ろく
午後のカドニールはルチカの想像を越えた活気に満ちていた。石畳の幅広い大通を挟んだ右と左に、店舗がずらりと軒を連ねている。飲食店や雑貨屋はもちろんのこと、珍しいところでは劇場や占い処まであった。
帽子を押さえながら庇の影で密かに目を輝かせているルチカを、左手首に結ばれた包帯がくいくいと呼ぶ。
「遊びに来たわけではないからな」
苛立ちが尾を引くヴィルバートは、お揃いの帽子も、手錠の上に巻かれた包帯も気に入らないらしい。
仏頂面に磨きがかかり、近寄りがたい雰囲気を醸し出している。その精悍さに粗野な混じり気は一切なく、純粋にマキの性格を見誤った自分に対して腹立てているようだった。
「わかってますよ。クランさんやロランツさんについて行けばその先にマキさんがいるんですよね?」
もう一度確認すると、ヴィルバートは鬱屈としたため息をもらした。
クランたちがカドニールに潜入している騎士たちと交代するために、私服に着替えて一足先にここへと訪れていた。その後を、ルチカとヴィルバートが何食わぬ顔で尾行しているのが今の状況だ。
溢れ返る人混みを、彼らを見失わないように肩ですり抜けていく。だが、手が繋がっているせいで、自由に進むことが困難だった。
ルチカが右にずれればヴィルバートも右に寄らなくてならず、逆に彼が左に避ければ体力と敏捷さの差で、左手が引きずられて蹴躓く。
前方からまっすぐと歩いて来た人は、包帯で繋がる二人の間を通れず、嫌みをぶつけていった。
「これだけ人がいたら、誘拐なんて日常茶飯事じゃないですか」
ルチカは恰幅のいいおじさんにぶるかる寸前で、ヴィルバートに繋がる手首を引っ張られた。手首に巻きつけた鎖が食い込んで、きゅっと眉を寄せる。
「喧嘩売ってるのか?」
と言いながら、ルチカの左手首の鎖を包帯越しに調整し直し、ヴィルバートが睨む。
「フルーヴェルでも駆け落ちで月に数人はいなくなるって聞きましたよ」
駆け落ちはどこの国でもよくある、若者文化の一つだ。
身分差の恋に堕ちた男女が手に手を取って逃避行、というのを旅の道中で腐るほど見かけた。
師匠の毒牙にかかり、恋というものに堕ちた愛人たちを間近で見すぎたルチカには、あの情熱が理解し難い。
もっと穏やかな恋物語がルチカの好みだ。
恋とは無縁そうなヴィルバートは、すれ違う若い娘たちに、ちらちら視線を向けられ、鉄壁のしかめ面であっさりと躱している。
それを横目で覗きながらルチカは呆れた。騎士らしい硬質な端整さを自覚していないのだろうか。
(お揃いの帽子のせいだと思ってるな、この人)
「フルーヴェルと比べるな。いいか?いなくなった娘たちにはきちんとした恋人がいた。駆け落ちする必要はない。……その目は何だ」
「どんな目ですか。ずっとこんな目ですよ。そんなことより、犯人の目星とかは?美少女趣味の変態さん?そんなやつ朽ち果てればいいのに」
つい心の暗部が、声としてもれ出した。
ヴィルバートをうかがうと、なぜかその顔には憐憫の色を浮かんでいた。
「何ですか、その目は」
「生まれつきこんな目だ。――――捜索情報を部外者には教えられるわけないだろう。美少女の枠に入れて貰えなかった恨みは捕まえてから晴らさせてやるから、詳しく聞くな」
「むしろあなたを恨みます」
真面目なのかぼけてるのか、師匠の話から可哀想な子認識が加速している。
そんな他愛ない話をしながら、クランが密かに入っていった宿屋へと、二人も続いた。
高級路線から外れた鄙びたその宿屋は、他の宿屋に隅へと追いやられ、肩身狭く縮こまっていた。
平屋造りで寂れた印象しかないこの場所に、国を守る騎士たちが潜伏しているとは誰も思わないだろう。
騎士団で貸し切りにしているからか、受付台には慌てて書かれたような「満室」の文字が貼られている。
従業員は見当たらず、奥へと伸びた客室に断りなく踏み込むことにした。
クランたちが消えたのは一番奥の部屋だ。その扉の前までつけ、そして何の疑いも持たず、開けた。
どっと笑い声が轟いたのは、ほぼ同時だった。
唖然としたルチカを、座敷で胡座をかいた数人の騎士たちが、腹を抱えて爆笑している。いや、正確にはルチカにではなく、ヴィルバートにだ。
左隣からかつてないほどの冷気が漂ってきた。
「――――マキ」
氷麗の刃で突き刺すように名前を呼ばれたマキは、笑いすぎて捩れた腹が元に戻らないのか、手のひらをヴィルバートへと向けて、待ってと訴える。
胡座をかいていても、大笑いしていても、マキの纏う空気からは気品が損なわれないのが不思議だった。
「だめだ。君たち、想像以上に似合ってるよ。ヴィルは官帽で来る可能性もあったけれど、まさかお揃いの格好をして、街中を仲良く歩いて来るなんてな。付き合い始めの初々しい恋人同士みたいだよ?」
ルチカは戦慄いた。手錠の振動が共鳴し合って怒りを奏でる。
「……今、本気であいつを殴りたいと思った」
「奇遇ですね。わたしも、ぶっ飛ばしてやろうかと思ってました」
対外的にはそんな風に見えていたのかと、遅い羞恥が襲って来て全身真っ赤だった。お揃いの帽子はまだしも、手は確かに繋いでいるように見えなくもない。
「普通の、恋人同士みたいだ」
マキがもう一度同じことを言った。さっきとは違う、しみじみとした口調だ。
ルチカは怒りが瞬く間に凪いでいくのを感じていた。
マキは人の感情を操るのが本当に巧い。ただの意地悪なのに、ルチカたちを慮ってのことのように聞こえてしまった。
嫌がらせと確信しているのに、他人にも、ルチカたちが普通に見えることが嬉しい、と思っているような表情をする。
(ずるいな……、この人)
騙されてるとわかりながら、ルチカはほのかに色づく顔を俯けた。
マキの手管に慣れているヴィルバートが、ルチカの様子に眉を寄せる。マキから離すように、ルチカの左手を引き寄せた。
「あのー。非常に言いにくいんですが」
妙な空気を打ち破り、クランが挙手して注目を集めた。
「どうかしたのか?」
マキが遊びをやめて、態度を少し切り替えた。
「ロランツが消えたっぽいです」
ルチカは室内をぐるりと見渡したが、確かにロランツの姿はない。いつからいなかったのかも、定かではなかった。
マキは思い当たるふしがあるのか、あぁ、とうなづく。
「ロランツか。あの、監視対象者に恋情を抱くという愚を犯した、あのロランツねぇ。謹慎処分にするか、それとも、野良猫の餌にするか」
ルチカが反応してふっと顔を上げると、ヴィルバートが微妙な表情をした。
「本物の猫のことだ。本部に住み着いている野良猫」
「偽野良猫の偽色彩師だよ、君は」
訳がわからなくなってきた呼称に、ルチカは苦言を呈した。
「呼び捨てでいいからルチカって呼んでくださいよ」
「わかった。じゃあ俺のことは、様をつけて呼んでいいよ」
しれっと言い切ったマキに、「暴君様」とつぶやくと、部屋に冷気が立ち込めた。
マキは目を丸くしているだけだが、他の騎士たちが氷結している。居心地悪そうにヴィルバートはマキから顔を背けた。
「暴君ねぇ……」
「冗談ですよ。いちいち偽野良猫の戯言に付き合っていたら日が暮れます。それよりも残念な愚の骨頂、ロランツさんのことは放置ですか」
マキからいたぶられる前に、ルチカは早口で切り出した。保身のために、ロランツを売ったとも言える。
「そうそう、ロランツだ。暇そうな君たちが捜して来てくれたら助かるかな」
「暇って……」
ヴィルバートが、誰のせいだとマキを睨む。
睨まれて怯むようなマキではないので、あっさりと片手を振ってあしらった。
さっさと連れ戻して来てね、とマキのにこりとした笑顔が告げている。
ルチカたちは、マキの目配せですぐさま動いた騎士たちによって、部屋の外へと追い払われた。嬉々として従う彼らの生暖かい眼差しが気になりはしたが、ヴィルバートがむすっとしているので沈黙を選んだ。
閉まりゆく扉の隙間から、マキの声が投げられた。
「ご褒美にそれ、外してあげるからね」
結局甘言に惑わされ、ルチカとヴィルバートはロランツの捜索へと渋々乗り出した。
ロランツが向かったと思われる場所は、カドニール大通りから少し逸れた位置にある、レース専門店だった。
レンガ造りで、店構えはちんまりと言うのが大袈裟でないほど小さい。小人の住む家のように、玄関扉がルチカの背丈ほどしかない。ルチカですら頭を潜らせないといけないのだから、ヴィルバートは腰を屈めなければならないだろう。
淡い黄色のレースカーテンが掛かる張り出し窓から、棚に陳列されたレースの小物が数点覗けた。壁には巻き尺のような、種類豊富なレースが飾られている。
そして商品の配置を変え、にこにこと楽しそうにうなづいている、可憐な美少女の横顔が見えた。
緩やかな波を描く髪を高い位置で一つに結い、レースのリボンで括っている。爽やかな檸檬色の髪は彼女の愛くるしい顔を、甘すぎず明るく見せていた。
「果実の砂糖漬けを思い出しました」
「とりあえず食べ物から離れろ」
はたかれるかと身構えたルチカだが、ヴィルバートは店内を注視したまま視線を外さない。
(……何となく、面白くない)
ルチカは手錠をぐいぐいと引っ張る。
ヴィルバートの意識がルチカに移ると、すかさず言った。
「監視対象者に見惚れるなんて。マキさんに言いつけてやる」
瞬間、ルチカは強めにはたかれた。
渋面のヴィルバートが店内を指差して、見ろと促す。
後頭部を押さえつつ指の先を追うと、締まりの悪い顔をしたロランツが、レースの髪飾りを手に美少女へと話しかけていた。
「数時間前にわたしを可愛いって言ったその口で他の女を口説きますか」
「何目線だ。あいつは女なら誰にでもちょっかいをかける」
「それにしては、熱心さが違いますよね?彼女が本命ですか。御愁傷様です」
「…………」
まだわからないだろう、とは言わないヴィルバートが目を逸らせたとき、店内の美少女がこちらに気がつき会釈をした。
「中に入りますか?とりあえず客として」
騎士団が彼女を見張っていることは極秘だろう。恋は盲目とはいえ、ロランツもそれをもらしてしまうほど理性を失っていないはずだ。
ヴィルバートが入口の低さにうんざりとしながら、ルチカに続いて入店した。
「いらっしゃいませ」
美少女は声も愛らしい。花が咲く音があるのならば、彼女の声はきっとそれだ。
ルチカよりも背が低く小柄なのに、胸回りの服の窮屈さが目立つ。
(理不尽だ)
彼女はルチカたちが恋人同士だと思ってか、話しかけずにそっとその場を離れた。じろじろ見たりはしないが、何かあればすぐに対応出来るように意識だけはこちらへと向けている。
残念なことに、彼女しか目にはいっていないロランツはルチカたちに全く気づいていなかった。
「あれは使い物になりませんよ。連れ戻す必要ありますか?」
小声で話しかけると、ヴィルバートも呆れ果てたのか潜めた声で言い切った。
「回収はする。営業妨害でな」
野良猫の餌に天秤が傾きそうだ。
このまま襟首を掴んでマキに差し出したいところだが、店内では穏便やり過ごさなければ、他の真面目な騎士たちの苦労が水の泡だ。
女であるルチカを行かせたのも、怪しまれないためのマキの考えがあってこそ。
面白半分ではない、とルチカは自分を誤魔化した。
確保は外に出てからが望ましい。
ルチカは花の形を模した淡紅色の髪飾りをとりあえず手にし、買おうか悩んでみる。
(お金はないけどね)
「自分の髪の色を考えて選べ。大体髪を晒す機会があるのか?」
もっともな指摘に、ルチカは髪飾りをそっと棚へと返却した。その際に、左手の包帯が目に止まる。
「この包帯の変わりにレースを巻くとかどうですか?これって妙に薬草臭いし」
すんと匂いをかぐと、すっと清涼感のある香りが鼻についた。
「薬草で染めてあるからな」
「白いですけどね」
「時間がたつと白に戻る。……この店のレースはいい染色を使ってるようだな」
ヴィルバートが感心したように小物を一つ持ち上げた。薄緑色のブローチだ。リボン型で、結び目が翡翠色の石で、極小の硝子玉がレースを縁取っている。
「うちのレースは染色に、シナシ花を使っているんですよ」
話が聞こえていたのか、美少女が気さくに話しかけてきた。
「シナシ花?」
ルチカ初めて聞く花の名に瞬き、美少女へと尋ねた。
「シナシ花はその名前の通り、摘んでも潰しても細胞が死なない花です。色彩師が一度彩色したら、少し薄くはなりますが、このように色がついたままになります。リュオール国の市販されている布製品は、シナシ花によって染色されていることが多いですよ」
「もしかして、シナシ花って俗称ですか?ハクラクの花の子孫種の?」
ルチカは庇の陰に驚きを隠し、眉を潜めた。
リュオール国は大国だが、農産物に対しての熱意が希薄だ。ハクラクの花の子孫種についての研究は、北にある国々の方が進んでいる。
ハクラクの花の子孫種は総じて、死なない花ではなく、死んでなお色が残る花なのだ。旧時代のように。
ルチカが真実を言おうか迷っていると、美少女から切り出してきた。
「お客様は北部からいらしたのですか?」
はっとして見返すと、彼女は眉を下げ、困り顔をしながらわずかにルチカを見上げている。
「北部からというわけではないですけど、旅の途中に立ち寄ったことはあります」
「やっぱりそうですか。ごくたまに、北部からのお客様がいらっしゃるのですが、いつも怪訝そうにされるので……」
潤んだ瞳は花色で、頬が桜色に染まっていく。ルチカはこの、何とも愛らしい生き物に、上から目線で間違いを論じる気力を根こそぎ削がれた。
彼らもおそらく、彼女が可愛いすぎて何も言えなくなったに違いない。
(美少女恐るべし……!)
ルチカの不穏な震えを、ヴィルバートが肘で黙らせる。
「お客様は何をお探しですか?」
気をとり直した美少女は、萎れた花から大輪の笑顔を咲かせ接客に励む。それをロランツが蕩けそうな眼差しで熱心に見詰めていた。
昨日今日会ったルチカはまだしも、ヴィルバートがなぜ目に入らないのか。
「野良ね、……彼女に何か適当に見繕って、見られるようにしてくれないか」
「突っ込みどころが満載ですね。店中のレース買い占めますよ。もちろん支払いはしてくれるんですよね?」
いや、とヴィルバートは冷静に否定してから、彼を見据えて言った。
「あいつに払わせる」
店の隅でロランツが、相変わらず惚けた表情で美少女だけを見詰めていた。
♢
「人に買わせるとか、吝嗇家かッ!」
「その減らず口は何とかならないのか。ここで何をしていたか言ってみろ。当然、買い物をしに来たんだろうな?」
美少女が喜色満面で帽子を被ったままのルチカにレースをあてがう横で、ヴィルバートがロランツの襟を締め上げていた。
「そ、それは……。もちろん、買い物に決まって――」
「好きなものを買ってくれるそうだ」
「それでは遠慮なく迷惑料として頂いておきます」
「なぜっ!?」
うなだれたロランツに、美少女が「いつもありがとうございます」と微笑むと、彼はヴィルバートから逃れてきりっと居住まいを正した。
「いいえっ!あなたの笑顔が見れるなら、毎日でも通います!」
「迷惑だ」
「いい鴨ですね」
残念なロランツはルチカとヴィルバートの存在を彼方へと追いやり、美少女に勧めらるがままにレースを自腹で買い占めた。さすがのルチカも引きぎみだ。
「そんなにレースばかりあっても……」
「野良猫の首にでも巻くか。首輪がわりに」
「自分で選んで買ったものにしてくださいよ。ロランツさんの猫になりますよ?」
本物の野良猫たちも、移り気なロランツには飼われたくはないだろう。
「……いつから俺の猫になったんだ」
ヴィルバートが疑念しかない声で問う。
「餌をあげたら最後まで面倒をみないと」
「こんなにゃーにゃーうるさい猫を拾った覚えはないな。マキのじゃないか?」
うぐ、とルチカが言葉に詰まる。マキの猫なんて極限まで弄り倒されて、最後には飽きたと捨てられるのが落ちだ。想像だけで身震いが起きる。
「お客様はロランツさんとお友達ですか?」
商品を包んだ紙袋をルチカへと手渡しながら、美少女が小首を傾げて尋ねた。
「騎士団の方ですよね?あなたもですか?」
ルチカが虚を突かれている間に、ヴィルバートがロランツの足をぐりぐりと踵で踏みつけた。極秘任務が彼のせいで台無しだ。他の騎士たちにどう償うのか。
「ッ……!!」
悶絶するロランツを、美少女は不思議そうに見遣ってからルチカに向き直る。ルチカは特に嘘をつく必要がないので、素直に答えた。
「わたしはしがない旅人ですよ。いろんな国を転々としてます」
すると美少女が、屈託のないきらきらした眼差しでルチカの言葉に食いついてきた。
「わぁ、いいですね!私はこの国から出たことがありません。今度お話を聞かせて頂くわけには……」
躊躇いがちな彼女に、ルチカは鷹揚にうなづいた。
「いいですよ。また遊びに来ますね。しばらくは騎士団で厄介になってますから。それと、わたしのことは、ルチカって呼んでください」
「私はミアです。是非またいらして下さいね。――――そちらの彼氏さんとご一緒に」
ミアは迷いなく微笑ましそうにヴィルバートを見上げて言った。
「…………」
「…………」
「おまえらいつの間に!?」
喚くロランツをヴィルバートが睨みつけ、ルチカは帽子の縁を引っ張り深く被った。
火照った顔は、きっと見られてないだろう。
買い占めたレースは野良猫たちの首輪になりました。