5-2 宮廷内の暗雲
「えーと……追いかけなくて、いいんでやすかい?」
まったく事情の呑み込めていない主人が、心配そうに問うてくる。ガルディルは、そちらに首を振ってみせた。
「追いかけても、言い訳のしようがねえからな。あいつの好きにさせるしかねえさ」
「はあ……七年たっても、女の扱いは相変わらずでございやすねえ。ガルディル様ほどのお人でしたら、どんな姫君でも伴侶として迎えられたでしょうに」
「ほっといてくれ」と、ガルディルは肩をすくめてみせる。
実のところ、ガルディルは想像以上に胸が痛くなっていた。ジェンカにひっぱたかれるぐらいの覚悟はしていたが、泣かれてしまうとまでは考えていなかったのだ。主人の言う通り、ガルディルには女心というものがまったく理解できていないのだろう。
(でも……あいつにとっては、これでよかったのかもな)
王都に渦巻く陰謀劇などに巻き込まれてしまったら、どのような運命を辿ることになるかもわからないのだ。ガルディルは、いざとなったら余所の王国にでも逃げ出す所存であったが、本来は無関係であるジェンカにそこまでつきあってもらういわれはなかった。
(これは、俺とメイアの問題なんだしな)
目をやると、メイアはガルディルの顔をじっと見つめていた。
そちらにうなずき返してから、ガルディルは開かれたままであった扉をぴたりと閉める。
「それじゃあ、話を聞かせてもらおうか。その王弟殿下って御仁は、いったいどういう目論見で俺なんざを騎士団長に据えようとしてるんだい?」
「どういう目論見って、それはもちろん立派な騎士団を作るためでございやしょう? あっしらには王宮内の様子なんざさっぱりわかりやしませんが、それでも王弟殿下の御高名は城下町にまで響きわたっておりやすからねえ」
「ふうん。七年前までは、その御仁も派閥争いには顔を出してなかったと思うがねえ」
「ええ。王弟殿下のお名前をよく耳にするようになったのは、ここ数年でございやすよ。どうやら今の《黒曜の剣王》も、王弟殿下の腹心であられるようですしねえ」
剣王は三名しか存在しないのだから、そのうちの一名を確保できたのなら、それは勇躍と言えるだろう。つまりは、ガルディルが剣王の座を捨てたことによって、王弟は王宮内で台頭することになったわけだ。
「しかもこの一年ばかりは、国王陛下が病床に臥せっておりましてねえ。王太子殿下はまだ十二歳のお若さですから、王弟殿下が王宮を切り盛りしているんでございやしょうよ」
「なるほど……ま、そっちの話はどうでもいいや。俺が探してるのは、俺のことをつけ狙ってる人間なんだよ」
「つけ狙う? ガルディル様を? それはいったい、何の話でございやしょう?」
「俺にもさっぱりわからないんだがね。どうも王都の貴族様だか何だかが、俺の存在を亡き者にしようとしているらしいんだよ。何か心当たりはないかい?」
主人は難しい顔で「うーん」と考え込んだ。
「そんな話は、聞いたこともございやせんが……ただ、王太子殿下は王弟殿下のことを疎ましく思っている、という噂を聞いたことがございやすね」
「へえ。そりゃまたどうしてだい?」
「それはまあ、王家につきものの跡目争いってやつじゃないですかねえ。王弟殿下ともなれば、王位継承権もかなりのもんなのでしょう? 王弟殿下があまりにお力をつけられるのは、王太子殿下にとって望ましくないんじゃないですかねえ」
王太子など、ガルディルにとっては王弟よりも記憶にない相手であった。七年前には五歳の幼子であったのだから、ガルディルが拝謁を賜る機会もなかったのだろう。
「うーん。七年も経つと、やっぱりあれこれ様変わりしてるもんだなあ。《藍玉の剣王》と《琥珀の剣王》は、元気にやってるのかい?」
「《藍玉の剣王》のゼラムス様は、ご壮健のようでやすね。《琥珀の剣王》は何べんも代替わりして、現在の剣王であるレオ様は、王太子殿下にお仕えしてるそうでやすよ」
「何? 王弟ばかりじゃなく、王太子まで剣王を手に入れたのか? 七年前までは、王家の人間が剣王の取り合いに加わることはなかったのにな」
というか、王家の人間はもともと絶大なる権力を有しているのだから、剣王を腹心にする意味も希薄であるはずだ。それも、王弟や王太子という立場にある人間なら、なおさらである。
「うーん。よくわからねえことになってるなあ。……あ、そうだ。ゼラムスのやつは、相変わらず宰相殿にべったりなのかい?」
「そうでやすね。何かの式典の折に、宰相様がゼラムス様を侍らしている御姿をお見かけしやしたよ」
七年前、ガルディルを忌み嫌っていた貴族の筆頭が、その宰相であったのだ。二名の剣王を王家の人間に奪取されても、《藍玉の剣王》たるゼラムスをしっかりと確保できているのは、さすがの手腕であった。
「俺を騎士団長にしたがってる王弟と、そいつと反目してる王太子と、もともと俺を嫌ってた宰相か……厄介な連中ばっかりが剣王の主人になっちまったもんだなあ」
「王太子殿下と宰相様はともかく、王弟殿下はガルディル様のお味方でやしょう? 何せ、王都を出奔されたガルディル様に、しかるべき立場を与えようとなさってるんですからねえ」
「そんなもん、俺にとってはありがた迷惑でしかねえよ。敵じゃねえなら、なおさら厄介だ」
そのように述べてから、ガルディルは次なる議題に取りかかることにした。
「あと、それとは別の話なんだがね。この王都で、メイアっていう幼子が大罪人として手配されたりはしてねえか?」
「幼子の大罪人? そんなもんは、耳にしたこともありやせんねえ」
「そうかい。余所の目ぼしい領地では、王都から手配書が回されてるらしいんだがね」
「はあ……それじゃあ、貴族様か王家の誰かが、ご自分の都合でこっそり手を回したんでしょうねえ」
そんな風に言ってから、主人はちらりとメイアのほうを見た。フードと襟巻きで人相を隠したメイアは、ガルディルの腕の中で退屈そうに足をぷらぷらと揺らしている。
「それじゃあ、もうひとつ。何か竜人がらみで、変わった話はねえもんかな?」
「竜人がらみ? そいつは、どういう話でやすか?」
「そうだなあ。たとえば……ここ最近で、剣王が出陣するほどの騒ぎはあったかい?」
この王都は膨大なる質量の魔石で堅く守られているので、どれほどの力を持つ竜人でも近づくことはかなわないのだ。それでも、かつてガルディルが退治した火の竜人は、王都の人間と密約を交わしたように見受けられる。となると、討伐の任務に出向いた剣王が、その場で竜人と出くわして、許されざる絆を深めることになった――とでも考えるのが、妥当なところであろう。
「そうでやすね。ガルディル様が出奔して以来、剣王様が出陣するような話はめっきり聞かなくなってたんですが……ここ最近は、《琥珀の剣王》のレオ様が、月に一度ぐらいは出陣してるって話でやすねえ」
「《琥珀の剣王》っていうと、王太子の腹心ってやつか。そんなに働き者の剣王ってのは珍しいな」
「ええ、辺境区域と行ったり来たりだったガルディル様とは、比べ物になりやせんがね。でも、レオ様ってのもなかなかのお人なんでしょう。まだ聖剣を授かってから一年ていどだってのに、たいそうなご活躍だそうですからねえ」
「なに? そいつが剣王になったのも、ここ一年ばかりの話なのか?」
「ええ。一年ほど前の闘技会で優勝されて、それで国王陛下に聖剣を授かることになったんでやすよ。若いみそらで、大したもんです」
ガルディルは「うーむ」とうなることになった。
一年ほど前に、王太子の腹心が《琥珀の剣王》となり、王弟はガルディルの存在を欲し、そして国王は病床に伏した。これらは、偶然の一致であるのだろうか?
(しかし、王弟と王太子が玉座を奪い合ってるんだとしても、やっぱり竜人なんざと手を組むってのはしっくり来ねえな。だいたい、俺やメイアをつけ狙う理由がさっぱりわからねえじゃねえか)
それに、ガルディルの始末をするために、竜人などの手を借りるというのは、あまりに大仰だ。ガルディルが王弟の支配下にある騎士団の長になったところで、権勢争いに影響が出るとは思えない。この陰謀劇には、まだまだ裏があるはずだった。
「ま、俺が頭をひねったって、しかたがねえな。とりあえず、大聖堂にでも向かってみるか」
「大聖堂に? どういったご用事で?」
「前にも話したろ。あそこの司祭長様は、俺なんざと気の合う変わり者なんだよ」
主人は、何かをあわれむように眉を下げた。
「司祭長様は、三年ほど前に魂を返されやしたよ。いまの司祭長は、その御方の孫娘か何かであったはずでやすね」
「なに? あの爺さんは、くたばっちまったのか? 孫娘なんて、顔も知らねえぞ。……それじゃあ、俺の副官だったベイロでも頼るしかねえか」
「ベイロ様は討伐の任務で深手を負って、騎士団を除隊されたはずでやすよ。その後の行方は、とんと知れやせん」
「何だ、ベイロもかよ。それじゃあ、あとはアムラ公爵家の旦那ぐらいか……あの旦那は気まぐれで、いまひとつ頼りねえんだよなあ」
「アムラ公爵家は、お取り潰しとなりやした。ご一族は、辺境の領土に追放されたはずでございやすね」
「そうか。それじゃあ……」と、ガルディルは言いよどんだ。
「……それじゃあ俺は、いったい誰を頼ればいいんだろうな?」
主人はますます気の毒そうな顔になりながら、「さあ?」と首をひねった。
ガルディルは、渾身の力で溜め息をついてみせる。
「まいったなあ。こいつはすっかり、当てが外れちまったよ。これじゃあ王都で孤立無援じゃねえか」
「でしたら、王弟殿下をお頼りになったら如何です? 騎士団長に迎えたいと言い出すぐらいなら、悪いようにはしないでしょうよ」
「王弟ねえ……しかし俺は、騎士団長なんざに収まる気はこれっぽっちもねえからなあ」
ガルディルがそのようにつぶやいたとき、酒場のほうから女の悲鳴が聞こえてきた。
「な、何をなさるんですか、ご無体な! あたしらは、騎士様におとがめされるようなことはしちゃいませんよ?」
「やかましい! ガルディルは、どこだ!」
ガルディルが妙案をひねり出すより早く、敵方のほうが動きを見せたようだった。
酒場の主人はきりっと表情を引き締めて、格子窓を押し開く。
「ここからお逃げくだせえ、ガルディル様! 後のことは、上手くやっておきやすよ!」
「ありがとよ。俺のことはいいから、無茶はしねえでくれ」
迷わず、ガルディルは窓から飛び出した。
飛び出した先は、路地裏である。右手の側から、甲冑を纏った騎士たちが押し寄せてくる姿が見えた。
「いたぞ! 裏に回れ!」
「畜生め。すっかり罪人扱いじゃねえか」
ぼやきながら、ガルディルは逆の側に駆け出した。
メイアは無言のまま、ガルディルの首をぎゅっと抱きすくめてくる。
「心配すんな。この辺りは、俺の庭だからな」
とはいえ、王都の騎士団が表立って追い回してくるなどとは、ガルディルにとっても意想外であった。城門の守衛の様子からして、ガルディルの手配書が回されていることなどはありえないのだ。
(それだけ、なりふりかまってられねえってことか。どうしてそこまで、俺が目の敵にされなきゃならねえんだ?)
そんな風に考えながら、ガルディルはひたすら路地裏を駆け巡った。
追っ手は甲冑を纏っているので、思うように走ることもできないのだろう。「待て!」とがなりたてる声も、じょじょに遠ざかっていく。
そうしてしばらく進む内に、いくぶん開けた広場のような場所に出た。
まだ日が沈むまでには時間が残されているので、ぽつぽつと人の姿も見える。いきなり路地から飛び出してきたガルディルに、そちらの人々のほうが目を丸くしていた。
「さて、どっちに逃げるべきかな。城門のほうは見張られてるだろうし……とりあえずは、中央に向かうしかねえか」
ガルディルは、目ぼしい街路のほうに足を向けようとした。
が、そちらからは騎士たちが出現する。別動隊が、先回りしていたのだ。
「何だよ、手際がいいじゃねえか」
たたらを踏んで、ガルディルは別方向に向きなおった。
しかし、そちらからも新たな騎士たちが飛び出してくる。やがてガルディルが通ってきた路地からも騎士たちが現れると、すっかり退路を断たれてしまった。
「さあ、もう逃げられんぞ! かつての《黒曜の剣王》ガルディル! 我らとともに、来てもらおう!」
騎士のひとりが、凛然たる声をあげる。それを聞いて、ガルディルは小首を傾げることになった。
「へえ。女の騎士様とは、珍しいこったね」
「……女といって私を侮れば、貴殿も痛い目を見ることとなるぞ」
声の主が、ガルディルの前に進み出てきた。
兜の面頬を下ろしているので、顔まではわからない。ただ、兜の縁からは豪奢な蜂蜜色の髪がこぼれ落ちていた。
「《琥珀の剣王》たるレオ=アルティミア・ジェイズの名において、貴殿を捕縛する! 刀を捨てて、投降せよ! さすれば、生命の保証はしよう!」
そのように述べたてて、女騎士は腰の刀剣を引き抜いた。
その刀身は、目もくらむばかりの黄金色の輝きに包まれていた。