箱の中
眠れぬ夜は過ぎ、昼も夕方も、うたた寝をしては悪夢に起きる。枕はすでに巫子の頭に括り付けられていた。
リビングでソファーに座る巫子を目覚が支え、眠気を払うように、巫子は苦手なブラックコーヒーを口にしては苦い顔をしている。
「和尚がどうしても明日までは待ってほしいと…ただ、移動の際には閉眼供養と開眼供養を行うそうです。」
「うーん…一度力を抜いて、移動先で入れ直すんだ。」
(石は埋まっていてーんじゃねーか?公園の方が楽しいだろうし。)
「市の持ち物の公園に祠を建てるのも大変なんだよ。」
「力の強い神石なら、然るべき場所で祀るほうがよいのです。あの寺は子どもも訪れる地域にも愛された場所ですよ。桜も綺麗で人も多いですし。」
(じゃあ…箱も一緒に…。)
「そのつもりではいますが…上手く移動するかどうか。」
「閉眼供養するんだもんな…。」
「はい…。」
(燃やしてみるのはダメなのか?)
「ダメだよ幽霊くん。結局始末みたいな…。」
「あの家族の行方について知る者はいませんでした。あの家族に呪いをしていたとしたら、精神が保てているとは思いませんね。」
「あるだろうな。そこまで行けなくても、夢には出られる。」
(あいつはどこだって言ってたぞ。場所の特定までできるほどの呪いはなかったかもな。)
「あいつ…誰のことだろう。私を殺したあいつって。」
「父親かもな…実の父親と思ってたようだから。捨てたのも父親と、後から来た女がお母さんか。」
「そうですな…。」
(関わらないための対策なんだよ普通は。入り込んで詮索なんて、もってのほかだ。対策のための話し合いだ。)
「入り込んでほしくないなら、そうすると思う。夢にも見せてくるなら、関わらないようにするのは逆効果だよ幽霊くん。人なんだよ。」
「同じと思ったら駄目だ巫子。人間には、自制して動ける脳がある。理性が働く規律がある。悲しみや憎しみばかりになった精神体は、生きてる人間と同じじゃない。」
「…生きてる人間のほうが…怖いと思った。」
「うん…。」
「そうですね。」
(生きてたこともあるんだから、もっと怖いってことだ!)
「んー…あの子は怖くなかった。愛情の行き場がなかっただけ…愛したかったんだと思うんだ。」
「そうだなー…良い子だな巫子は。」
「優しい人ですね。ほほ。」
(止めろお前ら!)
「嫌だね。一番怖いのは信頼を失くすことだ。止めたい気持ちは分かるけどよ、私は祖父母に応援されて良かったよ。止めたり否定するなら、そいつにはバレないようにするだろ?何があっても相談してくれるほうがいいんだ。」
「人に駄目と言えることはしておりませんから。ほほほ。」
(そうだったな!俺は止める!呪いなんてする奴と関わるな!良い奴ばっかりじゃねーんだよ!危ないで済まないんだ!向こうは失うものなんてねーんだから!)
「そうだよね。それが私の強み。失いたくないって踏ん張れるもん。何も知らないんじゃ、どうにもできない…浅はかだった。反省する。」
「目覚お嬢様は、宮司に札を書かせて釘バットに貼り付け、悪霊殲滅と言いながら闇討ちのようなことをしていましたよ。神のような方に襲いかかって大変なことになりましたが。ほほほ。」
(悪霊の方がマシだろうがチンピラ!)
「爺ちゃんに拳骨されて、婆ちゃんに張り手された。ふふ。」
「ほほほほ。」
(笑いごとか!)
「宮司さんは神社の最高責任者だよね。それ以外は神主さん。」
「そうだ。私が世話になった宮司は引退して、嫁さんとハワイで隠居生活してるよ。」
(羨ましいな。)
「ファンキーな爺さんだったよ。サーフィンでもしてんだろうな。」
「奥様は間違いなくしているでしょうな。ほほほ。」
巫子は話の途中で、生者の楽しさや、厳しくも愛のある関係を聞きながら、少女への思いを深くする。
夕食後、体への負担を抑えるために、間堂特製の緑色の入浴剤を使った風呂に浸かり、目覚と幽霊くんに見守られながら眠りについた。
夢の中で手を伸ばせば触れられる距離に近付いた怨念の塊のような少女に声をかけようとするが、声は出せずに、静かに下を向いたあとで少女に体を向けて微笑んだ。
少女の表情は変わらない。巫子は呪われている手を伸ばして少女の手を握ると、夢の中でも呪いを受けたときと同じように痛みが走る。
「…あ……声出せる。触れていれば……悲しいね…痛いよね…愛したのにね……辛かったろうね。」
「分かったふりをするな。」
少女の声は幼さを感じないほど低く、落ち着いた響きには激しい憎悪が満ちている。
巫子は涙を流すと、少女の隣に座った。少女は立ったまま巫子への呪いを強めようと、握った手から侵蝕を試みている。
「説得してみて。あなたがしたいこと。公園…気がつかないふりをしてごめんね。ずっと知ってた。ごめんなさい。」
「……。」
「一緒に遊びたかったな…一緒に泣きたかった。悲しいよ…あの箱の中の世界だけ……学校も家も…小さな子どもにはできることが少ないね。」
「あいつを殺したい。」
「あの夫婦?子ども?」
「全部だよ。一番憎んでたのは弟だった。あいつがいなければ死ななかった。」
「包丁…偉かったね。命で守った弟…凄い勇気だよ。偉いよ。箱から出る勇気…私にはなかった。」
「お前も暴力を受けたのか?」
「暴力…少しね。私の場合は放置かな。お父さんだった人に取り憑く女の人の幽霊が酷かったの。それをそのまま伝えてた。お父さんが人に知られたくないこと。それで捨てられた。施設だけどね。それで、今のお家に引き取られた。」
「私にもそうすれば良かったのに。」
「本当だよ。五十二年前だってさ。地獄に行くよ。もう行ってるかもね。追いかけたらダメだよ?」
「……。」
「お名前は?」
「嫌いな奴がつけた名前なんて言いたくない。」
「優子ちゃんって呼んでいい?優しい人だから。」
「うん……もう…嫌だ……もう嫌だ……嫌だ……。」
「優子ちゃん……うわぁーーん!!」
「うっぐ…。」
肩を震わせて涙を流した優子を、巫子は泣きながら抱きしめる。止まることのない涙を流し、二人は夢の中で一緒に泣いた。
しばらく泣いたあとで、巫子は優子と繋いだ手の上に、手を重ねる。
「優子ちゃん。あの箱の中には何があるの?」
「あいつらには見られたくないもの。」
「中…見てもいい?」
「見ても仕方ないよ…本当に意味のないもの。」
「優子ちゃんが大切にしてた思い出だもん。私にはそれだけで意味がある。優子ちゃんを思う人に供養してもらう。行き場のない思いに、幸せになってって祈りを入れてくれる。愛をくれる。供養っていうやつ。」
「はぁ…死人だな。」
「関係ない。死んだあとだって、今こうして話せてるんだもん。一緒に埋めた御神体の石と一緒にお寺に行こう。公園ほどじゃないけど、賑やかで明るい場所みたいだよ。」
「あいつらが地獄にいるなら仕方ない…私も…もう疲れた……。」
「優子ちゃん?あ……。」
隣の優子の姿が薄くなり、繋いでいた手も行き場をなくす。優子が消えると、夢はゆっくりと閉じていき、目を覚ました。
(起きた…大丈夫か?スゲー泣いてたぞ。)
「悪霊の力じゃないから起きられなかったんだ…大丈夫か?」
「優子ちゃんと話した。お寺に行くことも伝えた。もう疲れたって…箱の中…見る。」
(寺に行ってからにしとけ!)
「そうしよう巫子。怨念の核だ。」
「うーん…うぅん。」
(こら!)
怨念という言葉に違和感しか覚えない巫子。
自分が夢で会話をして感じたことを、禍々しい怨念の塊のような力を目にした人たちに上手く伝えることができず、ただ約束の夕方を待っていた。
夕方前に間堂は和尚を、目覚は巫子と公園に移動する。先に到着した目覚と巫子と幽霊くんは、子どもが帰っていることを確認して、巫子を止める幽霊くんに、また手を繋いで外に出たりしないと約束をして公園に向かった。
公園の入り口には優子が立っていて、目覚もすぐに動けるようにポケットに入れた呪具を握りしめ、幽霊くんは光る拳を握りしめて巫子の横を歩く。
公園に足を踏み入れた瞬間に巫子は手を伸ばし、優子も伸ばされた手を握る。
慌てる目覚と幽霊くんは、巫子に何事もない状態を見ても警戒を緩めず、静かに進む。
繋いだ手からは呪いが薄くなり、箱の前に着くころには綺麗に消えていた。
(ここだ…。)
「掘るね。」
(うん…好きにしていい。大切だったわけじゃない。)
「スコップがあるから退いてな巫子。」
「私がやるよ。」
「いい。石の気配を探知できるから、加減も分かる。」
「分かった。ありがとう目覚さん。」
「お安いご用だ。」
目覚が、スコップで遊具と憩いの場の中間辺り、木の多い場所から土を掘り返す。1メートルは覚悟していたが、それは思ったよりも早く見つかった。
血の付いた箱の上に、重石のように置かれた石は泥で固まり、紙垂はかろうじて形が分かる程度になっていた。その下の箱は巫子が取り出し、手で泥を払う。
「私も箱作ったな…図工の時間に。」
(うん…学校で作ったやつ。押入れに隠してた。最後に見つからないように顔で奥にやったんだ。見つからないと思った…これをあいつらに踏まれた…許せなかった。大切にしてたから…もうどうでもいい物だけど。)
「優子ちゃんの大切が詰まった宝箱。開けていい?」
(いいよ…好きにしていい。燃やしていい。)
箱は金具があったのだろうが、無理に外した跡がある。鍵を失った箱は簡単に開いた。泥の付いた手をズボンで拭き、中に入っているノートの切れ端を取り出して広げる。
『サンタさんへ
私の本当の家族が迎えに来てくれますように。本当のお家に帰れますように。 田辺エンジェル』
と書かれた手紙になっている。
「優子ちゃん…サンタさんにお願いしたんだね。」
「あれが親のはずねーからな。」
(…意味がないんだ……もういいんだ…。)
(じゃあ成仏しやがれ。)
(チッ…。)
(おぉ!?)
優子と幽霊くんが喧嘩になりそうになったとき、巫子の持つ手紙に、パタパタと水滴が落ちた。
雨が降ったのかと空を見上げると、自分の背後に袈裟をまとった中年の眼鏡の僧侶が立ち、手紙を見ながら涙を流していた。眼鏡は曇り、レンズを伝って落ちた涙は流れ落ちる。
「…和尚さん?」
「和尚は私です。」
「お待たせしました。ほほほ。」
僧侶の後ろには、年配の貫禄のある優しそうな顔付きの和尚と間堂が立っている。中年男性は眼鏡を外して涙を拭うと、優子が立っている反対側に手を伸ばし、涙を流しながら微笑んだ。
「一緒に帰りましょう…私があなたの本当の父です。」
(……。)
(誰に言ってんだよ。こっち!見えてねーのか?)
「まだ見えていないのです。彼は住職として、寺に住み込みをしています。私は各地に教えを説くために、住居は別の場所にあるのです。今は彼と、通いの僧侶見習いが来るだけです。小さな寺ではありますが、家としては住み心地の良い場所ですよ。」
「優子ちゃんでしたよね。私は妻に結婚一年で先立たれました。それからずっと独り身ですが、妻と私の子として家に帰ってきてください。今日はクリスマスではありませんが、家族が迎えに行くのに関係ありません…僧侶としてクリスマスに勤めはありませんが、クリスマスケーキも食べます。チキンも食べます。これからは二人でクリスマスを楽しみましょう。」
(こっちだってんだよ!)
「ほほほ。」
「逆ですよ。そこに何もおりません。」
「あ!こっちですね。優子ちゃん。一緒に行きましょう。居場所の分かる印は私につけなさい。」
(見えないのに…。)
「寺の中の一部なら、見えるようにする呪具があります。他の方にも見えてしまうので、居住スペースのどこかの部屋にするのを勧めます。それで依頼料と相殺しましょう。ほほ。」
「ありがとうございます。居間にしましょう。仏壇を作って供えます。きっと食べられますよ。贈り物も届きます。あなたは今日から佐藤優子です。帰りましょう優子ちゃん。」
(…どうせ行くしかないんだ。行くよ。)
「帰りましょう…優子ちゃん。」
(行くって言ってんだよ!聞こえてないのか。)
(聞こえてねーな。ふっくく。そんなに小さくねーぞ。猫じゃねーんだからさ。)
「ほほほ。」
「「ふふ。」」
屈んで地面近くに手を伸ばす住職。優子は手を伸ばすと、触れた感覚は分かったのか、佐藤は嬉しそうに微笑むと、しっかりと手を繋いだ。
「はい。帰りましょう。」
「いいえ。土地神様をお迎えする御役目を何もしていませんので、まだ帰れません。」
「ほほほ。」
「失礼いたしました土地神様!」
「「ふふふ。」」
いつの間にか、土地神の石は間堂の手の中にあり、布で丁寧に磨かれていた。たまに霧吹きも使い、光沢すら見えるほどに磨き上げられていく。




