれなりに価値のあることだったのか。

「メンバーの皆さんは心から安心しているのでしょうね。道幸さんが鍵を握っているから、大丈夫だと」

 幸運の泣きぼくろが、今まであたり前にやってきたハニービーの鍵係に、スポットライトを当ててくれた。

 懐かしい仲間たちが年に一度集まり歌う約束の日「ハニービー」。

 そんな再会の場の、鍵を握っているのは、いつだって私だった。

 私だけは認めていなかったけれど、実はみんなが見ていてくれた。ささやかでいて、忍耐のいる役割。

 私は意外と、がんばってきていたのか。そう思うと、私の立っている場所が急にはっきりして、胸にぽっと誇りが咲いた。

 私は思わずにやけてしまった口元を誤魔化すように、ミックスジュースをストローで吸い上げた。喉のざらつきが取れて、するりと甘い香りが喉を通り抜けた。隣で同じようにストローを吸った橘さんが言った。

「それに……ミックスジュースはぐちゃぐちゃだから、美味しいですよ」

 私みたいにぐちゃぐちゃのミックスジュースを褒めてくれた橘さん。ありがとうございますと言っていいのだろうか。今夜の私はミックスジュースを全部、美味しく飲み干した。

 店長さんが奏でる「ふるさと」が終わりを迎え、私は橘さんの隣を立った。

「おやすみなさい、橘さん。ハニービー見に来てくださいね」

「はい、必ず」

 挨拶を交わして、私は夜の車に飛び乗った。

 今からみんなの飲み会に乗り込もうと決めた。セレナに言わなくてはいけないことがある。



 夏夜の蒸し暑い道を車で走り抜けて、ハニービーメンバーお決まりの安い居酒屋に到着した。セレナと翠を含む他のメンバーが集まる座敷へと足を踏み入れると、みんなが一気に私に注目した。最初に声を上げるのは必ず翠だ。

「真紀!来たんだ、座って座って!」

「翠、実は私……」

「な、なに?もしかして、真紀まで抜けるなんて言い出すんじゃ?」

 気合いが入りすぎた私の硬い顔を見て、翠が珍しく細い声を出した。翠でもそんな心配をすることがあるのかと、ふっと力が抜けた。私は首を振る。

「そんなこと言う訳ない。でも無理なお願いをしたくて来たの」

「もうびっくりさせないでよ。何?真紀からお願いなんて珍しい」

 翠がほっと息をつくと、他のメンバーたちも同じように息をついた。

 私がいない間に、私が抜けたがっているとでも噂していたのかもしれない。セレナは良かったぁと翠の肩をぽんぽん叩いていた。意外と私はみんなに気にかけてもらっていたようだ。私は気の置けない仲間たちを前に言った。

「今さらで申し訳ないんだけど、今度のハニービーコンサート。ラストに一曲、追加して欲しいの」

「え、今から曲を追加なんて」

「最後まで真紀の話を聞こうよ。何の曲なの?」

 メンバーの一人が無理でしょうと言いかけたが、翠が宥める。私も無茶を言っていることはわかっている。けれど、どうしてもセレナと一緒に歌いたい曲がある。


「童謡の……『ふるさと』」


 私はその言葉を口にしただけで、目と喉にぐっと熱いものがこみ上げた。私の気持ちをふるさとの歌詞が伝えてくれる。

「セレナが『志を果たして、いつの日か帰らん』ことを願って。最後にセレナと一緒にこの曲を……歌いたいの」

 震える声と涙がぼろりとこぼれた。ハニービーが、セレナのふるさとだと声のかぎりに歌いたかった。目から次々と涙をこぼしながら、私はセレナを真正面から見据えた。みんなが息を飲んで私の涙を見ている。でも私はもう隠さない。セレナにまっすぐ言葉を贈る。

「あのね、セレナ。ふるさとってさ、待ってる人がいるからあるんだよ。だからね、ハニービーの鍵はね、私が持ってるから。だからね、だからセレナ……」

 セレナが赤い唇をきゅっと噛みしめて、瞳からするりと綺麗な涙が落とした。

 ダメな私を見捨てずに、音が楽しいものだって体現し続けてくれたセレナ。

 歌うあなたは本当に美しい。

 私はここで待ってる。

 鍵を開けて、いつまでだって待ってるから。だから。

「プロになってね、セレナ!ずっとここから、応援してるから!」

 喉の奥から、迷いも濁りも消えた真心の応援を叫んだ。私は両腕を広げてくれるセレナの胸に飛び込んだ。

 抱きついて抱きしめ合って、涙の栓が抜けたみたいに二人で泣いた。セレナはぎゅうと私を抱きしめる。耳元でセレナの涙声が聞こえた。

「お父さんみたいに、真紀もあたしが東京に行くの反対なのかと、思ってた……」

 隠していたつもりだったけれど、私がセレナにがんばってねと言っていなかったのは気づかれていたようだ。当然だろう。セレナは感受性が豊かだから、歌手を目指せる器なのだ。私はセレナに正直に言った。

「反対なんてしてない。でもね、ものすごく寂しかったのを、意地張って隠そうとしただけ!」

「もう、真紀ったら……」

 セレナは私を小突きながら泣き笑った。

 メンバーたちがふふふと笑って見守る中、翠は号泣していた。セレナから離れた私は翠にも両手を広げた。

「遅くなってごめん。結婚おめでとう、翠!」

「もう、真紀っていっつも泣かせてくるんだから!」

 私はセレナと翠と抱き合って、涙を交わした。メンバーたちは私たち三人が泣きながら抱き合うのを見て、朗らかに笑っていた。

 その夜、私たちはハニービーコンサートの最後に歌う「ふるさと」の打ち合わせを長引かせて、いつまでも帰らなかった。



 七月の最終日曜日。

 その日は青一色の夏空だった。

 ハニービーコンサートを行う大ホールには、メンバー全員の家族、友人知人、通り過がりの地域の人が集っていた。まるで同窓会のような雰囲気も兼ねる和やかな空気の中、私たちは開演を迎えた。

 セレナの独唱から始まり、ピアノ連弾やヴァイオリン演奏など、本格的なクラシックを奏で、最後にはハニービーメンバー全員で女性合唱を響かせた。

 音楽の耳が肥えた音楽高校卒の私が客観的に聞いても、決してレベルは低くないコンサートだ。半分以上埋まった客席からは、あたたかな拍手があふれた。

 橘さんもどこかのタイミングで見に来てくれていただろうか。そんなことをふと思いながら、最終演目「ふるさと」が始まる。

 まばゆい舞台の中央で、セレナが胸に手を当ててふるさとの一節を響かせる。

 彼女の声を守るようにハニービーメンバーの歌声が響く。セレナは私にずっとそうしてくれたように、寄り添って音を紡いでくれる。懐かしさと寂しさが入り混じる歌声に泣きそうになるのを堪えながら、一音一音を惜しみながら歌った。

 滞りなく幕が下りて、今年のハニービーは終演した。全員で成功を祝い合い、称え合い、セレナとの時間を写真に収め、聴衆に礼を尽くした。

 コンサートが終われば撤収作業に慌しくなる。

 あっという間に時間が過ぎて、私は今年最後の鍵係の仕事に赴く。もう打ち上げの段取りが忙しい翠に声をかける。

「鍵を返してくるから、先に店へ行ってね」

「いつもありがとう、よろしく!」

 翠のお礼に返事をして、私は受付へと足を向けた。一階の受付には予想通り、橘さんがいた。カウンターを挟んで橘さんに会釈する。橘さんの幸運のほくろが微笑んだ。

「ハニービー、拝見しました。ちょっと覗くだけのつもりでしたが、あまりにハイレベルで最後まで聞いてしまいました」

「え、ありがとうございます。お仕事大丈夫でしたか?」

 橘さんはここが良かったあそこが良かったと興奮気味に話してくれた。落ち着いた人だと思っていたが、意外とお喋りなのかもしれない。

 橘さんの話をじっくり聞いたあと、私は橘さんに来年のハニービーの予約日を受付けてもらった。

「また来年も、お世話になります」

「次は私も休みを取って、観客として最初から席に座っていることにします」

 橘さんの艶やかな声に、今日は茶目っ気があった。ハニービーの音楽で気分が上がったからだったら嬉しい。もっと話していたかったが、これ以上仕事の邪魔をするわけにいかなかった。

 来年のハニービーの準備が始まるまで、もうこの文化ホールには来ない。私は見納めになる幸運のほくろをじっと見つめて、橘さんに鍵を返した。

 手の平に鍵を収めた橘さんは、カウンターの下から向日葵の花束を取り出し、私に渡した。

「これをお預かりしていました。どうぞ」

 彼に鍵を渡したことで、プレゼントの鍵を開いたかのように向日葵の花が出てきた。私は、その向日葵の花束に見覚えがあった。橘さんが花束について説明してくれる。

「直接ハニービーの会場でお渡ししてはと言ったのですが、匿名で贈りたいから代わりに渡してくださいと依頼されて」

「あ、それ、向日葵の人です」

「向日葵の人?」

「ハニービー第一回目から毎回、向日葵を送ってくれる人がいるんです。けど名乗ってくれなくて、みんなで『向日葵の人』って呼んでいます。たぶん、ハニービーのファンの方で」

 私は少し自慢を込めて言い、可愛い黄色の花束を抱き寄せて目で愛でた。誰だかわからないが、向日葵の人は今年も来てくれたのか。みんなに報告したら、さぞ喜ぶだろう。橘さんはそうでしたかと頷いてから、再び何かを私に差し出した。

「こちらも預かっています」

「え、今度は何ですか?」

 橘さんから渡されたのは、向日葵のワンポイントが入った小さな封筒だった。おそらく手のひらサイズのメッセージカードを包んだ封筒だろう。

「向日葵の人からですか?」

「いえ……これは違う匿名の方からですが。道幸さん宛てです」

「私に直接?何だろう」

「ファンではないですか」

「それは嬉しいですね!」

 まさかそんなことはないと思うが、ファンの響きに期待して声を張ってしまった。私は向日葵を抱き直してから、橘さんにお世話になりましたと頭を下げた。

 薄い笑みで橘さんの幸運のほくろがやや動く。名残惜しい表情に見えるのは私の期待からだろう。橘さんは実直に仕事を遂行し「ハニービー、お疲れ様でした」と静かに私を見送った。


 私はひとり、惜しい気持ちと向日葵を抱えて、駐車場に停めた車に乗った。みんなが待っている打ち上げ会場に行かなくては。けれどその前に、小さな封筒の中身が気になった。

 夜の薄暗い運転席に座って、封を開く。やはりメッセージカードが入っていた。カードに書かれた固い字を読む。

『ハニービーには〈働き者〉という意味もあります。道幸さんにぴったりな名前だなと思っていました。今度は鍵の受け渡しではなく、連絡先の受け渡しをお願いできると嬉しいです。橘』

 最後に電話番号が書いてある。匿名ではなかったメッセージカードを読んで、私はにやける口元を向日葵の花束で隠した。花束からは明るい夏の匂いがした。


 私はハニービーの「働きハニービー

 また来年も、これから先も、何年でも。セレナが帰って来るまでずっと。

 鍵を開けて、ハニービーの扉を開くのは、私だ。


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