エピローグ
レミアム領における騒ぎから、半月ほど後のことである。
ガルディルたちは王都を出るべく、出立の準備を進めていた。
場所は、王太子の小宮の前庭だ。
馬に繋がれた荷車に、せっせと荷物を運び入れていく。ジェンカはもちろんメイアもそれを手伝っており、作業はすぐに終わりが見えてきた。
そこにふたつの人影が近づいてくる。目を凝らすまでもなく、それはレオ=アルティミアを引き連れた王太子エデュリオンであった。
「お邪魔いたします、ガルディル殿。出立の準備は、もう済みましたか?」
「ああ、ようやくね。ちょうど今、そっちに挨拶に行こうと思ってたところだよ」
「そうですか」と、王太子は微笑む。
そのかたわらで、レオ=アルティミアは切なげに眉を下げていた。
「ガルディル殿は……本当に王都を出ていかれてしまうのだな」
「ああ。最初っから、そう言っておいたろ? 俺が居残ったって、無用な騒ぎが起きるだけだよ」
すると、ジェンカもいくぶん慌てた様子で「そうだよ!」と声をあげてくる。
「まさか、おっさんを引き留めようって魂胆じゃないだろうね? だったら、あたしも黙っちゃいないよ!」
「そのようなつもりはありません。王弟の邪なる野望を打ち砕くために、ガルディル殿のお力を一時的にお借りしたいと、僕はそのように約定を結んだのですからね。その約定が果たされた今、ガルディル殿をお引き留めすることはできません」
王太子が微笑まじりに応じると、ジェンカはばつが悪そうに口を閉ざした。
ガルディルはメイアの身体を左腕ですくいあげてから、王太子の前にまで進み出る。
「世話になったな、王太子殿下。こんなに立派な土産まで持たせてくれて、心からありがたく思ってるよ」
「いえ。ガルディル殿の果たしてくださった働きを考えれば、当然のことでしょう」
この馬も荷車も荷台の物資も、すべて王太子から授かったものであったのだ。その中には、退魔の刀剣や金剛の護符といった、それなりに値の張るものも含まれていた。
「王弟の野望は潰えて、王国には平和が訪れました。国王陛下が臥せっておられる間は、まだまだ予断を許せませんが……それを何とかするのは、残された人間たちの仕事です」
ガルディルたちが王都に戻ってから昨日まで、王弟ルイムバッハらの大罪を問う審問会が行われていたのである。ガルディルたちはその証人としての役目を果たすために、今日まで王都に留まっていたのだった。
王弟ルイムバッハは、生きていた。その身に携えた退魔の護符が、王弟の生命を救ったのだ。
しかし、ガルディルたちがすべての魔獣を退治するまで、王弟はずっと瘴気にさらされていた。その間、金剛の魔石が生み出す断末魔のごとき音色に、ずっと苛まれていたのである。そのためか、王弟は半ば正気を失ってしまい、廃人のような有り様になってしまっていた。
黒曜の聖剣に生気を奪われたギレンもまた、同様である。そちらは寝床から起き上がることもできないような状態であったので、より深刻だ。よって、罪人の側でまともに証言できるのは、たまさか巻き込まれただけの身であったゼラムスのみであった。
ジェンカとの戦いに敗れたゼラムスは、多少の手傷は負っていたものの、生命に別条はなかった。なおかつ、自分は巻き込まれただけの立場であり、決して王弟に与する気持ちはなかったのだと弁明に励んでいた。それらの証言も合わせて、王弟ルイムバッハおよびギレンは大罪人として投獄されることになったのである。
「で、ゼラムスのやつも、牢獄行きなんだよな?」
「もちろんです。彼はそもそも僕の代理人であったアルティミアに刀を向けていたのですからね。そうして最後には王弟の前に膝を屈していたのですから、その罪は軽くありません」
「そいつを聞いて、安心したよ。あんなやつに逆恨みされたら、竜人よりも厄介だからな」
ガルディルは、おどけて肩をすくめてみせる。
「だけどこれで、剣王様はひとりきりになっちまったわけだ。また色々と騒がしいことになりそうだな」
「ええ、本当に。……せめて黒曜の聖剣だけでも然るべき主人の手に渡れば、僕も頭を悩ませずに済むのですが」
王太子の言葉に、ジェンカが眉を吊り上げた。
それを制して、ガルディルは王太子に苦笑を差し向ける。
「それは丁重にお断りしたはずだよな? 俺には剣王様なんて、とうていつとまらねえよ。そいつは七年前からわかってたことだ」
「ええ。最後にもう一度だけ、ガルディル殿のお気持ちを確認させていただきたかったのです。もしかしたら、これが言葉を交わす最後の機会なのかもしれないのですからね」
王太子は、にっこりと微笑んだ。
レオ=アルティミアは、残念そうに肩を落としている。
「期待に沿えなくて、申し訳ないな。あんたには、本当に感謝しているよ。……メイアのことも、他の連中に黙っててくれたしな」
ガルディルはすべての真実を、王太子に告げていた。
それは危険な賭けでもあったが、レオ=アルティミアにすべてを知られてしまった以上、打ち明けた上で便宜をはかってもらうしかない、と覚悟を決めたのだ。
結果――王太子は、ガルディルの意見を受け入れてくれた。
メイアの正体に関しては、審問会でも触れる必要はないと、そのように言ってくれたのである。
「竜人の魔力を封印する術が存在するなどというのは、実に驚くべき話ですが……それもヴィーラなる竜人が述べたてていただけで、真実かどうかはわかりません。また、たとえそれが真実であったとしても、僕たちに手を出せるような話ではないのでしょう」
王太子は、ガルディルとメイアの姿を見比べながら、そのように言った。
「そうであれば、真実を広めても混乱を招くばかりです。《銀の一族》が滅ぼされた段階で、共生の道は閉ざされたのだと思うしかありません」
「ああ、残念なことだよな。うまくいけば、竜人や魔獣に悩まされない未来が待ってたのかもしれねえのによ」
「そうでしょうか?」と、王太子は小首を傾げた。
「すべての竜人の魔力が封印され、すべての竜脈が鎮静化されたとしたら……今度はきっと、人間同士で領地を奪い合う時代が訪れるのでしょう。それが今よりも幸福な時代であるとは、僕には思えません」
「身も蓋もない王太子様だね。……あんたみたいに賢いと、悩みが尽きなくて大変そうだ」
「とんでもありません。でも、だから僕は、その封印の術というものの秘密を探る気になれないのです」
そう言って、王太子はまた微笑んだ。
「ですから、そちらのメイア嬢は、ガルディル殿におまかせいたします。彼女が人間としての幸福を得られるように、僕も王都で祈らせていただきます」
「ああ。俺みたいな世捨て人と一緒じゃあ、大した生活はできねえだろうけどな」
ガルディルは、腕の中のメイアに笑いかけてみせた。
メイアはとても静かな眼差しで、ガルディルを見つめ返している。
「では、出立の前にお時間を取らせてしまって、申し訳ありませんでした。ガルディル殿もジェンカ殿も、どうかお元気で」
「ああ。あんたがたもな」
王太子がきびすを返すと、レオ=アルティミアも名残り惜しげに敬礼をしてから、その後を追った。
ガルディルはほっと息をつきつつ、ジェンカを振り返る。
「さ、それじゃあ出発するか。日の高いうちに、どこかの宿場町にでも潜り込みたいところだからな」
「うん。……でもさ、本当にいいの?」
と、ジェンカが上目づかいでガルディルを見やってくる。
ガルディルは、「うん?」と首を傾げることになった。
「本当にいいのって、何の話だよ? もう追っ手はかかってねえんだから、宿場町で宿を取ったって危ねえことはねえだろ。びっくりするぐらい懐も温まったことだしよ」
「そうじゃなくってさ。王都に残らなくていいのかって聞いてるんだよ」
「お前さんまで、何を言いだすんだよ。そんな真似をしたって、何も面白かねえだろう?」
「でも、あんたは物凄い力を持ってるじゃん。その力を活かすには、黒曜の聖剣を持つしかないんじゃないの?」
ガルディルは、わざとらしく溜め息をついてみせた。
「あのなあ、こんな老いぼれに無茶を言うんじゃねえよ。こんな老いぼれに剣王様なんざつとまるもんかい」
「老いぼれって、まだ三十を過ぎたばっかでしょ? あのゼラムスってやつなんか、おっさんよりもおっさんだったじゃん」
「あいつは王都にふんぞりかえって、討伐の任務なんざはこれっぽっちも果たしちゃいなかったからな。この前みたいに無茶な真似を繰り返してたら、俺なんざすぐに干からびちまうだろうさ」
ジェンカは「そうなの?」と目を丸くした。
ガルディルは「そうなんだよ」と首をすくめる。
「他の聖剣はどうだか知らねえけど、黒曜の聖剣ってのはそういう代物なんだ。あいつは魔獣が生気を吸うみたいに、こっちの闘気を吸っちまうからな。聖剣ってよりは魔剣って呼んだほうが正しいんだろうと思うぜ?」
「それじゃあ……そいつも危ないんじゃないの?」
と、ジェンカがガルディルの腰に視線を移動させる。王太子からは、翡翠の二等級と黒曜の等級外を新たに授けられていたのだが、ガルディルは後者を腰に下げていたのだ。
「そんな厄介なのは、聖剣だけだよ。一等級や二等級だったら、俺の闘気を吸い尽くす前に砕け散るだろうからな。等級外なんざ、言わずもがなだ」
「そっか……うん、それじゃあ、しかたないね。あんただったら、また剣王としてたくさんの人たちを助けられるんじゃないかって思ったんだけど……そのために、あんたが犠牲になる必要なんてないはずだもんね」
何かをふっきるように、ジェンカは顔を上げた。
それを見ながら、ガルディルは笑う。
「まあ、そんな事情がなくっても、王都に居残るつもりなんざ、さらさらなかったけどな。お前さんだって、騎士団に誘われたのを断ってたじゃねえか」
「あ、あれはだって……あたし、王都の貴族なんて大っ嫌いだし……」
「俺だって、同じことだよ。あの王太子様が戴冠すりゃあ、ちっとは事情も変わってくるかもしれねえけど、ボンクラの王様が返り咲いたら、水の泡だ。俺を毛嫌いしてる宰相殿も健在だし、ここに俺の居場所はねえよ」
「あはは。そんなの誰かに聞かれたら、叛逆罪でつかまっちゃうよ?」
ジェンカが楽しそうに笑い声をあげる。
その姿を眺めながら、ガルディルは頭をかいてみせた。
「で、お前さんはどうするんだよ?」
「え? どうするって、何が?」
「いや、俺とメイアはのんびり暮らせる場所を探しに行くわけだけど、お前さんはどうするんだ? まさか、一緒に畑を耕すつもりじゃねえんだろ?」
とたんに、ジェンカは顔を赤くした。
「そんなの、別にどうでもいいじゃん! 行った先で考えるよ!」
「どうでもいいことはねえと思うけどなあ。……それに、メイアのことは気にならねえのか? こいつの正体は、けっきょく竜人だったんだぜ?」
ジェンカは腕を組み、「ふん!」と盛大に鼻を鳴らした。
「そいつは立派な人間だって言い張ってたのは、あんたじゃん。いまさら、何を言ってんのさ」
「俺はそう思ってても、すべての人間がそう思うかはわからねえからな。いちおう、確認しておきたかったんだ」
ジェンカは、メイアをじろりとねめつけた。
メイアは無表情に、ジェンカを見返している。
「……そいつの頭からにょきにょき角が生えてきたら、あたしが竜人として始末してやるよ。でも、いまのそいつを退治したら、あたしはただの人殺しじゃん。そんな真似をして、あたしに何の得があるってわけ?」
「そうか」と、ガルディルは笑ってみせた。
「だったら、いいんだ。余計なことを聞いちまって、悪かったな」
すると、ジェンカはますます顔を赤くしてしまった。
「あんたさあ! いきなりそういう顔で笑うの、やめてくれない!?」
「そういう顔って、どういう顔だよ。お前さんのそういうところは、変わらねえなあ」
ガルディルは、御者台に飛び乗った。
座席にはゆとりがあったので、メイアは隣に座らせる。メイアはなされるがままであったが、腕をのばしてガルディルのマントをぎゅっとつかんできた。
「それじゃあ、いいかげんに出発しようぜ。うかうかしてると、また野宿をする羽目になっちまうからな」
「あ、ちょっと待ってよ、もう!」
ジェンカは慌てて、自分の馬にまたがった。
その姿を見届けてから、ガルディルは手綱を振るう。
馬は、軽快に走り始めた。
二頭引きなので、このように巨大な荷車も苦にはなっていない様子だ。守衛の開いてくれた門を抜け、街路に出ると、清涼なる風が髪をなぶっていく。
七年前にも、ガルディルはこうして王都を出立した。
しかし、あのときは独りきりであり、今はかたわらにメイアがいる。後ろからは、ジェンカも追ってきている。のんびりと暮らせる場所を探すという目的に違いはなかったが、ガルディルの心持ちは大いに違っていた。
(案外、こういうのも悪くないもんだな)
ガルディルがそのように考えたとき、メイアがくいくいとマントを引っ張ってきた。
「ガル、おなかすいた」
同じ風が、メイアのかぶったフードやそこからこぼれた白銀の髪をなぶっている。
そして、その紫色の瞳は――とても安らぎに満ちているように感じられた。