第3講 国際分野 戦後国際政治歴史2
第3講 国際分野 戦後国際政治歴史2
この項目のテーマ
軍縮の流れ
各条約の発行状況と未批准国をチェック
地域紛争
パレスチナ紛争とユーゴ紛争の経緯を把握しよう。
日本の戦後外交
ソ連 韓国 中国との国交正常化の動きをおさえよう。
軍縮の流れ
あらかじめ行ってく。 此のテーマは覚えなくてはいけない事項が多いので頑張ってほしい。ただやみくもに年順に覚えていこうとする必要はない。
主題ごとに生理していけば自然と頭にはいっていくだろう。
ではまず核軍縮の歩みからみていこう。
世界的な核軍縮の動き
第五福竜丸事件1954 原水爆禁止運動
ラッセルアインシュタイン宣言 1955 パグウォッシュ会議 1957
半核運動 米ソの歩み寄り
部分的核実験禁止条約 PTBT 1963 年に米 英ソが調印
拡散防止条約
NPT 1968年に62か国で調印
第二次世界対戦が終わって核兵器の実態が明らかになってくると世界では反核の世論が高まっていく。 とくに日本は対戦で被爆国となっただけでなく 戦後10年近くたったアメリカによる水爆実験で再び犠牲者絵欧ンでしまい第五福竜丸事件これが原水爆禁止運動のきっかけとなった。
ちなみに此の事件の背景似なって生まれ映画がゴジラだ。
またラッセルアインシュタインの反核共同声明に雇用する形で科学者の反核運動バグウィッシュ会議が生まれた
米ソ両国はきゅーば危機で冷や汗をかいたともあり 講した反核運動の盛り上がりを背景西田核開発競争の緩和と舵ヲきる。 これが部分敵核実験禁止条約 PTBTだ。
部分敵核実験禁止条約 PTBT
大気圏内 宇宙空間 水中での核実験ヲ禁止 地下核実験は可
1963年に米 英 ソが調印 フランス中国は未加盟
調印したのは アメリカイギリス ソ連の3か国 米ソ二か国
でもないし 国連総会で採択 でもないからね。
あとは地下核実験がぬけあなになっていることとフランスと中国がこれに加わっていないとうことがポイントだ。
拡散防止条約 NPT
核保有国 核兵器の譲渡禁止 誠実な核軍縮交渉の実務義務
非核保有国 核兵器の製造 取得 の禁止
国際原子力機関 LAEA によるっ核査察の受け入れ義務
1968 年に62か国で調印1995年に無期懲役延長が決定
非加盟国 脱退国への対応が課題
イスラエルインド パキスタン 北朝鮮 核拡散防止条約 NPTは非核所有国が新たに核所有することヲきんじるもので非核保有国には国際原子力機関 LAEA による
核査察の受け入れが義務ずけられる。 しかし此の条約は核所有国による核独占ヲ公認するものであるうえ条約非核名国にはそんな拘束力もないので例えば事実上の核所有国とされるインド やパキスタン 反れにイスラエルといった非加盟国や北朝鮮のように 2003年にこの条約から脱退してしまったくにに対しても無力だ
包括的核実験禁止条約 CTBT
原発ヲともなうあらゆつ核実験ヲ禁止 未臨海核実験は可
1996年に国連総会で採択
米 中 印 ぱなどが 未批准 未発行
核保有国および核開発能力をもつ44か国の批准が発行条件
包括敵核実験禁止条約 CTBT はPTBT ヲ発展させたもので爆発を伴うあらゆる核実験が禁止されている。 地下核実験もダメ ただし未臨界核実験が抜け穴として残るしアメリカ中国やインドパキスタンなどが批准していないためにそもそも条約として発行していない。これが冷戦終結後の条約だということも留意しておこう。
ポイント 核軍縮条約
部分的核実験禁止条約 PTBTは地下核実験な受任
核拡散防止条約 NPT は条約非加盟国に拘束力なし
包括敵核実験禁止条約 CTBT はいまだ未発行
さて核軍縮に関して鍵をにぎるのはなんといっても世界の核兵器の大半を所有するアメリカとソ連ロシアだ。
ここでこの2国間の核軍縮の動きをみてみよう。
米ソ 米露 間の核軍縮
戦略兵器制限交渉 SALT 核兵器保有の上限を設定
SALT 1 1972 発行
SALT 2 1979 発行せず ソ連のアフガニスタン侵攻
中距離核戦力 INF 全廃条約 1987
米ソ間で合意されたはじめての軍縮条約 相互査察をも規定
戦略兵器削減交渉 スタート 戦略核兵器の削減を義務ずけ
SYART 1 1991年に調印 1994年に発行
START 2 1993年に調印 発行せず
まずはSALTとSTARTをしっかり区別しよう
1970年代デタント期におこなわれたのが戦略兵器制限交渉 SALTだ。 ポイントはこれが戦略兵器 について制限をかける交渉であるということだ。 だからこの交渉をもとにつくられた条約では核の削減がおこなわれたわけだはない。
これにたいしてSTARTの方はゴルチョフ登場以来の1990年代の動きで削減野多目のこうしょうだ。 いずれも二つ目の条約は発行しなかった。
なお2009年にオバマ米大統領はプラハで核なき世界を目指すと宣言も発表し2010年にロシアのあいだでSTSRT 1を継承する、
新START を調印している。 2011年に発行
冷戦後の同行として注意することなどありますか。
冷戦後に行われた核実験として1996年のフランスと中国それに1998年のインドとパキスタンさらに2006年2009年の北朝鮮を押さえておきたい。また冷戦後は旧ソ連の核管理等が不安しされテロ組織や政情不安な国家への核の流失拡散が国際的似大きな懸案となっている。
それから核兵器以外の軍縮条例としては以下のようなものがある。
生物毒素禁止条約以外はみな冷戦以後のもとで冷戦終結後似軍縮のうごきが多用に進められてきたことがわかるよね。
そのほかの軍縮関連条約
生物毒素 兵器禁止条約 1972
科学兵器禁止条約 1997
対人地雷の生産販売しよう等の禁止 加盟国には10寝ンいない似全面廃棄義務
対人地雷全面禁止条約 1997
対人地雷の生産販売しようを禁止 NGO の主導で成立
別名オタワ条約 米 中 露などは未署名
クラスター爆弾禁止条約
クラスター爆弾の開発 製造 しよう などを禁止
NGO 主導だ。
成立別名オスロ条約
対人地雷全面禁止条約は非常似重要だよ、 対人地雷は兵士岳でなく民間人をしかも戦争終結後似も殺傷してしまう非人道的なもので今日でもカンボジアやアフガニスタン等世界中で1億以上が眠っているとされる。
しかし安いわりに効果的な兵器だから軍人大国はその廃絶似消極的だ。 そこおでNGOの集合体である。 地雷禁止国際キャンペーンが動きこれに参道したカナダ政府と協力し全会一致の軍縮交渉機関であるジョネーブ軍縮会議の場でなく参道諸国だけで条約をとにかく発行させるという手段といった オワタ プロセス こうなると最初は消極的立ったくに揉むしできないよね。 結果として日本なども批准した いまだけ背をうけつずけているのがアメリカ 中国 ロシアなどだ。
第五のクラスタ爆弾禁止 条約禁止条約も重要だね。
クラスター爆弾 クラスター弾 収束爆弾とは数百の賞爆弾地雷を内蔵した兵器だ。地雷と同じく無差別的兵器であるがゆえの非人同姓が問題になりこれまた同様にNGO主導のオフロプロセスによって条約成立に至った。
発行は2010年
オワタとオスロまちがえないようにね。 オワタはカナダオスロはノルウェーだよ。 もちろんアメリカ 中国 ロシアなどは批准も署名していない。こまったもんだ。 あと比較的阿多らしい動きとして非各地帯条約についても知っておきたい
地域内での核兵器の製造や実験 保有等を禁じているという趣旨だ。みたのとおり残念ながら東アジアには存在しない。
非各地帯条約
中央アジア非核兵器地域条約
セミバラチンスク条約
ラテンアメリカ 核兵器禁止条約
ララテロトルコ条約
東南アジア非核兵器地帯条約
南太平洋非核兵器地帯条約\テロトンガ条約
アフリカ非核兵器地帯条約
べりんだは条約
非各地域条約は名称間でごりごり覚える必要はないけど東アジアには存在して以内という点はきっちりと覚えてお香う。
地域紛争
第二次世界対戦後におこった最大の戦場は挑戦戦争とベトナム戦争 だがこの二つの性格とすると次に重要なのは中東戦場 パレスチナ問題 だ。 1948年イスラエル建国から今日に至るまで線かが絶えず大きな戦争だけで4買いも起こっている。
パレスチナ問題の構図
アメリカイギリス 支援 イスラエル
ユダヤ人 ユダヤ今日衝突 アラブ勢力
PLO+アラブ諸国
イスラーム教
1947 国連 パレスチナ分割決議
1948 イスラエル国の建国宣言
第一次中東戦争
1956 第二次中東戦争 スエブ戦争
1964 パレスチナナ解放機構 PLO 結成
1967 第三次中東戦争
1973 第4次中東戦争
1993 パレスチナ暫定自治協定
オスロ合意
2003 中東和平構想 ロードマップ
2006 パレスチナでハマス政権強硬派成立
ハスマvsファタハ穏健派
の対立激化
そもそもパレスチナってなんですか
パレスチナとは土地の名前だ。 現在のイスラエルのあるところと考えていい。 旧約聖書によるとこの土地派ユダヤ人が神からさずかっていた土地だとされる ローマ帝国の迫害 IC によりかれらは祖国を失いそれから約2000年間世界対戦後の1948年に国連決議にもとずき 悲願立ったイスラエル国が建設された。
でも そこにはすでに2000年近く生活を営んで来たパレスチナ人がいる。
彼らはイスラーム教を侵攻するアラブ人だ。 周辺のイラク人 シリア人エジプト人らと同様 突然ユダヤ人からでていけといわれたもんだから戦争になってしまった
戦ったのはエジプトやイラクなどアラブ諸国だ。
しかし結果としては何度戦ってもイスラエルには勝ってなかった。 英米が支援しているし イスラエルは戦争にめっちゃめっちゃ強い。
これではすむ土地と家を失ったパレスチナ人がかわいそうだということになり国連なども乗り出してようやく成立した平和案がパレスチナ暫定自治協定 オスロ合意だ。 ヨルダン川西岸地区とガザ地区にパレスチナ暫定自治政府をつくり将来的なパレスチナ国家の樹立を目指すという内容をイスラエルものだ。
それでイスラエルの人たちとパレスチナ人は和解できたんですか
残念ながら まったくできていない。 自治がいっこうに進展しないことに苛立つパレスチナ人の強硬派は自爆テロを繰り返すしそれにたいしてイスラエルは容赦なく空爆をしかける。そんなことがずっとつずいているんだ。
ユーゴスラビア問題
1991 スロベニア クロアチア アケドニアが連邦から独立
1992 ボスニア=ヘルツェゴビナ紛争
1998 コソボの独立宣言にセルビアが介入 コソボ紛争
にたいしてNATO軍が介入する。
旧ユーゴスラビア問題も非常に複雑だ。
最初に押さえておきたいのはここはもともと人種的にも民族的にも文化的にも単一国家を構成するにはかなり無理のある連邦国家だったということだ。 だから冷戦が終結するとたちまちばらばらになってしまった。
それを阻止しようとしたのが旧ユーゴ盟主であったセルビア共和国だ。
というわけで統一をい塩しようとするセルビアと独立を目指す各国の対立というのが旧ユーゴ問題の基本的な構成だ。
ボスニア=ヘルツェゴビナ共和国もまた分離独立も宣言した。1992 わけたがこの国自体が多民族国家で多数はのモスレム人 イスラム系でも44%しかおらずセルビア人が33%が閉めていた。くろちあ人も17%いる
彼らが三つ巴になって泥沼の先頭に突入してしまったんだ。
ボストニア=ヘルツェゴビナ紛争1984年の冬季オリンピックが開催された美しい都市サラエボは廃墟となり民族浄化と呼ばれる大量虐殺が行われたと伝えられている。でも一番強かったのはとなりに本国を抱えるセルビア人だったのでNATO画人道的介入としてセルビア人勢力への空爆を行った。 こうなるともう勝負ありで1995年に停戦が実現しボスニア=ヘルツェゴビナの独立は達成された。
旧ユーゴ紛争の第2ラウンドがコソボ紛争だ。コソボは
旧ユーゴを構成していたほっかの共和国とちがい もともと セルビア共和国内の自治州だった。
ところが1989年に自治権が剥奪され反発したコソボ側は独立を宣言する。
あとの流れはボスニア=ヘルツェゴビナ紛争と大体同じで1998年からセルビア側が介入して相当作戦を展開したのにたいしてNATO軍が介入し
1999年セルビアへの空爆を行う。
旧ユーゴのうちセルビアと最後まで運命をともにぢていたのがモンテネグロだったがこの国も2006年に国民投票により連邦からの独立を宣言し国連にも加盟した。 ここに旧ユーゴスラビアの解体は完了したんだ。
その他の地域紛争については章末のスキルアップを参照してね。
上記以外の地域紛争については末尾をみてね、
日本の戦後外交
第二次世界対戦で負けた日本はいかの三つの指針のもとで平和国家としての再出発を目指すことになる。
の国連中心主義は戦前に国際連邦を離脱したことを反省し新憲法に歌われている国際強調主義を具体化した考え方だ。3のアジアの一員というのも同様だね。 ところが2は少し経路がちがう自由主義というのは資本主義と同じ意味で冷戦にさいして西側陣営にみかたしめすよといっているのと同じことなんだ。 この選択はやむえないものだったかかもしれないけど戦後の外交しを少し複雑なものに対していくことになる。
日本の国際社会への復帰
1951 サンフランシスコ平和条約 主権回復
西側諸国との片面講和 同時に日米全保証条約を結び西側の一員に
1965 日韓基本条約
韓国を朝鮮半島唯一の合法政府 と認定
1972 日中共同声明 日中国交回復 台湾との国交断絶
1978 日中平和友好条約
日本の国際社会への復帰は1951年に調印して翌年発行したサンフランシスコ平和条約によってはたされる。 これで日本は敗戦国としての占領状態から主権を回復できたんだけど この条約は全体戦国との講和条約ではなく
ソ連や中国などをのぞいた片面講和だった。
また同時に国軍の継続駐留を認めた日米安全保証条約を同時に結ぶなど西側の一部として組み込まれていく大きな一歩でもあったんだ。
東側陣営との和解はどう進むんだの。
まず自民党初代総裁の鳩山一郎政権になって日ソ共同宣言がだされた。
これによって日ソ間の戦争状態の終結が確認され国交が正常化するとともに国連連合への加盟も可能になった。 ただし平和条約の締結が今後の課題とされたが国後島や択捉島など北方領土問題の対立がとけないため今日にいたるまで現実していない。
日本が植民地支配をした朝鮮半島では1948年に東西両陣営がそれぞれ支援する二つの政府が誕生してしまいいずれも朝鮮半島唯一の政府を名乗った今日までこの事態は変わっていない。 いずれも」北朝鮮島唯一の政府を名乗った。今日までこの事態は変わっていない。そこで日本政府は苦しい対応を迫られたわけだが結論としては1965年に大韓民国を唯一の政府と認められる。
日韓基本条約をむすんだ。 これによって北朝鮮朝鮮民主主義人民共和国とのあいだには国交が存在しないけ状況が固定してしまい今日の北朝鮮による拉致問題やミサイル問題などでも交渉の手だてがすくないというのが現状だ。 なお韓国とのあいだでは韓国が実行支配する
竹島 韓国名 独島をめぐる領有権で争いがある。
北朝鮮問題
1970年代から80年代にかけて北朝鮮は工作員のてで日本人をすくなくとも十数人拉致してきたと見える。それまで北朝鮮はここの問題をみとめてこなかったが小泉首相が2002年に北朝鮮を電撃訪問し 拉致をみとめさせるとともに 国交正常化に向けた交渉宣言し2006年2009年2013年には核実験を強行し交渉は暗証にのりあげている。
北朝鮮の各問題をめぐっては2003年に北朝鮮がNPTからのだったいを宣言したことをきっかけに 北朝鮮中国ロシア韓国日本アメリカで6カ国協議が継続的におこなわれている。
中国とのかんけいはどうなったんですか。
日本は中国とのあいだで戦争をしていたよね。 ところが日本が講和条件を結んだ相手は中国本土を支配する共産党の中華人民共和国でく 国民党の台湾政府 中か人民虚空だった。 1952年のにっか平和条約
国民党と共産党は中国本土と台湾がいったいのものだ。 一つの中国論という前提を共有しつつ お互いに自分たちが中国を代表する唯一の政治だと主張しているんだ。 でもちいさな台湾党の政権が全中国を代表すると考えるのはさすがに無理があるよね、 そこで1972年田中角栄の内閣の時に日中共同生命がだされ北京政府こそが唯一の中国政府だと認められて国交正常化した、
このシンボルとして中国からパンだが送られた これをさらに具体かしたのが1978年の日中平和友情条約 共同声明と平和有効条約を混同しないようにね。
なお近年では日本が実効性支配する尖閣諸島の領有件問題をめぐって日中両国間で緊張関係がつずいている。 2012年にはそれまで私有地立った昇格初等を日本政府が買い上げて国有化したため不当支配の強化だとして中国側が猛反発し中国で大規模な半日でもが起こって日経商店が略奪されるなど日中関係が曲独活に悪化した。
スキルアップ 5
近年の主な紛争
1 カシミール紛争
1947年にインドとパキスタンの両国が分立独立を果たしたとき以来の領土紛争 インドがヒンドゥー教パキスタンがイスラム教という宗教対立が背景にあり3次にわたる戦争がおこなわれたほうが1998年にには両国がともに核実験をおこない緊張がたかまった、。
東ティモール紛争
もともとポルトガルの植民地であったが 独立後の1976年にインドネシアが侵攻合併した。以来独立運動がつずけられてきたが1999年に民主投票で独立支持はが勝利しPKOの監視かで2002年に正式に独立し 同年国連にも加盟した。
チェテェン紛争
イスラエル系住民が多いことからソ連崩壊のさいにロシア共和国が津好き武装勢力がモスクワなど各地でテロ事件をくりかえしている
スリランカ内戦
多数派のシンハラ人にたいして少数はのタミル人勢力が1980年代から武装逃走を展開していた。
2009年に政府軍画民る人勢力を制圧し内戦終結せんgrン画だされた。
ダルフール戦争とスーダンの文れう。
スーダン西部のダルフール地方ではアラブ人主体の中央政府にたいせ黒人画多数をしめている。
ここせ2003年にあらん部系の甚平組組織が黒人系住民への迫害虐殺行為を働き数十万人とも言われる犠牲者が生まれた。この虐殺行為にはスーダン政府の支援があったとして橋る大統領にたいして国際刑事裁判所から逮捕上がだされている。
また南部地域でも来たうのアラブ人民政府の支配にたいして抵抗を津図y桁内いいい線状態が津図ていた
暫定平和を経て2011年んいは民主投票で共産国が誕生
した 2015年現代で最新の国連加盟国となっている。
アラブの春
2010年から2011年似かけてそれまで30年間以上似わたって維持されてきたアラブの独う際政権 チェニジア エジプト リビア イエメン が民衆運動によってつぎつぎと倒されたアラブの春この一連の運動は若者たちが駆使したソーシャルメディアが大きな役割をはたしたと指摘される。。
ただしソ母語このくにぐにでは武装勢力が新政府を脅かすなど情勢は混迷をふかめている。
ウクライナ紛争
ソ連戦後のウクライナでは新西欧派 新EU派 と親ロシア派との住民対立が長らくつずいてきた。2014年に親ロシア派の政権が親西米派 親EU派 住民の抗議デモによって破壊すると親ロシア 派住民の多い栗見やが住民投票によってロシアへの導入をきめロシア派これをうけいれた。 そうしたなかウクライナ東部ちいきでは親ロシアは住民がウクライナからの独立を宣言しロシアの関与が指摘される武装勢力をウクライナ政府7群との衝突がつずいてる。
イスラム国
イラク戦争以来不安定な正常が都竹イラクとシリアにまたがるちいきにおいて2014年に国際テロ組織アルカイダから別れたイスラム国は異郷と外国人 対立党派 を誘導して残忍な方法で殺害し反欧米の生鮮を掲げて世界に参加者をい募っている。周辺イスエア無諸国。やアメリカなどが空爆を繰り返しているもののいまだ健在である。
国際経済の仕組み
この項目のテーマ
国際分業と貿易
自由貿易と保護貿易の基本的特徴は
国際収支
貿易収支 所得収支 資本収支の考え方をものにしよう。
外国為替
円高と円安のメリットとデメリットを理解しよう
国際分業と貿易
ここから国際経済分野に入るこの分野では特にメカニズムをしっかりと理解することが特に大切だよ。
さて今日の社会では文字通りに自給自足している人は誰もいない。
ある日とは野菜をつくりある人は工場を営みある人は予備校でかぞえている。つまり僕らの社会は分業によって成り立っている。こrっを国際的な規模に拡大されたのが虚空再分業だ。 それぞれの国家が得意なものをつくり広域によってそれを交換するわけだンえ。
国際分業は先進工業国同士でお粉割りる水平分野と先進国と途上国のあいだで行われている垂直分業とに大別できる水平というのは対等な関係という意味だから具体例としては日本荷電製品を輸出するといった。
分業のことで要するに大企業と中小企業の関係に近い上下関係のぶんぎょうだ。
日本は多くの製品を海外に輸出しているよね。
そうだね
ただし注意して保身だけど日本企業の製品がすべて日本製といおう訳だね。他だし注意して保身だけど日本こ行の製品がすべて日本製というわけでない。
なぜなら多国籍企業かが進むきょうでは日本企業の多くの製品が海外工場でつくられているからだ
日本めーかー製品なのに明度いんちゃいな とかかれることもあるのはたくさんあるね。
どの国も自由あ防衛を奨励しているの
必ずしもそうではないよね。
各国政府は時に自由貿易を否定し保護貿易的な政府をとることがある。
保護貿易とは政治が輸出を奨励して輸入に制限を加える製作のことでよ。
保護貿易を用語する立場の言い分はわかるかな。」輸出とは代金が入ってくる貿易で輸入とは代金が出ていく貿易のことだよね。 したがって自国産業が増えていなかったり不況であったりするときに貿易のことだよね。 したがって 時刻産業が育っていなかったり不況であったりするときに貿易を促進すると輸入ばかりで増えてしまいますます国内経済が停滞する。
というわけだ。
これは19正規ドイツ経済学者リスト 1789 1846による主張であり今日でも不況時にはこうした主張をつよまるまた農業分野などは多くの政府が多少なりとも保護主義的製策をとっている。
でも教の経済が空車の多くはこの議論に批判的だ。 なぜなら自由貿易による国際分業は貿易当時国のすべてに利益があるとかんがえられるからだ。
これは国際分業は貿易当時国のすべてに利益があると考えられるからだ
これは国内における分業の利益と理屈の上では全くおなじだ 例えば次な例を考えてみてほしい。
有能な弁護士である。A氏が自分よりタイピング能力画おとるBさんを秘書に野党のは不合理だろうか。そんなことはないよね。
弁護報酬が秘書の給料より高い限り利益はより大きくなり二人ともハッピーになれる。
そんなわけで分業は合理的だし国際分業もお互いにとってメリットがおおきいはずなんだ。
こうした議論をはじめて本格的にろんじたのは18~19世紀に活躍したイギリスの経済学者リカード 1772 1823
でこの議論は非核生産費説といわれるよ。
国際収支
国際収支 とは一定期間 通常は1年間 における対外的な経済取引をすべて集計したもののことだ。
まずは次の表を見てほしい。
国際収支
経常収支 貿易サービス収支
貿易収支 小雨品の輸出入
サービス収支 輸送 旅行など。
第一次所得収支 非居住者への雇用者報酬 投資収益
第二次所得収支 体かをともなわない資金の移転
例 国際機関への拠出金 出稼ぎ労働者の送金
資本移転等収支 対価をともなわない固定資産の提供
金融出資 直接出資 証券投資 外貨準備など
誤差脱漏 統計上の誤差を調整
上記の国際収支表は2014年から採用されているものだからそれ以前の過去問とは名称や分類の点で違っているので注意してね。
まず経常収支は外国との間で行われた財貨やサービスの取引についての収支 支出と支出の差し引きを意味している。 なかでも典型的なのが典型的なのが貿易収支でこれは輸出と輸入の差額ということになる。 なお日本の貿易収支は1960年代後半からほぼ一貫して黒字だったが2011年以来は赤字となっている。
あれ 日本は輸出で稼ぐ国じゃなくないんですか。
確かにかつては貿易立国とか輸出立国などとも言われたけど経済統計の上ではあまり根拠のある表現できない。
GDPに閉めるシュシュ津額の割合輸出い温度は10%前後でしかなく 先進国のなかではむしろ最下位に近い。
その上輸出以上に輸出が延びているため近年ではすっかり貿易赤字の構造が定着しているんだ。
それでも経常収支は黒字でありつずけている。
なぜかというと第一次所得収支の黒字がとても大きいからだ ソの内容としては例えば海外の企業や銀行からの配当や利子などがある。 グローバル化がすすむなかで日本企業は海外子会社をたくさん抱えているので子会社の利益の一部画配当など形で日本に寒流している。これが第一次所得収支の黒字をうんでいる。
日本 日本企業 外国 少子社
海外子会社の設立 =直接投資
利子の一部を配当として送金 第一次所得収支のプラス
直接投資ってなんですか、
直接投資とは企業画経営参加を目的にして行う海外投資のことだ。
経営参加を目的にするというのは 例えば海外にこ会社を成立するのが典型だね。
それからすでに存在する海外企業の株式の多く 10%以上 を取得するのも直接投資だ。
これにたいして庶民が海外企業の株などをかっても経営は支配できないのでそうした海外投資は証券投資 間接投資とよばれる。
ちょくせつ投資 企業が経済参加を目的にしておこなう海外投資
例 子会社の創立 海外企業の株式の多数10% 以上
を取得
証券投資 間接投資 経営参加を目的にしない海外投資
例 株式の値上がり易や配当金を目的とする投資
ポイント 国際趣旨の要点
日本の貿易収支はかつて黒字だったが近年は赤字にてんじている。
第一次所得収支が大幅黒字なため日本の経常収支は黒字月図いている。
外国為替 円 日本 ドル アメリカ ユーロEUなど
世界ではさまざまな通過がつかわれている。 だからことなる通過が使われている国どうしで貿易をおこなうさいにはこれらを交換する必要がでてくる、。このように異なる通過を交換することを外国為替といいその比率のことを外国為替相場 為替レートという。
それで毎日のニュースででてくる
1ドル =まるまる円
ってやつのことだよね。
その通りたとえば1ドル100円というのは外国為替市場で1ドルが100円と交換されること 言い換えると1ドルと100円の価値がひとしいということを意味しているんだ。
第二次世界対戦が終わって1970年代にはいるまでは固定相場制がとられていたから為替相場はずっと一定立ったけどニクソンショック ののち変動相場になったため為替相場はひびの外国為替市場における取引によって決定されるようになった。 そのメカニズムは普通の商品と同じでその通過の人気と比例する。
円だかとか円安ってどういうこと。意味がわかりません。
では1ドル 100円と1ドル200円という二つの為替相場を比較してみよう。
1ドル=100円と1ドル200円になることは円安になった。という円高の間違いじゃないかと思うひとがおおいんだけどそんなことはない。じつは1ドルまるまる円というのは円じゃなくドルの価格を表したらリンゴは値上がりしているよね。 それと同じで1ドルが100円から200円になったらドル安を意味するから円高になったといえる。
なお円高とか円安というのは飽くまである相場と別の相場ヲ比較したときに成り立つ話だからかならずしも1ドル100円=円だかというわけはない
1ドル200円から1ドル100円になることは円だかヲ意味するけど1ドル80円から
1ドル100円になるから円安になっているよ。
為替相場が変動するとどんな影響があるの。
円高になるケースで考えてみよう。
円高になるということは円の価格がたかまるということだから円で変えるものが増えるし同じ量なら安くかえるようになる。 たとえば1ドル100円になれば100ドルのものが買える。これは円の購買力が上昇すると言い換えてもいい。
そうすると何が起こるかというと たとえば輸入や海外旅行に有利となる
だから円高になると輸入が増え日本からの海外旅行客が増えるまた円高は企業の対該当しをも促進する現地工場の建設費用などが割安になるからね。
しかしその逆に円高になると輸出には不利になる。
輸出というのは日本製品ヲ外国にかってもらうということだよねということは購買力の低下したドルで日本製品ヲかうことになるので外国からみると円高とは日本製品の値上がりヲ意味するんだ。 こうなるともちろん日本製品の海外売り上げは低下するはずだよね。 だから輸出に支えられている日本経済にとって円高は不利にはたらくんだ。 ちなみにトヨタ自動車などは1円高になるだけで400億円もの利益がふきとぶんだよ。
もちろん円安のケースはすべて逆にかんがえればいいよね。
ポイント 為替相場変動の影響
円高 外国への旅行客が増加 体外投資増 輸入に有利
輸出似不利
円安 外国からの旅行客の増加 外国からの投資増 輸出似有利輸出に不利
でもそもそもなんで為替相場が変動するの
通過価値が変動する仕組みは基本的に普通の商品と同じだ。 だから円の需要がふえれば円だかになるし円の需要がへれば円安になる。
では どんなときに円の需要が増減するのか 無数の要因があるんだけど 影響野大きいのはいかのものだ。
為替相場の変動要因の例
貿易 輸出が増加 円高
金利 国内金利の上昇 円高
物価 国内物価の下落 円高 輸入が増加 円安
国内金利の下落 円安
国内物価の上昇 円安
理屈ヲ説明しよう。
まず 貿易について ゆしゅつというのは海外から日本製品ヲかってもらうことだよね。 そのときもし円でしはらわれるならば ドルヲ円に両替する動きつまり ドルヲうって円を買う動きがしょうじるはずだ。
かりにドルで支払われたとしても受け取った日本企業は普通これを円に買える。
日本でドルをもっていてもあまり約にたたないからね。 のでいずれにせよ日本の輸出がふえるときには円への需要がたかまるんだ。 輸入増のときにはこの反対野子とがおこる。
次に2の金利についておかねを借りる日とにとって金利は引く悲報がいいけれどもおかねを預ける日とや投資する日とにとってはたかいほうがいい。
だからもし日本の金利が国外の金利より高かったり従来よりも金利が上昇したりすると 日本国内に外国から資金が流入してくるわけで そのさいに円がかわれる。 つまり円の需要が増加する。このように日本国内の金利上昇は円だか屁と作用する。
最後に3の物価について日本の物価が下落すれば日本の土地や商品がお買い得うになるわけだから外国から資金が入ってくる。あとの流れは2とおなじ日本の物価下落は円だかへと左様する。
もっとも 以上の理屈は純粋に理論的名話出あってほかの事情を一切無視した場合にしかなりたたない。 現実は春かに複雑なので たとえば日本の金利がさがっても円だかになることがある。
ただ入試ではそういう面倒名ことは無視して理屈だけがとわれるからね
戦後国際経済秩序の展開
この項目のテーマ
戦後国際通過制度の形成
ブレトンウッズ体制の基本的な性格をおさえよう。
ブレトンウッズ体制の動揺と崩壊
ドル危機と固定相場制崩壊の関係を理解しよう。
戦後の自由貿易体制。
GATT さん原則とWTOの課題をしっかりおさえよう。
戦後国際通過制度の形成
本項目では国際経済の具体的な展開過程を扱う。 まずは戦後の経済秩序が土のようにつくられたのか その背景辛味j抵抗い
1930年の国際経済都その訓練
世界恐慌 保護貿易通過きりさげ
ブロック経済の形成 第二次世界対戦
教訓 自由貿易 為替の安定 が必要GATT IMFを成立
1929年にアメリカ出株式の大暴落が起こった。アメリカで25%を越える失業率を記録したこの不況の連鎖はたちまち世界に波及し 世界経済は大混乱に陥った。
世界恐慌
でも恐慌そのもの以上にまずかったのが各国の対応だ まず各国は保護貿易にはしった、
国際経済のしくみで説明したとおり保護貿易は一見すると自国の利益をまもるようだけど長期的にはすべての関係国に損失をもたらしてしまうんだ。
また各国はそれまでの基本い制度から離脱して自国通過を守る通過きりさげ策をとったこれは自国の輸出をふやっし輸入を減らすことで時刻産業を守ろうとしたんだけどこれも国際的な取引を収縮させるものなので結果的には世界経済全体を悪化させてしまう。 つまり恐慌で文字通りパニックになってしまい合理的な判断力を失ってしまったんだ。
こうして各国は自国の権益を守ろうとブロック経済を形成していった。
ブロック経済
ブロック経済都は本国都その植民地や同盟国などで形成される排他的な経済圏のとこで対外的には交換税をかける一方で体内的には特恵関税 により結合をつよまるものだ。具体例としてはイギリスを盟主とするスターリング ブロック ポンドブロックなどがある。
ブロックけいざいかがすすむ都ブロックのなかではうまくいくにせよブロックどうしでは陣地の取り合いが起こる これが第二次世界対戦の一員とんまってしまったんだ。、というわけで世界恐慌とそれへのつたない対応を教訓として自由貿易と為替の安定が重要だという国際的な合意ができあがった。 此の二つを実現するためにつくられたのがそれぞれGATT と IMFというわけだ。
ブレトンウッズ体制
基本的性格 米ドルが基軸通過 国際取引の中心的な通過 金 どる本意制 1オンス = 35 ドル
ブレトンウッズ協定 1944 創立 IMF 国際通貨基金
為替の安定をはかり赤字国に短期融資を おこなう
IBRD 国際復興開発銀行
戦後復興と発行途上国への長期融資をおこなう。
さていよいよ戦後のけいざい体制だけどじつは此の体制は終戦前に 1944年にアメリカで開かれたブレットんウッズ会議ですでに合意されている。此の会議で合意されたのがブレトンウッズ協定で此の協定にもとずく国際経済秩序をブレトンウッズ体制という。
ブレトンウッズ体制の基本的な性格はドルを基軸通過とする固定相場制と説明出きる。
基軸通過って何。
基軸通過都は国際取引の決済手段としてよういられる国際通過のうち中心な通貨のことだ。
国内で取引をおこなうさいにはもちろん自国の通貨を使えばいい。でも外国と取引をするときには
国際連合辺りが特別な共通通貨でも発行していればそれを使えばいいけど。そんなものは存在しない。だから世界でもっとも信用の高い通貨をつかうしかないんだ。 それが基軸通貨 国際通過だ。
第一次世界対戦前ではイギリスのポンドが基軸通貨立ったけど子のブレットんウッズ会議を経て米ドルが基軸通貨の地位を不動のものにした。
なぜ米ドルが基軸通貨になれたかというともちろん圧倒的な国力をもっていたからだ、。それを象徴的に表しているのが金保有量で当時のアメリカはなんと世界の金の4ぶんの3以上を保有していた。だからアメリカだけが金本意制を維持することができぬきん出た信用を獲得できたんだ。
世界の期日通貨がドルでありそのドルはアメリカ政治によって金と交換してもらえる。この体制を金ドル本意制という。今日では変動相場制が当たり前になっているけどブレットんウッズ体制が固定相場制立ったということは絶対に押さえておいてね。
IMBとIBRDはどうちがうの
IMF 国際通過基金は各国通貨の価値ヲ安定化させることがおもな目的で国際収支の悪化した国は短期資金ヲ融資してもらえる。 これにたいしてIBRD 国際復興開発銀行はそのなの通り戦後の復興や途上国の開発が目的で長期資金ヲ融合してもらうことができるんだ。
日本もかつて新幹線や高速道路をつくるさいにIBRDから融資ヲうけているんだよ。 ブレットんウッズ体制の動揺と崩壊
さてせっかく成立したブレットンウッズ体制だけど 1960年代からしだいにほころびが見栄始め1970年代には完全に崩壊してしまう。
次のような流れだ。
ブレットンウッズ体制の動揺
アメリカの国際 収支の悪化。
貿易収支の悪化
多国籍企業の海外進出
ベトナム戦争関連の支出
ドルの新任低下 金の流出
ドル危機
ニクソンショック ニクソン大統領による金ドル交換停止宣言
スミソニアン協定
固定相場制の維持
ドルの値下げ
1オンス =38ドル
1ドル=308円
1960年代のアメリカでは国際収支が急激に悪化する。 なぜかというとまず 敗戦国である西ドイツや日本などが急速に経済を回復されて輸出攻勢をかけてきたからだ。これによりアメリカは経常収支の赤字国に転落するまたドル高を背景にして多くのアメリカ企業が多国籍かして外国展開をはじめる。 さらにアメリカは経常収支の赤字国に転落する。 またドル高を背景ニシテ多くのアメリカ企業が多国籍かして海外展開を始める。さらにアメリカは1965年から本格化したベトナム戦争で膨大な軍事出資をしいられた こうして諸外国に大量のドルが流失するなかでドルの大量発行のため
ドルへ新任が低下する事態となった。子かもアメリカ政府は金本位をとっていたので海外からの金だかんの要求が相次ぎ手持ちの金はあっという間にそこをついいてしまった。こうなるとドルの気疎通かとしての地位は非常にあやういものとなってしまう。 ドル危機
そこでアメリカのニクソン大統領は1971年8月に一方的に金とドルの交換停止を宣言したんだ。 ニクソンショック 固定相場制はアメリカ政府の金だかんによって最終的な保証をされていたわけだからこの前提がうしなわれてしまうならブレットンウッズ体制は崩壊したも動揺だ。 こうして世界経済はまたしても大混乱に陥った。
スミソニアン体制ってのは
ニクソンショックによってブレットンウッズ体制は崩壊の危機に貧したけれども直ちに崩壊したわけではない。 同年12月に各国首脳が危機だかいを目指してスミソニアン協定を結んだ。その内容は信用失墜したドルを切り下げるがあくまで固定相場はいじするというものだ。 金1オンス辺りのドル相場は35ドルから38ドルとなりまた円とドルの為替相場は1949年以来ずっと1ドル360円立った。この協定により対円では1ドル308円へとドルが切り下げられた。 此の体制がスミソニアン体制だ。
でも経済活動の国際かが進む状況で固定相場を維持するというのは無理のあることだったんだね。結局各国は1973年に固定相場を放棄して変動相場経移行していった。これでブレットンウッズ体制は完全に崩壊したんだ。
此の変動相場制を正式に承認したんがキングストン合意 1976 で今日につずく此の体制をキングストン体制ということがある。
1980年代のアメリカ経済
1981年に登場したレーガン大統領は政治的社会主義陣営への敵対製作を打ち出した。のみならず経済的にも強いドルを掲げた。しかし此の結果論旨ゅ津企業は大きな痛手を受け経常赤字はますます拡大した。さらに軍事費が膨張したことに加えて減税製作ヲ実施したために財政赤字も深刻化した 此の経常赤字と財政赤字という双子の赤字の解消ヲめざすためにおlこなわれた手だてのひとつがプラザ合意であった。
アジア通貨危機
1997年の冬それまで順調な経済成長ヲ謳歌していた。 対の通貨バーツが突如として暴落した。これタイ経済に大きな打撃ヲ与えただけでなく日本ヲふくめたアジア各国に波及した。膨大な投機的資金ヲ運用するヘッジファンドによるバーツ売りがきっかけだったといわれる。
通貨の暴落にみまわれた タイインドネシア 韓国はIMFにし円ヲ要請し過酷な構造改革と引き換えに融資をうけることになった。
戦後の自由貿易体制
IMF が国際通貨秩序の安定を主たる目的とするのにたいし 自由貿易体制を維持発展 させるためにつくられるのがGATT 関税と貿易に関する一般協定だ。これは1947年に調印されて1948年に発効した協定でIMFとともに戦後の国際経済秩序の二本柱と
も言うべきものなんだ。
なおGATTはあくまで協定であって常任の国際期間ではない。1995年にはWTO 世界防衛期間という国際期間へと姿を買えることになるが自由貿易の促進を目指すという基本的な性格はかわらない。
まずはGATT WTO の三原則からみてみよう。、
GATT WTOの三原則
自由 非関税障壁の否定 例外 セーフガード 緊急輸入処置
関税の引き下げ 撤廃
無差別 全加盟国を対等に処遇 最恵国待遇 内国民待遇
例外一般特恵関税制度
多角 二国間交渉 でなく他国交渉で問題を解決すべき
近年はFTA FPAの二国間増加
GATT は事由貿易体制を実現するためにつくられたものなのだkら事由の原則は当然だね。 自由貿易の障害は可能なかぎり除去すべしということだ 具体的にはまず非完全障壁は軽減除去されなくてあなれない。
非関税保証とはたとえば自動車の輸入は年間100万台までにする というように数量制下元をかけたり複雑な商慣行によって外国企業を事実上排除するようなことだ。 それから関税についてもできるだけ引き下げることにする。
自由貿易の観点けいらは低ければ低いほどいいけれども国によって様々な実情があるので国税を撤廃しろというわけではない。また特定三品の輸入が急増して自国産業に重大な打撃をあたえるときにはセーフガード緊急輸入制限措置 を発動することもみとめられている。 たとえば2001年には日本が中国からのネギイグサ生椎茸の三品の輸入増加にたいしてセーフガードを発表したことがあった
第二の原則は無差別原則だ。 協定加盟国はすべて対等に処遇すべきという原則のことで具体的には最恵国待遇と国内民待遇という形をとる。
最恵国待遇ってなあに
最恵国待遇とは条約当事国は相手国を最恵国として処遇すべいというものだ。
上の図ではA 国がBこくおよびC国と貿易をしているのにB国の方を関税面で優遇エコヒーキしているのがわかるよね。
最恵国優遇とは此の場合C国のような国を最恵国よしてB国とおなじように処遇せよというものだ。
最恵国待遇上条は貿易に関する個別の条約でしばしば盛り込まれたがGATTやWTOでは加盟国全体の義務となっている。だから特定の国だけを待遇することはみとめられないんだ、簡単に言うとえこひいきを禁止するルールなんだ。ただし例外もあって先進国が発展途上国からの輸入品の関税を低くすることはみとめらrwrうえy、 これは不利な立場の発展途上国への配慮から生まれた例外規定で一般特恵間税といわれる。
なお内国民待遇とは外国の事業者や輸入品を自国民や自国品三にたいして差別的に取り扱うことを禁止する原則のことだ。最恵国待遇は外人同士をくらべられるものだけど内国民待遇は外国と自国を区浦部てその差別を禁じている。
第三原則の多角というのは特定の区にだけで貿易のルールを決めているとかつてのブロック経済のようなものが復活してしまう恐れがある。 だから貿易交渉は他国民すべてのGATT WTO加盟国でおこなうのが原則とさせられているんだ。これが多角の原則
すべての国が対等に円卓 ラウンドテーブルで議論を行うことからラウンド交渉ということばがうまれた。
交渉には数年間という時間がかかりそれぞれの交渉期間をまるまるラウンドというように表す。GATTのラウンド交渉で重用なのは次の三つだ 特にウルグアイ部ラウンドは重用。GATTの多角的貿易交渉
ケネディ ラウンド 1964 67
間税の一括 35% 引き下げについて始めて合意。
東京ラウンド 1973 79
間税一括引き下げに加えてはじめて非関税障壁についてルール化
ウルグアイ ラウンド 1986 94
運輸 通信 などのサービス貿易や著作権などの知的財産についてのルール化がおこなわれぶっ産物についても例外なき関税化が合意された。 二本のコメについては猶予 世界貿易機構 WTO の創立に合意
WTOができてなにがかわったの
1995 年に世界貿易機構WTO が発足した。
これによって単なる協定から常設の国際期間本部はジョネーヴというのはさっきもになったと言うのはさっきも触れたよね。その他の大きな違いは次の二つだ。
第一にGATTであつかわれたのはものの貿易だけだったがWTOでは サービス貿易や知的財産権についてその対象とされるようになった。
特に知的財産は途上国における違法のコピーなどが大きな問題となっており国によるルールの違いもおおきいのでWT)Oで共通ルールを作ることが強く期待されている。
第二次に扮装処理昨日が格段に強化された。 GATTでは加盟国で貿易扮装が起こっても調停的な役割しかはたせなかったため一方的な制裁措置もとる国があったがWTOでは扮装処理委員会パネル が設置だれ司法的な解決が可能。WTOに問題はないの
そうだね。 一番大きいのは組織が大きくなりすぎて動きが鈍くなったことかな。GATTは最初23国で交渉を始めたんだけど2015年4月現在の加盟国160にもなっている。社会主義国である大国の中国も2001年に加盟した。他国間交渉を原則とする以上すべての当事国が合意できる必要があるわけだがここまでっ加盟国が増えてしまうと用意に結論がでない。元に2001年に開始されたドーハラウンドはいまだに合意に達せずほとんど休眠状態だ。でも各国は自由防衛を進めたいのでWTO のラウンド交渉になかば見切りをつける形で二か国や複数国間でのFTA 自由貿易協定やEPA 経済連携協定 を締結する方向にシフトしつつある、。
スキルアップ
世界金融危機 2008
アメリカの2007
年のサブプライムローン問題に単を発し2008 9月に対象証券会社リーマンブラザーズの破綻をきっかけにして全世界に波及した金融危機のこと。
アメリカでは信用力の低い日と向けにサブプライムローンと言われる住宅ローンが広く販売されていた。 これは融資当初は低金利だが数年後に高金利にはねあがるというしくみの金融商品だった。
もちろん通常であれば低所得者がこのようなローンを借りれば金利が上昇するときに返済不能におちいりローンかいsyたも貸し倒れにあってしまう。
ところが2000年前半のアメリカは不動産バブル庭いており住宅価格が右肩上がりで上昇をつずけていた。 だっから低所得者でもサブプライムローンの融資を受けて住宅を購入し高金利になるまえにそれを転売することで大きな利益にあげることができたのだった。
しかし2007年夏ごろからは住宅価格が下落に展示ローン会社とその背後にいる大金融機関が連鎖的に危機におちいった。 サブプライムローン問題。そして此の結果2008年9月に大手証券会社リーマンブラザーズがついに経営破綻する
。リーマンショック此の影響が各国に広がったものが世界金融危機 といわれるものでこの100年に一度
と言われる危機に対応するため先進国とBRICs等新興国はG20金融サミットを開催することになった。