道の花
優子の新しい住まいは、あの公園から車で二十分ほどの場所にある。
低い階段を登ると、空気の清らかな寺がある。階段の下には墓地があり、毎日墓参りの人が訪れていた。
寺の入り口から手水舎を抜け、本堂まで石畳が続く。手前には桜が咲き、奥にはイチョウの木が高く聳えていた。
手水舎の向かいには木の祠があり、土地神の石は、本来あるべき祠の中に戻された。
誰が何を見たわけではないが、和尚が安心した顔で微笑むと、温かい風が吹き、寺全体の空気が清浄されたようだった。
本堂の裏には住居があり、一般的な家庭と変わらない温もりのある和を感じる平家の日本家屋になっている。
季節は巡り、翌年の秋。巫子と目覚が長靴を履き、落ちた銀杏を踏みしめて、硬い種を払い集める。他の人も来ることはあるが、銀杏が好物の目覚と巫子は週末に必ず来ては夢中で拾っている。
「あ!割れちゃった!」
「そういうのは食っても美味しくないからいいよ。横に避けときな。」
「うん。」
真剣に銀杏を集めていると、静かに歩み寄る住職と元気に駆けてくる優子が寄って来た。
(おい目覚!踏みしめてから捻り潰すな!お前がやった後が一番落ちないんだよ!誰が掃除すると思ってんだ!)
「いらっしゃい鬼門さん。今年はたくさん落ちていますね。」
(親父!たまには言ってやれ!誰が掃除すんだよって!)
「きっと優子は楽しそうに見ているでしょうね。ふふ。」
「ふふ。楽しそうだよ。」
(誰が掃除すんだよって怒ってんだよ!)
「ふふふ。笑ってますか?」
(怒ってんの!)
(よく食えるなこんなん…腐ってんじゃねーか?)
(腐ってない!ここの銀杏は店のより美味いって言われてんだからな!)
優子は供えられた竹箒を持ち、巫女装束を着て寺の庭を毎日掃除している。
優子の掃いた場所は、風が落ち葉を運ぶように流れ、一つの場所に集まる。そこに住職が焼き芋を焼き、優子や訪れた家族や子どもに振る舞うのも、秋の楽しみになっている。
巫子の最初の試みである成仏はまだまだ叶わないだろうと、佐藤が嬉しそうに語っていた。土地神の力を多く残す優子には、寺で唱えられる経や、手を合わせる参拝客の祈りが清い力となり流れていた。
悲しみや憎しみが怨念になった事実は消えないが、徐々に優子を清らかな成仏へと導くことになるだろう。
佐藤が生きている間に終わらせることを目標にしていると、優子のいる反対側を優しげに見て微笑んでいた。
巫子は行動範囲の狭い中学生ではあるが、街の気になった幽霊がいる場所には通っている。
関わったらいけない禁足地に立ち入らないよう、目覚と間堂にもらった地図を見ながら、休日を使って自転車を漕ぎ、商店街だった場所を見ないように通り過ぎ、目的地である事故多発地帯のカーブのある道路へたどり着く。
大きな道路の電柱の横に佇む老女の足元に、花と団子を供えて手を合わせる。
(帰りたい…来週娘が孫を連れて帰ってくる…帰らないと。)
(うろうろ歩き回るなよ婆さん。婆さん見て驚いた奴がハンドル切って事故ってんだからな。)
「生前はよくお参りしてたのかな…祈りの強い人は、思念も強いってことだよね?」
(あー…してそうではあるけど、恨みやらのほうが強いの出るだろうな。)
「孫に会いたかったんだね…。」
(ここにいたって会えないだろ。)
「うん…近所のスーパーの店員さんに、ここの事故のこと聞いてみようかな。」
(またごろごろ出てくるよ。事故多発してんだから。)
「そうだよね…。」
(帰らないと…娘が帰ってくる…孫に会いたい。)
「んー…気付かないね。」
(ボーッとしてんだろうな。)
「娘さんとお孫さん見たら分かりそうなのに。」
(もう知らないでいいよ。山姥みてーになるぞこいつ。)
「なんないよ。」
(清めの数珠は外すなよ?)
「うん。」
(こいつにも効けばいいのに。)
「穢れを祓っても、悲しみや恨みが晴れるわけじゃないから…あれ?反対側に花がある。」
(本当だ。)
巫子は自分が供えた花と団子を自転車の籠に入れ、離れた横断歩道の青信号で小さく手を挙げて、停車している車に頭を下げて渡る。横断歩道では自転車に乗ったまま走ったこともない。
(そんなんしなくていいんだよ。走り去る車だってぺこぺこしねーだろ?)
「つい…。」
反対側に渡り、ガードレールの下に供えられた花を見る。
「死亡事故まではなかったよね。」
(最近の新聞にはなかったな。)
「あっ!あんた花置くなら持って帰ってくれよ!風で飛んでゴミだけ残って危ないんだから!」
「この子は持って帰ってるよ滝さん。私はこの子たまに見かけてたから、毎回持って帰ってるの見てるんだ。ほら自転車の籠にある。」
「じゃあそれも一緒に持って帰んな。」
「あんたなら知らない人が供えたもん持って帰りたいかい?親に怒られちまうよ。空振りしたからって、こんな子どもにやめな滝さん。」
「ふん!」
(テメーが持って行けや!ゴミなんだろ!?人に言うのに自分は持って行かないのかよ!悪霊退散!!)
後ろから聞こえた声に振り向くと、地域清掃活動中と書かれた反射材のあるベストを来た十数名の男女。
中年から上の年齢の人たちは、散らばってゴミ拾いをしている。最初に巫子に文句を言っただろう男性の持つ袋の中には既にゴミがたくさん入っている。
幽霊くんが男性の側で文句を言う隣で、肌が白く清楚な貴婦人のような女性がぺこぺこと頭を下げている。足が少し透けていて、紫陽花の柄の涼やかな水色の浴衣姿の幽霊だ。
「私にもお手伝いさせてください。」
「おや、いいのかい?」
「はい。ただでさえ事故が多い場所なので、荒れたら悲しいですから。」
「本当にね…なんたってこんな緩やかなカーブでね。」
「人が飛び出してきたって言ってたよ酒屋のお兄ちゃんが。」
「酒屋のお兄ちゃんは車持ってたかね。」
「バイクだわ。左腕にヒビだったかな。入院もしてないよ。それにしても、お嬢ちゃんは誰に花を手向けてるんだい?」
「お婆さんが亡くなったってどこかで聞いたんです。どちらの方は分かりません。知っていますか?」
「いやー…。」
「亡くなったまでは…あったかね?」
「知らないね。」
話しながら渡されたゴミ袋とトングを使い、煙草の吸い殻や空き缶などを拾っていく。お喋りの多い人たちだが、最初の男性は黙々とゴミ拾いをしている。巫子は男性の隣に行き、隣で浮かぶ女性にお辞儀をした。男性は怪訝な顔を巫子に向けるだけで言葉は出さない。
「謝らないでください。掃除をしている場所に花を置かれたら困りますから。回収に困るものですよね。どうして花を供えるんでしょうね。」
「…分からないもん供えるんじゃねーや。」
「でも…仏壇に紫陽花の花を供えるんですよね。」
「……は?」
「隣で…紫陽花の浴衣を着た、肌が白くて綺麗な女の人が言ってます。あなたも紫陽花を供えてくれるじゃありませんかって。」
「……あんた…まさか…。」
「秘密なんです。私があそこに花を供えたのも、お婆ちゃんがいるから。どこのどなたか知りたくて…ここに花が供えられてるのを初めて見つけて、何か情報はないかなって。」
「…待ってくれ…母ちゃんがいるのか?俺の嫁さんなんだよ。紫陽花の浴衣?」
「はい。事故だったと言っています。ゴミを踏んだ大きな車がパンクをして、積み荷ごと自分に降ってきたって。痛いなんて感じる間もなかったって話してますよ。痛そうだったなって仏壇の前で悲しそうにしてるけど、そんな心配いらないのにねって言ってます。」
「……そうか。」
(謝れこの野郎!!)
(申し訳ありません!あなた!最初に言うことあるでしょう!濡れ衣ですよ!謝らないと!)
「ん…。」
(ごめんなさいお嬢さん。嫌な人ですけど、悪い人じゃないんですよ…頑固でね…息子ともしょっちゅう喧嘩して。家業継いでくれるだけで、ありがたいっていうのにね。)
「家業は何を?」
「あぁ…着物屋って言えば分かりやすいか。手縫いの仕立てもやってんだ。紫陽花の浴衣は…俺が最初に作って嫁さんに贈った…棺桶に一緒に入れたんだ。届いたか…。」
「はい。息子さんとしょっちゅう喧嘩してるって言ってます。家業継いでくれてるだけでありがたいって。」
「継ぐだけでありがてーもんか。落とすくらいなら潰した方がマシだ。」
(またそうやって…腕はいいんですよ。息子も父さんそっくりの堅物でね…結婚もしないんですよ。もういい歳なんですけどね。旦那はその辺だけは何も言いませんね。)
「息子さんが結婚してないの何も言わないって。いい歳?だって。」
「楽しく生きてりゃ、いつだって良い歳だからいいじゃねーか。結婚なんてそんなくだらねーこと言わねーよ。結婚はこの人って決めてから考えるもんだ。人に言われてするもんじゃねーや。職人もそこそこいるし、畳むも誰かに任せるでも好きにしたらいいや。」
(ふふ。こういうところは慕われるんですよ。)
「息子は、ずっと片思いしてた同級生が結婚して遠くに行っちまってよ。口説かねーで見てるだけだからだ。」
(あなたもそうでしょうに。ふふ。よく見かけてたから私が声をかけてんですよ。ふふふ。)
「そっくりですね。」
「バラしやがったか…ふふ。お喋りなんだ嫁さんは。」
「おや…笑ってるよ滝さんが。みんなー!滝さんが笑ってるよー!」
「やめねーか!」
「「ははは!」」
仲は良いようで巫子も安心して笑っている。昼になり、巫子も持参しているお弁当を広げて町内会の人たちと昼食をとる。滝は巫子の秘密を守り、話した内容も言わないでいるが、ずっと機嫌が良さそうにおにぎりを頬張っている。
「滝さん謝ったのかい?」
「謝ってなかったな。悪かったな嬢ちゃん。人がやったことで叱られたんじゃ、たまんねーよな。」
(この野郎!!)
(申し訳ありません…。)
「いえいえ。花を供えたい人の気持ちは分かりますし…誰かのお供物を回収する人が困る気持ちも分かります。」
「「そうだね…。」」
「誰に供えてっか知ってるか?嬢ちゃんもどっかで聞いただけで知らねーんだとよ。」
滝の問いかけに町内会の人々は顔を見合わせるが、首を捻る。
「あの…だったら、娘さんがお孫さんを連れて行くってときに亡くなった方は?」
「「あ!!」」
「大川さんかい!ここだったのかい…あー…そうかい。お嬢ちゃんが聞いたのは大川さんのことだわ。不憫だよね…花も手向けたくなるよ。」
「はい…。」
「母と娘でずっと二人で頑張ってたのにね…旦那が女が作って、一文なしで妊婦だった大川さんを叩き出したんだよ。元旦那はどこで何してるか知らないけどね。」
「元旦那は、がんでとっくに亡くなったよ。借金があったとかで、略奪婚した奥さんが荒れてたらしいわ。奥さんの方も借金してたとかで逃げたよ。保険も入ってなかったってさ。病院も連れて行かなかったから、近所さんがうめき声が聞こえてたって疲弊してたよ。」
「あー…嫌だ嫌だ。」
「「はぁあ…。」」
「ここで亡くなったことは、皆さん知らないんですね。」
「場所まではね…夜中だったみたいだし。今は作られてるけど、あのときは外灯もなかったからさ。」
「夜中に何をしてたんでしょう…。」
「掃除の仕事してるからね。施設が閉まってから掃除して帰る時間だったんだろうね。」
「掛け持ちしてたよな。」
「特に昔は小さい子いる女の人が正社員って難しかったからね。」
「夜中で真っ暗だったんだ…。」
(大川さんね…私も声かけたんですよ。全然気がついてくれないの。あの日のままなのかしら。)
(死にたくねーって思念かもな。)
(ね…分かりますけどね。旦那が慣れない料理をして指切ったときもね、絆創膏渡してあげたいし、触れもしないから手当てもできないしね。)
(……。)
(あ、でもね。この間、私が人にぶつかったんですよ。なんだか外国の映画に出てくる執事さんみたいな方でした。丁寧に礼をしてくれた姿も様になってましてね。虎柄の毛皮のコート着た金髪の人に付き従ってたんですよ。外国の人かね。)
(フェリックスっていうんだよそれ。あいつはそういう特異体質だとさ。触れる呪具もあるらしいけど、術者は人間だし、生気をごっそり持っていかれるってよ。いらねーよな。代償が必要な強い呪いみてーなもんだって。)
(いらないですね。呪いね…愛のほうが強いでしょうに。だからこそ見守るんだけどね。弁えてますから。ふふ。)
(都合よくいかねーな…あの婆さんの娘は?)
(新幹線の距離なのよ。旦那さんのご実家が梨農園やってるんですって。うちにもお裾分けもらったんですよ。あ!そうそう!梨といえば高梨さん家のお爺さんかもしれないよ花添えたの。運送業やってるんだよあそこ。いっても十年は前よ大川さんが亡くなったの。私は四年前だけどね。家もアパートだったから、引き払ったろうしね…こっち来るかね娘さん。お墓だって向こうで作るって、骨も持っていたのよ?それでね、)
(お喋りだな…。)
自治会のお喋りも続き、後ろでお喋りをする幽霊くんと奥さんの声にも耳を傾ける巫子は、首を振りたくなるほどの情報に目が回りそうになりながら、反対側の電信柱の影に見える老婆の後ろ姿に思いを馳せた。




