3-1 旅立ちの日
翌日の朝である。
ガルディルは、万感の思いを込めて、我が家たる丸太小屋を見上げていた。
七年間、ガルディルが暮らしてきた場所である。しょせんは素人の建てた家であるので、不格好だし、あと数年もしたら建て替えを余儀なくされていたのであろうが――それでも、大事で愛しい我が家だ。
その愛しい我が家と、ガルディルは本日、決別する。
あまり感傷的な気分になることのないガルディルでも、本日ばかりは情動を揺さぶられてしまっていた。
「……まあ、いつまでもこうしてはいられねえな。そろそろ出発するか」
足もとに目をやると、荷車に座っていたメイアが「うん」とうなずいてきた。
荷車には、実に雑多な荷物がのせられている。大小の荷袋に、いくつかの木箱。それらに入りきらなかった壺や瓶など、さまざまである。それらの物資に囲まれて、メイアは窮屈そうに両膝を抱え込んでいた。
ガルディルは、この地を捨てることになったのである。
理由はもちろん、昨晩に出現した魔獣どもの存在ゆえであった。
朝一番で確認したところ、メイアと竜人が最初に隠れ潜んでいたという川べりでは想像以上に竜脈が活性化しており、もう手のつけられない状態に成り果ててしまっていたのだった。
もちろんガルディルであれば、たいていの魔獣は自力で片付けることができる。が、手持ちの護符で防ぎきれない魔獣が出現してしまっては、家の畑やヤギたちを守ることができなくなってしまうのだ。ガルディルとて、家を離れる用事はいくらでもあるのだから、それではこの場所に住み続けることもかなわなかった。
それにまた、あそこまで竜脈が活性化してしまったら、もはや騎士団の所有する琥珀の魔石で沈静化するしかない。そうして騎士団の手にかけられた土地は、王国の領土とされてしまうのだ。そうなったら、無宿人たるガルディルが勝手に居座ることも許されなくなってしまうのだった。
「ま、この山の竜脈が活性化するのは、時間の問題だったからな。あの竜人のせいで、そいつが数年ばかり早まったってだけのこった」
そんな風につぶやきながら、ガルディルは荷車の取っ手を握りしめた。荷車に縄で繋がれたヤギたちは、べえべえと鳴いている。
「こうなっちまったからには、新しい住処を探すしかない。王国の手垢がついてない辺境の領土で、それでいて人里からも離れすぎていないような……ほどほどに魔獣が出て、他の人間が近づかないような場所が理想だな」
「うん」
「そいつを探す行きがけに、お前さんの居場所も見つけてやるからな。なるようになるから、心配すんな」
「…………」
「何だよ。まだ俺と一緒に暮らしてえとか言い張るつもりか? 俺は魔獣の出る場所で暮らすつもりなんだから、昨晩みたいにおっかねえ目にあうこともしょっちゅうなんだぞ?」
「……でも、ガルは強いから、一緒にいればこわくない」
ガルディルは、心臓の表面をやわらかい羽毛でくすぐられているような心地を味わわされながら、頭をかいてみせた。
「お前さんは、これまでのことをみんな忘れちまってるから、そんな風に思うんだろうよ。もっと居心地のいい場所があるってことを目の当たりにすりゃあ、気持ちも変わるだろうさ。……さ、とにかく出発だ」
ガルディルは、最後にもう一度、七年間の苦楽をともにした我が家を視界に収めてから、山中に踏み入った。
◆
レヴィンの宿場町まで下りたのちは、出立前の大仕事が待ちかまえている。不要な荷物をこの場で売り払い、路銀に換えなければならないのだ。
かといって、露店を出すには正式な手続きが必要となる。そんな手間をかける気にはなれなかったので、馴染みの店に捨て値で引き取ってもらう他なかった。
それに、ガルディルの持ち物で銅貨に換えられるものなど、たかが知れている。根こそぎ収穫してきたタマネギとニンニクに、持ちきれない分の乳酒とチーズ あとは二頭のヤギぐらいであろう。その中で、まともな代価を得られるのはヤギぐらいだ。金剛と紅玉と藍玉の魔石については、転居した先でも必須の品であったため、売り払うわけにもいかなかった。
そうしてヤギたちを荷車ごと売り払うと、実に身軽な格好となった。
数日分の食料と、小さな鉄鍋や食器の一式と、薬や包帯と、予備の衣服と、三種の魔石。そのていどの荷物は、すべて荷袋に収まってしまう。左の腕にはメイアを抱いて、右の肩から荷袋を背負い、ガルディルはいざ、同乗を頼む馬車探しに取りかかることにした。
「とりあえず、ザンの町まで乗せていってくれねえかなあ? 駄賃は払うし、何なら用心棒の仕事も受け持つぜ?」
なるべく親切そうな人間を選んで、そのように頼み込むと、苦笑を噛み殺しているような表情を返された。
「用心棒って言っても、等級外じゃねえ。野盗どもだって、もうちっとは上等な刀剣をぶら下げてるもんじゃないかね?」
「うん、まあ、それはそうかもしれねえな。……ともかく、銅貨は先払いでいいからさ」
「だったら、乗りな。用心棒ならきっちり雇ってるから、なんも心配はいらないよ」
そのように述べてから、商人の男はうろんげに目を細めた。
「ただ……その子は何なんだい? 何かの病気持ちじゃあないだろうね?」
メイアはマントのフードをかぶらせた上に、ありあわせの織り布を襟巻きのようにして、鼻から下までをも隠させていたのだった。
「この娘は肌が弱くてね。なるべく日差しに当てないようにしてるんだよ。何も病気なんかじゃねえよなあ?」
メイアは「うん」とうなずいた。
商人の男は肩をすくめつつ、馬車の荷台を指し示す。なかなか立派な大きさをした、二頭引きの幌馬車だ。
「それじゃあ、さっさと乗っとくれ。すぐに出発するからね」
「ああ、よろしくお願いするよ」
馬車の荷台には、きっちりと封のされたたくさんの木箱が詰め込まれており、目つきの悪い壮年の男が壁にもたれて座していた。これが用心棒であるのだろう。手もとに置かれた刀剣の柄には、三等級の刻印が刻まれている。
「お邪魔するよ。ザンまでご一緒させてもらうから、よろしくな」
男は無言でガルディルの姿を検分し、最後に鼻を鳴らして笑った。ガルディルの刀剣が等級外であることを確認したのだろう。ガルディルにとっては、お馴染みの反応であった。
そんなこんなで、馬車が街道を走り出す。
荷台の後部は幌が上げられていたので、ガルディルはそこから宿場町が遠ざかっていくさまを見届けることになった。
我が家を後にしたときほどの寂寥感は生まれない。
おそらく、ガルディルがこの地を再び訪れることはないのであろうが――もともと行きずりの町である。ガルディルの住処はあくまでダムドの山であり、この宿場町はときおりお邪魔する余所様の家のようなものだった。
(何だかけっこう、すっきりした気分だな。たまには住処を変えるのも、悪くないのかもしれねえな)
こうして馬車に揺られるのも、七年ぶりのことであるのだ。空は青く晴れわたり、吹きすぎる風も心地好い。木箱の隙間からこぼれてくる甘い果実の香りまでもが、ガルディルの旅立ちを祝福しているかのようだった。
(どうせ新しい住処を見つけたら、また同じような生活が始まるんだもんな。それまでは、せいぜい道中を楽しむとするか)
何にせよ、王都で剣王として過ごしていた頃に比べれば、何も面倒なことはなかった。何ものにも縛られず、自由であれれば、ガルディルの心は満たされる。ガルディルは、心の片隅に残されていた寂寥感が、解放感によって癒されていくのを感じた。
(……ただ、こいつのことだけは、きっちり決着をつけなきゃな)
無言で膝を抱え込んでいるメイアの姿を盗み見しながら、そのように考える。
しかし、いまとなってはメイアの存在も、それほど負担には感じていなかった。どこかで信用の置ける人間の管理する聖堂にでも身柄を引き渡せば、それでメイアとはお別れであるのだ。いまだに心情の読みにくい相手ではあったものの、一緒にいて気がふさぐような存在ではないし、時には温かい気持ちが得られることもある。旅の道連れとしては、それほど悪い相手ではないのだろう。
(ただ、リールの町で罪人扱いされてるってのは、どういうことなんだろうな。十中八九、貴族がらみの悪巧みなんだろうけど……そこに竜人がどんな風にからんでくるのか、想像もつかねえや)
ガルディルがそんな風に考えたとき、「おーい!」という声が後方から響いてきた。
目をやると、馬に乗った少女がこの馬車を追いかけてきている。用心棒の男が立ち上がり、ガルディルの近くにまで寄ってきた。
「何だ、ありゃ? お前の知り合いか?」
「ああ、まあ、知り合いって言ったら、そうなのかもな」
そんな言葉を交わしている間に、少女を乗せた馬はぐんぐんと近づいてくる。当然のこと、それは賞金稼ぎのジェンカであった。
「あんたねー! 人に面倒事を押しつけておいて、挨拶もなしに出ていくとか、どういうつもり!?」
「いやあ、挨拶をするような間柄でもねえだろ。騎士団への申請はどうだった?」
「ふん! 町長の使いが、真っ青な顔で飛び出していったよ。後のことは、知ったこっちゃないね!」
巧みな手つきで手綱を操りながら、ジェンカがそのようにがなりたてた。ダムドの山をあのまま放置しておいたら、麓の宿場町にまで危険が及ぶことになってしまうので、その危急を伝える役目をジェンカに頼んでいたのである。
「……で、あんたはどういうつもりなのさ? 金貨が目当てなら、行く方向が逆なんじゃないの?」
「滅多なことを言うもんじゃねえよ。俺はただ、新しいねぐらを探したいだけさ」
「新しいねぐら?」
「あれだけ竜脈が元気になっちまったら、もうあの山には住めねえだろ? 騎士団の手に負えなかったら魔境になっちまうし、竜脈を沈静化することができたら、鉱山にされちまうんだろうからな」
魔石というのは瘴気をおびた鉱物であるので、竜脈の活性化した土地で発掘されるのである。ダムドの山には幾筋もの竜脈が通っていたので、それがあそこまで活性化したからには、またとない鉱山に成り果てるはずであった。
「……で、あんたはあたしに挨拶もなしに、とっととあの場所を飛び出したってわけだ? ふーん。へーえ」
街道を疾駆する馬のたてがみごしに、ジェンカがじっとりとした眼差しを向けてくる。ガルディルには、いまひとつ彼女の意図がわからなかった。
そうしてガルディルが言いよどんでいる間に、かたわらの男が「あんた……」と声をあげる。
「もしかして、ジェンカの姐さんかい? 女だてらに二等級の刀剣を下げてるやつなんて、そうそういないと思うんだが……」
ジェンカの腰には、天井から回収した紅玉の刀剣が揺れている。ジェンカは怒った顔のまま、面倒くさそうに男のほうを見た。
「あたしがジェンカだったら、何だっての? ちょいと機嫌が悪いから、喧嘩を売るつもりなら大歓迎だよ」
「いやあ、二等持ちに喧嘩をふっかけたって勝ち目はねえよ。あんたの評判は、前々から小耳にはさんでたんだ」
男は、にまにまと脂下がっていた。さきほどまでとは別人のような面相である。
「噂通りの、いい女だな。何かここらで仕事をするなら、是非ご一緒させてもらいたいもんだね」
「ふん! あたしは、ひとりが性に合ってるんだよ。そんな口を叩くんなら、せめて二等級の刀剣を――」
と、ジェンカはそこで口をつぐみ、ガルディルをじろりとにらみつけてきた。等級外の刀剣で上級の魔獣を斬り伏せるガルディルの姿を思い出したのだろうか。
「とにかく、あんたを逃がしゃしないよ! 金貨は、あたしのもんだからね!」
「だから、滅多なことを言うんじゃねえってんだよ!」
ジェンカにがなり返してから、ガルディルはメイアを振り返った。
メイアは首だけをこちらに傾けて、フードと襟巻きの隙間からガルディルを見つめている。
「メイア、おなかすいた」
ガルディルは、本日最初の溜息をついてみせた。
ともあれ、そうしてガルディルらの旅は開始されたのだった。




