あるふたりの朝
樹々を吹き抜ける朝の風は涼しく、新鮮な香りがする。
私は木の幹にもたれかかって、本を読んでいた。照りつける陽光はまだそれほど強くはなく、明るく本のページを照らす。こうして本を読むのが、去年までのここに来たときの私の習慣だった。
私は本を閉じて、厚佑の方を見た。
「ねえねえ、厚佑、川辺で遊ぶのそろそろやめて、早くこっち来てよ!」
私が坂の上から厚佑を呼ぶと、彼は振り返って、「今行く!」とよく響く声でこたえた。
その日の厚佑は、いつになくかっこよかった。少し染めているであろう髪が朝の日差しに輝き、やわらかく目元にかかっていた。涼しい季節だったけれど、厚佑はシャツに薄めのカーディガンをはおっていて、ジーンズは、ベルトできつめに結ばれていて、すらりとした身体つきが見えるようだった。
厚佑は、軽い身のこなしで、坂を登ってくる。流れてゆく小川の水面の光が、まるで彼がそれを背負って届けてきてくれるかのように、彼の背後にぼんやり輝いていた。私はそんな錯覚に陥り、胸の中にささやかな喜びが芽生えるのを感じた。
坂を登りきったとき、厚佑は少し息が切れていた。そして、ふざけて私の前にばったりと倒れこんで、「あー…疲れた」とつぶやいた。
「あはは!厚佑、部活やめてから、ちょっと体力落ちたんじゃない?」
私は笑って言った。厚佑は寝転んだまま私の方へ目を向けて、くすっと笑った。
「…お前、全然変わってねえな!」
厚佑はそう言って、優しい笑顔を見せた。
厚佑はあおむけに寝転んだまま、すっと目を閉じた。
長めのまつ毛に、やわらかい木もれ日が照りつけ、さいさいと音を立てながら、パステルカラーの斑点が厚佑の顔の上をころがってゆく。そういえば、厚佑はよく、大好きな音楽を聴いているときに、こういう顔をしてたっけな、と私はやっと思い出した。
「うん、あれから一年経ったけど、私は全然変わってないよ。でも…」
私は寝転んでいる厚佑の横に腰を下ろした。厚佑の静かな息づかいを感じる。
「ん?」
「…厚佑は、変わっちゃったよね」
厚佑はフッと鼻を鳴らして、ククク…と笑い始めた。
「私なんか面白いこと言った?」
「いやー、ごめんごめん。…なんで俺が変わったって?俺、全然変わってないよ?」
厚佑は、まるで私に確認を促すみたいに、私の方を見上げた。ちょっといたずらっぽい、丸くて大きいひとみが私を見る。そのひとみをじっと見つめて、何かを感じ取ろうとしたけれど、なんだか妙に疲れてきて、目を反らしてしまった。
「そういえば、厚佑は今どこに住んでるの?」
「今は東京だよ。でも、来期からアメリカに留学するから、英語の勉強と、手続きとか準備が忙しいんだよな…」
そう言って厚佑は身体を起こして、伸びをひとつしてみせた。
「すごいね。この前、国際協力のボランティアで東南アジアに行ったって言ってたのに、今度はアメリカに留学かぁ。…本当、変わっちゃったんだな、厚佑」
「そんなことないよ。俺、バスでこの山登ってくるとき、景色全然変わってないなーって思って。…いや、そりゃあさ、最初はちょっといつもと違う俺を見せてやろうかなーって思ってたんだけど、全然変わらない景色見てたら、去年と同じようにバスで登って行ってる気がして…えっと、それで、感情まであのときのままになった気がしてさ。…すごく不思議な感じがしたよ」
「不思議なんじゃないよ。忘れちゃったんだよ。」
「分かんないな。でもさ、東京に出てみて思ったんだけど、都会に住んでるとさ、自分の居場所がないと言うか…ときどきわけもなく寂しくなることがあるんだよな。」
「そう。だから、わざわざこんな季節に帰ってきたの?」
「おい、もうこんな辛気くさい話はやめようぜ。昼にはもう俺たち別れないといけないんだからさ。…そういえば、祐大は今日なんで来られなかったんだ?」
「午前は試験があるから来られないって。私も午後から授業あるんだけど」
「そっか。あーあ、また一緒に下校したときみたいに、いつもの3人でここで遊べたら楽しかっただろうな!」
地面は、積もった落ち葉ですっかりいっぱいになっていた。前までは私たちが掃除をして綺麗にしていたが、去年から掃除する人がいなくなってしまったのだ。涼しい風が林の木を揺らしてざわざわという音を立てた。それはまるで、遠いどこかで私たち3人が笑いさざめく声のようだった。
「ねえ、厚佑は今日いつまでいられるの?」
「んー…夕方には帰らないと。」
厚佑はそう言うと、1人で駆け出し、木に登った。厚佑はここに来たら、木に登るのが好きだったのだ。
彼は器用に枝を踏み替えながら、すいすいと登ってゆく(私が「猿みたい!」とからかうと、彼はたいてい怒りだすので言わない)。それで、高い所の一番太い枝に座って、「おー、湖が見える!」などと、子どもみたいにはしゃぐのが常だった。
「おーい、お前も登ってこいよ!めっちゃ景色綺麗だぞ!」
「えーっ、無理だよ!前までは登れたけど、私最近全然運動してないから無理だって!」
「大丈夫大丈夫、俺の言う通りに登ればここまで来れるから!」
私は彼を見上げた。昼に近づいた強い陽光が木のてっぺんから鋭く照りつけてきて、まぶしくてほとんど彼が見えなかった。
「まずそこに右足かけて…そうそう、で、そこをつかんで左足を…」
私は、ゆっくりと、あの木のてっぺんの太陽へ近づいていく。この木も成長したのか、かつて登ったときよりも凸凹が大きくなって、太くがっしりしているみたいだった。
太陽が強く私の顔に照りつけ、肌にうすく汗がにじむ。
私が厚佑のいる枝まで来ると、厚佑は私の腕をつかんで枝まで引き上げてくれた。
「わぁ、綺麗…」
木の上は、澄んだ空気が渦を巻いているみたいで、周り一面が青空になった。見下ろすと、私たちがかつて通っていた学校、深い藍色の湖、みどりの山の稜線など、絵のような景色が目に飛び込んでくる。
私は久しぶりに登ったのですこし怖くて、厚佑に寄りかかる格好になって、風景を眺めた。
「今日、本当晴れてよかったよな。…すげえ久しぶりにこの景色見たよ。やっぱり、何も変わってないんだよ。この景色も、…今これを見てる、俺たちも」
「な?」と、厚佑は私に微笑みかけた。私は、景色を見つめたままだったので、私の手の上にぽん、と厚佑が手を置いてきたことにも、しばらく気がつかなかった。
私が見ているこの景色は、高原地方特有の美麗があって、前と変わらない姿のままだ。
だから、私と厚佑の感情も、すべてこの景色の中に求めてみたかったけれど、ある種の胸のつかえが、それを許さなかった。
私と厚佑は、本当に変わっていないのだろうか?
私は、ぼんやりとした心持ちのまま、親に許しを乞う子どものように、厚佑の顔を上目遣いに見つめる。
厚佑の頬の線が、去年よりもわずかに細くなった。肩の質感もすこしがっちりとして、口元にも、力強さと余裕を感じさせる影があった。記憶の中にある厚佑の姿とは違ってしまっていて、それを思い出すのに時間を要するくらいだった。私の胸の中に言いようのない暗い波が立った。
「そういえばさ、お前ってその後たまに誰かとここに来て遊ぶことあんの?」
「ううん、無いよ。…私も、ここに来るのは一年ぶり。最後に来たのは…あの…」
「…確か、去年の秋に俺と2人でここに来たのが最後だろ?それから、勉強忙しくなったし、3人とも志望校違ったしで、なんだかんだで行かなくなっちゃったんだよなぁ…」
「…うん」
「…ところでさ、なんで、最後の一回だけ祐大を誘わなかったの?」
林のどこかで、鳥のさえずる声がした。
すでに太陽は高くかかり、眼下に広がる林にも陽光が照り注いで、熟れた樹々の色彩が一気に濃く、鮮やかに輝きはじめる。
「…別に。なんか祐大は勉強忙しそうだったし、たまには2人で行くのもいいかなって思っただけ。」
私は暇をもてあました子どもみたいに、すこしうつむいて、両足をぶらぶらさせた。
「そっか…なんか、話があったんかな、って勝手に思ってた」
「…うん」
厚佑は「あーあ、なんか眠」と言って、私の方に軽く寄りかかってきた。厚佑の髪と、息づかいと、あたたかい肩とが私に触れる。
「…最後の日さ、日が暮れるまでずっとここに座って景色眺めてたよな。こうして一緒に景色見てると、今もそうなんじゃないかなって気がして…本当変わってないんだよ、俺たち…」
「もしも変わってないなら、…私、今日の朝駅で厚佑を迎えたとき、あんなに違った印象を覚えることはなかったと思うの。」
「違った印象?」
「私気づいたよ。去年と、雰囲気が全然違ってた。だから、私ちょっと困惑してた」
「おいおい」厚佑はまたククク…と笑う。「変わってないったら。だってもしここに祐大がいたら、本当にさっき授業が終わってここで遊んでるような、そんな感じになるだろ?」
「ううん」私は首を振った。「厚佑、彼女できたんでしょ」
厚佑は私に身体を寄せたまま、しばらく何も言わなかった。顔を見ると、眼はしっかりと見開かれていて、震えるでもなく、むしろきょとんとした顔をしていた。
「…ああ、できたよ。同じ大学の子。海外ボランティアで一緒になって、それで、…俺の方から告白した」
「…そう」
「…でもさ、俺の感情は変わってないよ…な、分かるだろ?…最後の日から、今までずっと、俺の感情は変わってないんだよ…」
「…意味分かんない」
最後の日?その日私はどういうつもりで厚佑と2人きりでここに来たのだろう?もしもそこで、なにかあたたかい、特別なことばが交わされていたなら…ちょうど厚佑の言うように、この景色も感情もすべて、変わらないものになっていたとでもいうのだろうか?…
私と厚佑は、並んで座ったまま、何も言わずに、こののどかな風景をずっと眺めつづける。
「あ、やばっ!」
私は、腕時計を見て声を上げた。12時過ぎのバスに乗ってふもとの大学に戻らなければならなかったのだ。もうあまり時間がない。
「うわ、もうこんな時間じゃん!こんなとこでダラダラしてる場合じゃなかったな。急いで降りよ!」
「厚佑はどうするの?」
「このあと祐大に会うから、道路に出る道のところでお別れだな。明日学校に出なきゃいけないから、今日の夕方にはもう帰らないと。」
「忙しいんだね、厚佑」
私と厚佑は木を降り、林の中を走る。
かつて私たちが遊んだ場所を走り抜けてゆく。リンゴ園、古びた橋、使う人のいない休憩所…そんな私たちを知らぬげに、小川は無邪気な光を照りかえしながら、ゆっくりと流れている…
「よし、たしかここが分かれ道だよな。お前は、道路に出る方だからこっち。俺は祐大のいる学校に行くから、こっち」
「うん!」
「…えっと…」
「?」
「いや、なんでもない!てか急がないとな!じゃーな、授業頑張れよ!」
「うん、ばいばい!」
厚佑はにっこり笑って、走っていった。
くしゃくしゃと、厚佑が枯葉を踏みしめる音が遠のいてゆき、やがて聞こえなくなった。
あわただしかった。
私も、道路に向けて歩き出した。…急ぐことはない、急ぐことはないんだ、私は自分にそう言い聞かせたけれど、自然に足早になっていく。
秋の風が、ひどくほてった私の頬を吹き抜けてゆくのが、なんだか妙に心地よくて、冷たかった。