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第3講 国際分野 国際社会の成立と国際機関

第3講 国際分野 国際社会の成立と国際機関

この項目のテーマ

国際社会と国際法

国際社会と主権国家との関係 国際法を分類をおさえよう。

国際平和と国際連盟

平和維持の二つの法式と国際連盟の弱点をチュッく

国際連合と国際平和維持活動 PKO

国際連合の各機構とPKOの基本性格をしっかりおさえよう。

国際社会と国際法

国際社会とは国家と国家の間に成立する社会つまり独立した諸国家からなる社会のことだ。 では国家とはなにかというとそれは国民 主権 領域 という三つの要素からなるものだ。

領土 領海 領空の範囲

上のずのように領域には領土以外に領空と領海がふくまれている。 問題になることが多いのは領海だが国連海洋法条約 1982採択 では領海基線 海岸から12海里の沖合いまでの海域と定められている。ただしそれよりとおいい海域についても基線から200海里までは排他的経済水域として水産資源や改訂資源についての経済的権利を主張できる。

でもそもそも領域ないで排他的に主権を行使できる国家という概念自体が歴史的に作られたのだ。 もちろん国家そのものは何千年もの歴史をもつが他国からの一切の干渉をしりぞけ自国の政治について排他的にとうちすることができる。 主権こっかという概念が明確化されたのはウェスとファリア条約 1648 においてであった。

なんですかそれ

ウェスとファリア条約はヨーロッパ全土を荒廃された。

三十年戦争 1618~48 野講話条約だ。この条約でヨーロッパ諸国は他国から独立した主権が認められたので主権国家を基礎単位とする国際社会はウェスとファリアまた30年戦後はこの条約以外にもひとつの果実を実らせた。すなわち国際法の父とも呼ばれるグロティウス1583 1645の戦後と平和の法だ。突然だけど法律を破った人は普通どうなる。

逮捕され さばかれちゃいます。

そうですよね。 主権国家の内部では国歌が強制力のある法を思考できる。

ところが国歌事態が無法な行為を働いた場合には逮捕することも裁くこともできない。 超国家的な立法機関がない以上何が無法かもわからないようなものだからね。


そこでグロティウスは実定法 がないところでも普遍的な法 自然法が存在するとしてこれを国際社会にあてはめた。つまり国際社会にもまもられるべきルールすなわち自然法としての国際法があることを主張したんだ。

実定法

高速人民 各国で制定

国際法

拘束 自然法として存在

国歌  

今日広くみとめられている国際法には多きく二種類がある。 成文かされた国家間の合意である条約と国際社会での慣行が定着してルールとみとめられるに至った。国際慣習法の二つだ。 国際慣習法の具体例としては外交官が認知で逮捕されない外交特権などが有名だよね。


国際平和と国際連盟

さてグロティウス似よって国際法の枠組が誕生した。

でもいくらルールができてもルール破りに対処する方法を確立しないことには国際平和は実現しないよね。 この点についてかつて支配的立ったのが勢力均衡政策だ、

これは軍事力の均衡似よって平和をたもつしかないという。見も蓋もないほど現実的なガンが絵かただ。

でもそもそもここでは各国の敵対関係が前提とされているのでなにかのきっかけで軍事力の均衡が崩れるとたちまち戦争がおこってしまう危険がある またこの前提では量陣営ともに相手に負けじと軍かくきょうそうを進めるのが普通だからいざこっゼリアいがおこってしまうと悲惨な大戦争を進めるのが普通だからいざ小競り合いがおこってしまうと悲惨な対戦に発展してしまいかねない。 まさにこれが実現化したのが第一次世界対戦だ。

そんなわけでこれではダメだと第一次世界対戦の反省から生まれた新しいやり方が集団案保障だ、

集団安全保障

国際機構

国際機構 侵略 制裁 国際機構を創立し全ての国が加盟戦後を違法か

もし加盟国が侵略行為をはたらいたら残りの加盟国が侵略国に制裁


この法式は全てのくにを単一の国際機構に加盟させもし侵略行為が起こった場合には集団的に裁判をくわえようというものだ。 その前提として加盟国には独断で武力による問題解決をはかることがゆるされない つまり原則として戦争そのものが違法かされる。

事実 初の集団全安保障体制として1920年ン成立した国際連盟ではその規約において加盟国が戦争に訴えない義務。をおうものとされたし1928年にはこれを再確認する不戦条約が結ばれた。したがってこの法式の主眼は軍事力をはじめとした国家の主権を制限するという点にあるといってもいい。

なるほど それはいいアイディアですね。

国際機関による平和と言うアイディアはすでに18正規ドイツの哲学者カント 1724 1804 が永久平和のために のなかで提唱していた。

そしてアメリカの大統領ウィルソン 1856 1924 が第一時世界対戦末期に発表した14ヵ条の平和原則であらためて提唱しついね現実のものとなったんだ。

でも国際連合って崩壊しちゃったんでしょ

うん そもそも集団安全保障 の仕組みがうまく昨日するためには次のような条件が必要なはずなんだけど国際連盟ではいずれもダメだった、。

集団安全保障が成功する条件

国際機関にすべてのくにが参加すること 大国で不参加 脱退

少なくともすべての大国が参加

制裁の実施を各国で合意できること。 全会一致

有効な裁判手段を持っていること。 経済裁判のみ

武力制裁なし。


アメリカは大統領が国際連盟の提唱者立ったのに濃くないではこれらが支持されなかった。国際連盟に参加するためにはお金もだされなければならないし血を流す必要に迫られるかもしれない。 そんなわけで上院の同意が得られなかったためにアメリカは最初から最後まで国際連盟には参加できなかった。

また第一世界対戦の先勝国として日本は国際連盟の常任理事国となったが満州事変をめぐって国際社会と対立を深め1933年に脱退した。 1926年に加盟したドイツもヒトラー政権が成立した1933年に脱退している。

イタリアやソ連も同様に脱退か除名とんばっている。

それから問題が起こったときには迅速似制裁の実施が決議されなくなってはならないが国際連盟では総会と理事会で全一致制がとられていたため一か国でも制裁似反対すると裁判が実施できなかった、 おまけに侵略国にたいして経済裁判しか行えず武力制裁ができなかった。 これでは峡谷が強豪手段にでたときに有効なチャイおうができないよね。

結局国際連盟は歴史の要請に十分にことえられずに第二次世界対戦をまねいてしまい崩壊すべくして崩壊してしまってしまった。

国際連合と大国

アメリカは国際連合に加盟することができなかった

日本は当初常任理事国だったのが後に脱退した。

ドイツは後に加盟したがほどなくだったいした、

国際連盟はその理由はよかった。でもアメリカは不参加日本ドイツなどが最終的に脱退とやがて空中分解してしまうんだね。


国際連合と平和維持活動 PKO

第二次世界対戦が終わると二度の対戦を防げなかった。反省のうえに国際連合がつくられた。 1945 10 ほっそく

その目的は国際の平和と安全維持し各国うの友好関係を発展させ 経済的社交的文化的または人道的な国際問題を解決させることだ。

人道的な国際問題を解決させることだ。

元加盟国は51かこくですべて第二次世界対戦の先勝国だ。

それもそのはず もともと国際連合とは大戦における連合国

が結成した国際機関だったからだ。 もっとも 敗戦国の日本もソ連との国こう回復により1956年加盟し東西両ドイツも1973年に加盟した。

今日では世界で独立こっかとみとめられている国のほとんど加盟している。

国連の機構ではまず六つの主要機関を確実におぼえよう。

国際連合の組織

事務局 各機関の決定を実施 

事務総長が統括

総会 全加盟国で構成

当選権 一刻一票の原則 対等

評決 重要事項2/3以上の賛成が必要。 

一般事項 過半数の賛成が必要。

安全保障理事会

平和と安全に主要な責任を負う

構成常任理事国 米 英 仏 露 中

非常任理事国 10か国人気2年


評決 手続き事項 9/15以上の賛成

実質事項 全常任理事国を含む

拒否権 9/15 以上の賛成

信託統治理事会

自立困難な地域えの信託統治を管轄 パラオの独立より 1994年から活動停止中

経済社会理事会

54各国で構成 経営 社会 文か などの分野で交流

各種の専門機関などと連携

ILO 国際労働機関 FAO 国連食料農業機関 WHO 世界保険機構

国際司法裁判所

国家間の扮装を裁定

当事国の同意により判決開始

国連総会は全加盟国で国政されあらゆる問題について審議できる。

評決は1国1表 でおこなわれるので国の規模にかかわらずすべての国が対等だ。 しかし総会は原則として勧告を行う権限を行う権限をもつだけであり各国に拘束力を持つ決定はできない。 つまり武装制裁のように強制力がはたらき各国を拘束する決議はあくまで安全保障理事会でおこなわれるのが基本だ。

へえ 安全保障理事会って協力なんだね。

そうだね平和と安全に関わるもんだいについては安全歩所理事会 安保理が主要な責任をおっている。・ 安保理を構成しているのあ アメリカ イタリア イギリス フランス ロシア 中国 の5常任理事国と総会で選出される10の非常任理事国 任期2年だ。 非常任理事国としては日本が最多の10期務めているよ。あらゆる議決に9各国以上の賛成が必要。過半数でない点に注意 

で実質事項にはすべての常任理事国の賛成が必要となる。

此がいわゆる拒否権だ。

理事会への欠席は拒否権講しとはみなされない。 1950年の挑戦戦争のさいにソ連が安保理を欠席したがこれは拒否権講しとはみなされなかった。


常任理事国が一か国でも反応したらなにもきまらないんだったら結局国際連盟と同じじゃん。

確かにれいせんきには米ソがおたがいの決議案に拒否権を連発して安保理が空転してしまうことがすくなくなかった。 そこで1950年に国際総会は平和のための結集決議を採択し安保理が麻痺した場合には緊急特宇別総会を召集し軍事的な措置をふくむ勧告画だせるしくみをつくったんだ。

これによって総会は安保理のだいこうができるようになったというわけ。

国際司法裁判所ってのは誰が誰をさばくの

国際司法裁判所は1946年にほっそくした常設の機関で国籍のことなる15似んの国際法の専門かなどが裁判官となっている。対象となる事件は国家と国家の扮装で当事国が同意することではじめて裁判がはじまる。 また国際司法裁判所はさまざまな問題について法律的観点から

勧告的行けんをだすことでこ1966年には核兵器のしようが一般的に国際法違反だとの行けんを報告して注目をあつめた。


国際刑事裁判所

国家間の扮装を対象とする国際司法裁判所にたいし集団殺害材 人道に対する罪 戦争に対する罪 について個人の責任を裁く常設の裁判所 2003年の創立されなお2009年にスーダン 2011年にリビアのそれぞれの国家首脳に逮捕状が発行され。 注目をあつめた。

個人犯罪を裁く国際想定としてはコーゴ国際刑事裁判所やルワンダ国際刑事裁判所などの例がありこれらが国際刑事裁判所の設立へとおつながった

ポイント 国際連合の議決方法

総会は一刻一票野原則 小国の発言権画強い。

安全保障理事会の実質事項については5大国すべてを含む9か国の賛成画必要 大国の拒否権あり


国連連合はどうやって平和をまもろうとしているの

国連は集団安全保障体制として出発しているわけだから

いざというときのための強制力 軍事力 画必要だ。 ところが礼せん似よって安保理が十分に昨日してこなかったため国際連合懸賞に規定された正式な国連軍は一度も組織されたことがない

そこで扮装解決野多目に国連懸賞と無関係になしくずし的につくられて国連の指揮かに歩かないかという点にある。

国連懸賞  こんきょあり 国連軍

こんきょなし 多国籍軍

各国が任意に展開

PKO 国連が式

PKOについて詳しく教えてください。

PKO 国連平和維持活動 というのは国連会議にもと図いて国連野式下で行われる治安維持活動や停戦監視活動野総称で戦争ごとに組織される。 国連懸賞第6上紛争野平和解決と 第7小強制措置野中間的なものであることから6小半的活動 などと言われることがある。

1956年のスエズ戦争の時に国連緊急軍として組織されたのが最初で冷戦後の1990年代以来に急速に増加している。今日でも16のPKOが活動中だ。 2015現在

PKOの組織波形武装のPKF 平和維持軍と非武装の停戦監視団 選挙監視団などからなり軍人だけでなく警察官や民間人も参加している。

戦争当事者が停戦に合意していることが前提で停戦を確実に戦後復興を起動にのせることがPKOのもくひょうだ だからPKFも部期しようはご信用に限られ国連軍や多国籍軍のように軍事制裁を目的としているわけではない。

なるほど PKOはだれからこらしめるためのものじゃないんだね。

そうだね。でもとにかく和かねはかかってしまう。 国連も財政難で頭を悩ませているんだけど冷戦後にPKO活動が急増したことがその一つの背景にあるんだよ。

国連分担金問題

国連の通常予算は各国がGNI などをもとに決められており一位のアメリカ22.0% 二位の日本 12.58% 三位のドイツ8.3%などとなっている。 しかしアメリカをはじめ下なりの国がさまざまな理由で担保金を滞納しており国連財政を深刻化にしている。

国連の姿は60年間以上ずっとかわっていないの・

そんなことないよ。 安保理の非常任理事国はかつて六ヶ月だったけれども国連加盟国の増加を背景に1965年に10か国にふやされた。 また1995年の国連創立50周年以来安全保障理事会の常任理事国 非常任理事国の拡大や顕現のみなおしが活発に議論されているい。 安保理改革

日本政府も常任理事国要りをめざすと表明しているが反対する有力国家あり現実は難しそうだ。

それから冷戦終結後に地域紛争がふえPKOの役割がたかまっているのも国連の変化のひとつだ。

その他経済社会理事会の機能委員会であった人権委員会が総会の補助機関としての人権理事会へと改正強化された。

ところで平和って軍事力岳で作られるものなんでしょうか

軍事力抜きの国際平和というのはなかなか難しいかもしれない。 でも確かに軍事力だけで平和が実現するわけではないよね。

ソの点で従来の安保保障 と国防画ほぼ同一視されてきたが近年では人間の安全保障という概念画クローズアップだれている。 これは国連開発計画 UNDP が1994年に人間開発報告書のなかで提唱した概念で国家でなく世界中の一人ひろりの個人をまもることを目的としている。 国家画独立を保ってもそこでいきる個人画戦争や飢餓環境破壊人権侵害などで犠牲ンいなってももともこもないよね。 そこで日本政府の提案なども背景に国連に人間の安全保障基金および人間の安全保障委員会画作られたんだ。

 スキルアップ 

おもな国連平和維持活動 PKO

過去と現代のおもな国連平和維持活動PKO はいかのとおり

とくに現在も活動中の舞台と自衛隊画参加したものについて中止してほしい。


国連休戦監視機構 UNTSO 1948

国連インド パキスタン軍事監視団 UNMOGIP 1949

第一次国連緊急隊 UNEF I 1956  67

コンゴ国連軍 ONUC 1960 64

国連兵力引き離し監視塔 UNDOF 1974

国連カンボジア暫定統治機構 UTTAC ①⑨⑨②93

国連モザンビーク活動 ONUMOZ 1992 94

国連コンボ暫定行政ミッション UNMIK 1999 2002

国連東ティモール暫定行政機構 UNTAET 1999 2002国連ハイチ安定化ミッション MINUSTAH

国連スーダンミッション UNMIS 2005 11

ぐるフール国連 AU合同ミッション UNAMID 2007 

国連南スーダン派遣団 UNMISS 2011

戦後国際政治史

冷戦後の形成と展開

対立構造の成立 雪解け キューバ危機 デタント

新冷戦

多局化展開 米ソ連大国が地盤沈下し第三世界が対等する。

冷戦の終結

ゴルバチョフの改と感激の1989~91年を丁寧に。

冷戦構造の形成と展開

冷戦構造の構造

西側陣形

1946

 鉄カーテン演説

1947 トルーマンドクトリン

マーシャルプラン

1949 NATO結成

ドイツ連邦共和国成立

1955 東ドイツNATOに加盟

東側陣形 

1947 混みンフィルム結成

1948 ベルリン封鎖

1949 COMECON結成

ドイツ民主共和国成立 

1955 ワルシャーワ条約機構の成立

冷戦とはアメリカを盟主とする東側の資本主義陣営とソ連を盟主とする東側 社会主義陣営とのIだの政治的経済的軍事的対立のことだ。

じゃあ戦争状態だったの。

それに近い状態立ったとは言えるね。

でも米ソ連両国が文字とうりに戦火を交えることは最後間でなかった。 だから量陣営の争いは実際に軍事衝突する熱せんと区別する意味で冷戦といわれるんだ。 もっとも各地の紛争に米ソ連両国が介入する代理戦争は何度もおこっているけどね。

朝鮮戦争 1950 53やベトナム戦争 1965~75後その典型

ソ連は第二次世界対戦の末期に欧米諸国に軍をすすめ各国を自国の影響かにおいた。このソ連のおうべいへの政治的支配を鉄のカーテンと批判したんがイギリスのもと首相チャーチルでこれによって冷戦の開始が世界に印象付けられた。そしてよく1947年にはアメリカのトルマーン大統領が共産主義封じ込めトルマーンドクトリンを宣言し量陣営の対立は決定的になったんだ。

マーシャルプラン

1947年にアメリカの国務長官マーシャルが発表した欧州復興計画うのこと。

当初東しゅう諸国もその対象と考えられていたがソ連野圧力により東欧諸国は事態せざるをえなかった。 この計画をうけいれたくにくには欧州経済協力会議OEEC

を補助の調整機関としてつくりこれがのちに経済協力開発機構 OECD 

へと開祖された。

でソ連はどうはんげきしたの。

こうした東側の動きにたいしてスタリーン率いるソ連は1947年には各国の共産党の結束をつよめるためにコミンフィルタ共産党情報局 1956

年解散をまた1949年には社会主義諸国の経済的協力関係を深めるために経済相互援助会議 comecon 1991解散を結成

また1949に西陣営が軍事同盟として北大西洋条約機構 NATO を結成したのに対抗し東側陣営は1955年にワルシャーワ条約機構 WTO

を結成して冷戦構造は完成した。ベルリン封鎖とベルリンの壁

第二次世界対戦後のドイツは米英仏およびソ連の四ヶ所に分割統治されており首都であったベルリンも四か国の分割統治下におかれた。 1948に西側占領地域で行われた通過改革に対抗してソ連が西ベルリンとドイツ西部との陸路を封鎖したのがベルリン封鎖でこれはよく1949年間でつずた。 しかし封鎖解除後も西ベルリンを通じて西ドイツへ亡命を図るものがあとをたたなかったことからこれを防ぐたまね1961年に作られたのがベルリンの壁。これはベルリン西部地区

を完全に包囲する壁で1990年に崩壊するまで西東冷戦の特徴でありつづけた。

東西冷戦の対立構造

イデオロギー資本主義 社会主義

政治トルーマンドクトリン コミンフィルム

経済マーシャル プラン 経済相互所会議 COMECON


軍事 北大西洋条約機構NTO

ワルシャワ条約機構


雪解けの進行。

1953 スターリン死亡 朝鮮戦争の休戦

1955 ジュネブ四巨頭会議談 初の東米首脳会談

1956 ワルシチョフによるスターリン批判 平和共存路線

米ソ連 対立の雪解け期といわれえうのが ほぼ1950年代後半だ。1053年には長きに綿ってソ連に君臨してきたスターリンが死去してしまった朝鮮戦争で休戦協定がむすばれる。 朝鮮戦争はいまだ終戦していない

そして1955年にひらかれたのがジョネーブ四頭巨会談だ。これはアメリカイギリスフランスの西側三か国が呼び掛けにソ連が応じて実現したもので戦後10年が経過してようやくはじめて東西の首脳が同じテーブルにつくことにできた。 またこのながれはソ連フルシチョフによっていっそうすすめられる。 彼は一方でソ連のフルシチョフによっていっそうすすめられる。 彼は一方でソ連共産党大会でスターリン批判を行い東西両国陣営の英和共存路線をもちうちだす。 これで世界平和の実現は多きく高まった。

やれやれ これでひと安心だね。

ところが戦後最大の危機がこノアと訪れる1962年のキューバ危機だ。

キューバ危機1959 キューバ革命 キューバがソ連に接近

1962 ソ連がキューバにミサイル基地を設立

アメリカがキューバを海上封鎖 キューバ危機

1963 米ソが急接近 米ソホットライン協定

部分的核実験禁止条約 緊張緩和 デタント1959年のキューバ革命後 アメリカから干渉を繰り返されたキューバは次第にきゅーばはソ連と近接していきソ連っはきゅーばにミサイル基地を設立したんだ。1962

こうなるとソ連はアメリカを核攻撃の射程圏に押さえることになる

アメリカにたっては当時のケネディー大統領の表現をかりると喉元に突きつけられたナイフ だった。 

ここでケネディーはキューバに海上封鎖をかけ米ソは核戦争間で一色即発状態にちかずいた瞬間だ。

結果として米ソ首脳は妥協を選び戦争は会費された。

ここから米ソ関係は急速に好転し1963年には米ソ首脳階段ヲつなぐ直通電話回線 ホットラインを結ぶことでで合意するとともの部分的核実験禁止条約 にも調印し1060年代から1070年代にかけての時期は緊張緩和デタントの時代ともいわれることになるうんだ。

緊張緩和デ

タントの動き

1972 第一次戦略兵器規制制限条約 SALT I

ニクソン米大統領の訪中

1975  全欧安全保障協議 CSCE 米ソをふくめた全ヨーロッパの首脳階段

1970 年代緊張緩和の方向制に進み核軍縮などが進展していった、 もっともこの動きは次でふれる多局化とも関係して米ソ両大国の影響力が各陣営のなかで相対的に定価してきたことも背景となっているね。

権かばかりしている場合じゃなくなってきたということだね。

なにはともあれ今度こそ平和になったんだね。

ところがこの緊張緩和もまたうちやぶられてしまうきっかけはソ連によるアフガニスタン侵攻だ。

新冷戦

1979 ソ連がアフガニスタンへ侵攻

1981 レーガンが米大統領に就任強いアメリカに就任 強いアメリカ路線

1983 アメリカ戦略防衛構想SDI を発表

アフガニスタンでは1978年に新ソ派の政権が誕生していたけどこれんいたいして武装総力が抵抗運動を行いはじめて。 そして親ソ政権にも統治能力がないと見たソ連がここに軍を侵入させいっそう親ソ的な政府をつくられたというわけ。

これにアメリカが強く反発しSALLT 2への批准をとりやめ1980年のモスクワオリンピックにほかの西側諸国と共にボイコットした。

そこにソ連を悪の帝国問いはなったレーガンが大統領に当選し戦略防衛構想SDI を発表する。 これは宇宙空間でソ連の弾道ミサイルを迎撃

するという壮大なプロジェクトで革命スターウォーズ計画ともいわれた 怒ったソ連は経たである東欧諸国友でも1984年にロサンゼルスオリンピックをボイコットした

子供のケンカ見たいですね。

ちなみに1985にはロッキー4という映画が公開されている。 アメリカの国民的ヒーローであるボクサーが冷徹なソ連のボクサーに仇討ちするという冷戦ムードを象徴するものだった。

こんな風に米ソのケンカはなかなか収まらなかったんだけどソ連出で颯爽とゴルバチョフが登場することで事態が劇的に変わっていくんだ。 でもその前に世界史の主役が米ソ岳じゃなくなっていく動きつまり多局化についてもみておこう。

その前に世界史の主役米ソ岳じゃなくなっていく多局化の動きについて見ておこう。

多局化の展開

1950年代後半から1960年代にかけての時期には東西両陣営「で盟主の地位が次第に定価していく。まずは東側運営から

東側陣営のどうよう。

ユーゴスラビアの自主管理路線 コミンフォルムから除名1948

ハンガリー事件 1956 民主化運動に対しソ連軍が介入

パラハの春 1968 チェコスロバギアの改革運動に対しワルジョワ条約機構軍が介入

中ソ論争 中ソ国境紛争 1969

この時期に東欧各国ではじょじょにソ連からの自立の動きが起こりはじめるんだ。

フルシチョフ日よるスターリン批判をきっかけにしたハンガリー事件 1956やチョコスロバギア政権党の改革運動鎮圧されたがソ連の支配力が磐石でないことを露呈した。

ソ連と中国は社会主義国家どうしなのになぜケンカを

実はソ連共産党と中国っ共産党の関係は最初からあまり良好ではなかったんだ。

そこへフルシチョフがアメリカとの平和共存路線を打ち出したので中国共産党の指導者である毛沢東はこれを修正主義とよんで批判した。 この理論的対立はついに

1969 年に国境紛争にまでいたってしまう。

これでソ連を主敵とみた中国は今度はアメリカとてをむすんだ。。 こうして米中は関係を正当化させ1971年に中華人民共和国が国連の代表権ならびに安保理時常任理事国のポストを獲得することになった。

西側運営の動き

フランスがNATO の軍事機構から離脱1966

ECの成立1967 ヨーロッパの自立化

日欧の経済復興 アメリカの経済力の相対的低下

さて次に西側のうごきだ。西側ではとくにフランスの同行が重要だよ。 フランスにはマーシャルプランでこそアメリカからの援助を受けたけどアメリカべったりにはならなかった。 1955年代にはアメリカの反対を無視して核武装をおこない 独立の道をあゆむとしてNATOの軍事機構から離脱してしまう 政治機構には残留 

また欧州共同体EC の結成で欧州各国が結束をつよめたもの

立つアメリカの動きととらえられたしこの時期には日本と西ドイツをはじめ西側かっこくが高度成長をはじめた一方でアメリカはベトナム戦争に多額の国費を投じざるを得ない状況で相対的な地位低下はいなめなくなっていたんだ。


第三世界の台頭

周恩来 ネル会談 1954 平和原則

第一回アジアアフリカ会議 1955 平和十原則

第一回非道名諸国首脳会議 1961 

アフリカの年 1960 植民地独立付与宣言 国連総会で採択

最後に第三回世界の動きについて第三世界とは西側陣営にも

東側運営にも西側運営にもぞくさずに非同盟 中立の立場を足る発展途上のくにくにのことだ

軍事同盟をつくってにらみあっている。 東在両運営にたいして経済的におくれている。くにぐにが連帯して阿多らしい世界秩序を作ろうという機運がもりあがってきたんだ。 まず中国の周恩来首相とインドのネルー首相の会談で1954 年主権の尊重平等互恵 平和共存などの平和後原則で合意し共同声明を発表した、

それから翌年に開かれた第一回 アジアアフリカ会議でインドネシアのバンドで開かれたことからバンド会議ともいわれる。 ではさっきの平和後原則を発展させた平和十原則が採択される。 平和後原則と混合しないこと。

またそれまで植民地であったアフリカ諸国がそれぞれの早秋国からつぎつぎと独立を果たしたこととも第三世界の台頭の背景となっている。 とくに1960年は一挙に17か国が独立し16か国が国連に加盟した、。 アフリカの年 国連総会は一刻一票制だからこれによって国際社会における第三世界の発言力は一気に強まった。

次からは冷戦の終結のないように入ってくいくよ。

冷戦の終結 

さていよいよ冷戦の終結だ。 ソ連による侵攻をきっかけに新冷戦がおこっていたけどゴルバチョフの登場似よって状況ががらりと変わる。

冷戦の終結 1985 ゴルバチョフがソ連共産党書記長に就任

ペレストロイカ 再建改革の推進

INF 全廃条約 米大統領はレーガン

1989 応答革命 

ベルリンの壁 マルタ会談 で冷戦の終結を宣言

米大統領はブッシュ 父

1990 東西ドイツの統一 

1991 バルト三国の独立 ソ連の解体

独立国家共同体 CIS の成立

上のいた書 部分は超重要なのでそれぞれの出来事の意味と順序を性格におさえてね。 順に説明しよう。

まずソ連で1985年ゴルバチョフ政権が成立する

冷戦当初のソ連は宇宙競争や核開発競争でアメリカを驚愕するほどだったけど1970年代辺りからは経済的な大抵が隠せなくなっていた。 でも一党独裁のソ連ではなかなか改革の動きも起こらない。そこに登場したのが当時まだ54歳のゴルバチョフで彼は共産党初期長に就任すると八ツ木はやにさまざまな改革の方針に打ち込んだ。

徹底した秘密主義を否認するグラスのちす 情報公開 後ソの代表で彼の行った革命路線をペレストロイカ 再建改革 という外交面でも対米敵視政策を転換し各時代には資本主義に対する社会主義の戦いよりも核戦争のそしこそが重要であるという真摯そう外交ヲ訴えた。 そのおおきな制かがINF 中距離核戦争 全廃条約だ当時のアメリカ大統領はレーガン またアフガニスタン駐留軍も10年ぶりにっ撤兵された。 1989 

このようなゴルバチョフの動きヲみてチャンス到来と感じたのが東欧各国の民衆だ。 それまで民主化の動きヲみてチャンス到来と感じた東欧各国の民衆だ。それまで民主化だ。 それまで民主化の動きは何度もソ連似よって粉砕されてきたがゴルバチョフは同じことをやりそうもないことで1989年には各国で自由を求めた民衆がドミノ倒しのように共産党政権を妥当したが東欧革命 ソのクライマックスがベルリンの壁崩壊だ。東欧ベルリン市民が抱き合って涙を流すニュース映像は世界に大変な感動をあたえたんだよ、 東ドイツは事実上これで崩壊しよく1990年には西ドイツドイツ連邦共和国に吸収される形で東西ドイツの統一が実現した。

さてゴルバチョフだけど東欧革命の怒った1989年の12月に仲介のマルタ島でアメリカンのブシュ父大統領とあい

マルタ会談 東欧各国の民主化をふまえて冷戦の終結を宣言する

ソの結果翌年にはノーベル平和賞を受賞する。 おそらくこの瞬間が政治かとしての彼の絶頂期だろうね、。 1991年になるとたがのゆるんだソ連彼あバルト三国 エストニアラトビアリトニア が一方的にソ連からの独立を宣言する。 慌てた後る著羽著府は巻き返しを図る失敗に終わり逆にソ連の大部分を閉めるロシア共和国の大統領立ったエリシィンによって実験を奪われソ連共産党の解散とソ連を改革するつもり立った。 ゴルバチョフはひにくなことにソ連に引導を渡す役割を演じることになった。 もうソ連には再生する力が残っていなかったということだろうね。

ぐるしあ紛争 急ソ連南部のカフカス地方にあるグルジアは1991年のソ連解体によってCISの構成国となっていた。 しかしグルジア内部のロシア系住民の多い地域でロシアへの併合を求める動きがつよまるりこれによって介入したロシア軍とグルジア軍が2008年に武力唐突を起こした。 この結果グルジアやロシアと決定的に関係が悪化し 2009年にCISから脱退した。・

なお2015年からはロシア後にもとずくグルジアでなくジョージアと表記されることになる。

調印したのはアメリカ イギリス ソ連 の三か国 米ソ二石でもないし 国連総会で採択うでもないからね。 あとは地下核実験が抜け穴になっていることと フランスと 中国五これに加えていないということがポイントだ。

核拡散防止条約 NPT

核所有国 核兵器の譲渡禁止 誠実な核軍縮交渉の実説義務 非核保有 核兵器の製造 取得の禁止

国際原子力機関 LAEA による核査察の受け入れ義務

1968 年に62か国で調印 1995 に無期限延長が決定 

非加盟国脱退国への対応が課題

イスラエル インド パキスタン 北朝鮮 

核拡散防止条約 NPT は非核保有国が新たに核保有することを禁じる

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