ある少女のお話。
「ししょー」
手を繋がれた幼い少女が、本屋の前で躊躇いがちに立ち止まった。
この世界では蔑まれる白い色の外套を頭からすっぽりと被っていて、顔は全く窺えない。
握られた小さくか細い手だけが、唯一外へとはみ出している。
少女は同じ年頃の子供よりも、妙に舌足らずな、淡々とした言葉をしゃべった。
「ごほん、よみたいです」
ししょー、と呼ばれた女性は、少女とお揃いの外套のフードの奥から、中性的な美しい顔を晒して本屋の看板を見上げた。
紙とインクの独特な匂いのする、小さな町の本屋だ。
本屋看板の文字をきちんと読めたことに、ししょーこと、師匠――――アニスは、少女を惜しげもなく褒め称えた。
「ルチカちゃんは覚えが早いですね。いい子です。さすが私の、愛弟子です」
フード越しに頭を撫でられた少女――――ルチカは、はにかみながら覚えたての言語を駆使してアニスへと訴えた。
「もじは、むつかしいです。ごほん、よんでください」
「でしたら絵本を頂きましょうか」
アニスはそう言って微笑み、ルチカのための絵本を、買うか貰うかするために、店の中へと入っていった。
ここは、リタ国の隣にあるガザ国の外れ。
ずいぶん遠くまで来たと思っていても、実際はまだ一つ国を跨いだだけ。世界は想像していたよりも広いことを、無知だったルチカはまざまざと思い知らされた。
空白だったルチカという人間に、どんどん新しいものが詰め込まれていく。
言葉だったり、知識だったり、感情だったり。
ルチカはまだ、一人でどこかへと行くのは恐いので、軒先にあったきのこの形をした置物に、ちょこんと腰を下ろした。
ぼんやりするのはもう飽き飽きしていたので、行き交う町の人々の様子を興味深く眺めて思考した。
ルチカのよく知っている人間たちは、重そうなごてごての装飾をつけていて、やはり重そうな髪型をしていた。そのせいなのか、とろとろとしか歩けない。
しかしあの場所から一歩外へと出た途端、一変した。
こざっぱりした格好の人間たちは、身軽にせかせかと歩いていく。
ルチカは生まれてからほとんど運動をしたことがないので、まだそんな風に早くは歩けない。
しかしあのごてごてな人間たちは、体に身につけた余分な物を削ぎ落としてしまえば、もっと早く歩くことが出来たというのに、とルチカは不思議に思う。
(あたまが、わるかったのかなぁ?)
恐らくそういうことなのだろう。そう、結論づけた。
彼らの頭の中はきっと、どうしようもなくおかしかったのだ。
「――――お嬢ちゃん、一人かい?」
リタにいる愚者たちと市民との違いについての、拙い考察に耽っていると、突然声をかけられてルチカはそちらを仰いだ。
フードが落ちて髪が露わになってしまわないように、両手は頭の上にする。
話しかけてきたのは、帽子を被った髭もじゃのおじさんだ。
鋭い目で、ルチカを見下ろしている。
ぱっと見は恐い人のようだが、いい人なのか、それとも悪い人なのか、今のルチカには判断出来なかった。
「ししょーと、います」
「師匠?」
ルチカは本屋の中を指差した。
窓からアニスの麗しい横顔が見えたのか、おじさんはルチカをそのまま導かれるように、本屋の扉へと吸い込まれていった。
(いいつけどおりに、できた)
一人でもアニスと一緒にいると言うこと。
アニスが傍にいるなら、どの人かを訊いてきた人にきちんと教えること。
それはアニスの美貌に、誰も彼もが引き寄せられていくからだ。
身を隠さないといけないルチカにとって、これほど適任な保護者はいなかった。
教会というところにいれば安全だと言われたが、ルチカはアニスの傍にいたかったし、世界も見て回りたかった。
きのこの椅子をぐらぐらと揺らして遊んでいると、ルチカよりも少し小さなお転婆そうな女の子が、苦笑するお兄さんらしき男の子の手を、ぐいぐい引いて目の前を通り過ぎていった。
(おにいちゃん。いもうと。きょうだい)
アニスに教わったことを、ルチカは頭でしっかりと復習し始めた。
『家族』という集まり。父親と母親の両方がいないと、子供は産まれない。
つまり、ルチカにも父親と母親がいるらしいこと。
(おとうさん。おかあさん)
ルチカはアニスに、あのわらわら群がる蟻のような人間たちの中から、どれが父親にあたる人物であったかを、すでに教えられていた。
しかし、だからといっていまいちぴんとこずに、他の人間たちと何が違うのか、結局わからずにいた。
母親にあたる人物は、たまに遠くから、ルチカをぼんやりと眺めていた女性だという。
他の人間たちと違う行動を取ってくれていたので、わかりやすくはあったが、だからといって何の感情も涌き上がってはこなかった。
「――――ルチカちゃん?何を見ていたのですか?」
いつの間にか隣にしゃがんでいたアニスが、屈託なくにこっとする。
「ししょー。ルチカには、きょうだいがいますか?」
「兄弟ですか?たくさんいますよ」
新事実に、ルチカは目をぱちくりとさせて身を乗り出した。
「たくさん?どれですか?ごてごてたちのなかに、いましたか?」
「その中にはいませんね。ルチカちゃんの兄弟ですから、一番上のお兄さんでも……まだようやく成人したところではないでしょうか」
アニスが記憶を辿りながら、おっとりと告げた。
確かにごてごて集団は、年嵩の人間が多かった気もする。
しかしルチカからしたら、ほとんどの人間が大きかったことしか印象にない。
「おにいさんとおねえさんと、おとうとといもうとが、いますか?」
「いますよ。たくさんいます。あの方は、自分の子供を希色にすることに、取りつかれておられるのです」
「どうしようも、ないですね」
父親が最低な人間であることを、またまた改めて突きつけられたルチカは、淡々とそう言った。
「人は誰しも完璧ではありません。どうしようもない生き物です。だからこそ、愛しいのです」
アニスの言うことは抽象的で、子供のルチカには全く伝わらなかった。
「ごほんは?」
催促すると数冊の絵本を、膝の上へとおいてくれた。
薄い色しか使われていない比較的安めの絵本から、色鮮やかで綺麗な装丁の絵本まであり、お金は大丈夫だろうかと気になり目で尋ねた。
「後からいらしたお客さんが、買ってくれたのです」
それがさっきのおじさんであると、何となく理解はしたが、どうやって貰ったかは全く理解出来なかった。
「ししょーは、いつも、ものをもらいます。ふしぎです」
「愛があれば、お金がなくとも生きていけるのです」
彼女はふわりと笑った。
それがアニスだけの持論だということを、ルチカはすでに悟っている。
お金がなくては、外の世界では生きていけない。
しかしアニスはあまりお金に執着しないので、困っている人がいたら平気であげてしまう。
だから自分が困っているときに、助けて貰えるのだろうか?
「ししょー。ルチカのきょうだいは、みんな、おりのなかですか?」
ふと気になり、訊いてみた。
そうだったら、ルチカだけが逃げ仰せたことになってしまう。
胸がもやもやして、悲しい気持ちになった。
「ルチカちゃんは優しい子ですね。安心してください。希色なんて簡単に出来るものではありません。ルチカちゃんの兄弟で希色と呼べるのは、一つ上のお兄さんだけです」
またお兄さんだ。
お兄さんばかりいるのだろうか。
「おにいさんは、にげましたか?」
「お兄さんは檻にはいないのですよ。療養中という話を聞きました」
「りょーよー……ごびょうき、ですか?」
「詳しいことはわかりません。ですが、逃げるよりかは、そこで安静にして体を治すのが先決でしょう。国の中枢ですので、医療設備も充実しています」
ふうん。とルチカは相槌を打ち、手元の絵本へと目を落とした。
兄と言われても、やはり他の人間と何が違うか、根本的にはわからない。
ただ、ルチカと同じ目にあっていなくてよかったとは思っている。
ご飯も食べれないときや、雨に打たれて凍えそうなときがあっても、こうして誰かとお話しが出来ることが、ルチカにとっての自由であった。
お話は楽しい。
お話は、ただで出来る。
お金のいらない、自由だ。
「ごほんは、なんですか?」
「王子様とお姫様の、恋のお話です」
ルチカはぱたりと表紙を捲った。
絵本の女の子はいつも可哀想な境遇にあるが、絶対に王子様が助けてくれるので安心だ。
「ルチカちゃんにも、王子様が現れるといいですね」
アニスはそう言うが、ルチカは最後に美味しいところだけを持っていく王子様よりも、魔法使いや妖精のような不可思議な存在の方が、今のところ興味があった。
「ルチカには、ししょーがいます」
真面目にそう返すと、アニスは嬉しそうにルチカの頬へと軽く口づけた。
「王子様が現れなかったら、私がなりますね」
「ししょーは、おんなのひとだから、だめです」
王子様とは男の人だと教わったので、アニスにはなれない。
「でしたら、私がいい子を見繕ってきます。私は、愛の女神です」
「ルチカはまだ、あいじんはいりません」
きっぱりと断ると、アニスが訂正を入れた。
「愛人ではなく、恋人です。恋人が結婚することで伴侶、つまり夫婦になります」
「けっこん……。おーじさまと、おひめさまが、さいごにするやつです」
指輪を交換して、口づけを交わす場面が、絵本の最後のページにもきっちりと描かれていた。
「このゆびわは、ごてごてじゃ、ないです」
ルチカの見知った指輪は、邪魔そうな石が鎮座しているものだ。
「かめむしとか、てんとうむしとかに、にていました」
アニスによって色鮮やかな緑色になった亀虫は、翠玉。目の覚めるような朱になったてんとう虫は、紅玉。色も形も、そっくりだ。
虫を指につけていた方が軽いし、可愛い。
そう言うルチカに、アニスは頬ずりをして褒め称えた。
「ルチカちゃんは想像力が豊かな、賢い子です」
アニスがとことん甘やかした結果は、いわずもながなだ。
「ししょー。たいりくのめがみさまは、よんだことが、あります」
「あれはリタ国版でしたが、これはガザ国版です」
違いがあるらしいので、ルチカはつっかえつっかえ読み進めた。
確かに絵と文字は違う。
しかし女神を殺めた悪王は、やはり処刑されて終わりだ。
女神の力を持った色彩師が生まれて、めでたしめでたし。
「ぜんぜん、めでたく、ないです。しきさいしは、きらいです。めがみも、きらいです」
ルチカがあんな場所に囚われていたのは、悪い色彩師のせいだ。
元を辿れば、女神が色彩師に力を残したからだ。
だだをこねるルチカをくすりと笑って、アニスは小首を傾げて問いかけた。
「アルフレッド王は、いいのですか?」
ルチカはフードの下で、こくりとうなづいた。
「おーさまは、きらいじゃないです」
「どうしてですか?」
「おーさまは、ひとりぼっちです。まえのルチカと、おなじです。ひとりは、さみしいものと、ししょーがいいました。だから、ルチカが、すきでいてあげます」
アルフレッド王は、世界中の誰からも嫌われている。
せめてルチカ一人だけでも好きになってあげないと、可哀想だ。
それを聞いたアニスは破顔して、ルチカの顔のあちこちにキスを贈った。
「なんていい子なのですか。ルチカちゃんは。可愛すぎます」
こうしてアニスに溺愛され、徐々に世間ずれした性格が形成されていく。
抱き締められて、「くるしいです」と、まだ素直なルチカは解放を要求した。
「決めました。ルチカちゃんの王子様は、あの子にします」
「ルチカはおーじさまは、いりません」
「厳密には、騎士様です」
アニスは、ぴっと人差し指を立てた。
「きしさま?おひめさまを、まもるひと、ですか?」
絵本では、お姫様の護衛の印象しかなかったが、王子様よりは好感は持てた。
もちろん絵本では、だが。
「今から数年後が楽しみです」
アニスがすっかりとその気になってしまったので、ルチカは口を挟まず、大陸の女神様は閉じて、次の絵本に集中した。
まだ恋どころか、喜怒哀楽の感情というもの自体があまりよく理解出来ていないルチカは、表情が乏しく言葉も淡々としている。
絵本のお姫様は、大袈裟なくらいめまぐるしく表情が変わる。
くるくると舞い散る桜花のように幸せになっていく……。
「――――ルチカちゃん。そろそろ、お暇しましょう」
絵本から視線を上げると、町の人間ではないぴりぴりとした異様な雰囲気を醸し出す数人の男が手配書を見せてまわっていた。
「おって、ですか?」
アニスは目を細めて絵本を鞄へと詰めると、ルチカと手を繋ぎ、旅人の風情で歩き出した。
ルチカはとことこ足を踏み出しながら、ちらりと背後を窺った。
追っ手は町行く人々を引き止めては、尋ね続けている。
まだ、ルチカたちの存在に気づいてはいなさそうだ。
絵本を買ってくれたおじさんにも、アニスの手配書を見せるが、彼は全然知らないと首を振っている。
おじさんは、ルチカたちの方をちらっと見遣って、さっさと行けと、髭もじゃの顎をしゃくった。
(いいひと、だった)
人は見かけでは判断出来ない。
ルチカはおじさんに、こっそりと手を振った。
おじさんは帽子の庇の下で、目を細めてくれた気がする。
「ルチカちゃん。次はどこへ行きたいですか?何を、見たいですか?」
アニスに尋ねられて、ルチカは顔を俯けた。
「ルチカは……」
きゅっとアニスの手を、離さないように握り返して言った。
「おなかが、すきました」
くるる……、とお腹の虫が鳴き、アニスはくすくす笑って、「そうですね」とうなづいた。
「ガザ国には、有名な氷菓子があるそうです。それを、頂きに行きましょう」
「いきましょう」
ルチカはアニスの真似をして、まだ見ぬ氷菓子へと思いを馳せながら、食べ物道中を一直線に向かって行った――――。
今回はちびルチカちゃんのお話でした。師匠のひそかな思惑が本編で実を結んだ結果となっていますが、当人たちは知る由もありません。ちびルチカちゃんは、この後食べた氷菓子の衝撃に、王子様うんぬんの話は、すっかりと忘れちゃったのでしょうね……。




