1-1 隠遁の剣士
レヴィンの宿場町は、本日もたいそう賑わっていた。
大きな馬車を引く商団の男たちや、頭に草籠をのせた女たち、木の棒を握りしめて追いかけっこに興じている幼子たちなどが、ひっきりなしに行き交っている。それらの煩雑な様相を眺めやりながら、ガルディルはてくてくと街路を歩いていた。
(平和ってのは、いいもんだ)
他人事のように、ぼんやりと思う。事実、ガルディルはこの近在で七年間も暮らしていながら、いまだに余所者としての立場を保持していたのだった。
ガルディルが暮らしているのは、この宿場町の北側に屹立している、ダムドの山の中腹である。そこそこの険しさとほどほどの実りを有するその山の中で、ガルディルは気ままな隠遁生活を営んでいたのだ。
日が昇ったら目を覚まし、ヤギの世話をして、畑を耕す。やっていることは小作の農民と大差ないのかもしれないが、あくまで自分の糧を得るために働いているだけなので、苦労は少ない。ダムドの山は王国の領外であったため、税を納める必要もないのだ。働いている時間よりものんびりくつろいでいる時間のほうが長いぐらいであるので、悠々自適の隠遁生活と言えるだろう。
しかし、山中ではどうしても手に入らない物資が存在する。塩や、薬や、織り布の類いである。そういった物資を調達するために、ガルディルは半月からひと月に一度ぐらいの頻度で、この騒がしい宿場町を訪れているのだった。
「よお、景気はどうだい?」
《黒ヤギのあくび亭》という看板の掛かった食堂の中に入っていくと、馴染みの主人が「やあ、剣士さん」と笑顔で挨拶を返してくれた。
「今回は、ずいぶんご無沙汰だったね。ついに魔獣に喰われちまったのかと心配してたんだよ」
「ふふん。べつだん俺がくたばったって、誰も困りゃあしないだろうさ」
「いやいや、あんたの届けてくれる乳酒とチーズは、うちの店でもなかなか評判だからね。そいつを口にできなくなったら、悲しむ人間も多いだろうさ」
「だったらそれは、俺じゃなくって乳酒やチーズを惜しんでるだけじゃねえか。ま、そんな風に言ってもらえるのは、ありがたい話だがね」
主人と気安く軽口を叩き合いながら、ガルディルは背負っていた荷袋を卓の上に置かせていただいた。ガルディルは銅貨を稼ぐすべを持っていないので、いつもこうして物々交換を願い出ているのだ。
「ご所望の、乳酒とチーズだよ。こいつに見合うだけの塩を分けてくれ」
「また塩だけでいいのかい? たまには麦酒や林檎酒なんかを楽しんでみたらどうだね?」
「そいつは俺には、過ぎたご馳走だ。酒なんざ、手前で作る乳酒だけで十分だよ」
ガルディルが肩をすくめてみせると、主人は「そうかい」と苦笑した。
「それじゃあ、いちおう中身を改めさせてもらうよ。あんたを信用してないわけじゃないけどさ」
「いまさら文句をつけやしないよ。思うぞんぶん、味を確かめてくれ」
革の水筒に封入されたヤギの乳酒を大きな酒瓶に移しながら、主人は味を確かめている。ガルディルがそれをのんびり待っていると、食堂の奥から野卑な笑い声が聞こえてきた。
このように明るい内から、食堂で酒をあおっている輩がいたのだ。商団の用心棒か、あるいは魔獣狩りの賞金稼ぎであろう。腰の刀剣をこれ見よがしに誇示しながら、酒杯を口に運んでいる。人数は、三名であった。
「見ろよ、あの刀。等級外だぜ? あんな刀をぶら下げてる馬鹿がいるんだな」
「ああ。等級外の刀なんざで、魔獣を退治できるもんか。あんなもん、鉄の刀となんも変わらねえや」
魔石を鍛えた刀には、柄の部分に等級が刻み込まれているのだ。しかし、ガルディルの刀にその刻印はない。これは、最下級である四等級の刀をこしらえようとして、それに失敗した、無銘の刀――つまりは、等級外であるのだった。
「……気にしちゃいけないよ、剣士さん。あいつら、ああ見えても三等持ちだからね。それで人数も三人じゃあ、勝ち目がない」
主人が、ひそひそと囁きかけてくる。ガルディルは、せいぜいおどけた顔を作ってみせた。
「若い人間なら、あれぐらいの気概を持ってなくっちゃな。ま、酔っ払いの軽口に眉を逆立てるほど、血の気は多くないつもりだよ」
「だったら、いいけどね」と述べながら、主人はまだ心配そうな顔をしている。
「だけどさ、あんたもせめて、四等級ぐらいの刀は持つべきじゃないかね? ダムドの山だって、魔獣が出ないわけじゃないんだろう? あんたが居座る前までは、そろそろ騎士団が派遣されるんじゃないかって噂があったぐらいなんだからさ」
「いまのところ、こいつで不自由するような魔獣とは出くわしちゃいないよ。七年間も無事に過ごせたんだから、明日からだって大丈夫だろうさ」
へらへらと笑いながらガルディルが応じてみせると、主人は処置なしといった様子で息をついていた。
しかしガルディルは、何の懸念も抱いてはいない。どれほどの魔獣が現れようとも、ガルディルにはこの刀で十分であるのだ。それは慢心や驕溢といったものではなく、純然たる事実であるのだった。
(確かに七年前まで、あの山は魔獣の巣窟だった。あのまま放っておいたらいっそう竜脈が活性化して、騎士団が派遣されることになっていたんだろうな)
それらの魔獣を一掃して、竜脈を沈静化させたのがガルディルであると知ったら、この主人はいったいどのような顔をするのだろう――と、ガルディルはわずかながらに悪戯心を刺激されたが、もちろんそのようなことを打ち明けたりはしなかった。気ままな隠遁生活を続けていくためにも、ガルディルの前身は何者にも明かすことは許されなかったのだった。
七年前、この辺境の地にやってくるまで、ガルディルは王都の『剣王』であったのだ。
剣王というのは、特等級の武具を扱うことを許された、すべての騎士の上に立つ存在である。特等級の武具は聖剣と呼ばれて、この王国ドルミアには三振りしか存在しない。ガルディルはその内のひと振りである《黒曜の聖剣》を授けられた、《黒曜の剣王》であったのだった。
(……べつだんそれは、人に自慢したくなるような話でもないしな)
ガルディルはわけあって、幼き頃から剣士として鍛え抜かれた身であったのだ。誰だって、あれだけの修行を課せられれば、いっぱしの剣士に育たざるを得ないだろう。それは、人間としての幸福を引き換えにしたような、苦悶に満ちた日々であったのだ。
そうして手中にした剣士としての力でもって、ガルディルは二十歳という若さで剣王の称号を得ることになった。特等級の聖剣を授けられ、来る日も来る日も竜人族や魔獣を相手に刀をふるうことになった。聖剣の力というのはやはり凄まじいもので、どれほどの敵が相手でも、ガルディルが遅れを取ることはなかった。
そういった戦いの日々に、嫌気がさしたわけではない。血反吐を吐くような幼少期に比べれば、むしろ安穏としていたぐらいだろう。自分が力を尽くすことで、大勢の人間が救われる。そういったことに、喜びや充足感を抱いていないわけでもなかった。ガルディルはガルディルなりに、剣王としての使命を果たそうと、日夜奮闘していたつもりなのである。
が、他の剣王は、そうではなかった。ガルディルを除く二人の剣王たちは、王宮内の権力者たちにへつらって、ガルディルよりも遥かに安穏とした生活に身を置いていたのだ。
権力者たちにとっても、剣王の存在は己の権勢を誇るための証でしかなかったのかもしれない。ガルディルが辺境区域にまで出向いて討伐の任務に励んでいる間、彼らはたいてい剣王たちを手もとに置いて、王宮内の権勢争いに励んでいた。領民の安全よりも、自分の富や名声のほうが重要である、と彼らは考えていたのだろう。
もちろんガルディルは、そういった者たちを羨んでいたわけではない。王宮内の頽廃的な空気は肌に合わなかったし、名誉や財産といったものにも、それほどの魅力を感じることはなかった。というか、剣王としての勤めを果たすだけで、十分な褒賞ややりがいを得ることはできたのだ。品性の欠落した王族や貴族を相手にするぐらいなら、辺境の領土で竜人や魔獣を相手にしていたほうが、まだしも気は安らぐぐらいだった。
よって、ガルディルは彼らのことを忌避したりはしていなかった。
彼らのほうこそが、ガルディルを忌避していたのだ。
王宮内のどの派閥にも属さないガルディルのことが、目障りであったのだろう。いつか敵対する派閥にガルディルが抱き込まれてしまったら――という不安もあったのかもしれない。何にせよ、ガルディルの存在は多くの権力者たちにとって、目の上のこぶであったのだ。
その結果として、ガルディルは剣王としての座を返上することになった。
きっかけは、とある領地を巡る攻防戦において、多大な被害を出してしまった一件である。『レミアムの悪夢』として語り継がれることになったその戦いで、王国は数百名もの領民を失うことになったのだった。
その責任を、ガルディルが取らされた。
最初から、三名の剣王をすべて派遣するべき案件であったのに、ガルディルと申し訳ばかりの騎士団だけが派遣されて、多くの被害を出してしまったのである。レミアム領の領民などは、ほとんど半数近くが生命を失うという惨状であった。
いまにして思えば、それはガルディルを陥れるための罠であったのかもしれない。その真相は不明のままであるが、ガルディルはひとつの真実を見出していた。
(ここは、俺の居場所じゃない)
何かが、すとんと腑に落ちた心地であった。
ガルディルを失脚させるために領民を見殺しにしたのであれば言語道断であるし、そうでなかったのなら、敵の戦力を正しく判断することもできない無能の極みだ。そう思い至ることによって、ガルディルの中の王政に対するなけなしの忠誠心は、木っ端微塵に砕け散ってしまったのだった。
そうしてガルディルは、彼らが望む通りの言葉を口にして、望む通りの行いを果たした。剣王の座を聖剣とともに返上し、王都を出奔したのである。
そのときの解放感は、言語に絶する清々しさであった。
というか、ガルディルはいまだにその解放感の余韻にひたっているようなものだった。
魔獣や竜人など、自分の手の届く範囲に出現した分を斬り伏せればいい。それが、分相応というものだ。風の吹くまま気の向くままに、その日その日を生きていく。ガルディルは、そういった暮らしに本当の幸せというものを見出した気分だった。
二十歳で剣王となり、二十五歳で王都を出奔し、気楽な隠遁生活に身を置いて、七年――ガルディルは、すでに三十二歳となっている。きっともう、人生の折り返し地点ぐらいは過ぎていることだろう。残り半分の人生も、こうして気ままに過ごすことができれば、ガルディルとしては本望だった。
「……うん、今回もいい出来みたいだね。それじゃあ、こいつは約束の塩だよ」
卓の上に、どさりと大きな包みが置かれた。ガルディルはそれを荷袋に詰め込んで、主人に笑いかけてみせる。
「ありがとさん。それじゃあ、また半月かひと月後にな」
「ああ。あんたがくたばらないことを祈ってるよ」
ガルディルは、《黒ヤギのあくび亭》を後にした。
太陽は、ずいぶん西に傾いている。今日はちょっとのんびりしすぎたようだ。往来を行く人々の間をすり抜けて、ガルディルは帰路を急ぐことにした。
(あんたたちも、お元気でな)
名前も知らない行きずりの人々に心中で呼びかけつつ、ガルディルは細い路地から宿場町を抜けた。
町の北側には鬱蒼とした雑木林が広がっており、これがダムドの山の入り口となる。ここから先は、ガルディルの他に足を踏み入れようと考える人間も存在しないだろう。魔獣が出現する限り、そこは人間の領土たりえないのだ。
(言ってみれば、この山すべてが俺の庭みたいなもんだ。そう考えれば、たいそう贅沢な話じゃないか)
ガルディルはそのように考えながら、そこそこの険しさを持つ山の中へと踏み入っていった。
そうして歩を進めるほどに、いよいよ日は傾いていく。足もとは、ガルディルぐらいしか通る者のない、獣道だ。しかし、七年も通った道であるので、不安もない。騒々しい宿場町も嫌いなわけではなかったが、野鳥のさえずる山の中を歩いていると、えもいわれぬ清涼感がガルディルの心を満たしていった。
(やっぱり俺は、ひとりでいるのが性に合ってるんだ)
この近在にガルディルの名を知る人間はいないし、ガルディルが名を知る人間もいない。人里に下りるのは半月かひと月にいっぺんで、言葉を交わす相手はごく限られている。それでも、ガルディルが孤独感に苛まれることはなかった。
もっとも、ガルディルがこの地に骨をうずめることにはならないだろう。このダムドの山にはぞんぶんに竜脈が通っているので、いずれは瘴気に包まれてしまうことが目に見えている。ガルディルの処置によって七年ばかりは延命されることになったものの、もう数年もすれば限界を迎えることになるのだ。そうしたら、ガルディルは嫌でもこの地を去らなければならなかったのだった。
しかし、ガルディルはべつだん思い悩んだりもしていない。この地を去らなければならないのなら、またどこかに新しい住処を探すだけのことだ。そういったことまでひっくるめて、ガルディルは気ままなその日暮らしを満喫していた。
(今日の晩飯は、何にするかな。イタチの肉は食い尽くしちまったけど、チーズはたっぷり残してあるし……そいつをスープと一緒に窯焼きにすれば、上等か)
ほどよい空腹感までもが、ガルディルの生を彩っているかのようである。
そうして、我が家までの道のりも残り半分――といった辺りで、ガルディルは足を止めることになった。
ひとつ小さく息をついて、背中の荷袋を抱えなおす。それから、ガルディルは獣道すら存在しない茂みの中へと突き進んでいった。
(けっこうな瘴気だな。また竜脈が活性化したのか?)
ならば、出現した魔獣はすみやかに討伐しなくてはならない。そうしないと、この平和な山もあっという間に魔獣の領土と化してしまうのだ。
ガルディルは剣士としての感覚に従って、ずかずかと歩を進めていく。
どれだけ気配を殺そうとも、魔獣が相手では意味がないのだ。いっそ、向こうから襲いかかってきてくれたほうが、話が早いぐらいだった。
そうして、いよいよ瘴気が濃厚に匂いたったとき――
闇の中に、赤い眼光が閃いた。
「お前……お前は、人間か……?」
くぐもった女の声が、薄闇の中に響く。
ガルディルは、心底からぎょっとした。
人間の言葉を発する、魔なるもの――それはすなわち、魔獣よりも厄介な竜人族である証であるのだった。