1-3 最初の夜
それからほどなくして、ガルディルの家に到着した。
ダムドの山の中腹に建てられた、丸太造りの小屋である。七年前に、ガルディルが自力でこしらえた、小さいながらも大事な我が家であった。ガルディルは、家の脇のささやかな畑やヤギ小屋にも異常がないのを確認してから、玄関の扉を引き開けた。
「すっかり日が暮れちまったな。ちょいと待ってろよ」
家の中は、外よりも濃い闇に閉ざされている。ガルディルは、小さな卓の前に置かれた椅子にメイアを座らせてから、部屋の奥にあるかまどへと近づいていった。
手製の煉瓦で組み上げた、ごく小さなかまどである。ガルディルは板張りの床にひざまずき、かまどの口の中で眠る魔石に向かって囁きかけた。
「火の精霊よ、ひとしずくの恵みを分け与えたまえ」
闇の底に沈んだ小さな魔石が、一瞬ぐずるように火花を散らせてから、赤い炎に包まれる。その火を燭台に移してから、ガルディルはメイアのもとへと舞い戻った。
「ほらよ。とりあえず、ここで少し大人しくしてな」
卓の上に燭台を置くと、メイアの顔がぼうっと妖しく照らし出された。
幼いが、作り物のように美しい顔である。銀色の睫毛にふちどられた紫色の瞳は、何の感情も浮かべぬままに、燭台の火を見つめていた。
「まずは、傷の手当てからだな。……やれやれ、大事な薬をこんなことに使っちまうとはなあ」
「…………」
「心配しなくても、銅貨をよこせなんて言わねえよ。お前さんの親が裕福なら、おもいきり請求してやりたいところだけどな」
ガルディルは薬の準備をして、メイアの足もとにあぐらをかいた。ガルディルの体格に合わせた椅子であるので、少女の白い足は床から浮いている。水で濡らした織り布を手に、ガルディルはその細い足首をそっとつかみ取った。
「痛むだろうけど、我慢しろよ。まずは水で清めるからな」
「…………」
「あーあ、ひでえ傷だな。どこからさらってきたのか知らねえけど、靴を履かせる余裕もなかったのかよ」
「…………」
「よし、それじゃあ、薬を塗るぞ。かなりしみるけど、泣くんじゃねえぞ?」
「…………」
「……お前さん、痛くねえのかよ?」
メイアは小首を傾げつつ、「いたい」とつぶやいた。
薬を塗りたくった少女の足に包帯を巻きながら、ガルディルは深々と溜息をついてみせる。
「痛いなら、ちっとは痛そうな顔しろよ。顔の動かし方まで忘れちまったのか?」
「…………」
「なあ、お前さんは、本当に何も覚えちゃいねえのか? このダムドの山に連れ去られてくるまでは、どこで何をやってたんだよ?」
「わかんない。メイアが目を覚ましたら、この山の中で、さっきの女の人と一緒だった」
そのように述べてから、メイアはガルディルの顔をじっと見つめてきた。
「ねえ。さっきの人は、どこに行っちゃったの?」
「ああん? どこに行っちゃったのって……竜人の魂の行方なんて、知らねえよ。人間の魂は天に返るって話だから、竜人の魂は地の底にでも沈んでるんじゃねえか?」
「…………?」
「そんな不思議そうな目で見んな。あいつはもう、この世のどこにもいねえんだよ」
メイアの目が、ほんの少しだけ見開かれた。
「あの人……死んじゃったの?」
「ああ。竜人の弱点は、頭に生えた二本の角だからな。そいつをへし折られちまったら、もう長くはもたねえんだよ」
「そっか……」と言ったきり、メイアは口をつぐんでしまった。
反対の足にも治療をほどこして、包帯を巻きつけてから、ガルディルはちらりとメイアの様子をうかがう。
「何だよ。まさかお前さんは、あの竜人の死を悲しんでるんじゃねえだろうな? あいつらは、俺たち人間の天敵なんだぞ?」
「べつに、悲しくない」
そのように述べてから、メイアはそっと睫毛を伏せた。
「でも……まだお礼を言ってなかったの」
「お礼? どうして自分をさらった竜人なんざに、礼を言わなきゃならねえんだよ」
「あの人は、メイアを大事にしてくれた。だから、お礼を言いたかったの」
メイアの瞳には、何か判別のつかない感情が渦巻いているように感じられた。
ガルディルは頭をかきながら立ち上がり、メイアの小さな姿を見下ろす。
「さっぱり事情はわからねえけど、お前さんをこんなところにまで連れ去ってきたのは、あの竜人のやつなんだ。そうでなくったって、竜人なんざに心を寄せるもんじゃねえ」
「…………?」
「ああ、もういいや。どっちみち、俺には関係のねえことだからな。とりあえず食事の準備をしてくるから、お前さんはそこに座ってな」
ガルディルは、再びかまどのほうに足を向けた。
かまどの上に鍋を置き、ヤギの乳と野菜をぶち込みながら、思案する。
(何だか、厄介なやつを拾っちまったなあ。どう見たって、商人や農民の娘なんかじゃなさそうだし……まさか、本当に貴族の娘なんかじゃねえだろうな?)
そしてそれ以上に、竜人が人間の娘などをさらう理由がわからない。しかもあの竜人は、メイアのことをかけがえのない存在であるなどと述べていたのだ。ガルディルの知る限り、人間と竜人の間に情愛が育つ余地などは存在しないはずだった。
竜人というのは、人間にとっての天敵であり、災厄の象徴でもあるのだ。
この地の底には、竜脈というものが存在する。竜脈が活性化すれば地上には瘴気が満ち、人の住めない魔境と化す。その魔境こそが、竜人と魔獣の領土であるのだ。人間と竜人はもう何百年もの間、そうしておたがいの領土を奪い合ってきたのだった。
この世のすべてを瘴気で満たそうとする竜人と、それらを駆逐しようとする人間との、血で血を洗う抗争である。ガルディルとて、七年前まではその抗争の渦中にあったのだ。これまでに斬り捨ててきた竜人と魔獣の数は、これまで口にしてきたヒヨコマメの数をも上回っているはずだった。
また、剣王の座から退いたのちも、ガルディルは数多くの魔獣を斬り伏せている。このダムドの山は魔境になりかけていた場所であるので、いまでも頻繁に魔獣が発生するのだ。瘴気が濃くなれば魔獣が発生し、魔獣がその地で跳梁すれば、いっそう竜脈は活性化してしまう。そういった負の連鎖に歯止めをかけるために、ガルディルは日夜、生まれたての魔獣を討伐しているのだった。
(まあそんなのは、畑に悪さをする害虫を始末するのと同じことだけど……このメイアって娘っ子に関しては、さっぱりわけがわからねえなあ)
そこまで考えて、ガルディルはふいに馬鹿らしくなってしまった。
このようなことで頭を悩ませるのは、自分の役割ではない。明日になって、町の人間にメイアを引き渡せば、それでおしまいだ。メイアの正体が何であれ、あの竜人の思惑がどうであれ、ガルディルには関わりのない話であった。
(自警団の連中にでも引き渡せば、うまいことやってくれるだろ。あいつが貴族の娘だったりしたら、宿場町にも通達が回されてるかもしれねえし……あとの面倒は、町の連中にまかせるさ)
ひと晩だけでも面倒を見てやれば、ガルディルの義理は果たせるだろう。
そのように考えながら、ガルディルは石窯に陶磁の皿を突っ込んだ。
「さ、あとは火が通るのを待つだけだな。どうだ、いい匂いだろう?」
「……メイア、おなかすいた」
「もうちっとの辛抱だ。それだけ腹が減ってりゃあ、どんなに粗末な料理でもご馳走に思えるだろうさ」
軽口を叩きながら、ガルディルはメイアのほうを振り返った。
メイアは椅子の上にちょこんと座したまま、身じろぎひとつしていない。口を閉ざしていると、本当に精巧な人形のように見えてしまう。これほどに人間味のない人間というものを、ガルディルはこれまでに見たことがなかった。
「何だかちょっと、嫌な予感がしてきたな。……おい、お前さん、まさか竜人の子供なんじゃねえだろうな?」
「…………?」
「いや、俺は竜人の子供なんて見たことがねえからよ。角も鱗もねえから、すっかり安心してたけど、そいつは大人になってから生えてくるのかもしれねえもんな」
メイアはいくぶん首を傾けながら、ガルディルを静かに見返してきた。
「あの人は、メイアのことを人間だって言ってた。だからメイアは、人間の世界で暮らさなきゃいけないんだって。……メイア、人間じゃないの?」
「ああ、いや、やっぱりそうだよな。見た目のどうこうなんて、関係ねえんだ。お前さんは、そこにそうして普通に座っていられるんだから、まごうことなき人間だよ」
「…………?」
「この家は、魔石の結界で守られてるんだ。低級の魔獣なら近づけもしねえし、上級の魔獣や竜人だったら、逆に魔石を砕かれちまう。こうして魔石はぴくりとも反応してねえんだから、お前さんはこれっぽっちも瘴気を帯びていないってこった」
ガルディルは、壁に掛けてある魔石の護符を指し示しながら、そのように説明してみせた。魔石の力を強める純銀の台座に埋め込まれた、かなり上等な護符である。王都で手にした稼ぎの大半はこれらの護符に費やしてしまったため、刀剣は等級外にせざるを得なかったのだ。
人間の営みは、こうして魔石の存在に支えられている。魔なるものを退ける金剛の魔石に、火を生み出す紅玉の魔石、水を生み出す藍玉の魔石――よほど貧しい家でなければ、最低でもそれぐらいの魔石は所有していることだろう。多分にもれず、ガルディルが所有しているのもその三点である。あとは、等級外の黒曜の刀剣を携えているばかりであった。
「おかしなことを言っちまって、悪かったな。お前さんは、人間だ。明日には人里まで案内してやるから、今夜ひと晩だけは辛抱しな。この家の中なら、魔獣に襲われることもねえからよ」
「…………」
「さ、そろそろ仕上がったかな。お待ちかねの、晩飯だ」
ガルディルは、石窯から取り出した二枚の皿を、メイアの待つ卓まで運んでいった。
畑でとれるタマネギとニンニクをヤギの乳で煮込んだのちに、チーズで蓋をして窯焼きにしたスープである。それに、ヒヨコマメのパンと干したイチジクを添えて、メイアの前に並べてみせる。熱く焼かれた皿の上では、ニンニクとチーズの濃厚な香りが匂いたっていた。
「パンは固いから、スープにひたして食べてみな。溶けたチーズがからみついて、なかなかのお味だぞ」
こんな風に他人の世話を焼くのは、いったい何年ぶりのことだろう。ガルディルは何だか、親の目を盗んで傷ついた小鳥の面倒でも見ているような心地であった。
(まったく、ガラじゃねえよなあ)
椅子は一脚しかなかったので、ガルディルは物入れの木箱をメイアの向かい側に移動させた。その上に腰を下ろして、「さて」と手の平をこすり合わせる。
「それじゃあ、食おうぜ。皿は熱いから、さわらないように気をつけてな」
言いながら、ガルディルも木匙でスープをすすり込んだ。
塩もほどほどに使っているので、お味のほうは申し分ない。一日の労働を終えた肉体に、食材の滋養がしみわたっていくかのようだった。
ヒヨコマメのパンを引きちぎって、スープのチーズにたっぷりからめてから、口に運ぶ。ぼそぼそとしていて味気ないヒヨコマメのパンも、こうして食べれば相応の満足感を得られるのだ。この七年間で、ガルディルは自分の好みに合う料理をこしらえるすべを体得していた。
(ま、この娘っ子が裕福な家の生まれなら、とうてい食えたもんじゃないかもしれねえけどな)
そのように考えながら、ガルディルが視線を転じてみると――メイアはパンの最後のひと口を呑みくだしたところであった。
「……もうなくなっちゃった」
「そうだな。あとはスープとイチジクで我慢しな」
「……メイア、もっと食べたい」
メイアの瞳が、ガルディルの手もとを凝視している。ガルディルは反射的に、その手のパンをメイアから遠ざけた。
「こいつは、俺の分だぞ。……しかたねえな。パンなら作り置きがあるから、もう少しだけ分けてやるよ」
相手が幼子だと思ってパンも小さめに切り分けたのだが、どうやらそんな必要はなかったらしい。ガルディルが新しいパンを手渡すと、メイアはそれをせっせとスープにひたしつつ食していった。
「なかなかの食いっぷりだな。そんなに腹が減ってたのか?」
「うん」
「だったら、もっと美味そうに食ってほしいもんだけどなあ」
せわしなく手と口を動かしながら、メイアはやっぱり完全なる無表情であったのだ。
メイアはふっと面を上げると、おもむろに「おいしい」とつぶやいた。
「でも、お肉がないから物足りない」
「そいつは悪かったな。こんな山の中じゃあ、肉なんてのは貴重品なんだよ」
「……さっきの小屋には、動物がいた」
「馬鹿。あのヤギを肉にしちまったら、チーズも乳酒も作れなくなっちまうだろうが? 肉がない日は、こうやってチーズで滋養を取るんだよ」
「……メイア、お肉たべたい」
「だったら、さっさと家に戻ることだな。頑張って、自分がどこの誰なのかを思い出してくれよ」
メイアがまた、ガルディルの顔をじっと見つめてくる。
その紫色の瞳には、何やら不満げな光が灯っているように感じられた。この人形みたいな少女の内心をうかがうには、その眼差しの変化を読み取るしかないようだ。
(本当に、おかしなやつを拾っちまったなあ)
しかし、このような面倒も明日までのことだ。
ガルディルはそんな風に考えながら、自分も食事を進めることにした。