なな
「ご苦労様」
マキにロランツを突き出すと、嘘いつわりなくご褒美に鍵を放った。
片手でぱしっと受け取ったヴィルバートが、その鉄の鍵を手錠の鍵穴へと差し込む。
カチャ、と音を鳴らして彼はあっけなく解放された。
「本物ですね」
「疑ってたんだ?悪い子だなぁ、偽野良猫の偽色彩師さんは。お仕置きに、俺と繋がっておく?」
マキは口の端を上げながら、自分の手首をルチカへとやんわり掲げた。
「自分で自分をお仕置きって言うのか、おまえは」
ヴィルバートが右手首を確かめるようにさすってから、鍵をシャツの胸のポケットへとしまい込んだ。
ルチカはマキと繋がれないようにと、輪をぶら下げた手錠を素早く背に隠す。
「鍵はあげるけれど、逃げられると困るから、帰りはまた繋がって貰うよ」
ヴィルバートがルチカのこれまでの所業を振り返り、渋々ながらもすんなりと受け入れた。
(せっかくの機会なのに)
なんだかんだで馴染んでいたルチカだが、騎士団所属ではなく不法滞在の囚われ者の身だ。
隙をついて逃げ出せればいいのだが。
(そして師匠を発見次第、ぶっ飛ばす)
「君ってたまに変な顔をするよね。誰のことを考えてる?好きな人?」
「そうですね」
投げ遣りに答えたルチカは今後のことを思案する。
師匠がルチカを置き去りにしたことに、理由があるとすれば、フルーヴェルにいて欲しかったからではないのか。
だとすれば、フルーヴェルにいればいつか師匠が迎えに来る。
問題は、それがいつになるかだ。
ルチカはしれっとした顔で言った。
「ちょっと、お花を摘みに行ってきます」
マキは考える素振りもなく平然と扉の外を指差した。
「それなら部屋を出て、右に曲がった突き当たりだよ」
丁寧に道のりを教えてくれたマキに送り出されて、ルチカはお手洗いを目指した。
迷うほど道があるわけではないので、すぐに到着し、用を足し、手を洗って、前後左右を見渡し、窓枠に足をかけ、――――華麗に逃走を謀った。
◇◆◇◆◇◆
カドニールからフルーヴェルまでは馬車で行きたいところだが、懐事情の都合で断念した。有り体に言えば、ルチカは無一文だ。
西の空に茜が混じり、数刻の猶予もなく日が暮れてしまうだろう。
カドニール大通りを徒歩で南下しながら、ルチカはぴりぴりと警戒を強めていた。
ヴィルバートといたときは難なく歩けた道も、一人では気を抜けずに、何度も帽子を深く捩じ込んだ。擦れ違う人の目から避けるように、つま先へと視線を落とす。
騎士たちに捕らえられるよりも、知らない誰かに捕まることの方が恐ろしい。
ルチカを監視するだけが目的だったとしても、ヴィルバートの存在が周囲への盾となっていたのは事実だ。
戻ろうか、と一瞬だけ日和見な考えが浮かんだが、すぐに足蹴にして胸の奥底へと沈めた。
師匠の真意を探らなくては。
それに野良猫は、餌付けされても自由気ままに街を駆けるものなのだ。
ルチカは左手首から垂れた鎖を手繰り寄せて、袖に隠しながら人の波に乗った。
遺憾ながら美少女ではないので、カドニールの誘拐事件には巻き込まれる心配はないだろう。
わざわざ自ら首を突っ込みかけていたが、噂では好奇心は猫を殺すらしい。
美少女たちには申し訳ないが、ルチカが役立つ事案ではなさそうだ。知恵を絞るのは吝かではないにしても。
(そういう普通の事件は騎士団の管轄だしね)
と、考え事をしていると、人を掻き分け脇目も振らず走って来た少年が、注意力散漫だったルチカと正面から衝突した。
「……っ!」
少年の頭がルチカの左肩を直撃し、体が傾ぎかけたのを踵で踏ん張り、なんとか立て直す。
しかし少年は謝りもせず、ルチカが振り返ったときには、人に紛れて後ろ姿もそこにはなかった。
衝撃を受けたせいで、それとは別の痛みが左肩をつきんと刺激する。
雨の日の古傷のように、忘れていた頃にかぎってぶり返す疼痛に、ルチカは苛立ちを込めて唇を噛み締めた。舌にほんのりと、血の味が乗った。
ルチカを希色にした男の徴が、左肩に刻まれている。あの男の名が、印されている。
自分の作品だと誇るように――――。
疼痛は次第に、少年によって受けた頭突きの痛みに覆われ、消えていった。
(痛い……)
肩を押さえながら、どこか休める場所を探して首を巡らせた。大通りからいくつも伸びた脇道の一つに滑り込むと、店舗の裏に右肩を預けた。
(石頭め……)
胸の内で弱々しい悪態をつき、嘆息をもらした。
そっと襟をめくると、剥き出しになった肩がうっすらと赤く色づき始めていた。そこに浮き上がる文字は目に映さない。
一般人には目視出来ないのだから、とルチカも無視を決め込み続けた。
しかし、徐々に痣っぽくなっていく肩を、どうするべきか。冷やすものがあればいいのだが。
ルチカはブラウスのボタンを上から三つ、ぷちぷちと外し、肩をさらに迫り出そうとしたとき、
「馬鹿っ、猫!」
背中から暴言とともに、ばふっと上衣を被せられた。
「常識を学べと言っただろう。街中で脱ぐな。露出狂」
眉間にシワを刻んだヴィルバートが、説教じみたことを言いながら背後から颯爽と現れた。
「子供がぶつかったくらいで大袈裟だな」
上衣は男物でルチカにはぶかぶかだ。ヴィルバートが紳士らしく目線を外して、ボタンをかけろと命じた。
「……尾行してたんですか?いつから?」
気配すら感じ取れなかった。してやったと思っていたのに、情けない。
ルチカは大人しくブラウスをさっと直して、上衣の前を合わせた。
「初めからだ、脱走癖。窓から不格好に飛んだとところからな」
思い出したのか、ヴィルバートが手の甲で口を押さえ、帽子の庇に表情を隠した。
笑われるほど不細工な飛び方をした覚えはない。
(……というか)
「逃げるってわかってて泳がせたんですか。だったら、わたしにバレた時点で終わりですよね」
ルチカをわざと自由にさせ動向を探るならば、今姿を見せてはいけないのではないか。
言葉に詰まったヴィルバートは、八つ当たりぎみにルチカをはたいた。その目元がやや赤い。
それを誤魔化すように言い募る。
「猫の脱皮が見苦しすぎたせいだ」
「猫は脱皮する生き物じゃないです!」
「偽猫ならするかもしれないだろう」
「だんだん呼称が適当に……」
もう猫ですらない。化け猫の類いか。
呼び名については諦めたルチカの唇に、何の前触れもなくヴィルバートの指が触れた。
「――――!?」
「血が出てるな」
頤を片手で摘まみ固定して、反対の親指の腹でにじみ出ていた血を拭い取った。
ルチカは沸騰したまま、危うく意識が遠退きかけた。咄嗟に顔を背けてヴィルバートの手から逃れ、帽子の庇を最大限に下げた。
「何でも食べようとするな、雑食」
暴言が全然沁みて来ず、反論の方向性がやや狂った。
「わかりました。あなたがくれるものだけを食べます」
堂々とした集る宣言に、はたかれるのを待ったが、いまいち反応が鈍い。物足りなさから、ちらっと庇を上げて見た彼の雰囲気にたじろいだ。
ヴィルバートが紫石英の目を鋭く細め、夕紅が影を伸ばす道の先を見据えていた。
帽子に秘めた漆黒の髪が、宵の訪れに濃さを増す。
「何か――」
「静かに」
そう言ったヴィルバートの顔色が悪い。吐きそうなのを堪えるためか不快そうに口元を覆い、ルチカを挟んで壁に手をついた。
「急にどうし――――ッ!?」
ルチカはばっと勢いよくヴィルバートが警戒していた方向へと視線を投げた。
「……小物がいる」
ヴィルバートが感じているような激しい不快感はないが、ルチカは本能的にその気配を嗅ぎとった。
「ちょっと見てきます。ここで休んでて」
「まっ……」
待てという覇気の欠けた掠れ声を振り切って、ルチカは駆け出した。
♢
店舗と店舗を隔てる狭い通路の先に、打ち捨てられた空き地があった。
四方を建物の裏手に囲まれ、虫が飛び交う白い雑草が、辺り一面延び放題だ。
その片隅に、朽ちかけた小屋がある。どこかの店が倉庫として使っていたものだろうか。
その小屋から、少年が飛び出して来た。締まりの悪い扉のせいで、剥がれかけたトタン板の屋根が頼りなくカタカタと震動する。
少年はそこにいたルチカに驚いてか、隘路を逃げるように去っていった。
彼はここへ来る途中にぶつかった、あの少年だった。
遅れて小屋から男が顔を覗かせた。身なりは良いが、狡猾そうな顔立ちの中年の男で、煩わしげな眼差しをルチカへと注ぐ。
「あいつの仲間か?怖じ気づいて逃げ出すやつになんざ用はない。さっさと帰れ」
小屋へ逆戻りしかけた男に、ルチカは努めて子供っぽい口調で問いかけた。
「おじさんは色彩師ですか?」
尋ねると男はくるりと振り返り、ははあと眉を上げ、顎を撫でながらルチカに近づいて来た。
「おまえも弟やら妹やらの彩色を頼みに来た口か。金は?」
「持ってません」
「だろうな。見るからにみすぼらしい娘だ。貴人ばかりを相手にしてきたこの俺が、おまえみたいなガキの依頼なんか普通なら受けつけない。が、ちょっとばかし手伝いをしてくれたら、考えてやらないこともない」
「手伝い、ですか」
ルチカは躊躇いがちに男を見上げた。
すると男は、調子よく饒舌に語り始めた。
「さる高貴なお方が、ある娘を欲してる。……ああ、何。一目惚れみたいなものだ。見事な髪をしたその娘に惚れたってところだ。おまえも一応女だし、上手くその娘をそその……いや、仲良くなって、その方との出会いの場を取り持ってくれればいい。簡単だろ?」
(唆すって言おうとしたな、この人)
「さる高貴な方ですか」
「おぉっと、深くは突っ込むな。おまえみたいな色気のないガキでも、世界中を探せばどこかに需要がないこともない。売られたくなければその口を閉じて、この俺に従いな」
男がずいっと顔を近づけ、脅しをかける。
ルチカは一先ず、感情を殺してうなづいておいた。
「いいぞ、利口だ。色気はなくても脳は詰まってやがるな。胸の脂肪が何だ。脳みそと反比例してるだけだ。全く女神も残酷なことをしやがるッ!」
「…………」
「だいたいこの俺を切り捨てようとは何様のつもりだ!ちょっと爵位があるだけのどら息子め!」
「…………それで?」
「ちっ、愛想のないガキだな。媚びでも売ってみたらどうだ。ただで彩色する気になるかもしれないぞ。一晩ぐらいなら相手してやってもいい。顔は見られないことはないからな。顔は」
卑下た笑みに、ルチカは俯いたまま「……小物め」と重低音のつぶやきをもらした。
それを皮切りに、この短時間で溜まりに溜まった鬱憤をはらすべく、早口で捲し立てた。
「要約すると、その貴人変態どら息子とやらは希色収集家の希色愛好家で、希色の娘が欲しいからお抱えの色彩師に命じて拉致させたということですね。その色彩師は一度失敗してるから後がないというわけですか。こんなみすぼらしい娘に頼るぐらい切迫詰まってるってことですね。子飼いの色彩師にありがちな話です。そんな小物の色彩師に、わたしは用がありません」
あらかた吐き出し、ルチカは溜飲を下げた。
流暢なリュオール語を矢継ぎ早に投げつけられた男は、しばし放心してから徐々に紅潮し、憤怒に震えだした。
「ガキが、なめた口利きやがって!」
「小物が、なめた口利きやがって」
そっくりそのまま返し睥睨するルチカに、男は顔を歪ませ言い募った。
「さっきの話は全部なしだ!おまえのような色気も知恵もないガキ、大金はたかれても彩色してやるか!」
「小物の彩色にはあめ玉一つ分の価値すらありませんよ。……色彩師に、価値なんてない」
小さく、根底で渦巻く感情を吐露すると、男は鼻で嘲笑った。持たざる者の僻みとでも思ったようだ。
ルチカは金の瞳で捕らえるように男を映した。
本来なら師匠の仕事だが、やむなくルチカは初めてその台詞を口にした。
「教会は、色彩師を認めません」
「教会、だと……?」
驚きを顕わに、男は茫然とルチカを見遣る。腐っても色彩師。教会がどういうところか、聞き及んでいるようだ。
「あなたのような悪徳色彩師はきっと、彼らが許しませんよ?」
すると男が忌々しげに吐き捨てた。
「おまえ、裏教会の人間か!……まさか、復――」
「――――猫、避けろ!」
背中にかかったヴィルバートの指示に、一拍遅れて従った。
恐ろしいことに、頬ぎりぎりをヒュン、と何かが掠めていく。銃弾かと腰が抜けかけたが、路肩に転がっていそうなただの石だった。
石は男の肩へと直撃し、呻き声が聞こえた。
「……逃亡中の色彩師だな?」
ルチカを拒絶したときを越える冷たさの声と表情だ。全身から嫌悪があふれ出している。
「色彩師だと?ははっ、なんの話だ。俺は気紛れにそこのガキと遊んでやっただけだ」
白々しく、男は肩を押さえながら顎でルチカを差す。矢面にたたされたルチカは猛反論する。
「嘘ですよ!色気がないだの愛想がないだの、人のことを散々侮辱して!」
「うるさい、猫。色彩師なのは言われなくてもわかってる。偶然がすぎるが、おまえの拉致を指示した男だな?」
「この人自分でぺらぺら暴露しました」
ルチカに指を差され、売られた男がぽかんとした顔で見返す。気乗りしないが、帽子を取った。
頭を振って外気に触れさせると、生き物のように息を吹き返し艶を増す、麗しき髪。
「あ、あぁーー!!」
西から伸びた茜を弾き、燦々と輝く銀白桃の髪に、男が驚愕の声を上げた。
男はルチカの髪から視線を無理矢理引き剥がし、戒めるように拳で膝を打ちつけた。
「く……、き、きっ」
(根性で綺麗って言わないようにしてるな)
「き、汚い!性格が腐ってる!」
(ぶっ飛ばす)
すぅっと目を細めるより速く、ヴィルバートが動いた。喚く男の腕を瞬時に掴み、背中側へと捻り上げる。
「い、いてっ……おい!何なんだ!そこの髪しか取り柄のないガキを、この俺が拉致!?裸で迫られても連れてかない!」
(さっきと言ってることが違うし!)
ヴィルバートに両腕を拘束され、連行を余儀なくされた男の罵詈雑言を浴びながら、ルチカは脳内で例の口癖を吐き続けた。
ぶっ飛ばす。です。