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「信じられない。でも……そもそも私が死んだ後に現世に降り立っているっていう時点で、もう信じらないことばかりなんだよね。だから、あなたの言う通り、ここが並行世界だとしても、信じるしかないっていうか」
自分でも何を言っているのか分からなかった。
ぐちゃぐちゃの感情を抑えきれないまま、楓をじっと見やる。彼は私以上に動揺しているらしく、目を見開いたまま、天から降り注ぐ妹の声に耳を傾けていた。
【分かってもらえたかな? じゃあ、話を戻すね。この世界は、朝葉たちの世界——仮に元の世界とするね——とは別の並行世界。朝葉が“神様”——いや、死神として並行世界にやってきたのは、元の世界のお兄ちゃんがわたしに頼んできたからだよ。“朝葉が、目を覚まして絶望しないように。並行世界に飛ばして、朝葉に後悔を拭い去って、前を向いて生きていけるようにしてほしい”って】
「目を覚ます……? 前を向いて生きる……?」
呟いたのは私ではなく、楓の方だった。
私も、八十神さんが言うことは半分も理解できていない。けれど、私と楓が何か重大な事実を見落としていることに気づいた。
なんだろう……この感じ。
胸騒ぎがする。ざわざわと、いつか海で聴いたさざなみの音を思い出す。
夢の中で見た、あの日の映像——十一月九日に、私が事故に遭った時の記憶が、フラッシュバックする。
衝撃で突き飛ばされた身体。
遠くで倒れている、女の子と楓。
楓の身体の下から真っ白の雪を染めていく鮮血。
鼻を掠める血の匂い。
深刻な顔をして、悪夢を見ると告白してくれた楓の言葉。
——夢の中ではなぜか、朝葉じゃなくて、俺が、死んでしまうんだ。
その全てが、一つの真実を練り上げる。
そんな、嘘だよね……?
嘘であってほしい。
あの日死んだのが、本当は私じゃなくて——。
「死んだのは、俺だったんだ」
ぽつりと、晴れていた空から一粒の雪が降ってきたみたいに、しんと冷えた声が静寂の中に落ちた。
「あの事故で死んだのは、俺だったんだ。……思い出した。元の世界の俺は死んだ後に八十神——椿の声に出会って、願いを叶えてやるって言われた。その代わり、代償として朝葉は死神としての特性を備えることになる。それでもいいかと聞かれて、同意した。死神になったら、朝葉はものすごい罪悪感を抱えることになる。それは確かに朝葉にとって辛いことだ。でも……それでも俺は、契約したんだ」
元の世界の自分の考えを思い出しながら、ゆっくりと一つずつ言葉にしてく楓。
そんな……まさか。
私の経験したことの裏側に、八十神さんと楓との間に、そんなやりとりがあったなんて。
楓の言葉は、どこか遠い異国から響いてくるようであって、なかなか頭に入ってこない。いや、きっと、心が受け入れることを拒否しているのだ。
それでも……聞かなくちゃいけない。
楓が、命の最期に願ったことを。
「俺の願いは朝葉、お前が前を向いて、この先も幸せに生きていくことだった。そのために、現実世界で目を覚ました朝葉が絶望しないように、後悔や心残りを取り去ってやる必要があった。朝葉は、嫌なことがあったら、何かと悪い方向に考えちゃう癖があるだろ。俺、心配だったんだ。俺のいない世界で、朝葉が絶望して、笑えなくなってしまうことが。だから、八十神から聞かれて、これ以上ない願いを思いついたと思った。俺も……朝葉に伝えられなくて後悔してることがあったから。朝葉には、同じように後悔してほしくなかった。だから、俺」
そこまで楓が口にした時、彼の目が私に釘付けになっていることに気づいた。
「朝葉、お前……」
「え?」
楓に言われて初めて気づく。
自分の身体が、光を放ちながら消えていっているということに。
春が来て雪が溶けていくみたいに、手と足がどんどん見えなくなっていく。
「八十神、いや、椿! ちょっと待って。もう少し時間を——」
【そこまでだよ、お兄ちゃん。お兄ちゃん、別の世界の自分のことを思い出すなんてすごいよ。やっぱりお兄ちゃんは、賢くて大好きなわたしのお兄ちゃんだね】
「椿……」
八十神さんが——いや、椿ちゃんが愛らしい瞳をふっと細めて笑っている。そんな彼女の顔を思い出して、胸が締め付けられそうになった。
【お兄ちゃんの願いはきっと、とっくに叶ってるよ。だって朝葉は、この世界に来て、お兄ちゃんのことを必死に守ろうとしてたもん。お兄ちゃんが、一ヶ月以内に死んでしまう運命を覆そうと必死だったんだよ。朝葉は、元の世界に戻っても、前を向いて生きていける。そばで見てきたわたしが言うんだから、間違いないって】
「八十神さん……」
彼女の言葉に、今度はじんわりと熱く、込み上げるものがあった。
確かに、この世界に降りてきた当初、私は本当に後ろ向きだった。出会える人たちは一ヶ月以内に命を落としてしまう。だったら、私がここに来る意味は何なんだろうって分からなくなって。楓に会って、嬉しい反面絶望していた。
でも、後ろを向いていても変わらない。楓を救うことが自分の使命だと思って走り続けてきた。
八十神さんに言われて初めて気づいた。
私は自分で思っているよりも、前を向けていたのかもしれない。
でも……それでもやっぱり。
元の世界に戻って、楓の生きていない現実と向き合うのは怖い。
どうしようもなく足がすくんでしまう。
「楓……私は、楓がいないと」
「大丈夫だっ!」
楓のありったけの叫びが、静かな病室を切り裂く。雪の降り頻る曇天の雲の切れ間から、太陽の光が差し込んできたみたいに。眩しくて、熱くて、尊い、彼の力強い声が、私の胸に強く刻み込まれる。
「朝葉、お前はもう大丈夫! 椿が言うみたいに、十分強くなった! だから……だからきっと、俺がいない世界でも、お前は前を向いて歩いていける。顔を上げて、胸を張って。立ち上がって、一人で歩くんだ。な、約束、してくれるか?」
絶望しかないと思っていたこの世界に、光を届けてくれた。
あなたはもう、現実にはいないという。
だけど、背中を押してくれるその声が、言葉が、これまで私にくれた優しさと勇気が、私を強く支えてくれる。
そうでしょう。神様。
「うん……うん、私……頑張るよ。楓がいないって未だに信じられないし、辛いし、悲しいけど。でも、楓が繋いでくれたこの時間のことを忘れずに、生きていくよ」
本当は泣きたくてたまらなかった。
でも、一番泣きたいはずの楓がただの一筋も涙を流さないから。
私は、必死に顔に力を入れて、楓を見て微笑む。
「大好きだよ、楓」
まばゆいほどの光が全身を包み込む。
最期に見た景色は、白い歯を見せて大きく笑う楓と、雪の止んだ窓の外の風景だった。




