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ミア=ホワイトリーは今日も今日とて聖水を作っていた。
「これくらい、貴女がやれば良いでしょう!?」
がちゃん、と氷で出来たグラスが割れた。
ユノレイア王国内、アーシラリア大聖堂の聖なる鏡の間において、聖女として認定されたある貴族令嬢が喚きながら、ミアに本を投げつけた。
台の上に置いていた氷のグラスが砕け散り、その中身が床に零れて広がっていく。
──あーあ。勿体ない。
「…………」
氷のように透き通ったグラスの中身は生成途中の聖水だった。
聖女と呼ばれる者が奇跡の力を込めて作られると言われる聖水。
錬金術でも作れない特別な水。
聖女のみが作ることが出来るというそれは、死霊を狩るために必須とされており、魔を祓う力があるという。
「貴女様は、聖女であることに誇りを持っていらしたから、念の為、確認をさせていただいただけです。やれと言いたい訳では……」
「こうして教会に来てあげただけでも跪いて感謝して欲しいくらいですわ。聖水作りの仕事なんて、貴女のような平民がやれば良いこと」
聖女は神から奇跡の力を賜った女性のことだ。
この世界に跋扈する死霊を退ける聖水を生み出すことが出来るので、こうして教会に保護されている。
ミアも彼女も、聖女だ。
この国には、一種の職業として、聖女が何人も存在しているのである。
ただ、何故か貴族に聖女の力を持つ者が多い。むしろミアのような孤児が聖女なのが珍しい。
そのためか、聖女が生まれる条件に血筋が関わっているらしいと考えられており、聖女たちは修道士や修道女たちとは違って、血を繋ぐことを求められる。
つまりは、大々的に婚活が行われることがある。
「はぁ……」
「何よ、その気の抜けた返事は。不敬よ。貴女みたいな平民がこの私に生意気な態度を取ったらどうなるか分かっているの?」
「……はい。重々承知しております」
ミアは孤児として教会でお世話になっていた身なので、特に言い返すことは出来なかった。
貴族と平民と言えど、同じ人間なのだからと内心思っていてもそれは所詮綺麗事。
口に出したらミアの人生は終わる。
だからミアは今日も彼女たちに微笑むことしか出来なかった。
中途半端な義心やアタリマエなど何の役にも立たないと知っている。
「ご不快な思いをさせてしまい、申し訳ございませんでした。貴族様の中には、こうした仕事を望む方もいらっしゃいましたので、念の為の確認でした。特に深い意味などはありません。何かありましたら、私にどうか仰ってくださいませ」
ニッコリと微笑んで人懐こい笑みを浮かべると、目の前の貴族令嬢は、何故か身を引いた。
「分かれば良いの」
尊大に身を翻す彼女を見送ってから、仕事に取り掛かる。
「さて、続きを終わらせないと」
私はフードを深く被り直した。
聖女と言うだけあって、聖女らしい絹で出来た神官服とベールを頭にかけることになっている。
白いレースが服の裾を飾り、キラキラと光る魔法石がミアの胸元に輝いている。
だが、ミアはその上からさらに白いローブを上から被って神官服を覆っていた。
目立つのは、嫌だ。
ミアは自らの艶々と輝く銀髪を指先で摘んでから、ハッと我に返った。
「いけない、いけない」
聖水を作る時は雑念を取り払わなければならない。なるべく不純物を入れないこと、それから人工物を触れさせないようにしなければならないというのに。
「この祈りが人々を救わんことを。この世に蔓延る無数の大罪と、瘴気と揺蕩う悪しき念を祓わんことを。神聖で無垢なる力が救済を求めた迷える子羊たちを導きたもう」
祈りの言葉は何でも良い。
こうして聖女が祈りを込めると、透き通った水が揺れて無垢な輝きを発する。
くらり、と目眩がして、近くの台に手をついて体を支える。
──だるい……。
力を使うと気力が消費されている気がする。
出来上がった聖なる液体をミアはぼんやりと眺めた。
それは、無味無臭だが柔らかな質を持つ液体である。
飲んでみたことがあるが、味はないのに、何故か柔らかな感触が身を包んだ気がした。
それから一ダースほど、量産したミアは、やるべきことを済ませた後、個室に戻ることにする。
ひたすらに押し付けられた作業を繰り返した彼女の心は──。
折れていなかった。
「ふふー。この後はどうしようかしらー」
ミアは粗末なベッド下から、シルクで出来た小さな袋を取り出し、外出用の衣装一式をゴソゴソと取り出す。
貴族令嬢の嫌味? そんなものどうでも良いのだ。
適当に相手をして、適当に微笑みを浮かべて、適当に受け流す。
完璧である。
有象無象の性悪貴族令嬢など、既に眼中にはない。
ご機嫌な様子のミアにガチャリと開いた扉から二人の少女が声をかけてくる。
「ミアちゃん、行こう。お昼の時間だよ」
「早く行かないと文句言われちゃう」
十歳頃の少女たちは、可愛らしい声で彼女に声をかけた。
「ええ!?もうそんな時間なの?」
これから外出する気満々だったので少々面食らってしまった。
聖水作りに時間をかけすぎたらしい。
ミアと少女二人は聖女の中でも平民なので、少しでも遅れようものなら、我が意を得たりとばかりの貴族令嬢たちに責められてしまう。
ちなみに声をかけてきた少女二人は、併設された孤児院育ち。珍しい平民の聖女たちだった。
そしてミアも田舎の小さな教会から、聖女の才能を見込まれて、ここに来ることになった孤児だ。
ベッド下に取り出したものを押し込んで、立ち上がると心配そうにこちらを覗き込まれた。
「ミアちゃん……。無理なんてしてないよね?一人で聖水作りをしたりなんて、してないよね?またあの人達に押し付けられたりとか、してないよね?」
ギクリ。
肩が揺れそうになったのを堪えながら、ミアはニッコリと何事も無かったかのように微笑んだ。
「まさか! アミーったら勘ぐりすぎよ」
ふわふわの茶髪をしたアミー。
彼女は大人しい性格ではあるが、勘が鋭いのか、私が少しでも無理をしようとすると手伝うと言って聞かないことがある。
「……私達も聖水作り手伝えるよ?」
肩までのセミロングの黒髪を持つマーヤ。
「大丈夫よ。手伝ってもらう程ではないから。それより、まだ貴女たちは幼いんだから、聖水作りなんて無理しちゃ駄目」
幼いアミーとマーヤには体力的にキツいと思う。
「貴女たちは、たくさんのことを学ぶの。何があっても生きていけるようにね」
なでなでと二人の頭を撫でると、彼女たちは頬を薔薇色に染めた。
──ふう。なんとか誤魔化せた。
「じゃあ、神のお恵みを頂きに参りましょう? 今日は、ストロベリーミルクが出ると聞いたわよ。野苺が大量に届いたものね」
二人の手を取って食堂に行ったところで、ミアたちは目を瞬かせる。
そこには誰も居らず、ガランとしていたからだ。
「変ね。この時間のはずよね」
「あっ、ミアちゃん。外見て! 窓の外!」
「ん?」
アミーの指差す先を見て、納得した。
視界の先に、艷めく金髪が太陽に照らされるのを見た。
貴族令嬢の聖女たちに囲まれるその姿。
「……」
背中まである金髪を三つ編みにまとめた高身長の男性。
エメラルド色をした穏やかなで思慮深そうな瞳に、形の良い唇は、常に優しげな微笑みをたたえている。
「あれは、クロノメース隊長? また依頼関係の仕事で来たのかしら」
「騎士の人が来ると、皆はしゃいでいるね?」
マーヤは美しい聖騎士を見ても、憧れることはなくただ首を傾げるだけだった。
シュリアス=ローゼン=クロノメースは、元は教会の聖職者だったのだが、還俗して爵位を賜り、騎士団へ入った人らしい。
死霊を狩る祓魔師の中でも優秀だったらしく、還俗した今でも祓魔師に協力して狩りを務めることがあるらしく、シュリアスは金の聖騎士と呼ばれていた。
そんな彼が聖女の居る大聖堂まで来るということは、依頼関連だろう。
「聖女の力を借りる程の強い死霊でも現れたのかもしれないわね。すごいわよねぇ。祓魔師の方々って、死霊を追い払うんだもの」
聖なる力を持つという聖女と祓魔師は組むことがあるらしい。
アミーはミアの腕を取りながら、見上げて言った。
「ミアちゃんは祓魔師の人たちのこと好きだよね」
「うん。聖水作りに追われているから、今は無理だけど、いつか祓魔師の人と組んで死霊祓いをしたいと思ってるの」
「えっと、ミアちゃん危ない仕事って聞くよ?」
不安そうにマーヤに微笑みながらミアは思う。
危ない仕事を聖女ではない人たちがこなしているのだ。
もちろん皆に勧めたり強要はしないけれど、聖女が協力出来るならそれに越したことはないとミアは思う。
やる気があるミアがたまたま聖女だったというだけだ。
見目麗しい容貌からか取り囲まれることの多いシュリアスは、聖女たちに押される勢いで迫られていても上手く笑顔であしらっている。
「あの人、いつも同じ顔してるよね」
アミーは、聖騎士の姿を見ながらポソッと口にした。
「これは私の予想だけど、あの人女性嫌いだよ。そんな気がする」
まさか。それはないだろう。
「いつもあんなに誰にでも優しく、穏やかな方じゃない。嫌いならあんな風に笑えないわ」
笑顔が引き攣ることもなく、美しいお手本のような顔だ。
「見れば、分かるよ。だって──」
アミーがそう言いかけた時、ふとシュリアスの視線がこちらに向いて、彼と目が合った。
「……?」
すぐに外れたけれど、目を逸らす直前、目を優しく細められた気がした。
なんとなく、彼の髪が蜂蜜色なのは、甘ったるい視線の持ち主だからかもしれないと思った。
──女性が苦手?そうは思わないけれど。
ミアが重いものを運んでいる時は、手伝ってくれたこともあったはずだ。
対応に不自然さは感じられなかった。
「ほら! ほら! 今の!」
アミーはミアの白いローブを掴むと揺さぶった。
「アミーちゃん、どういうことなの?」
マーヤ同様、ミアもよく分からず、二人揃って首を傾げていれば、アミーは指先をピンと立てて、とんでもないことを言い放った。
「彼は、ミアちゃんのことが好きなのよ」
「いや、それはないわよ」
とんでもない推理に即座に否定した。
「何言ってるのミアちゃん! あの聖騎士の人がミアちゃんを見つめる時だけ、他と何か違う気がするもん! それを見ると他の表情は皆嘘っぽいなって思って」
「それ、他の聖女たちの前で言っちゃ駄目よ?」
──知ったら、殺されそう。
聖女となった貴族令嬢たちは、聖女とは言えど結婚は出来る立場なのだ。
聖女と女神官の立場は大いに違う。
つまり、騎士であり、騎士団の大隊を率いる隊長である公爵子息のシュリアスは引く手数多の最高物件なのだ。
身分もあるが、顔も良く、性格も良いとなれば、女性が群がらない訳がない。
「第一、そこまで話したことなんてないもの。そういう感情が芽生える余地がないわよ」
「えーっと……あのね」
何故か手を上げるマーヤ。
何を言うのかと思っていれば。
「一目惚れ……とか?」
「マーヤ! さすがだね! そう、そういう可能性だってあるもんね」
フフン、と何故かしたり顔を浮かべるアミーは可愛らしい。
「ええー?」
「だって、ミアちゃん。目立たないようにしてるけど、可愛いもん。銀髪もお貴族様みたいに綺麗だし、その蒼の瞳も綺麗だし」
「アミーちゃんの言う通りだよ。………えーっと、たまみこし?」
「玉の輿ね」
アミーがしっかりと訂正する。
「そう、それ! ミアちゃんは可愛いもの」
「貴女たちにそう言って貰えるのは嬉しいけどね」
ミアは苦笑しながら、もう一度シュリアスを見た。
彼は腕を令嬢に引っ張られたところだったが、笑顔でさり気なく振りほどいている。
やはり慣れているのだろう。
「あのね、アミー。マーヤ。貴族と平民は結婚出来ないから、私はあの方のことをそういう目で見たことないし、あの方もそうだと思うわ」
「ミアちゃん、世の中には身分差の恋というものがあるんだよ」
「もう、アミーったら」
真面目くさった顔で言うものだから思わず笑ってしまった。
「本当に本当だもん。あの人はミアちゃんのこと好きだと思うの。だって、私前に──」
何かを言いかけたアミーは、ハッとしたように口を噤んだ。
「どうしたの?」
「……ううん、何でもない」
勢いづいていた彼女は、ふるふると首を振った。
「……?」
少し不自然さを感じたけれども、そこまで重大な話でもなさそうなので、ミアは流すことにした。
──まあ、私を好きとかは有り得ないとして。
あのように皆に慕われるシュリアスが、誰を婚約者に据えるのかは気になった。
それから昼食が終わり、二人を大聖堂の教練場へと連れて行き、私はと念願の外出に繰り出すことにした。
そんな時、タイミングが良いのか、悪いのか。
大聖堂の裏──菜園がたくさん植えてある裏庭で、ミアは件の彼と出くわした。
「おや? 今から出かけるのですか?」
「騎士様……」
金色の聖騎士、シュリアスと真正面から顔を合わせてしまった。
別に隠れている訳ではないのだけれど、なんとなく身構えるのは、自分が平民で相手が貴族だからだろうか。
公爵家の生まれだからか、高貴な雰囲気を纏っているし、首を傾げるだけでも優雅な佇まいである。
「はい。仕事は終わっておりますのでご安心を」
「ふふ、サボりチェックなんてしていませんよ。暗くなる前には帰るんですよ」
「はい、ありがとうございます」
それにしても彼はこんな裏庭で何をやっているのだろうか。
不思議に思ったが、高貴な者への詮索は余計なことだとミアは知っていたので、何も聞かずに、この場を辞すことにする。
「あ。そういえば、君に伝えたいことがありました」
「……はい!?」
思わず変な声が出た。
「君と、孤児院に住んでいた二人」
「アミーとマーヤですね」
「そうそう。君たち、今の大聖堂ではなくて、別の教会支部に移動することになるかもしれません。そちらは貴族が居ないから、今よりもやりやすいかもしれません」
──やった!!
内心ガッツポーズを作りつつも、ミアは表面上は、普通の顔で耳を傾けていた。
「ちょっと根回しは苦労したけれど」
「根回し?」
「いえ、こちらの話です」
「……? はい?」
シュリアスはミアに近付くと、フードの中の彼女の銀髪に軽く触れる。
何がどうしたのかと思っていれば、どうやら前髪にホコリが付いていたらしい。
風に飛ばされるそれを見て、ミアは目を軽く見開いた。
そしてシュリアスが続ける次の言葉に驚くことになる。
「そうそう。ミア。頑張りすぎるのも良くないですよ。聖水を作るのも気力が居るのですから」
「はい?」
──まるで私が聖水をたくさん作っているのを知っているような……。
彼の蜂蜜色の髪が風に揺れる。
「君は働きすぎだ」
仕方なさそうに、そしてミアを労わるように優しく微笑む彼は、男の人なのにとても綺麗で。
──こんなお兄さんが居たら、良いのにな。
ミアが珍しくそう思ってしまうくらいには、優しかった。