2-1 下山
翌日の朝である。
窓から差し込む日の光で目を覚ましたガルディルは、鼻先に転がっている少女の寝顔を目の当たりにして、心底から仰天することになった。
「……ああ、そうか。こいつがいたんだっけ」
寝ぼけた声でひとりごちつつ、息をつく。当然のこと、ガルディルの家にはひと組の寝床しかなかったので、二人は同じ毛布にくるまって眠ることになったのである。
それほど冷え込みの厳しい区域ではないものの、やはり夜から朝方にかけては肌寒い。薄っぺらな長衣しか着用していないメイアは、毛布の中できゅっと身体を縮めながら、ガルディルの身体にぴったりと寄り添っていた。
白銀の長い睫毛が、なめらかな頬に陰を落としている。小さな花のつぼみを思わせる唇は薄く開かれて、そこからかすかな寝息をこぼしていた。あどけない、とても無防備な寝顔である。
(……寝顔のほうが、よっぽど人間味があるじゃねえか)
ガルディルはメイアを起こさないように気をつけながら、そっと毛布から這い出した。そのまま寝台に座る格好で、うーんと大きくのびをする。とても窮屈な一夜であったのに、寝覚めの爽快感は普段通りであった。
(でも、今日は余計な仕事も片付けなきゃならねえからな)
メイアの身柄を、町の人間に引き渡す。昨日も町に下りたばかりのガルディルにとって、それはきわめて面倒な仕事であった。
かといって、まともに歩くこともできない幼き少女を、魔獣の出現する山の中にほっぽり出すこともできない。もしもメイアが名のある家の生まれであったら、余計にまずいことになってしまうだろう。ガルディルは、何としてでもこの気楽な隠遁生活を守らなければならなかったのだった。
(間違っても、俺が人さらいだと疑われないように気をつけないとな。せいぜい丁重に送り届けてやろう)
ガルディルがそんな風に考えたとき、「おはよう」という低い声が背後から聞こえてきた。
「うひゃあ」と素っ頓狂な声をあげてから、ガルディルは背後を振り返る。首まで毛布にくるまったメイアが、横たわったままガルディルを見つめていた。
「な、何だよ、もう起きたのか? お前さんを送り届けるのは、朝の仕事を済ませてからだ。もうちっと眠ってな」
「……メイア、おなかすいた」
ガルディルは、朝から溜息をついてみせる。
「あのなあ。昨日の調子で食いまくられたら、俺の食うものがなくなっちまうよ。ちっとは遠慮ってもんを学んでくれ」
「……おなかすいた」
紫色の瞳が、とても切なげな光をたたえている。
ガルディルは、がっくりと肩を落としてみせた。
「山で何か調達してくるから、大人しく寝てろ。大事なパンを勝手にかじったら、泣くまで尻をひっぱたいてやるからな」
メイアは、とても不満げな目つきになって口を閉ざした。
その白銀の前髪の隙間から、何か見覚えのない光がきらめく。
「うん? お前さん、額に何かひっついてるぞ」
「…………?」
「ちょっと前髪を持ち上げてみな。何か、きらきら光ってるんだよ」
毛布の内から白い指先が出現し、額にかかった前髪をかきあげる。
そこから現れたのは、不可思議な色彩をした宝石のようなきらめきであった。
楕円形で、大きさはせいぜい親指の爪ぐらいだ。見る角度によって色彩が変化する、瑪瑙に似た宝石であるように思えた。
「何だよ、そりゃ? まじないか何かか?」
「わかんない」と応じながら、メイアは毛布の中に手を引っ込めた。額のきらめきは、ガルディルの前にさらされたままである。
「宝石……っていうよりは、何だか魔石みてえだな」
しかし、このような色合いをした魔石などは見たことも聞いたこともない。ガルディルは身を屈めて、メイアの額をまじまじと覗き込んだ。
瑪瑙のごとき宝石は、メイアの額にぴったりと張りついている。表面がわずかに盛り上がっているようだが、それにしてもごく薄っぺらい形状であるのだろう。しかし何だか、それは球状の物体が額に埋め込まれているようにも見えなくはなかった。
「……ま、迂闊にいじくらねえほうが無難かな。お前さんも、こいつが何だかわからないうちは、放っておきな」
メイアは寝転がったまま、「うん」とうなずいた。
その姿を見届けて、ガルディルは立ち上がる。
「それじゃあ俺は、朝の仕事を片付けてくるからな。俺が戻ってくるまで、そこで大人しくしてるんだぞ」
朝っぱらからこのように言葉を発したのは、おそらく七年ぶりのことであろう。
ガルディルは、疲労感とも昂揚感ともつかぬ奇妙な感覚を胸中に覚えながら、朝の仕事に取りかかることにした。
◆
ガルディルの主たる仕事は、三種類。ヤギの面倒を見ることと、畑の世話をすることと、あとは山中を巡って食料を調達することである。
まずは二頭のヤギから乳を搾り、柵で囲まれた牧野に放す。ヤギ小屋にも牧野にも魔獣除けの護符を設置しているので、あとは放っておくだけでいい。白黒まだらの毛皮を持つヤギたちは、今日ものんびりとした様子で足もとの草を食んでいた。
畑で栽培されているのは、ニンニクとタマネギとヒヨコマメだ。最初の数年は苦労のし通しであったものの、現在は安定した収穫が見込めている。藍玉の魔石を沈めた壷から水をまき、雑草をむしって、育った分は収穫する。猫の額のようにささやかな敷地であるが、ガルディルにとっては自慢の畑だった。
それらの仕事を済ませたのちに、いざ山中へと足を踏み込む。
これは食料の調達の他に、魔獣が発生していないかどうかの見回りも兼ねていた。
この山における竜脈の流れに関しては、徹底的に調査し尽くしている。といっても、竜脈の流れを探知する琥珀の魔石などは所有していないので、最初の年に自分の目と足で確認したまでだ。魔獣が多く発生する場所が、すなわち竜脈の通っている箇所であるので、その出処をひたすら辿ってみせたのである。
その結果、瘴気の噴出する場所は四ヶ所と認定された。小一時間もかければ、それらのすべてを見て回ることができる。その道中で、山中に実る果実や香草を収穫し、イタチを捕らえるための罠を確認するのだ。
残念ながら、どの罠にもイタチは掛かっていなかった。
しかたないので、イチジクとザクロとパセリを普段よりも多めに収穫する。メイアが不満げな目つきをするのが、いまから容易に想像できてしまった。
(とりあえず、竜人のせいで竜脈が活性化した様子はないな)
山中は、どこも平穏そのものであった。
その結果に満足して、ガルディルは家に戻ることにした。
「よお、いい子にしてたな。食事の準備をするから、ちっと待ってな」
メイアは部屋の奥にある寝台で横たわったままだった。まあ、足を怪我しているので、自力では動き回ることもできないのだろう。それでもいちおうパンの残りが減っていないか確認してから、ガルディルは昼の食事をこしらえることにした。
イチジクとザクロとパセリ、あとはすり潰していないヒヨコマメを、ヤギの乳でじっくりと煮込む。イタチが捕獲できなかったので、この朝もチーズを食するしかない。少し考えたのち、それは細かく挽いてスープの上に浮かべることにした。
「よし、できたぞ。席に着きな。……って、自分では歩けないんだったな」
ガルディルは毛布をひっぺがし、片腕でメイアの身体をすくいあげた。メイアは文句の声もあげず、黙ってガルディルの首にしがみつく。朝の光の下で見ても、やっぱりその姿は硝子の彫像か光の精霊のように美しくて、人間味がなかった。
「さ、食ったらとっとと町に下りるからな」
昨晩と同じように椅子に座らせて、スープを注いだ木皿を卓の上に置く。メイアは逆手で木匙をひっつかむと、ものも言わぬまま、それをかき込み始めた。
「そういう姿は、とうてい貴族なんざには見えねえな。ま、お前さんの素性が何だろうと、俺には関係ねえけどよ」
「…………」
「にしても、よく食うな、お前さんは。そんな小さな身体の、どこに入るんだよ」
苦笑しながら、ガルディルもスープを口に運ぶ。イチジクとザクロのおかげで甘みと酸味が強く、パセリの苦みが隠し味となっている。毎日同じような食材で料理を作っているガルディルは、朝晩で似通った味にならないよう、あれこれ苦心しているのだった。
ガルディルが半分ほど食べ終えたところで、メイアはかたりと木皿を置く。その中身は、織り布でぬぐったように綺麗になっていた。
「おいしかった。……でも、またお肉がなかった」
「だから、肉は貴重なんだっての。こんな山の中で、贅沢ぬかすな」
「……メイア、お肉たべたい」
「だったら、自分の腕でもかじってろ」
メイアは静かに自分の腕を見下ろした。
木匙を口に運びかけていたガルディルは、慌てて身を乗り出す。
「おい、本気にするなよ? いまのは、冗談だからな」
「……痛いから、腕は噛まない」
わずかにうつむいたメイアの姿は、まるで親を失った幼子のようにあわれげであった。
が、その実は単に肉を食べたがっているだけなのだ。すべての記憶を失っているというのに、この娘は食べることにしか関心がない様子であった。
(いったいどんな親に育てられたら、こんなおかしな娘に育つんだかなあ)
ガルディルは早々に食事を片付けて、面倒な仕事を済ませることにした。
こんな夜着一枚の姿で連れ回したら人の目を集めてしまうだろうから、メイアには予備のマントを纏わせる。当然のこと、マントの丈はメイアの身長を上回っていたが、どうせ自分の足では歩けないのだから、かまわないことにした。
「よし、出発だ。昨日の倍ぐらいは歩くけど、途中で文句を言うなよ?」
自分もマントを纏ってから、メイアの身体を担ぎあげる。
そうしてガルディルは、再び山中に足を向けた。
ガルディルの左腕に抱えられたメイアは、感情のうかがえない眼差しで周囲を見回している。緑の深い山の中、わずかな木漏れ日がその美しい面をときおり彩った。
「あ、そうだ。いちおう、昨日の場所も竜脈の確認をしておかないとな」
山を半分ほど下ったところで、ガルディルは進路を西に取った。昨晩、ガルディル自身が踏み荒らした痕跡が、みちしるべとなっている。しばらく進むと、見覚えのある大樹が行く手に立ちはだかった。
昨日、この場所で、ガルディルとメイアは出会ったのだ。
メイアは、やっぱり感情の読めない瞳で、その大樹のことを見つめていた。
「……やっぱり、ちっと影響が出ちまったみたいだな」
メイアの身体を抱えたまま、ガルディルは退魔の刀剣を引き抜いた。
昨晩に比べればごく微量なれど、瘴気を感じる。竜人がしばらく居座っていたために、付近の竜脈が活性化してしまったのだ。
「こっちか」と、ガルディルは右手の側から大樹を迂回した。
そこにはガルディルの前進を阻むように、深い緑が生い茂っている。その奥に、瘴気のわだかまりを感じた。
「そら、とっとと出てこいよ。逃げも隠れもできねえぞ?」
がさりと、茂みが揺れ動く。
さらにガルディルが、足を踏み出そうとした瞬間――茂みの向こうから、黒い影が這い出してきた。
人間の子供ぐらいの大きさをした、禍々しい影だ。
それは図太い胴体に、短い四肢を生やしていた。双眸は赤く燃え、自分の体長よりも長い尾を生やしている。それは、闇をこね回して作りあげた、巨大なトカゲのごとき存在であった。
「なるほど。食事中だったのか」
魔獣の口には、イタチの細長い身体がくわえられていた。すでに生気を吸い尽くされて、絶命しているのだろう。魔獣とは、こうして血肉のある存在から生気を奪って、より大きな力を手中にするのだ。
魔獣がイタチの身体を吐き捨てると、べしゃりと湿った音が響いた。毛皮の下は、すでに腐肉と化しているに違いない。七年前、数多くの人間が同じ末路をさらしていた光景を思い出して、ガルディルは不快な気分になった。
「こいつが、魔獣だよ。ま、こいつはごく低級の雑魚だけどな」
ガルディルがそのように説明したとき、魔獣が濁った咆哮とともに飛びかかってきた。
巨大な口がくわっと開かれて、鋭い牙が剥き出しにされている。その牙も、舌も、口腔も、何もかもが漆黒であった。
ガルディルは、無造作に刀を振り下ろす。
その一撃で、魔獣は縦に分断された。
左右に分かれた肉体が、空中で音もなく四散する。魔獣はそのまま黒い塵と化し、この世から消滅した。
「こんな小物なら、どうってことねえけどよ。放っておいたら竜脈が活性化して、どんどん厄介なことになっちまうんだ。こいつらは、人間や動物の生気を食料にしてるからな。……明日からは、この場所も見回らないといけねえか」
ガルディルの言葉を聞きながら、メイアは完全なる無表情であった。
魔獣の出現にも、その消滅にも、いっかな心を動かされた様子はない。彼女にとって、それは自分と関わりのない話であるようだった。
(……魔獣を怖がらない人間なんて、長生きできねえぞ?)
そんな言葉を心中でつぶやきながら、ガルディルは刀剣を鞘に収めた。