さん
「君はとりあえず、こっちにおいで」
マキに呼ばれてルチカは素直に従った。マキの隣には紫石英で漆黒の彼がいる。ひどく不快という表情でマキを睨みつけていた。
「君、確か……ルチカだったか。とりあえず聞きたいこともあるから、このまま一緒に来てもらうけれど、いいよね?」
優しいが、ルチカが断るということを一切考慮しない口調だ。一緒に来ないなら無理矢理連れて行こうかな、と穏やかな目の奥が告げている。――――なので。
「ご飯と寝床、ありますよね?」
その返しは予想外だったのかマキは、ぷっと吹き出した。そのまま腹を抱えて笑い出し、涙目のままうんうんとうなづく。
「食堂も客室もあるよ。腐っても王立騎士団の本部だからね。専属の料理人もいる。……何だったら添い寝もつけようか」
「最後のは丁重にお断りします」
からかいの流し目をさらりと躱し、ルチカは一つだけお願いをした。
「お世話になってる人に無事を伝えたいんですけど」
「ああ、そうだね。後で部下に行かせよう。どこの誰に伝えればいいのかなぁ?」
迷子の子供を相手にしているようにマキは尋ねてくる。迷子といえばその通りなのだが。
「花街にある菫屋のローリエさんにお願いします」
クラレットにはローリエから伝わるだろう。
「君が娼婦?……一部の人間には需要がある……か?」
マキはルチカの胸から足にかけて順にながめながら解せない、という難しい顔で首を捻っている。
(悪かったな!)
ルチカは胸の内で悪態をつき、真っ赤になって否定した。
「娼婦じゃありません。行き倒れてたのを助けてもらったんです」
「そうだろうね。希色の娼婦なんていたらどこぞの貴族に即、お召し上げされてるだろう」
わかっていてやっているらしい。怨めしげに見据えると、ずっと黙視を貫いていた漆黒の彼が眉をひそめながら口を開いた。
「マキ、遊ぶな。今問い詰めなくてもいいだろう」
「……仕方ないなぁ。今の内にはっきりさせておいた方が、ヴィルのためだと思ったのにな」
ヴィル、と呼ばれた漆黒の彼は、背筋が凍りそうな視線をマキへと向け――――ルチカに向けた。
その落差に驚き身体が勝手にびくっと反応し、たじろいだ。
さっきまでの、ルチカを守ろうとしてくれていた彼とはまるで別人の表情だ。ひどく冷淡な眼差しでルチカを見下ろしている。
紫石英がさらに濃くなり、そこに怒りか憤りのような濃厚な感情が秘められていた。
ルチカを見る人の目はねっとりとした欲望に満ちたものが多く、これほど冷徹に見据えられた覚えはほとんどない。
(どっちが、本物?)
探るように彼へと足を踏み出し手を伸ばしたが、
――――パシッ!
彼の手で振り払うように弾かれた手のひらは、悲しいほどに傷みを運んだ。
ルチカという人間が根底から嫌われたと納得するには、十分な仕打ちだった。ルチカには嫌われるようなことをした記憶がない。それに、嫌われるほどお互いを知らない……。
あるとすればさっきの――――。
思い浮かんだ理由に、動揺と理不尽さがせめぎあった。背筋に嫌な汗が伝う。周りをうかがえば騎士たちは残っておらず、室内には三人だけだった。
割れた窓は丁度、人一人分の大きさで口を開けている……。
そうしてルチカは、――――脱兎のごとく逃げ出した。
草木生い茂る夜の人工林から、銀白桃の少女を無事保護したと声が上がったのは、それから間もなくのことだった。
◇◆◇◆◇◆
――――師匠に捨てられる悪夢を見ていた。
ルチカは夢うつつに話し声を聞いた。
「……間違いないな?」
「今見てきたけれど、見事に色がついてたよ。何だったらヴィルも確認してきたら?」
「疑ったわけじゃない。結果が知りたかっただけだ」
「あ、そう。……それにしても――――」
誰かの気配が動いた。
ルチカの伏せられたまつげに吐息がかかる。ふるり、とまぶたが震えた。うっすらと開いた視界にはのぞき込んでいるマキの顔が逆さに映り、ルチカが起きたことで笑みを深めた。
「おはよう。……あぁ、もう早くはないか。随分ぐっすりと眠ってたね。気分は?」
「……最悪です」
寝ても覚めても地獄か。
寝台の頭側にある飾り板に腕をのせたマキは、重ねた手の甲に顎をつけ、ルチカをながめている。彼の背中にある窓から差した日の光で、ルチカの上には彼の影が落ちていた。
寝台は淡い緑色の敷布で、寝乱れることのないルチカの髪が扇情的に広がり、縁からさらさら流れ落ちている。光を浴び、透き通る毛先は輝きを増していた。
「子猫みたいな顔で見つめられると照れるなぁ」
「あなたが勝手に視界に入ってくるんですよ」
年頃の娘たちがこぞって頬を染めそうな笑みだ。その瞳の奥に、悪戯っぽい光が見え隠れしてはいるが。
「それなら起きたら?俺としては寝たままのおしゃべりを続けてもいいけれど、そっちに不機嫌の塊みたいな男がいるからね」
ルチカは上体を起こしてマキの視線を追うと、漆黒の彼がそこにいた。淡い青のシャツは、マキと同じだ。
小ぢんまりとした室内には衣装棚が一つあり、寝台を挟んで反対側には二脚の木製の椅子。丸いテーブルは壁に畳んで立てかけられている。
彼はルチカから遠い方の椅子に腰掛け、マキが揶揄した通りの姿で不穏な空気を纏っていた。
ぴったりと目が合うと、彼の紫石英の瞳にルチカが映る。
「……昨日のことは覚えているか」
寝ぼけていた脳内で瞬時に、昨日の出来事が駆け巡る。薄暗い林、もつれた足、擦りむいた膝ににじむ血
、そして彼らの形相――――。
「昨日ですか。どの部分についてですか?逃げ出したいたいけな少女を猟奇的に追いかけ回す騎士たちの狂気の沙汰について語ればいいですか?」
息継ぎなく言い切ったルチカに、彼の頬がやや引き攣った。マキはにやにやしながら飾り板に頬杖をついて、静観を決め込んでいる。
それを合図に二人の間に青い火花が散った。
「いたいけな少女は騎士を噛みつくのか」
「どさくさにまぎれて体を触ってきたからですよ。いわば正当防衛っていうやつですね」
「どんな悪趣味なやつだ」
(悪趣味!?)
「あなただって昨日、人のことを抱き締めたり、手を握ったりしたじゃないですか」
彼はその発想自体が不服だというようにむっとして言う。
「野良猫を抱くのとさほどかわらなかったが。しゃべらない分、野良猫の方が愛嬌があっていいな」
「野良猫……」
普段外面はよい方のルチカだが、さすがにすぅっと目を細めた。
相手の急所を的確に突こう。
「騎士団は身内の不祥事を簡単に揉み消すところなんですね」
「……ッ!!」
掴みかからんばかりの彼に、マキが素早く片腕でルチカを自分の胸へ引き寄せた。反対の手のひらを彼の正面へと向けて制止させる。
「ヴィル、ヴィル!――――ヴィルバート。相手は女の子なんだから。簡単に挑発に乗るな。……君も、男を煽るな。わかった?」
こつんと頭を指の節で小突かれルチカは、渋々うなづいた。
マキの方が立場が偉いのか、漆黒の彼――――ヴィルバートは苦々しそうに顔を背けてしまう。
(あのときは、優しかったのに!)
腹立たしいやら切ないやらでルチカの感情はもやもやと曇り空だ。
「これじゃあ俺が愉しいだけ……いや、大変なだけじゃないか。仕方ないな……」
不承不承いうようにマキは、飾り板から寝台の方へと回り、ルチカの横に腰を下ろした。長い足を組んでヴィルバートに靴の爪先が当たるのを避け、片手を寝台についてルチカを覗く。
お遊びの雰囲気がわずかに凪いだ。
「君がお世話になっている娼館の女将に連絡をした。賊に襲われたけれど無事だって伝えると安堵していたそうだ」
「そうですか……。ありがとうございます」
(みんなに心配かけて悪かったな……)
ローリエや娼婦たちはルチカにとてもよくしてくれた。クラレットのマスターや常連客もだ。
しんみりとしたルチカは、掛け布団の端をぎゅっと握り締めた。
「うん。それはもう盛大に喜んでたらしいよ。花街だけじゃなくフルーヴェル中が、ねぇ?……いくら希色持ちでも、たかが娘一人いなくなったぐらいで騒ぐ土地柄じゃないんだけどな」
「何が言いたいんですか」
警戒を強めたルチカにマキはいいや、と首を横に振る。
「愛されてるなぁ、って思っただけ。――――ところで君は、『フルーヴェルの変事』って知ってる?」
聞き覚えのない言葉にルチカは小首を傾げ、すぐに頭を振る。フルーヴェルがどうかしたのか。
「そう呼んでいるのはフルーヴェル以外の人間だから、当事者が知らなくても無理はないだろう」
ヴィルバートが回りくどい、と眉間に縦じわを刻みつけながら言うが、マキはどこ吹く風とあっさり聞き流した。
「こういうことは初めから筋道立てて話さないとね。
まず、俺たちの仕事は王都内の治安維持。公共の安寧を守ることだよ。同じ騎士でも王宮、王族の警護を主とする隊もあるけれど……そっちは割愛で。つまり、王都に暮らす人々の安全を守る、っていうのがわかりやすいかな?」
ルチカがうなづくと、マキは微笑み、続ける。
「王都内で何か不穏な空気があれば調べて、その元凶を取り払う必要がある。ここ一月、歓楽街フルーヴェルと商業区域カドニールで事件が相次いでいる。……もう一つ、貧民街で物乞いに金をばらまく親切な神人のことは保留中だけれど」
(師匠ぉぉぉぉぉぉぉぉ…………ッッ!!!)
「え。何?何で涙目?痙攣並みに震えてるけれど、寒いとか?…………ヴィル、何かした?」
濡れ衣を着せられたヴィルバートは、さっきのお返しとばかりにマキからついっと目を逸らす。
はぁ、と悩ましいため息をついたマキは、ルチカを嗜虐のにじむ流し目で見つめ、独白めいた囁きをした。
「女の子に泣かれると、こう、たまらない気持ちになるよねぇ。……あ、泣き止んだ?」
冗談に聞こえない危険極まりない発言に肝を冷やしたルチカは、目尻に溜まっていた涙の粒を根性で振り払った。
(ぶっ飛ばす。今度こそ師匠をぶっ飛ばそう)
固く心に誓いを立て、ルチカはマキに話の続きを促した。
「フルーヴェルは置いておいて、カドニールで起きていることとわたしに、何の関係があるんですか?」
カドニールという商業区域は、王都を南側から王宮のある方角に伸びたカドニール大通りを中心とした地域で、リュオール国内のありとあらゆる物品が集う国内きっての市場街だ。
ルチカも一度は訪れてみたいと思っていたが、その機会は今のところありそうにない。
「カドニールで三人、行方不明者が出ている。誘拐も視野に入れて調査していたところに、君だ」
マキは、ちょん、とルチカの額を押した。
「昨日の賊の関与が疑われたけれど、場所がカドニールじゃなかったことと動機から、別口だと判断されそうだな」
やれやれと首を緩く振るマキに、ルチカは疑問をぶつけた。
「昨日は何であんなに早く助けに来れたんですか?」
マキがヴィルバートを横目で見ながら簡単に説明をした。
「別に大したことじゃないよ。ヴィルが明らかに尾行されてる間抜けな子を発見して馬車に乗せたから、追跡しただけ」
(間抜け……)
ルチカはマキからヴィルバートに目を移した。
彼は初めからルチカを守ろうとしてくれていたのだ。じんわりと頬が淡く色づく。
今の彼のきつい一瞥ですぐに冷めてしまったが。
「カドニールの方は君にはまったくの無関係だった。そもそも美少女が三人行方不明って話だからねぇ?君は気にしなくていいよ。本当に、気にしないで」
ルチカの件は別として治安のよい王都で、美少女が三人も行方不明とは穏やかな話ではない。この一月、という符号に妙な引っ掛かりを覚えながら、まずは一言。
「騎士って失礼な人ばかりなんですね?」
ちょこちょこルチカを貶すマキに言ったのに、ヴィルバートの方が勘に障ったらしく、鋭くマキを呼んだ。
「マキ、フルーヴェルの話をしろ」
どうやら時間稼ぎが終了してしまったようだ。ルチカの頭はしゃんと起ききっているので余計なことを口走る愚行は犯さない。
マキが寝台から悠然と立ち上がり、ヴィルバートの隣の椅子へと腰掛けた。足を組み、肘掛けにゆったりと腕を置いて。
軽薄だが物腰には育ちのよさがにじみ出している。
「うん、フルーヴェルだ。この一月で見違えるように華やかになっただろう?色なしの娼婦が、今では探す方が難しいくらいだ」
マキが何を言いたいのか、そして何を言わせたいのか。
ルチカは真っ向から受けて立つ。
「フルーヴェルには、色なしなんていう差別言葉は存在しません」
はっきりと断言した。
フルーヴェルの人々は色彩差別をしないと。あなたたちとは違う、と。
彼らの顔色に戸惑いが混じる。得体の知れない生き物に間違って触れてしまったときのような、少しの不快が込められた。
高慢な態度で慈善の優越に酔しれた高笑いでもすると思っていたのか。だとしたら、彼らはルチカを見縊っている。
ルチカは似たような冷たい眼差しを投げつけた。
(フルーヴェルの変事ね)
皮肉だ、とルチカは思った。本来あるべき姿に戻ったことが、変事だと言われているとは。
逆回りの時計も数字の位置を変えてしまえば時間を読めてしまうように、人は物事の切り取った一瞬しか目にしないのだ。連続した秒針の違和感に気づくのは時計をずっと見続けている者だけ。
人は弱い。悪しきことより異なことに怯える。
マキがルチカの手を掬った。背後に脱走に最適な窓があるからだろう。
ヴィルバートが椅子から立ち上がるとルチカに一歩踏み込んだ。漆黒の髪が、陰をつくる。
「おまえは――――色彩師か?」
ルチカの答えは決まっている。
十七年間ずっとそうだったのだから――――。
「わたしは――――」
何度も同じことを尋ねられた。そのたびに繰り返しこう答えた。
耐え難い侮辱に微笑んで。
「――――色彩師ではありません」
疑惑の種は、芽吹ぶいたまま。
摘み取ることはしない。
ルチカはルチカでしかないのだから。
(師匠……あなたは、どこにいるんですか?)
王都内にはいますよ。