6.抑止
6.抑止
奥にいた紳士が、和泉のグラスを新しくさせた。
「ミスター・アッシュ。うちのラングレーを知らないか?」
東海岸の言葉で挨拶したのは、ボストン一等書記官だ。ラングレーはもちろんアメリカ合衆国の対外情報機関である中央情報局(CIA)だ。
「草だからな」
日本好きのボストンへのジョークだ。忍者の〈草〉のように「どこにでもいる」という意味になる。『孫子』にあるように一般にまぎれてスパイ活動をする〈草〉を見つけることは不可能に近い。
「えらくミスったものだな。もう少しどうにかならなかったのか?」
「想定の範囲さ」
昨年末にアメリカ合衆国大統領はウクライナに出兵しないと決めている。これは明らかに外交の失敗だった。とはいえ、それなりに対処できるのが大国だ。
「どうにか止められなかったんですか?」
「どこかのタイミングで、いずれこうなっただろうからね、奈良くん」
「それで、いつものように高みの見物か?」
逆に米国が参戦しないからこそ、第三次世界大戦を回避したとも言える。
「――亡命政府を考えている」
「亡命政府?」
「ウクライナ大統領を亡命させる作戦だ。WW2で自由フランスが使った手だ」
「第二次世界大戦を踏襲するつもりか?」
「『ナチスに感化された民族から祖国を守る』らしい」
「どこにそんな人間がいるんだ? ああ……」
奈良には分からないが、賢い人間は自分が言った質問で答えを知ることが多い。和泉もその一人だ。
答えは「クレムリン」だ。
「さっきVv (ウラジオストク)に確認したが、本気で世界観戦争をやろうとしているらしい」
「情報通りだな。であるなら、キーフは二日で陥落か……」
「長期戦なら?」
二日で陥落せず、大統領が亡命しなかったら?
「その場合は、レンドリース法を考えている」
「レンドリース?」
「武器貸与法だよ」
「ウクライナを焦土にするつもりか?」
「ルーシが望めば」
「また儲けるのか?」
「パリジェンヌ・ノワールの案で、ロンドンも納得している」
昨夜はお楽しみだったらしく、ボストンが腰に手をやった。
視線を左にやると、英国紳士が紅茶を飲んでいた。目で挨拶する。ボストンに言わせると紅茶はドブ水らしい。
「かつてのポーランドのようになるぞ」
「ウクライナは一度経験している。であるなら、もう一度あっても不思議はあるまい」
一度あることは二度ある。二度あることは三度ある。不幸は重なるものだ。
「ポーランドか……」
アメリカン・ジョークでバカにされるポーランドだが、マリ・キュリーを知らない日本人はいない。
そのポーランドはかつてヨーロッパ最大の国家だったのだ。
「しかし、どうしてロシアという国はオウンゴールするんですか? 第一次世界大戦で疲弊して帝国を崩壊させ、ナチスに騙されて二〇〇〇万人を犠牲にして、今なおナチスをでっちあげて滅びようとしている」
「それは何だ……欧州に言わせると、スラヴはアジアっぽいんだよ」
奈良の事実の問いに、ボストンが苦笑した。