はち
空き地から小路を抜け、カドニール大通りへと戻った頃には、東から群青の宵が黄昏を覆い尽くそうか、という表情で佇んでいた。
人の流れもややまばらになり始めている。店じまいを終えた店舗もちらほらと見られた。
「――――ヴィル?」
声をかけて来たのは私服警備中のクランたちだった。
「昨日のあれだ」
男を示すと、クランたちは即座に理解し、驚きを露にした。
「よく見つけたね。さすがヴィル、色彩師発見器を誇るだけある」
「そんな悍ましい称号誰が……マキか」
犯人は一秒弱で特定された。虫の居所は悪そうだが、ヴィルバートの顔色はさっきよりも大分よくなっている。
ルチカを色彩師だと断定してきたときからの疑問が、閃きとともに氷解した。
師匠でさえ、一人しか会ったことがないと言っていた、珍しい症例――――。
「色酔い、ですか」
驚愕を浮かべたのは、連行中の男だ。
「色酔いだと!?あり得ない!聞いたことない!女神の力に当てられるなんて呪われてるとしか――」
(あ。地雷、踏んだな)
ヴィルバートが男の腕を、肩の関節の稼働域を無視して捻り上げた。
自業自得な悲鳴に、ルチカはしたり顔だ。
「いぃってぇ……!横暴だ!おい、そこの幼児体型!変な顔するな!」
「即刻牢屋にぶち込んでやりましょう」
「……どの立場で物を言ってるんだ。不法滞在猫」
ルチカは口をつぐみ、大人しく背景に徹した。あやうく飛び火で火傷しかねないところだった。
(というかそれってただの野良猫……)
一応、ルチカは心で一言入れておく。
「……うん。話は戻ってからってことでさ、ヴィルがこのまま?」
連れていくのか、とクランは目で問う。常識人の彼がいなかったら、永遠と不毛な言い争いが続いたはずだ。
ヴィルバートはルチカて男を交互に見やり、どちらを任せるべきかと、深刻そうに眉を寄せて思案している。
「色彩師か、偽色彩師か……」
苦渋の決断めいたつぶやきが聞こえたのか、男がきょとんとしてから、はぁん?と訝しげに眉を上げた。
「偽色彩師……?何言ってるんだ。このガキは復――――や、いやいやそんな睨むな。黙る。黙るから。俺だって、消されたくはない」
ルチカの無言の威圧による牽制に、男は怯んだ。
「……復?」
耳聡く聞き返してきたヴィルバートを、ルチカはしれっと無視すると、自然な流れではたかれた。
「減らず口のくせに黙るな」
「黙秘権を行使します」
「おいおい、さっきから仲いいな。出来てるのか?お揃いの帽子なんか被ってな」
ヴィルバートがルチカをはたくために片手を離したことで、男の片手もまた、自由となっていた。拘束の緩みでふてぶてしさを取り戻して、無謀にも彼へと突っかかる。
「趣味の悪い騎士様だ。小児性愛者か?それとも少年好きか?少年としてなら、なかなか見られるからな。美少年って言ってやってもいい」
(ぶっ飛ばすぶっ飛ばすぶっ飛ばす……)
わざと怒らせようとしているのがわかっているのでヴィルバートは相手にしなかった。
それとも、ほぼルチカが貶されているだけだからかもしれないが。
男の言葉を耳には入れずに、ヴィルバートはその背を押しやった。
「クラン。こっちを頼む」
「わかった。じゃあ――」
クランが男を引き取ろうとした瞬間、最後のあがきとばかりに男は腕を振り回した。
無駄な抵抗だったはずのそれが、咄嗟に避けたヴィルバートの帽子の庇を掠める――――、
「あっ……!」
ルチカの目の前で、帽子が駒送りのように、ゆっくりゆっくりと落下した。
考える暇もなく、反射的に動いた。石畳の上へと音もなく着地した帽子に、腕を伸ばす。そのとき――――、
「ひっ……!」
短い悲鳴がした。
顔を上げて、その惨澹な情景に、目を見張った。
カドニール大通りを歩く人々が、ヴィルバートを見て息を飲み、恐れを隠すことなく、避けて――――逃げて行く。
辺りは騒然となった。
老いも若きも関係ない。男性も女性も大人も、子供でさえも、嫌厭し、畏怖する表情を浮かべ逃げ惑う。
あ、と気づく。
最初にここへ訪れたときに、彼をちらちらと気にしていた娘たちが、その中にいた。
その目は、色しか見ていない。
ルチカは溢れ出す感情を後回しにして、帽子をヴィルバートへと被せようと背伸びをして、――――固まった。
彼の表情が、いつもと驚くほど変わらなかった。
達観してるのではなく、諦めているのだと、その紫石英の瞳が物語っていた。
(この目には世界がこう、見えているのか……)
ふいに、ルチカは哀しくなった。何度も髪を切ろうとして、師匠に諭されたことを思い出した。
せっかく拾った帽子を、ルチカははらりと取り落とす。
おかげで、両の手のひらが空いた。
人の手は、誰かを癒すためにあるのだと教えられたから、ヴィルバートを正面からぎゅっと抱き締めた。
昔、師匠がしてくれたように。いつも、してくれたように。
驚きと動揺、そして拒絶が、触れた先から伝わってくる。突き飛ばされる前に、がっしりとしがみついた。
端から見たら滑稽だろう。笑うがいい。
「五感というものがあります。あなたを傷つけるものは、その内のたった一つだけです。あなたの声はわたしの耳に心地好く響きます、あなたの匂いは安らぎを与えます、あなたに触れれば暖かくて微睡んでしまう、味はわからないけど……甘美であると決めつけます。
目に映るもののみに囚われる貧困な価値観しかもたない人間ばかりじゃない。だから――――そんな顔してるとぶっ飛ばして活を入れますよ!」
肩を掴み引き剥がそうとするヴィルバートに、ルチカは嫌嫌と背中のシャツを握り締めて離さない。
自分をまっすぐ受け入れてくれる人だけを、信じていればいいのだ。余計なものにつけられた傷は、その人たちが癒してくれる。時間が掛かっても、きっと。
そんなことを心で切に願っていたルチカに、ヴィルバートが珍しく声を荒げた。
「……ッ、馬鹿猫!色彩師が逃げた!!」
ヴィルバートの胸に押しつけていた顔を速やかに横へと向けると、そこには、混乱に乗じて逃げ去る男の後ろ姿があった。
クランたちが人を掻き分け、慌ててその後を追いかける。
出だしで遅れたヴィルバートにはもう、追いつかないだろう距離が開いていた。
ルチカは初めの内から、彼が男を追う邪魔をしていたらしい。
「…………にゃー」
「誤魔化すな」
色々と恥ずかしいことを言った手前、顔も頭も上がらない。
「……いい加減離せ。あと、帽子」
ルチカは顔を俯けて、ヴィルバートから腕をほどき、しゃがんで落ちていた帽子を拾うと、汚れを払って返却した。
それをさっと被り、ヴィルバートがルチカの左手を取った。
全身朱に染まったルチカの耳に聞こえたのは、あの無慈悲な金属音だった。
――――カチャン。
また、捕まってしまった。
見上げると、蒼然たる暮色に溶けない、漆黒の髪の幻影が過った。それも今は、帽子が彼を守っている。
(布一枚の加護か……)
夕日の名残か、薄紅がかった彼の頬に心臓が跳ねた。手錠で繋がった左手が熱を帯びる。
「せっかく捕まえたのにな」
その口調からは怒りが感じられず、ルチカは一先ず安堵した。
「野良猫が人目を気にせずじゃれついて来るからだ」
「…………」
それを持ち出されると、返す言葉がない。
「マキの猫に」
「ご容赦を」
「それなら帰って躾だな」
珍しく楽しげな口調のヴィルバートに、ルチカはがっくりと肩を落とし、首輪ならぬ手錠を引かれて歩き始めた。
◇◆◇◆◇◆
朝昼晩と餌付けされ続けて、脱走しないことを誓ったルチカは、手錠をぶら下げ中庭にいた。
噴水の台座で膝を抱えて、今日で捕獲されてから何日になるか指折り数える。
(昨日の夕食は野菜ごろごろシチューで、一昨日は昼食がプリンつき。その前が朝食を逃した無念の日だから、……もう五日目か)
女神の復活祭の準備がカドニールで進む一方で、事件には進展がなく、今日はヴィルバートまでもがミアの警護に駆り出されている状態だった。
(また帽子落としたら大変なのにね)
ルチカは本部で、かなり暇を持て余していた。
三食寝床つきのこの怠惰な生活に慣れてしまうと、後々苦労するだろう。
(師匠のせいで飼い猫になりそうですよ)
すっかり猫扱いが板につき、こうして中庭で一人日向ぼっこをしていても、騎士たちに違和感なく受け入れられている。
「ヴィルの猫ちゃん。今日もりんご、いかがですか?」
眼前に差し出された姫りんごの実を、ルチカは手のひらをチューリップ形にして受け取った。
ころころと、三つの白い姫りんごの実を手の中へと落とし入れたのは、中庭でよく会う作業着姿の物腰柔らかな初老のおじさんだ。
作業着にシュトレーと刺繍がしてあるので、それがおそらく彼の名前だろう。
木々や草花の手入れから、ごみ拾い、噴水の掃除まで、庭の管理を一人で請け負っている庭師だ。
ルチカを見かけるたびに、この姫りんごを数個ずつくれるのだ。
(だから中庭にいるんだけどね)
しょり、とりんごを齧ると、強い酸味が口の中に広がった。これがまた、何とも癖になる味なのだ。
「美味しいですかな?猫ちゃんはいつも、いい顔で食べてくれるのでね、こっちまで嬉しい気持ちになりますよ」
シュトレーがルチカの隣にかけたので、行儀の悪い足を地面に下ろした。
「とても美味しいですよ。でもその呼び名は騎士団内に流布済みですか。犯人は……あの人以外にいないですね」
「偽色彩師の偽野良猫ちゃんでしょう?今はヴィルの飼い猫だという噂ですがね」
「偽色彩師はまだ続くんですか」
うんざりとしたルチカを、シュトレーがくすりと可笑しそうに笑う。
「マキが気に入ってますからね、飽きるまで辛抱なさい」
マキには玩具扱い、ヴィルバートには猫扱いのルチカは、ふと気づいて彼に尋ねた。
「庭師さんは彼らと親しいんですか?」
呼び方もだが、その口調から親しみが感じられる。
「彼らがここに来てからですので、十数年来の仲ですか……。時が過ぎるのは早いもので、可愛いげがなくなってしまいましたかな」
昔を思い出してか、目尻のシワを深め、懐かしそうに宙を見つめている。
「可愛かった頃があったんですか?生まれたときからあの性格だと言われた方が、まだ納得できますよ」
「……あなたは昔と同じ性格ですか?」
質問を返され、ルチカは一瞬だけ、言葉に詰まった。自分の発言の、浅はかさを思い知らされた。
「……違いますね。たぶん、ですが。あの頃は、言葉を知らなかったので、漠然とした思考しか持っていませんでした。人よりは、……動物に近かったかもしれません」
「あなたはヴィルに似ているのでしょう。あの子は複雑な生まれでしてね。さらにあの色でしょう、ここに来るまでは家に閉じ込められていたようで」
それは想像に難くなかった。確かに、ルチカと似ている。
「それでどうしてここへ?」
「ある女性が連れて来られました。ここで預かって欲しいと。国に忠誠を誓うここならば、狭くとも自由があるから、とおっしゃってましたか……」
シュトレーは微笑みながらも、どこか寂しげな表情をしている。
「彼の周囲は、アルフレッド王の再来を恐れていたんですね」
彼が、彼の王のように色彩を奪うことを。
「……そんなところでしょうね。――――ところで、あなたもアルフレッドを王と呼ぶのですね」
ルチカの失言を、シュトレーは気にする素振りはなく、むしろ親しみを深くして目を細めていた。
「……あなたも?」
「えぇ。彼女も、アルフレッドを王と。あなたの目は、彼女にどこか似ていますね。色ではなく、信念を貫くための曇りない眼差しが」
ルチカは体を捻り、噴水の水面に顔を映した。
日の光で爛然と輝く銀白桃の髪に比べると、見劣りしてしまう金の瞳が、揺蕩いながらルチカをじっと見つめている。
信念などという高尚な志を、持っていると言えるのだろうか。
ただ一心に、師匠の背中だけを追いかけていただけではないのか。
「りんご、もう食べませんか?」
ルチカは二つの可愛らしい姫りんごを、宝物のように大切に包み込んだ。
「これは、おやつに取っておきます」
「そうですか。ヴィルも喜んでくれるといいですね」
「…………」
おっとりと言うシュトレーに、ルチカは本来のりんご色に頬を染めた。
「ああ、そろそろ行かなくては。他の猫ちゃんたちが、焼きもちを焼くでしょうから」
シュトレーの言葉がわかるのか、かさっ、と茂みで何かが動いた。
今のところ姿は現さないが、件の猫たちだろう。
「では、また明日」
「はい。また明日」
ここ数日のお決まりの挨拶を交わし、ルチカは、本物の猫たちとシュトレーを見送った。
シュトレーの猫たちとは、いい関係を築いています。