命と引き換えに
巫子とケンは言葉を交わさなくても、自然と花園子供苑の施設に向かって走っていた。施設に行くまでの丘にたどり着くころには、巫子の両足は太ももまで真っ黒に染まり、石のように固まりつつあった。何度も転びながら足を動かし、前へと進む。
「はぁ……はぁ……あ……。」
(石頭が見えてる……休めない。行くぞ巫子。)
「うん…施設……。」
巫子は手の感覚を失い、ケンに伸ばしていた手が力なく落ちた。
丘の途中で走ることもできなくなり、歩いているとも言えない速度で登り進むと、ケンは巫子の背中に移動して地蔵の転がる頭に手を翳して見据えている。巫子は首を回すこともできずに足を止める。
「ケンくん……何してるの?」
(止まるな。もう近い。この距離でも光が効かないなら蹴り飛ばすか…。)
「ねぇ…ケンくん…やめて……さっき…見たよね?悪霊食べてた……やめて。」
(悪霊と一緒にすんじゃねーよ。止まるな。俺が足止めする。先に行け。止まるな。)
「ケンくんが食べられて…さようならするくらいなら…私も一緒に戦う。」
(食べられねーよ。巫子が乗っ取られたら、友だちも、家族も、巫子の手を使って殺されるかもしれねーぞ。)
「私がケンくんを置いて進んで…ケンくんが食べられたら……追いつかれる前に、私は今の呪いを跳ね返せなくなる。」
(そっか……片腕は動くよな?)
「うん。」
(浄化の数珠を投げてくれ。そこに俺の光を込める。こっち向かないでいいから、後ろに向かって飛ばせ。)
「分かった。」
巫子は手首に巻かれた浄化の数珠を外し、言われた通りに後ろに投げた。ケンは全身を強く光らせると、ケンのポケットから折り紙の着物が浮かび上がった。折り紙は数珠に向かって飛び、着物の首元に当たると、折り紙の着物は人間の着物と同じ大きさになり、紙も布のように滑らかに靡く。首飾りの位置で止まった数珠も揺れ、肉体を持たない着物だけが意思を持ったように動きだした。
「ケンくん…。」
(行こう。)
「うん!」
着物は強く光りを放ち、袖で地蔵の首を殴るような仕草をしたりと、足止めに成功している。ケンは巫子の横に浮かびながら、巫子の額から流れる血と、動いていた手が黒に染まっていくのを見ながら、強い怒りを地蔵に向ける。
「着いた…中に悪霊がいっぱい……今…何か聞こえた……犬神神社……。」
(…犬の遠吠えだ。巫子…進めよ?俺が急いで犬神神社に行ってくる。)
「分かった。」
ケンは消えたような速度で山に飛ぶ。巫子は麻酔にでもかかったように感覚を失った足を何とか動かしながら進む。足の甲から地面を踏んだり、おかしな向きで曲がっているが、前に進み続ける。
だが、途中に転がっていた枝を踏み、転んでしまった。足は動かせても関節は曲がらない。動く片手首より先と、胸から上を頼りに立ち上がろうとするが、途中で手首の感覚も失い、地面に伏せてしまった。
土の上だろうが、コンクリートの上だろうが、変わらぬ音がゴロゴロと勢いを増して近づいてくる。巫子は防御の祝詞を絶え間なく唱えるが、それも虚しく首の音はすぐそこまで近づいてきた。
「…私を乗っ取っても…取り返すから。私を食べたって…霊体がある。霊体を食べたって魂はある。魂を食べても…思い出から意識を作る。一緒にいるって約束は…絶対守るから!!」
巫子はしっかりと目を開き、足元で止まった音に備えて祝詞を唱える。
「ひふみ よいむなや こともちろらね……。」
【ひふみ神文ね。ふむふむ…ふーむ…生意気な石ころね。お前ごとき小物が神を名乗る不敬を許さぬぞ。】
突如、言葉を続けることもできないほどの強烈な威圧感に押しつぶされるような感覚が巫子を襲った。巫子は後ろの地蔵を一瞬忘れて冷や汗を流す。頭に直接響くような低い声に、動かないはずの身体が僅かに震え出した。
【いらっしゃい小娘。どの世界にも美しい魂はいるわね……どこに逃げるつもりかしら?頭でしか動けない、人間に封印されて石ころになるような弱きものが、私の社を訪れて帰れると思わないことね。】
「んっ!」
巫子の体は浮かび上がると、車に近い速度で山の中を飛んでいく。風や枝に当たることもなく、周りの空間を切り取って、無重力の中を移動をしているような不思議な力に導かれた。
「んっ!ケンくん……。」
(ワン!!)
(巫子!!)
ケンは、軽トラックの大きさはありそうな、白くてふわふわした毛並みの大きな犬に地面に倒されて顔を舐められていた。動こうとしても、大きな手がケンを押さえていて動けそうにもない。
(地蔵の首も来た!!悪霊退散!!)
(ワオン!パクッ!ゴリゴリゴリ!)
(食べたーー!!ペッしなさい!!ペッ!!)
「あ……あ……あー……。」
犬の口を開けさせようとするケンだが、大犬は地蔵の頭を飲み込んでしまった。サモエドのようにニコニコと笑っている。
(飲んだのか!?吐け白くま!!)
【犬なのよ。その子は私の神使なの。本体は私の横で一緒に見ているわ。そっちに行きたそうにしてるけど、その世界で、この子の力は強すぎるから行かせられないわ。そこにいるのは本体の影のようなものよ。】
(ワン!!)
「ありがとうございます神様…ご挨拶もする前に、助けを求めるような気持ちを持ってしまいました…申し訳ありません。鬼門巫子と申します…神職になるための見習いをしています。」
【私は賢慈宗霊大神。人の世に直接の守りや手出しはしていないし、しないわ。】
(お前のご主人様…オネエか?)
【オネエじゃないわよ!声が低いだけよ!】
「セクシーで素敵です!」
【いい子だわん。】
(ワン?)
男性のような声の神を、巫子も男性だと思っていたが、単純に声が低い女性の神様だったようだ。声はずっと頭の中に響いている。
(巫子…足が!!呪いが消えてない!!あの地蔵は消えたんじゃないのか!?)
【それは病だわ。この世界には存在しないわね。首まで真っ黒になったら体が腐って首だけが落ちるわ。呪いが病になるのよ。あれは邪神と言われるもの。あるいは災い。小娘が唱えたのは祓詞ではなく、ひふみ神文だったわ。】
(ワーン?)
【災い転じて福となす。災いを祝福に変える言霊よ。招福を呼び寄せる。その声が聞こえて私が見ることができた。ただ、私は世界に関与はしない。見守る者。だから小娘に関与するとなると、それなりの対価をもらうわ。命を助けるに相応しい対価は?】
(俺が払う。)
「ケンくん嫌!私のことだから!」
(友だちのことだ。だから巫子も走るんだろ?)
「嫌!!お願いします神様!!私の命で…私も幽霊ちゃんになる。」
(聞き入れないでくれ。)
【二人が口にした通りにしてあげましょう。代償は命。二人は来世に私の神使になりなさい。その印をつけるなら、私の神使の病を祓うだけになる。こっちにも色々あるのよ。】
(どういう…こと?)
「なります!!」
(聞いてから!!契約なんだから!!)
【天国には行けなくなるわ。死んでから再会したい人とは、今世で永遠の別れをする。小娘と小僧だけが一緒よ。新しい場所が決まっている。今世でどれだけ徳を積もうともね。さらなる高みに行くための修行の道にも行けないわ。私の召使いになるの。】
(……。)
「はい。お別れしたい人には…お別れを言えました。これからも、そうします。神様にお仕えすることに喜びしかありません。」
【ふふ。小僧はどうなの?】
(それ以外の選択肢はあるか?)
【小娘がさっきの地蔵に替わって、新しい怨霊の地蔵になるわ。そういう病よ。助かりたければ、病で死ぬ前に自ら命を断つことね。それだけよ。あれは人間の悪霊が集まった邪神とは違うの。人間と、器を失くした人間に、選択できる道はそれしかないわ。】
(分かった!!)
「なります!!すみません私の病なのに!!」
(ワンワン!)
(舐めるな!)
【ふふ。成枝が小僧を気に入っているようね。本体もここで喜んでいるわ。祓詞に力を宿したわ。自分の力ではなく、神のお力を借りていると忘れないように。小僧と小娘で唱えなさい。】
(祓い給い、清め給え、神ながら守り給い、幸え給え。)
「祓え給い 清め給え 神ながら 守り給い 幸え給え。」
何度も繰り返し唱えていると、ゆっくりと巫子の全身が光に包まれ、黒い呪いの病が消えていった。感覚が戻ると本来感じる痛みも戻り、巫子は固く口を結び、声を出さないように震えながら泣いている。
(巫子…足が変な方向に曲がってる。折れてるよ…送ってくれない?)
(ワーン?)
【成枝はこの山から出られないわ。私も位置を変えることもしない。遠隔会話のできる機械はもう使えるわよ。】
(救急車だ巫子!)
「ん……んんん…。」
【小僧は惜しいわね。生前に力を伸ばしていたら、神聖なる光も出せていたでしょうに。そうしたら器を失くしたからこその強い力が使えていたわ。もっと上の神に狙われていたかもしれないから、結果としては良いかしら。】
(グルル!!)
(なーーにーー!?離せ!!)
【巫子をそのままにしていたら、巫子とケンが死ぬと思っているのよ。死んだら会えるから、死んでほしいのね。】
(物騒だなお前は!!死んでるんだよ俺は!!)
【一緒に生きる誓いをしているんでしょう?誓いを破ることはできるけど、私との契約は破ることはできないわ。小娘が死んだら、小僧も死ぬ。誰かに未練や悲しみを残しては、死んでから後悔しても遅いわよ。それに、私は必死で生きようとする者じゃないと可愛いと思えないの。最後まで美しく生きなさい。生きていた時に刻んだ功績で、死後の格が変わるわ。虫になったら、虫の知らせくらいしかさせられない。】
「んんん!!ん?」
(ワン!!グルル!!)
(めっ!ハウス!!)
巫子が携帯電話を取り出すと、画面には大量の着信履歴が残っている。
【印は刻んだわ。巫子とケン。私の神使になるのは来世から。今世に神の加護があるのではない。できる限りの精一杯で楽しく生きて、死になさい。】
(ワワワワン!!)
(死になさいって言ったんだろ犬!!)
(ワン!!)
【ふふふ。相性も良さそうね。私の神使は成枝だけなのよ。私の眷属は全員能面みたいで声も出さないで、人形のように給仕をしているの。だから成枝は退屈なのよ。】
(お喋りしてる場合か!)
【少し時間があるみたいなんだもの。向かっているわ。】
(誰だ?フェリックスか?いや、救急車じゃないと!!)
「かかかかか…かみかみかみ…か…神様。」
(お喋りしなくていいから巫子!!)
【ふふ。何かしら?】
「初対面で…無礼を……失礼…いた…いたたたた…いたしました。この先…ど…どうか…よろしく……お願い……いたす。」
(痛いな!?よろしくお願いします!)
【ふふ、よろしくね。賑やかになりそうで楽しみだわ。またね巫子、ケン。】
(ワワワワン!!)
(死なないの!!)
「巫子ちゃーーーん!!」
「巫子ちゃーーあーーーあん!!」
「巫子ちゃーん!幽霊のお兄ちゃーーん!!」
「馬鹿だね弟!こんな場所で幽霊を呼んだら何でもかんでも、呼んだ?って来ちゃうだろ!!」
「お兄ちゃん!僕が呼んだのは何でもかんでもじゃないよ!」
「馬鹿だね!!」
「うぅん!!」
(花梨と大滝?)
(クゥン…。)
神の威圧感が消えると同時に、周囲が大雨になった。巫子は、綺麗な朱塗りに金の犬の装飾が施された小さな社の前で倒れている。社の周辺に木はなく、広場のような場所には灯篭が一つあるが、今は照らされていない。
そこに、傘も差さずに花梨と大滝兄弟が駆けつけてきた。巫子を見つけるなり飛び上がった花梨が、巫子を抱きしめた。
「巫子ぢゃーん!!死なないでー!!」
「花梨ちゃ…足…だけ…ぐぐぅ…もしかして…夢で見た?」
「そうだよ!」
「僕たちは野球観戦しに行った帰りだったんだ!」
「とっくに帰ってきてただろ兄ちゃん!兄ちゃんが興奮して眠れなくて一緒に野球の話で盛り上がってたら、花梨ちゃんが泣きながら走って行くのが窓から見えて、追い駆けたんだ!」
(今…何時だ?)
「夜の十時だよ幽霊のお兄ちゃん!」
(どうやってここまで…あぁ。花梨の親父だ。)
「花梨!!はっ!!巫子ちゃん!!」
(ワン!!)
(ワン……キューン。)
(無理すんな黒豆。こいつは凶暴だ。)
(グル……キューン。)
(無理すんな。)
元気な子どもたちの後ろから、花梨の父が走ってきた。大滝兄弟の両親は兄弟が外に出たことに気がついておらず、一緒に来ていない。
強く抱き合う花梨と巫子は、お互いに号泣していたが、巫子を見つけた花梨の父が急いで救急車を呼び、大滝が巫子を背負って山を下りた。




