よん
色彩師とは、大陸を統べる四十七の国々が認めた正式な女神の使徒である。
色彩師が手に触れ、力を注ぐと対象は淡く発光し、色づき始める。これを彩色と言う。
彩色は、色彩師にしか行えない。
色彩師は、彩色しか行えない……。
カチャン、という金属音をルチカは聞いた。
「……は?」
気づくと左手首に、ひんやりとした硬質な戒め。
鉄製の枷がぐるりと巻きつき、鎖を辿ると片方の輪をマキが手にしていた。
どの角度から見ても、手錠にしか映らない。
「似合ってるよ、それ。何というか……背徳的な感じがしてぞくぞくする」
小気味好い手つきでルチカに手錠をかけたマキは、黒い笑みを隠そうともせず、それを寝台の横に立つヴィルバートが冷たい目つきで見下ろしていた。
試しにマキがくいっと輪を引けば、鎖がぴんと張りルチカの左手も連動して引きずられた。
「これは何ですか」
左手を掲げて彼らにその、鈍色の手錠をつきつける。
「手錠だね?」
見てわからないの、とマキはわざとらしくまじまじと手錠へと目を向ける。
「そういうことじゃなくて。どうしてわたしに手錠をかけたかを聞いてるんですよ」
ルチカは逮捕されるようなことはしていないというのに。フルーヴェルが活性化したら罪なのか。
(そもそも色彩師じゃないし)
ルチカの荒んだ心の声が聞こえたのか、マキが姿勢を正し真面目な表情でルチカに向き合う。さっきまでの軽薄さが霧散し、ルチカは猜疑心を強めた。
どこから見ても立派な騎士様だ。
「フルーヴェルの件じゃないよ。……君、入国許可書持ってないよね?」
ぎくっ、と肩を揺らし、急にぎくしゃくと首を動かし始めたルチカに、マキの爽やかで無慈悲な声が容赦なくを告げた。
「それをこの国では不法滞在っていうんだよ」
(師匠ぉぉぉ……!ぶっ飛ばすぅぅ……!)
「あ。また震えだした。持病でもあるの?」
「マキ、よく見ろ。これは人を呪うときの目だ」
「どっちでもいいよ。興味ないしね」
ため息まじりに、マキは肘置きへと頬杖をつく。真面目な態度は刹那的なものだったようだ。
ルチカとヴィルバートは示し合わせたかのように揃って彼を睥睨した。
「不法滞在で逮捕しておいてフルーヴェルについて吐かせるつもりですか」
「勘違いしてるようだけれど、フルーヴェルの件に表立った罰則はない。問題だったのは色彩師の意図」
「意図?」
「色彩師は無償で仕事を請け負わない。だから裏で何か企んでいる、そう思われても仕方ないよねぇ?」
あ、とルチカは声をあげた。
人の弱味につけ込み、悪事を画策している疑いがあったということだ。フルーヴェルでさえあれだけの人数、そのまま各地に手を伸ばし続けて徒を増やせばどうなるか。色なしとして差別された人々が国に反旗を翻し、最悪内乱……。
「たんなる善意だとは」
「「思わない」」
ぴたりと声が重なりあった後の二人の反応はまるで正反対であったが、意見は統一していた。
手錠を指にかけ、弄びながらマキは言う。
「君がその色彩師だったら、この件からは手を引くよ?どうかな、白状する?」
「どうしてわたしなんですか?根拠は?」
色彩師を見分けることなど出来ないはずだ。ルチカは前のめりになっていることにも気づかず、続けた。
「色彩師の彩色を見たことありますよね?」
「もちろん。でも君、昨夜似たようなことをしていたよね?」
「あれはおまじないですよ。色彩師の力は即効性です」
ルチカの冷静な反論に耳を傾けてはいたが、ヴィルバートはマキに目配せをして、かすかに首を左右に振った。
(何か、隠してる……?)
お互い様なのでルチカは口をつぐんでいるが。
「色彩師ではないんだよね?」
最終確認するように、マキが問う。
「色彩師じゃありません」
ルチカの返答に、深く考え込む素振りを見せたマキは、程なくして一つうなづいた。そのあっさりとした反応が、見るからに怪しい。ルチカは疑念を持ち、内心身構えた。
「わかった。とりあえず君のことは、そうだなぁ……偽色彩師とでも呼ぼうかな」
「偽ッ……!!」
ルチカは馬車で轢かれたような衝撃を全身に受けた。
言葉に、人を物理的に攻撃する力があったのなら、ルチカは内臓破裂の複雑骨折に加えて頭蓋骨も陥没していただろう。
嫌がらせで殺されかけた。
「偽色彩師さんには、新しい入国許可書を発行するまでここに滞在してもらうよ」
偽造入国許可書と不法滞在。どちらの方が罪は軽いのか。
(言い訳次第か……)
入国許可書の紛失ぐらいなら、ただの間抜けで迂闊な人という認識で済むだろう。牢にぶち込まれることと比べたら、多少の自尊心など投げ捨てる。
「再発行にはどのくらいかかりますか?」
「身分証明書があれば二、三日で。なければ出身国に問い合わせて、身分証明書の再発行からしないとね。国によるけれど西のストライエくらいなら、三週間ぐらいかな」
ルチカは完全に退路を断たれた。ここで出身国を明かすわけにはいかない。
あの国には、戻らない。
無知という汚泥につかり、楽園の隅で丸くなっていた日々には――――。
それに、ルチカが逮捕なんてことになれば、方々に多大な迷惑をかけかねない。
彼らに手を尽くしてもらい助けられるのは、一度きりで十分だ。もう子供ではない。一人で切り抜けられるところを見せつけて、師匠をぶっ飛ばしに行かなくては。
ルチカはマキの手の中にある手錠に目を澄ます。隙をついて駆け出せば取り落とすだろうか。
だが敵は二人。女の身で躱すのは至難のわざだ。賊相手とはわけが違う。交渉術がまず使えない。
女の武器も通用しないだろう。悲しいことに、十人並みの容姿と体つきなので武器にさえならない。
あれこれ策を捻出していたときだった。
カチャン、という聞き覚えのある金属音が室内に響いた。
一拍ののち――――。
「――――マキ」
ヴィルバートの、魂まで凍えそうな重圧のある低い声に、ルチカは布団を盾にして身を庇った。とばっちりが来ないように。
さっきまでとは違う質の抵抗が左手首に走ったが、今は口を出すべきではないと本能が告げていた。
なぜならルチカから繋がる鎖の先には、ヴィルバートの右手があるからだ。
「これは?何かしらの理由があってのことだな?」
「趣味。って言いたいところだけれど、残念。隊長命令。俺かヴィルが監視しろって」
「自分がやればいいだろう。それに監視ぐらいなら他のやつらに任せればいい」
失礼極まりないルチカの押しつけ合いが幕を開けた。
「俺はまだ、カドニールの件で忙しい身だよ?それに他のやつらじゃ荷が重い。希色に魅せられたら、問題が起きるだろう?」
「誰がこんな野良猫相手に……」
ルチカは抗議のため、鎖を取ると強く引っぱった。ヴィルバートから倍の力で引き返されたが。
「ヴィルにはわからないかもしれないけれど、騎士団内には女性がほぼいない。飢えた獣の中に野良猫が一匹。瞬殺だよ、瞬殺」
「食べられれば何でもいいのか、あいつらは」
ヴィルバートはどこか遠く、おそらく仲間のいるであろう方角に憐憫の情を送っている。
「よくわかりました。あなたたち二人が群を抜いて失礼なんですね」
「獣の中に放ろうかなぁ〜」
マキが手錠の鍵を、思わせぶりにシャツの胸ポケットから取り出した。
ルチカは布団の奥底へ手を突っ込んでぶるぶると頭を振りまくる。
前言を撤回されるなければ、あやうく脳みそが飛んで行くところだった。
「偽色彩師の野良猫ちゃんは、ヴィルがいいって。可愛がってあげなよ」
鍵を懐へと入れ、マキは椅子から腰を上げると、ヴィルバートの肩を慰労するように叩いた。
「面倒ごとを押しつけただけだろう」
ヴィルバートが睨みながらつぶやくと、マキが彼の肩をぐいっと寄せ耳元に何かを囁いた。
「――――」
「それは……」
ヴィルバートは眉間のシワをほどき、何か言いかけたが、すぐにつぐんで言い変える。
「だから守れと?」
「国民を守るのが君の仕事だろう?」
マキが口角を上げてそう言うと、ヴィルバートは深々とため息をついて一言。
「これは不法滞在者だ」
(ごもっとも……)
♢♦︎♢♦︎♢♦︎
リュオール国王立騎士団本部は王宮の西側に位置し、広大な土地のほとんどが訓練施設となっている。騎士団に所属する者はもちろん、騎士候補生の学院が敷地内に併設されていることもあり、年若い少年たちの姿もちらほら見かけられる。
本部の裏側には官舎があり、ルチカが昨夜から滞在しているのはその一室だった。
忙しいというマキが鍵を持ったままさっさとカドニールへと出掛けてしまったので、ルチカは渋面のヴィルバートと連れ立って騎士団本部の建物内の説明を受けながら食堂へと向かっていた。
しっかりと睡眠をとれたことは幸いだったが、朝食を食べそこなったのが悔やまれる。昨晩硬いパンを一つと冷めたスープを貰ったきりで、胃は涸渇しきっていた。
食べられるときに食べる、それが旅の教訓。一食逃したのは手痛い失態だ。上手く言い繕って二食分貰うことは可能だろうか。
そもそも食事と睡眠は生活の基本、健康的な体を作り、さらには精神衛生上でも――――、
「人の話を聞け、野良猫偽色彩師」
左腕に抵抗を感じたルチカは立ち止まり、振り返った。借り物のブラウスの袖から鎖が伸びきり、スカートが揺らめく。
官舎と食堂のある本館を繋ぐ中庭の通路で足を止めたヴィルバートが、ご飯のことで頭がいっぱいのルチカを見据えていた。
彼より三歩ほど進んだところにいたルチカは、手錠の掛かった左手を置いてきぼりにしていた。
「その呼称長すぎませんか?特別に名前を呼ぶことを許可するのでそちらにしてくれてもいいですよ?」
三歩戻るとはたかれた。
ルチカの銀白桃の髪を撫でようとする人はいくらでもいたが、はたかれたのは初めてだ。
こうも大っぴらに晒していることも、稀だが。
「色彩師は嫌いだ。会話するだけでも譲歩しているというのに」
苦々しく吐き捨てられ、ルチカは怒るに怒れず彼の髪を見つめた。真っ青な雲一つない空の下、風に揺らぐその髪だけが景色に溶け込めずに浮いている。
彼が色彩師を憎む気持ちは、ルチカのものよりも強くて根深いのかもしれない。
「色彩師じゃないですよ。わたしも色彩師は嫌いですから」
ヴィルバートの紫石英の瞳に苛烈な濃さが過ったが、ルチカの輝く髪を目に留めるとそれは緩やかに凪いだ。その点に関しては、通じるものがあると思い出したようだ。
「……中庭にある花や果実は勝手に取らないこと。それとたまに、小動物が侵入してくる。餌付けしたら責任を持って最後まで飼うこと」
再開された説明にルチカは神妙にうなづいた。
あのたわわに実る姫りんごの木は今後視界に入れないようにしよう、と。
手錠をしゃらしゃら鳴らせながら、一歩遅れてついて行くと、噴水が道の真ん中に鎮座していた。
細かな水の粒が肌に当たると霧のようで涼やかだ。よく手入れされているようで、藻のいない透明な水が流れ落ちてはゆらゆら漂う。
「この噴水で水浴びをしたら団長室で説教だ」
(浴びないし)
騎士団の野蛮な男たちと一緒にされては困る。
「飲むのはいいんですよね?」
「いいわけないだろう」
ぎょっとしたように振り返ったヴィルバートは、ルチカが空腹なことに思い至ったようで、中庭の説明を手短に済ませると本館に足を踏み入れた。
騎士団創設時からの活動の軌跡を辿った展示品室にルチカは興味を持ったが、食欲には敵わず食堂だけをひたすら目指した。
迷子になりそうなほど入り組んだ廊下を抜けてようやく辿り着いた食堂は、訓練施設側からは所要歩数一歩だった。食堂の南側はガラス戸が開放されていて、運動場を走る騎士たちの姿が横目に映る。
ルチカたちが広々とした食堂内に立ち入ると、騒がしかった場が一瞬で静寂に包まれた。七割ほど埋まった食堂内の、視線という視線が集中し、ルチカはぶるりと身を震わせた。
だが、すぐにまた賑やかしさが帰ってきた。彼らは不自然なほどルチカを見ない。そういう御触れでもあったのだろうか。
(それにしてはよそよそしさが、ない?いつものことみたいに……あ)
ルチカはヴィルバートを凝視した。みんな彼を見ないようにしているのだ。ルチカではなく。
無視をするわけではないが、お互いに必要以上関わらないという態度だ。
ルチカは思わず手錠で繋がれた彼の手をぎゅっと握りしめた。
驚くほどすぐ、嫌そうにほどかれたが。
「ヴィル!見たぞ!」
突然背後から空気を裂いたのは、昨日ルチカが噛みついた騎士だった。腕捲りしたシャツの下からは薬草の染み込んだ綿布が覗いている。
彼の後ろにいた騎士たちにも見覚えがあり、彼らは他の騎士たちと違い、ヴィルバートとルチカの手錠を不思議そうにながめている。
「マキが鍵を持って逃げた」
ルチカが噛みついた彼を華麗に無視して、ヴィルバートはその後ろの騎士たちに言った。
「おい、無視かよ。先輩敬えよ」
「先輩らしいことを何か一つでも?」
「一日でも早く入ったらここでは先輩なんだよ!だいたい、俺に可愛がられたら嬉しいのか?」
「書類の誤字脱字を減らしてくれれば嬉しくないこともない」
「読む方が理解しろ!」
その堂々とした物言いに、後ろの騎士たちはやれやれと呆れながら席を取りにいった。
「これってまだ続きますか?」
ルチカが聞けばヴィルバートはいや、と首を振る。
「無視すればいい。昼食は日替わりで三種、一律三百ロン。大陸通貨だと二十銅華。ストライエだと――」
「細かっ!ヴィルよ、通貨の説明なんていいから買ってこいよ!ついでに俺のも頼――――ぐぇっ!?」
ヴィルバートが手錠の鎖を利用して、彼の首を絞めた。鎖の長さは首一巻き分のようだ。
ルチカは共犯者に見られたくなかったのであさっての方角へと思いを馳せる。
食欲を刺激する香ばしい匂いは、鶏肉を焼いているのか。鼻腔をくすぐる数十種類の香辛料。ほのかに感じるこの酸味は――――、
「まさか、パイナップ――」
はたかれたので最後までは言えなかった。
喜び勇んで注文しようと受付の男性に声を掛けかけて、はたと気づく。お金を取られることに。
(お金、持ってない……)
ローリエから貰っていたお小遣いは馬車の代金に支払ってしまい、現在手元にあるのは百ロンちょっと。 急降下した感情にルチカはうつむき、胸中で覇気のない悪態をつく。
(師匠……ぶっ飛ばしますからね……)
ルチカの後ろに並んだ騎士たちの、何してるんだという視線が突き刺さる。
「……早くしろ」
ヴィルバートが急かしながら、赤銅色の百ロン硬貨を六枚受付台に置いた。
その意味を理解して、ルチカは気後れしながら彼をうかがう。
「これは……」
「貸すだけだ」
そっけなく言われたが、貸してもらえるだけでもありがたい。
「ありがとうございます。このご恩は必ずお返ししますから。雑用とかなら何でも言ってください。掃除、洗濯、雑草取りから肩揉みまで出来ることならがんばります」
ルチカは昨日の分のお礼も含めてにこりと笑った。冷たくされても、彼が恩人であることには変わりなかった。
ご飯をくれる人は大切にしなくては。
「三百ロンで大袈裟な」
「そうだぞっ!三百ロンで女の子に肩を揉んでもらえるなんて!なんてうらやましい!」
床に這いつくばり、例の騎士が叫んでいる。
「A定食一つ」
「B定食一つ」
「無視かッ!!」
その場にいた誰もが、彼の存在から目を逸らした。
A定食は手軽にサンドウィッチ、B定食はがっつり鳥の香草焼き(パンつき)です。