巫子
山本巫子は人として扱われなくなった幽霊やお化け、化け物など、総じて恐怖と言われる対象が見える。
医者の父と専業主婦の母の第一子として生を授かったが、満ち足りた生活は、彼女が幸せを感じられる年齢を待たずに失われた。
何もない場所を見て笑う新生児時代。言葉を喋るようになると、日々の出来事を嬉々として語る子供から出る、見知らぬ名前に、教えた覚えのない言葉を使う。
母親は幾度も病院を受診させたり、精神病院に入院させようと病院の受付で詰め寄るが、子供にはよくあることだと相手にされず、ついに母親が精神を壊してしまった。
巫子の父にとって、巫子は『幸せを並べて飾った自分の人生』の異物とし、巫子を心底穢らわしいものと決めつけた。自分に子どもがいることが知れ渡る小学校の手続きの前に手を打った。
遥か遠く、飛行機に乗るほどに離れた、民間の児童養護施設『花園子供苑』に巫子を捨てた。
最後の日、巫子を園長に引き渡しに来たのは父だけだった。彼は巫子をゴミでも見るような目で見下ろしていた。
「お父さん、お家は引っ越したらダメだよ。守ってね。」
「引っ越すに決まっているだろう。気味の悪い…俺を父と思うな。妻を母と思うな。二度と近寄ろうとするな。できれば早く死んでくれ。」
「できない。」
「チッ…お前なんか大嫌いだ。お前がいなければ良かった。」
「お父さん。人が嫌がることをしたらいけないよ。人が傷付くと分かることを楽しんでも、今が楽しいだけ。自分の人生は今だけじゃないんだよ。お父さんの背中にいる女の人たち…ずっとお父さんに怒ってる。病院から飛び降りたサユリさん…まだ痛そう。ユキさん…お腹の赤ちゃん殺されたって泣いてる。ミエさん…」
「うるさーーい!!」
「やめてください!子どもを殴れば警察を呼びますよ!」
「あーーー!!!」
「悪い事をしたのは私?あの時の今はもう終わったんだよお父さん。あの時の今は、今にも続くんだよ。そして未来にも。」
巫子の父は耳を塞いで叫びながら走り去っていった。人柄の良さそうな年配の女性園長は、巫子の肩に両手を添えて目線まで屈み、巫子の顔を真っ直ぐに覗き込む。
「お化けが見えるの?」
「うん。」
「それはね、普通は怖いものなの。怖い話をする人には近寄りたくない。怖い思いをしてしまうからだよ。怖いことは嫌なことなの。人が嫌がることをしてはいけない。お化けが見えることを、見えない人に言うことは意味のないことなの。」
「…そうだね。嫌なことはしない。」
「うん。一緒に暮らすお友達は、親にも、心から頼れる人に甘えられない。助けてって簡単に言える環境じゃない子どもばかり。そんな時に怖い思いをするのは、凄く嫌なことだよね。お化け以外にも、怖い思いも沢山してきた。だから怖いことだと理解して。それで、怖い思いをさせないようにしてあげて。これは思いやり。優しさだよ。巫子ちゃんだって傷付くことを言われるかもしれない。隠しなさい。」
「分かった…。」
「それと…。」
「何、園長先生?」
「園長先生にも…何か憑いていたりする?」
「園長先生には頭の上に小鳥がいるよ。顔が黄色で、体が緑。」
「…昔…園長先生の飼ってたインコに似てる色だわ。鳥も…お化けになるのね。」
「何でもなるよ。命と心があるのなら。」
「そう……どんな風にしてる?何が言いたいのかは分からない?」
「鳥の言葉は分からない。ただ…お父さんが騒いだ時に園長先生を守ろうとして、羽を広げて威嚇してた。園長先生が大好きなのは私が見てもよく分かる。」
「私も…大好きなのよ。どうして引っ越しをしたらいけないとお父さ…あの人に言ったの?」
「あのお家はね、お父さんに怒ってる人達が悪いことができないように、お寺さんから借りた墨で書いたお呪いのお札があるの。」
「お寺さんの墨で…。」
「うん。家の中には貼ってない。家の四隅に埋めてた。掘り起こしてもダメ。動かしてもダメ。あの家に住んでいる人なら、家から離れても平気なだけなの。」
「お寺さんには相談していたのね。」
「うん。お寺さんはね…お坊さんだった死んじゃった人。墨は林の祠の中にあった。書き方は教わったまま指で書いたの。」
「そう……霊媒師とか…陰陽師とか…進路はそっちの道が良さそうだわ。そういう知り合いはいないけど…どうやって出会うのかしら。ネット?違うわね…本物の紹介で運良く繋がるしかないのかしら…。」
「ご先祖様のお墓に相談してもいいかもね。夢には出られなくても、本当に困ってたら気付きをくれる。急に思い立って行った神社とかで出会えたり。お寺さんが教えてくれた。」
「あら…そういうのは…園長にだけこっそり言うのよ?中では言わないね?」
「はーい。」
「不思議な世界だわ…ふふ。ねぇトリミちゃん?」
園長は懐かしむような微笑みを浮かべ、自分の頭上に目線を向けた。何も見えないはずの彼女は、見えない何かに思い出を重ね、その姿を脳裏に映した。
田舎の街の小さな廃校を改装した木造の施設は窓が多く、二階建てで教室だった場所は十箇所。給食室や職員室はそのままで、教室の二階は居住スペースになっている。一階は浴場や図書室や談話室や面会室など、機能的に作られている。
巫子が園長に案内されている時間は、子どもの多くが学校に行っている。まだ春休みにもならない寒い時期。
高台にある施設からは学校から僅かに聞こえるチャイムの音が巫子の心を弾ませた。
最後に案内された自室は教室を小さく改装した部屋。ベランダには布団が干されていて、真新しい布団が一組畳まれている。子供用勉強机が三つ並び、少し開いた箪笥からは服が見え、生活感を感じられる。
「ベランダはあまり出ないようにね?今は巫子ちゃんの部屋にはもう一人いるよ。うちは巫子ちゃんを入れたら全員で20人。先生は園長先生の他に三人。たまにボランティアさんが来てくれるからね。」
「みんな同じ部屋じゃないんだね。」
「そうだよ。女の子は階段から左。男の子は右。お姉ちゃんと小さい子が同じ部屋なの。布団を干す時はお姉ちゃんがやるからね。巫子ちゃんも大きくなったら、同じ部屋の子にしてあげて?」
「分かった。ここは…お迎えが来ない子どものお家?」
「そんなことないよ。里子制度うちはしていないけど、乳児院から来る子は多いかな。たまに迎えがある子もいるよ。」
「そっか。」
「子どもの気持ちが大切なの。帰りたくないと言う子は面会やお出かけからになるかな。」
「私は…止められる。」
「そうね。巫子ちゃんの気持ちが大切だから、行きたいと言うなら面会は先生が沢山するけど…寂しい?」
「うぅん。先生が良い人で嬉しい。どの過去に戻っても嬉しいと思えない…戻りたいんじゃなくて、楽しいと幸せがほしいんだよね。あのお家には、どっちもない。」
「巫子ちゃんはまだ小学生にもなってないのに…。」
「お勉強は沢山させられたよ。お父さんはお医者さんだったから。お母さんは元教師。」
「そうだったわね…。」
「自分の子どもに完璧を求めるタイプだって。あのね、お母さんは電話で見つけた知らない人と浮気してるの。家にいたくないから。」
「あらー…お父さんもでしょ?」
「お父さんは悪党の域なの。」
「あらー…よくそれで他人に完璧を求められるものね。」
「本当だよね。ふふ。」
「ふふ…強い子だわ巫子ちゃん。」
「隣の大人が優しいから笑顔になれる…ありがとう先生。これからよろしくお願いします。」
「こちらこそよろしくお願いします…良い子だわ。うちに来てくれて良かった…。」
問題のある子どもであると怪訝に感じていた園長の気持ちは誰に悟られることもなく、心配の気持ちに変わった。
巫子の部屋に届いた荷物は何もない。全て捨てられてしまったのだ。
(悪くねぇ場所じゃねーか。)
「うん…でも奥の森から犬の声がするよね幽霊くん。」
(しない。)
「そうかな…。」
(そうだよ。あれは風の音だ。)
「うーん…。」
「しーなーい。しない。」
「うん…。」
ふわりと巫子の頭上で、自らの頭を支えるように手を回して浮遊する男性。十代後半の年齢に見える彼は、黄色のタンクトップにフードのあるパーカーを着て、ゆるいズボンを履いている。三白眼で、前髪と後ろ髪の境が分からない、全体的にツンツンとした角があるような耳の出る茶色の短髪。前髪にも境がないが、細い眉が見える程度の長さ。ずり落ちたパーカーから見える上腕に、上から下へと、這い下りているような蛇の絵がタトゥーとして刻まれている。
「私と一緒に来て良かったの幽霊くん?」
(別に暇だし。お前の守護霊してんじゃねーからな?暇つぶしだ。)
「でも幽霊くん…あの公園にいたかったのかなって。何も思い出せない?」
(散歩してただけだから。地縛霊じゃねーんだよ。)
彼は、夜中に一人で喋っていた巫子を気味悪がった母が近所の公園に連れ出し、お喋りしたいなら一人でしてと置き去りにした際に出会った。巫子が一人で公園の砂場で遊んでいる前で足を広げて屈み、曲げた膝に両腕を投げ出す格好で何も言わずに眺めていた。
彼は自分が死んでいることを理解していた浮遊霊。小さな子どもに声が届くはずもないと知っていたが、つい話しかけたことがキッカケだ。
(ひでー親だな…。)
「ひでーって何?」
(キャーー!)
「わっ!どうしたのお兄ちゃん!?」
この会話から二人の関係が始まった。三白眼の彼とは対照的に、巫子は黒々とした大きな瞳に、クセのない長い髪。その瞳にはハッキリと彼が映っていた。
彼が巫子の家に行くまでも時間はかからなかった。夜中に置き去りにされることも、お腹を鳴らして暗い林へ行き、枝で引っ掻いた傷の筋を作っても、雨の中でバルコニーに出されている時でさえ、巫子の涙を一度も見ていない。巫子の父、巫子の母に居心地の良さを感じた霊が原因で、巫子の家には数多の霊がいた。
死んでいなければ、心配していても立ち入れない距離で寄り添うことができる。生きていないから立ち入れない通報という手段や、両親への説教もできない。
ただ、彼には簡単な霊を一時だけ追い払う力がある。完全に消し去ることはできないが、巫子も悪霊から守っているのだ。まだこれは彼だけの秘密。
巫子は長い移動で蓄積された疲れを癒すように、畳まれた布団に突っ伏して眠りに落ちた。
ガラ!と勢いよく開いた扉の音に巫子が目を覚ますと、中や外から賑やかな声や走る音が聞こえてくる。
巫子はベランダから布団を取り込む背の高い少女の背中を眺めながら言葉を探す。
「こんにちは…はじめまして…。」
(はじめましてかな。名前も言って。)
「はじめまして。山本巫子です。よろしくお願いします。」
「うん。」
口数の少ない少女は巫子を一瞥もせず、取り込んだ布団を部屋に置き、鞄からプリントを取り出して書き始めた。肩までの髪は毛先が跳ね、セーラー服のスカーフはしていない。気難しそうな雰囲気からは、声をかけてはいけない空気を作り出している。
「…お名前…なんて呼べばいい?」
「唯。」
「唯ちゃん…。」
唯はそれだけ言うとセーラー服を脱ぎ、中に着ていたジャージのままプリントを持って部屋から出ていった。
「唯ちゃん…えへへ。唯ちゃんだって。唯ちゃん…えへへへ。」
(何が嬉しいんだよ。感じ悪かったぞあいつ。)
「幽霊くんが見えてたら、唯ちゃんも同じこと言うんだろうね。」
(ん…んー…。)
巫子は唯と出会いに嬉しそうに笑みを溢すが、忘れたプリントを取りにきた唯が部屋の前にいて、今の言葉を聞かれたことには気付いていなかった。
唯は部屋の前で止まっていたが、帰宅した住民の声が近付くのが聞こえると、力の入った表情のまま部屋を開け、何も言わずに巫子を横目で見ながらデスクに置き忘れたプリントを持って部屋を後にした。
「唯ちゃん…目が合ったね。えへへ。」
(あぁいうのは、睨まれたって言うんだよ。)
幽霊くんは閉められた扉を睨むと、窓の外に目を映す。遮るビルの少ない高台からは茜色の夕焼けが綺麗に差し込み、幽霊くんの体を擦り抜け、部屋を照らし出している。




