赤い色に導かれた恋
食パン企画 第一弾
このお話は数年前に閉店した高級食パン専門店の集客のために『インスタ企画』として考えていたものです。世に発信することもなく企画倒れになったためなんとなくもったいなくて、というよりはせっかく考えたのにと言う作者の個人的な心残りがあるためそれに加筆修正を加えたものです。
なので、食パンの話が出てきます!無理やり感が否めないかもしれないですがあまり深く考えずにお読みいただければと思います。
「俺は美穂さんのことずっと見てました――」
そんな彼の告白を聞きながら、私は驚きつつもその優しさに心が温かくなった。
あのとき彼に出会わなければいつまでも前を向けなかった気がするんだ。これは食パンがつないだ小さな恋の物語である……。
私の名前は小山内美穂。○×商事に勤める普通のOLだ。私には入社当時から憧れている柳浩太と言う先輩がいる。あるお昼休けいのとき、先輩を含めた男女数名と好きな食べ物の話で盛り上がっていた。
「俺は寿司が好きだな」
「私はケーキかな」
とみんなが口々に言い合うなか私は先輩の言葉に注目していた。
「俺はパンかな3食パンでも良いくらい」
私はその台詞を聞いたときすかさず同意の言葉を口にした。
「私もパンが1番好きなんです!」
勿論うそではない。実際にパンが好きだし少しでも近づきたいと思っていた私はチャンスだと思った。まさかの共通点に、はやる気持ちを押さえきれずにいた。
それからと言うもの話す機会が増えオススメのパンを紹介しあったり、パン屋さん巡りをしたり距離が縮まっているように感じた。このときすでに先輩のことが大好きになっていたので、他から向けられる好意的な視線なんて気付きもしていなかった。
あるとき浩太先輩の家の近くに【NaMiRe Bakery】と言う名前の高級食パン専門店がオープンしていることを知った。時々朝食用に買いにいくそうで、たまたま今日は買いにいく日だと聞いた私は浩太先輩と少しでも長くいられるチャンスだと思い、どんな味なのか気になっていることもあり一緒にいきたいと伝えた。
「私もご一緒して良いですか」
私の言葉が予想外だったのか、浩太先輩はこんな疑問を口にした。
「あれ小山内の家って俺と方向逆じゃない?」
「最近引っ越したんです! だから全然問題ないです」
それもそのはずで入社当時の話にさかのぼるのだが、出身地や今どの辺に住んでいるのか話題になったとき、私の居住地を話しているからだ。本当は引っ越したなんてうそだったのに浩太先輩は納得してくれた様子だった。しかし仲の良い同期には即効でうそが見破られたけどいつしか『今日買いにいくけどどう?』と声をかけてもらえるようになった。いつかバレるのではとひやひやしながらも、少しでも一緒にいたかった私は何気ない会話をしながら帰る時間がとても幸せだった。
初めてお店に訪れた際に赤い紙袋に入れられた商品を見て、すごく目立つカラーの紙袋だなと衝撃を受けたことを覚えている。お揃いの赤い紙袋を持ってお店を出る瞬間、運命の赤い糸ならぬ赤い紙袋でつながれたような嬉しさやら恥ずかしさが込みあげ、この先の進展を夢見ていた。だから浮かれていた私は気付かなかったんだ先輩との関係が少しずつ変化していることに。
仕事が段々と忙しくなり、2人の関係を引き裂くように【NaMiRe Bakery】の食パンも浩太先輩と一緒には買いにいけない日々が続いていた。このときから運命の歯車が狂いだしていたのかもしれない。休みの日には浩太先輩に会えるかなと足を運んだりもした。1度も会うことはなかったけれど、それでも幸せだった。他の同僚の誰よりも1番仲の良い自信があったからだ。いつかは仲の良い同僚から抜け出して彼女になれると期待していたのだ。
しかしふとあるとき気が付いた、以前は気になったパン屋さんを一緒に巡っていたのに『ここが美味しいって聞いていってきたんだよ』に変わっていることに。
それから数日が過ぎ、仕事が落ち着きを取り戻してきた頃、久し振りに浩太先輩に『今日買いにいくか?』と誘われたのだ。もちろん私は2つ返事でOKをした。その日1日は嬉しくていつも以上に仕事がはかどった。この後絶望と言う名の悲しみが待ち受けているとも知らずに、ただただ舞い上がっていた。
【NaMiRe Bakery】の黒目店がある自然大学駅で降りて、浩太先輩に手が触れそうなほどの距離で隣を歩きながらお店を目指す。お目当ての食パンを手に入れるため何度か通っているうちに、顔を覚えてもらっているようで『いつもありがとうございます。またお待ちしております』と言ってくれる笑顔の店員さんに会釈しながらお店を後にする。そのとき1人の女性と目があった。目線を横にずらすとその女性は浩太先輩を見ているようだった。
「浩太――」
と言いながらその女性は小走りでこちらに向かってきた。
「愛美」
と呼ぶ浩太先輩の声はどことなく愛しさを含んでいるように聞こえた。浩太先輩はその女性を照れながら彼女だと紹介してくれた。同窓会で再会して付き合うようになったと教えてくれたけれど、そんなことなんて聞きたくなかった。胸がズキンと痛み、頭の中が真っ白になった私はなんとか笑顔を作り急用を思い出したと言いながらその場を後にした。
(嘘だよ信じたくない!! あんなに仲良くなれたのに、色んなところ一緒にいったのに、いつかは彼女になりたいって思ってたのに何がいけなかったの? 私が引っ越したなんてうそついたから、バチが当たったのかな)
そんな思いを抱え今にもこぼれ落ちそうな涙を必死にこらえながら、自宅の最寄り駅近くの公園に逃げ込んだ。自宅には浩太先輩に会えるかなと通った【NaMiRe Bakery】の赤い紙袋が沢山残してあり大切に保管されているから、今は帰りたくなかった。震える体を紙袋ごと抱き締めベンチに座りながら俯いていると不意に誰かに声をかけられた。
「大丈夫ですか?」
″見知らぬ男性″の登場にうろたえる私は、一歩も動くことができなかった。
「なんだかとても辛そうに見えたので、具合でも悪いですか?」
「いえ、大丈夫です。」
私はいたたまれず立ち上がろうとした。けれどもそれを遮られ、強引に腕を捕まれた。その行動に驚いていると、彼は言ったんだ。
「すみません、俺たち初対面と言う訳ではないんですよ」
警戒の眼差しで見ていると、突然彼は名刺を取り出した。
「◻◻システムの立花です。○×商事さんには何度か訪問させていただいております。直接お話したことはないですけど、見覚えありませんか?」
何とか思考を巡らすと何となく立花と言う名前に聞き覚えがあったことを思い出した。
「すみません、名前だけしか……」
そう答えるとその彼立花さんは、なんとも切なそうな表情を浮かべた。
「これでも結構騒がれたりするんだけどね」
「えっ?」
「ううん何でもないです。それより何かありました? 良かったら話してみませんか?」
そう告げられても、よく知らない人には話す気になれなかった。
「無理にとは言いませんけど、もし彼――」
しかし話す気になれなかったはずなのに立花さんの優しい落ち着く声に私はいつの間にか遮るように言葉を発していた。
「彼氏なんていません!」
立花さんの優しさに私の心は限界を迎えてしまったようで、堰を切ったように話し始めた。好きだった先輩に彼女がいたこと、告白する前に失恋してしまったと。職場で顔を会わせるのが辛いと……涙をこらえきれず流しながら話している最中、立花さんはただひたすら背中をさすりながら黙って聞いてくれていた。ひと通り話し終えた私は涙が止まらずに沈黙が続いていた。一瞬その手が背中から離れたかと思うと、そのまま頭ごと抱き締められてしまった。戸惑いながら離れようとするとその手はさらに強くなる。
「すみません、俺こんなこと言うつもり全くなかったんですけど見ていられなくて……何かこう言うのって弱味に漬け込むみたいで嫌なんですけど――」
私はただ沈黙していた。
「美穂さんのことずっと見てました。いつの間にか好きになっていたんです。その先輩のこと忘れられるまでそばにいます。とことん俺のこと利用してくれてかまわないから、守らせて下さい」
私はその言葉を聞いたとき何だか胸がギュッと締め付けられるような少し心が温かくなるように感じた。
「……ありがとうございます」
けれど号泣してしまったせいで立花さんのシャツを私の涙と鼻水でかなり濡らしてしまったことは申し訳なかったと思っている。
その後、立花さんのおかげで元気になった私は浩太先輩との関係も良好だ。
失恋直後は浩太先輩と顔を合わせるのが辛く、食パンを買いに行く誘いも断り続け何かと関わらないように務めていた。しかし当然といえば当然だが、今まで仲の良かった人を避けているわけで本人に問い詰められてしまった。浩太先輩は私との関係を仲の良い友達みたいな感覚だったようで、嫌われるようなことをしたのだろうかと周りに悩みを打ち明けていたそうだ。
私の恋心は浩太先輩以外にはバレバレだったので、皆が皆本当のことを言えず心の中で《お前のせいだよ》と思っていたようだ。
私もうそをついてまで一緒にいようとした後ろめたさがあり振られることが分かっていながらの告白はどうしてもできなかった。前に進むにはキチンと振られた方が良いと分かっていながら軽蔑されるのが怖かったし、それこそ余計に嫌われたくないと思ったからだ。何も言えずにだんまりを決め込む私に浩太先輩のイライラを感じてしまい、心が悲鳴を上げそうになった。そんなとき間に入ってくれたのは立花さんだった。
たまたま立花さんが通りかかってくれたおかげで事なきを得たが、上手く振舞えない私を見る浩太先輩の視線は酷く冷たくて、完全に嫌われたんだなと思うと仕事も手につかなくなった。そんなときは立花さんが連絡をくれた。私の心が見透かされているのではないかと思うほどに幾度となく……。
しかしそんなある日私は浩太先輩に『話がある』と呼び出された。
そして言われたんだ。『お前が俺のこと好きだったと聞いた――』
コノヒトハナニオイッテイルノ? 知られてしまった私の衝撃は凄まじいものだった。
どうやら私たちの関係を見ていられなくなった同僚が事情を話してしまったようだ。確かに職場の雰囲気が多少居心地の悪いものになっていた自覚はある。
『好きな人に恋人を紹介される気持ちを考えたことあるか? 傷付くことぐらいわかるだろう』と言われたらしい。そして私は謝られた。それは何に対しての謝罪なのだろうか、私はただみじめになるだけなのに……。そしてこうも言われた。『俺の彼女もパンが好きでパン屋さん巡りをしているから、話しが合うんじゃないかと思って、紹介しようとしたんだ』と。
その話を聞いて浩太先輩は少し無神経だなと思った。思わず『この鈍感! 理不尽!』と叫びたくなった。彼氏の近くにいる女性なんて嫉妬の対象になりかねないのに、彼女自身も純粋に会ってみたいと思うはずないと思う。そこには打算的な考えがあってきっと見定めて牽制するためだったのではないかと思う。
そう考えたら少し腹立たしいような悔しい感情になってきた。だから、どうせもう付き合うことはないんだし私も浩太先輩についたうそを告白しようと思った。この機を逃したら言えなくなると思ったからだ。
しかしふたを開けてみれば『俺も同じことしたことあるから気持ちは分かる』と浩太先輩に言われる始末。一体何をこんなに悩んでいたのかとバカらしくなった。あぁ完全に終わったなと思った。
浩太先輩は良く言えば素直な人、悪く言えば馬鹿正直な人で恋愛においてはどうやらポンコツらしい。そう気づいてしまえば段々と冷静になってきた。私はうそをついた後ろめたさからまだ浩太先輩のことを好きだと勘違いしていたのかもしれない……。
きっと幾度となく立花さんに話を聞いてもらっていたおかげもあると思う。泣きながら電話したし、住まいが同じ地域だったこともあり直接会ったりで沢山慰めてもらった。今考えるととんでもない姿ばかりさらしていたように思う。その情景を思い出した途端羞恥心でいっぱいになった。あぁ私……恥ずか死ねる!
そんなこんなで紆余曲折ありながらも浩太先輩と仲直り? した私は彼女の愛美さんとも仲良くなって、すっかりパン友になった。そのうえ結婚も決まっているようだ。私はと言うと、色々なことを乗り越えて、立花さんは今では大好きな彼氏だ。お付き合いまでには沢山迷惑かけてしまったけれど、何度となく救われた。
ありがとう優斗さん……あなたに出会えて良かった……。
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~立花目線~
俺の名前は立花優斗◻◻システムに勤めるサラリーマンである。ある日取引先の○×商事に出向いたときに新入社員として入社した小山内美穂と言う人物と出会った。とは言うものの、直接的に関わりがあるわけではなかったため、一度挨拶を交わした程度である。第一印象は笑顔が可愛い子だなと言う具合だった。何度か訪問するうちに、一生懸命仕事をする彼女の姿に次第に元気を貰っている自分がいた。そしてあるとき女性の担当者である楠木さんが声をかけてきた。
「立花さんこんにちは」
「あぁ楠木さんお世話になります
「今美穂ちゃん見てなかった?」
俺は虚を突かれ動揺した。
「いえ……まさかそんなことないですよ」
「あら、隠しても無駄よ。この年になると何となく人の色恋沙汰が分かるようになったのよね」
楠木さんは俺が○×商事を担当するようになったときから在籍している古株の社員さんで2児の母でもある。
「ははは、でも恋ではないですよ! 気にはなりますけどただ彼女見てると元気貰えるんですよ。楠木さんには敵わないな」
見ていることを気付かれてしまったことは想定外だったが、俺にとって楠木さんがこの先強い味方になってくれるなんて思いもよらなかった。
「気づいてないだけで、好きになってると思うけどな」
などと去り際に言われてしまった。それからと言うもの会うたびに楠木さんは、彼女の情報を教えてくれるようになった。パンが好きなことと何かの偶然か、同じ地域に住んでることが分かった。何度も情報を聞くたびに親近感がわいて意識せざるおえない状況になった。それでも俺は積極的になるのをためらった。
俺は過去に女性から付きまとわれた経験があり、それ以来女性との距離を置くようになったからだ。誘われれば食事にも行き、困っていれば相談にも乗っていた。優しすぎるゆえに勘違いされることもしばしばあったりで、必要最低限しか話さないようになった。
○×商事に出向くときも食事に誘われることが何度もあった。だからいくら可愛いとは言え、彼女は他の女性と何ら変わりないと思っていた。しかし何度か訪れていても彼女とは目すら合わず、認識されていないのではないかと感じ、そんないつもと違う状況に興味がわき、次第に彼女に惹かれていると実感してきたがゆえ焦る自分がいた。
目で追っているからこそ気付いてしまったことがある。彼女には職場に想いを寄せている男性がいると言うことを。だからこのとき彼女とは何の進展もないまま時間だけが過ぎると思っていたんだ。
ほどなくして、彼女の好きな人が楠木さんを通して明確になった。
「立花さん、お疲れさまです」
「お疲れさまです。今日は何かありましたか」
「実は言いにくいんですけど、あそこにいる柳浩太君と美穂ちゃん最近仲良くパンフェスとかいってるみたいなのよね」
「そう……ですか。何となく美穂さんは柳さんのこと好きだと思ってました」
「あーでもまだ付き合ってはいないみたいですよ」
「良いんです。そもそも知り合い程度ですし、ほぼ毎日顔を会わせる同僚と違うんですから」
「残念だわ。私は立花さんの方がお似合いだと思うんですよね」
「その言葉だけで充分です」
しかし度々帰りの電車の中で見かけるようになった彼女は、決まって赤い紙袋を提げていた。【NaMiRe Bakery】と言う名前の高級食パン専門店の紙袋のようだ。目立つ色のため自然に目がいってしまうことに、複雑な心情を伴っていた。いつからかあの2人が付き合ってるのではないかとの噂が聞こえ始めていたから、もう諦めようかと思い始めていた矢先、柳さんが見知らぬ女性と手を繋いで歩いているのを見かけた。
本人に問い質したい気持ちになったが、無関係な自分にはそんな資格はないことに苛立ちを覚えた。そんなある日いつも通りに○×商事に出向いたとき、楠木さんから思いもよらないことが告げられた。
「立花さん、少しよろしいですか」
「ハイなんでしょう」
ここでは話しにくいと言うので、会議室の方に案内された。この会社は私的利用で会議室を使って良いのかと疑問は浮かんだが、あえて口には出さなかった。
「立花さんはまだ美穂ちゃんのこと好き?」
「えぇまぁ……」
俺は直接楠木さんには彼女のことを好きだと伝えた覚えはないが、楠木さんにとっては決定事項であるらしい。
「なら美穂ちゃんのこと支えてあげてほしいの」
「どういうことですか」
「実はこの前柳くんに偶然会って、彼女と一緒だったのよ」
俺は何が言いたいのか意図が掴めずにいた。
「美穂さんと……ですか」
「違うのよね。高校の同級生と付き合ってるみたい……私も美穂ちゃんと付き合ってると思ってたから聞いたんだけど、美穂ちゃんとは仲は良いけど友達のようで、職場恋愛は色々面倒だから付き合うとかあり得ないと言ってたのよね」
「……俺も一度だけ見かけたことあったんですよ、二股してるのかと思ってました」
「そうなのね……なら気付くのも時間の問題かも知れないわね」
だからと言ってどうすることも出来ない。親しいわけでもなければ、単なる取引先の1人の俺になんて。
「きっと強がって平気なふりしそうな気がするの。よく知らない相手なら逆に話せたりするかもしれないし。偶然を装って会わせることができると思うから」
「力になりたいですけど、俺で大丈夫ですかね……何か弱味に漬け込むみたいで」
「立花さんは信頼してるから、任せられると思ったの。もしかしたら他の人が弱味に漬け込むかもしれないですよ!」
それは嫌だけど一理あると思った。誰かに奪われるくらいなら、俺が彼女の心を奪いたいと純粋に思った。実際にそのときになるまではどうなるか分からないけれど、自分にできる限りのことを彼女にしたいと思った。
「分かりました。その際はよろしくお願いします」
きっとまだまだ先の話だろうとどこかで思っていたが、彼女の失恋が現実になるのは遠くない未来だった。
楠木さんとそんな会話をしてから約1週間後のこと、俺は違う形で彼女と会うことになった。その日は少し残業で帰りが遅くなりいつものように家路へ向かう途中、公園に駆け込む1人の女性を見かけた。咄嗟に美穂さん? と思った。何故なら手には赤い紙袋を提げていたからだ。俺も後を追うように公園の中に入っていくと、彼女は紙袋を抱えるようにベンチで俯いていた。俺は意を決して声をかけた。
「大丈夫ですか?」
彼女は突然の出来事に固まってしまった。
「なんだかとても辛そうに見えたので、具合でも悪いですか?」
「いえ、大丈夫です」
そう言いながら立ち去ろうとした彼女の腕を無意識に掴んでいた。
「すみません、俺たち初対面と言う訳ではないんですよ」
名刺を取り出して彼女に渡した。
「◻◻システムの立花です。○×商事さんには何度か訪問させていただいております。直接お話したことはないですけど、見覚えありませんか?」
「すみません、名前だけしか……」
やはり彼しか見えていなかった事実にショックを隠しきれない。
「これでも結構騒がれたりするんだけどね」
「えっ?」
泣きそうな彼女を目の前にすると、どうにかしてあげたい気持ちが強くなる。
「ううん何でもないです。それより何かありました? 良かったら話してみませんか?」
おそらくほぼ初対面の人間になんて、話すのは難しいだろうと思ってはいたが、少しでも少しずつでも近づければ良いと思っていたんだ。
「無理にとは言いませんけど、もしかして彼――」
彼女は最後まで言わせてくれなくて、言葉を遮るように言ったんだ。
「彼氏なんていません」
と……。
それから、堰を切ったようにポロポロ涙を流しながら話してくれた。久し振りに今日の帰りに、好きだった先輩と【NaMiRe Bakery】の高級食パンを買いにいったら、彼女がいたことを知ってしまったと、職場で顔を会わせるのが辛いと………。ただひたすら背中をさすりながら黙って聞いていたが、涙が止まらずにいる彼女を思わず抱き締めてしまった。戸惑っているであろう彼女に自分の気持ちが押さえきれなくなった。
「すみません、俺こんなこと言うつもり全くなかったんですけど見ていられなくて……何かこう言うのって弱味に漬け込むみたいで嫌なんですけど」
美穂さんが何も言わないのを良いことに俺はそのまま続けた。
「美穂さんのことずっと見てました。いつの間にか好きになってました。その先輩のこと忘れられるまでそばにいます。とことん俺のこと利用してくれてかまわないから、守らせて下さい」
何が利用してくれてかまわないからだよと自分につっこみを入れたくなったけれど、彼女は驚きながらも、最後は少し笑いながらお礼を言ってくれた。
「美穂さん、あっすいません勝手に名前で呼んでしまって……御社の楠木さんと懇意にさせていただいていて良く美穂さんの話をしていたので……」
「そうなのですか、いえ……大丈夫です」
「この高級食パン、美穂さんにとっては辛い思い出になるのかもしれませんが、俺にとっては今日あなたに出会えた奇跡の食パンです。なのでこれからはこの食パンを良い思い出に塗り替えます」
俺は赤い紙袋を貰い美穂さんとの未来を想像しながら、彼女を家まで送った。
「何かありましたらいつでもお話聞きますので、またお会いしましょう」
こうして二人の物語は始まった……。
おわり
お読みいただきありがとうございます。
第一弾としましたのは、3作品ほど考えていたためです。
現存する店舗があるため架空の店舗名での投稿です。
そこまで有名ではなかったかもですが……。
意外と良かったよと思って頂けたら、作者も喜びます。