32 帰還
「大魔術士様…。本当に帰られてしまうのですね」
涙目のルガルナ辺境伯にそんな事を言われ、メイルは苦笑いする。
楽しい温泉休暇だったが、そろそろ戻らないと王がキレる。アリィシャ王妃の産月も近いし、ジグの奇行が段々加速していて怖いという、ファイとスーランの悲鳴も毎日届く。メイルの一番の心配は、実はジグだったりする。歳も歳だし。
「ラド殿、ミルド殿。この御恩は一生忘れません」
腰の剣を愛おしそうに撫で、フォレスは顔を綻ばせている。彼の腰の剣はあの試作品14号だ。巫山戯た銘はラドがすっかり綺麗に消し、ミルドがサーフに許可をもらって正式にフォレスの物となった。
「何か不具合がありましたら、お知らせください。メンテナンス致しますので」
ラドは困った笑顔で頭を下げる。気に入ってもらえたのは嬉しいが、まだ完成には程遠い試作品だ。未だに他人に渡せる程ではないと思っていた。
「おやがだざまぁー。やばり私もメイル様と共に行かせてくださいまぜー」
「ならん。ルガルナの国防の要の魔術士がここを離れてどうするんだ」
涼やかな美形も台無しの泣きっぷりのシリンが、ルガルナ辺境伯に訴える。涙と鼻水でぐちゃぐちゃの男に縋られ、辺境伯は迷惑そうだ。
「メイル様。しばしのお別れです。お気をつけて」
カートが浮かない顔で別れを告げる。ルガルナが落ち着くまで、しばらくの間、カート率いる軍はルガルナに留まる。
彼は結局昨日は忙しく、夕食の時間ぐらいしかメイルと過ごせなかった。しかもミルドが当然のようにメイルの傍を陣取り、楽しい会話も悉く邪魔された。
「カートさんも頑張ってねー」
何の思い入れもなさそうに、メイルは適当にカートを応援する。その隣にさり気なく陣取るミルド。ギリリッと歯軋りをしながら、カートはミルドを睨みつけた。
ルガルナ家の一室に設置された魔術陣の上に乗るのはメイル、ミルド、ラド、ファイだ。出発点と到着点に魔術陣を設置して安定しているので、行きよりも断然負担が少なく、魔力量的にも行きより遥かに少なくて済む。
「メイル様。我がルガルナはジャイロ王国並びに貴女様への生涯の感謝と忠誠を誓います。我らに出来ることがございましたら、なんなりとお申し付け下さい」
ルガルナ辺境伯、辺境伯夫人、嫡男のフォレス、次男カナムに深々と頭を下げられる。高位貴族に頭を下げられても、特に動じることなく、メイルはアッケラカンと言う。
「お気になさらずー。また温泉に入りたいので、その時はお世話になりますー」
メイルが杖を構え、一転、キリリと引き締まった顔になった。メイルの魔力が床の魔術陣に満ち、青い光を放つ。号泣していたシリンが目をかっ開き、魔術の展開を凝視する。
『転移』
一瞬の眩い光の後、6人の姿は掻き消えた。
後には、メイルの残した心地よい魔力の波動が、薄らと残るのみだった。
◇◇◇
「ただいまー。ジグさーん」
「メイルざまー」
帰ってくると、大魔術士隊のいつもの会議室には、鼻水を垂らして号泣する宮廷魔術士がいた。既視感。
やっぱりシリンは連れて来なくてよかった。同じタイプが2人同時にいるのはキツいと、メイルはこっそり思う。
「メイルざまーメイルざまー、よぐぞご無事でー」
「ジグさんダメだよ?ちゃんと寝てねって言ったのに、結界石の研究で徹夜続きって報告受けてるからね?」
「メイルざまが無事にお戻りになるか心配で…。結界石の研究が楽しくて…」
後半が本音だろうと思ったが、メイルは口に出さなかった。
泣きながら限界が来たのか、崩れ落ちるように眠ったジグを、部下達が運び出して行く。皆慣れているのかすこぶる手際が良く、済まなそうな顔でメイルへ会釈して去って行った。
メイルはジグと同じく待っていたファイとスーランに案内され、サーフが待つ広間にやってきた。ミルドにエスコートされ現れたメイルに、サーフがピクリと眉を上げる。
「おい。余を待たせておいて随分と優雅なお出ましだな?」
苛立たしげな王の様子に、同じく広間に待っていたナフタ、リアム、モリス、シールの4魔術士隊長達は肝を冷やした。今日ようやくメイルが帰ってくると聞いて、揃って迎え出たというのに、当のメイルはサーフの逆鱗に触れまくっている。サーフは普段は寛大な王だが、それでも一国の王だ。その鋭い叱責と王としての圧は、いかに力のある4大魔術士隊長でも恐ろしく感じるものだが…。
しかしメイルはそんなサーフの怒りも圧も全く気にしない。心外だと言わんばかりの顔だ。
「えー?ちゃんと仕事してきたし、普通に帰れば10日はかかるのに一瞬で帰ってきたんだから文句言わないでくださいよー。あと色々な報告はミルドさんが報告書を作ってくれましたー。以上」
「なんだと?お前っ!余に対する態度が日に日にぞんざいになってないか?」
「サーフ様。こちらが報告書です」
激昂するサーフを無視して、ミルドが笑顔で報告書の束を差し出す。こちらもサーフの怒鳴り声を全く気にしていない。
大魔術士と宰相の不敬な態度にコメカミを引き攣らせながら、分厚い報告書の束をサーフは引ったくるように受け取った。敏腕宰相の作成した報告書だから、不必要なものは省いた完璧なものであろうに、分厚い。たった7日の間に、何をそんなに報告する事があったのかと思うほど分厚い。
側に控える4魔術士隊長達は、冷や汗をかきながら、やはりメイルがサーフの愛妾などと言う噂は嘘なのだと納得した。メイルの実力を知り、そうではないかと思っていたが、サーフとメイルの様子を見てそんな甘やかな関係とはとても思えなかった。
「陛下。アリィシャ様のご様子は如何です?変わりありませんか?」
「あぁ…すこぶる元気だ…」
うっかりミルドの事を洩らして以来、異常なまでに侍女達と共に盛り上がっているとは言えず、サーフはメイルの質問に歯切れ悪くそう答えた。
「そうですか。後ほどご挨拶に参ります」
ホッとしたようなメイルの様子に、サーフは少しばかりの罪悪感を抱いた。これからアリィシャとその侍女達に根掘り葉掘りルガルナでの出来事を、主にミルドとの進展を聞かれるであろうメイルが、気の毒だった。恋愛話に掛ける女たちのあの熱量は一体どこから湧いて出るのかと、サーフには不思議で仕方がなかった。
「それで、アーノルド・ガスターの残した手掛かりとやらは見つかったのか?」
サーフは話題を変えるようにメイルに訊ねると、メイルは複雑そうな顔になる。アーノルド・ガスター関連の話になると、メイルはよくこんな顔ををする。彼女もあの伝説的に破天荒でマイペースな師匠に苦労させられているのだろう。
「はぁ。多分…」
心底嫌そうな顔で、メイルはチラリとスーランを見た。
「え?なんですか?」
メイルの気の毒そうな目と、ミルドの慈愛に満ちた笑顔と、ラドとウィーグの気まずげな顔に、スーランは凄く嫌な予感がした。
「あー、ね、スーラン。私が君らにあげたエロ本、今、持ってる?」
「え?」
メイルの直球の言葉に、スーランの思考が一瞬止まる。「エロ本?」とサーフが訝しげな声を上げる。
「ほら。ウチの師匠が遺した、箱に入ったエロ本。君らにあげたやつ」
「っイヤイヤイヤイヤ、ちょっ、め、メイルさまっ、こ、こんなとこで何、言って、って」
ブフォンッと、もの凄い勢いで顔に血が集まり、スーランは全身から大量の汗が噴き出るのを感じた。王の御前で、元上司を含む魔術士隊長の前だ。これほど不適切な話題があるだろうか。
「いや、ラドから聞いたけど、あのエロ本、君らの間で順番に回し読みしてるんでしょ?今はスーランの番だって聞いてるけど」
「も、持ってますけど、持ってますけど、なんで今そんな事っ」
スーランのいつも冷静な顔が真っ赤になっている。ファイとラドとウィーグは、同じく顔を赤くしていた。痛いほど彼の気持ちが分かった。名指しされていないだけで、彼と同じ穴の狢だからだ。
恥ずかしさで爆発しそうな弟子達を気にもせず、メイルは嫌そうに言った。
「んー。それが黒トカゲの封印場所が書かれた物じゃないかと思って。私が目を通してない師匠の遺品って、そのエロ本だけなんだよねー」




