7-3 深淵
ガルディルたちが屋敷の中に足を踏み入れると、そこにはお行儀のよい無表情を保った侍女や従者たちが待ちかまえていた。
「客人だ。わたくしがご案内するので、お前たちは控えていよ」
恭しく一礼する侍女たちの間を通り抜けて、回廊を進む。
煉瓦作りの屋敷には、人間の気配が希薄であった。
ひどく無機的な印象である。しかし、金剛の護符がもたらす張り詰めた空気に、変わりはない。メイアの首に下げられた護符も、瘴気を感知することはなかった。
やがてギレンは、奥まった場所に現れた扉を無造作に引き開けた。
無言のまま、そちらに踏み入っていく。レオ=アルティミアを先頭にして、ガルディルたちも追従するしかなかった。
天井の高い、広々とした部屋である。奥のほうに巨大な黒檀の卓が設えられており、その背後には人間よりも背の高い書架が並んでいる。執務の間と思しき部屋であった。
「さて……それでは、王弟殿下へのご用向きというものをお伺いいたしましょう」
こちらを振り返ったギレンの顔には、相変わらず冷たい薄笑いがへばりついていた。
レオ=アルティミアは、毅然とした面持ちでそれをにらみすえる。
「それは、王弟殿下ご本人にお伝えさせてもらおう。王弟殿下は、どちらにおいでであるのだ?」
「王太子殿下の腹心であられるあなたが騎士団を率いて、このレミアムにまでやってきたのです。うかうかと、王弟殿下の御前にご案内することはできません」
そのように述べてから、ギレンは薄い唇をにっと吊り上げた。
「ですがこれは、尋常ならざる事態であるようですね。わたくしの目に間違いがなければ、そちらの御仁はかつての《黒曜の剣王》たるガルディル殿であり……そちらの娘御は、王弟殿下が捜索されていたメイアなる少女であるのではないですか?」
「そこまでわかっているのならば、話が早い。王弟殿下のもとまで、案内を願おう」
「何故です? もしや、あなたは……そちらの両名の身柄を手土産に、王弟殿下の寵愛を得ようと考えておられるのですか?」
ギレンは、いっそう冷淡な感じに微笑んだ。
「そうであれば、わたくしはあなたを歓迎いたしますよ、レオ=アルティミア殿。わたくしとあなたと、そしてドルミア史上最強の剣士と名高いガルディル殿が手を取り合えば、王弟殿下のお立場も盤石です」
レオ=アルティミアの顔が、怒りに染まった。
しかし、何とか自制して、硬い声音を振り絞る。
「何にせよ、王弟殿下に拝謁を賜りたい。私に言えるのは、それのみだ」
「承知いたしました。王弟殿下も、さぞかしお喜びになられることでしょう」
ギレンは巨大な卓の向こう側に回り込み、引き戸の中に手を入れたようだった。
次の瞬間、がちゃりと重い音色が響く。レオ=アルティミアはすかさず聖剣の柄に手をのばしたが、ギレンはにやにやと笑っていた。
「ご心配は無用です。隠し扉の鍵を開きました」
ギレンはガルディルたちに背を向けて、真ん中の書架と相対した。
その手が書架の右端を押すと、驚くべき現象が生じる。人間よりも巨大な書架が、すうっと音もなく後ろに引っ込んでしまったのである。
その向こうに現れたのは、深淵の闇であった。
その巨大な書架そのものが、隠し扉であったのだ。
「どうぞ、こちらにおいでください」
ギレンの身体が、闇の中に溶け込んだ。
ガルディルは「おい」と、レオ=アルティミアに小声で呼びかける。
「こいつは、いかにも怪しいぞ。この先にも結界の力が効いてるかどうか、十分に用心することだ」
「うむ、承知している」
レオ=アルティミアは聖剣の柄に手をかけたまま、闇の中に足を踏み入れた。
その姿が遠ざかるとともに、地中へと下がっていく。そこには、地下への階段が隠されていたのだ。
ガルディルは同じ忠告をジェンカにも伝えてから、レオ=アルティミアの後を追うことにした。
階段は石造りで、人間ふたりがどうにか並んで歩けるていどの幅である。そして、右手側の壁に燭台が設置されており、そこに炎が灯っていた。ギレンが道すがらで、紅玉の魔石を発動させたのだろう。
階段は、二十段ばかりも続いていた。
その下に待ち受けていたのは――岩盤に覆われた、鍾乳洞のごとき空間である。そこにもあちこちに燭台が灯されており、黒い岩肌がぼんやりと照らし出されていた。
「何だよ、こりゃあ? 秘密の隠れ家にしちゃあ、ずいぶん殺風景じゃねえか」
ガルディルが思わず声をあげると、それは陰々と闇の中に響き渡った。
こちらを振り返ったギレンが、笑いを含んだ声をあげる。
「ここは、秘蔵の採掘場となります。こちらでは、実に豊潤な魔石が採掘されているのですよ」
「採掘場? どうして王弟殿下の執務室が、採掘場なんかと繋がってるんだよ?」
「こちらには、信用の置ける人間しか踏み入ることが許されていないのです。あなたがたも、そのおつもりでお進みください」
そこはちょっとした広場のようになっており、左右に道がのびているようだった。すでに誰かが足を踏み入れている証とばかりに、どちらの道にも点々と燭台の火が灯されている。
ギレンは迷うそぶりもなく、右の方向へと歩を進めた。
レオ=アルティミアがそれを追おうとしたので、ガルディルは再び「おい」と呼びかける。
「本当についていくつもりなのか? こいつはあまりにも、普通じゃねえぞ?」
「うむ。しかし、この場にも結界の気配は満ちている。少なくとも、竜人や魔獣が待ち伏せしていることはないはずだ。相手がギレンのみであれば、何も憶する必要はなかろう」
それは、レオ=アルティミアの言う通りであった。金剛の魔石の結界は球の形で発現されるので、このように地下に下っても、まだ範囲内であるのだろう。
「でも、このままずかずか進んでいったら、結界の外に出ちまうかもしれねえからな。それだけは、十分に用心してくれ」
「相分かった。それでは、参ろう」
三名は、速足でギレンを追いかけることになった。
岩の道には、等間隔で燭台が設置されている。しかしそれは、すべて片側の壁であったので、逆の側は闇に溶け込んでしまっていた。少なくとも、燭台の光が届かないぐらいには、道の幅があるようだ。
途中でいくつか脇道が現れたが、そちらには燭台が灯されておらず、ギレンも素通りしていた。燭台の炎に導かれるようにして、一同は暗がりの中を進んでいく。道はうねうねと曲がりくねっていたので、自分たちがどの方角に進んでいるのかもすぐにわからなくなってしまった。
「……王弟殿下は、このような場所で何をしておられるのだ?」
やがてレオ=アルティミアが重苦しい静寂に耐えかねたように問い質すと、ギレンの低い笑い声が響いた。
「王弟殿下は、魔石の美しさに魅了されておられるのです。あなたは魔石の原石を目にされたことがありますか? 岩の中にうずまって、その内でぼんやりと輝く魔石というのは……実に美しいものであるのです」
「そうだからといって、このような場に足を踏み入れるのは、あまりに不用心ではないか。誰もお諫めしようとは考えなかったのか?」
「この場を知るのは、王弟殿下とわたくしのみです。王弟殿下に差し出口をきくことなど、とうていわたくしにはかないません」
「ちょっと待てよ」と、ガルディルは声をあげることにした。
「ここは、採掘場なんだろう? だったら、他に知る人間がいないってのは、どういうこったよ。まさか、お前さんと王弟様が、ふたりして魔石を採掘してるってのか?」
ギレンが、ぴたりと足を止めた。
のろのろとこちらを振り返ったその顔には、毒々しい笑みがたたえられている。
「これは口がすべってしまいました。まあ、そのように些末なことは捨て置きましょう」
「何が些末か! 貴殿は、我々をたばかったのか?」
聖剣に手をかけたレオ=アルティミアが、ずいっと進み出る。
ギレンはいっそう醜悪に、その白い顔を引き歪めた。
「何もたばかってはおりません。王弟殿下は、こちらにおられます。しかし、あなたがたが拝謁を賜ることは、ありえないのです」
その瞬間、ガルディルの背筋がぞくりと粟立った。
何を考えるいとまもなく、ガルディルはジェンカの身体につかみかかる。「きゃあ!」と悲鳴をあげるジェンカと、無言で首にしがみつくメイアともども、ガルディルが冷たい岩盤に倒れ込むと、その頭上を氷雪の斬撃が走り抜けていった。
「ふん。鼠のように、すばしこいやつだ。貴様はやっぱり、気に食わん。……どうして貴様のように目障りな人間が、この世に存在するのであろうな?」
ガルディルたちの背後から、大柄な人影がのそりと現れた。
これまでは、脇道の暗がりにでも身をひそませていたのだろう。そちらを振り返ったレオ=アルティミアは、驚愕の声をあげていた。
「ゼラムス殿! どうして貴殿が、このような場にいるのだ!」
「さて、どうしてだかな。まあ、貴様よりは機を見るに敏ということだ」
青い甲冑を纏い、青い聖剣を携えた剣士が、ギレンに劣らず醜悪な顔で笑う。それは、宰相の腹心であるはずの《藍玉の剣王》、ゼラムスであった。