にじゅう
レースのカーテンで幾分か和らいだ日差しに、ルチカは目映さを感じてまつげを震わせた。
左側が温かく、無意識に摺り寄ると、かすかに固い塊が身動ぎした。
驚き、ぱちっと目を開けるが、傍にあったのはヴィルバートの寝顔だったのでほっと安堵した。
枕から頭を浮かせることなく周囲を確認して、見知らぬこの部屋には他には誰もおらず、寝台に二人並べて寝かされているこの状況のみを把握した。
ヴィルバートの腕には針を刺した痕があるので、注射か点滴を射たれたのだろうと推測した。
呼吸が穏やかで苦痛なくよく眠っている。目を覚ませばすっかりよくなっているはずだ。
彼の腕の隙間に潜り込んだルチカは、もう一度目を瞑ると、涼やかなそよ風に乗せて、地を揺さぶるような歓声が聞こえてきた。
(うるさい……)
ルチカは頭まで布団を被って耳を塞ぎかけたところで、今日が何の日だったか、雷に打たれたがごとく唐突に思い出した。
「女神の復活祭最終日!」
このままではマキとの約束を破ってしまう。
ルチカはヴィルバートを起こしてしまわないように、寝台から音を立てずに転がり落ちた。
そして裸足のまま音のする方――――露台へと飛び出した。
しかしそこは地上三階。
真っ青な雲ひとつない澄み渡る空。眼下に広がるのは、いくら極めても終わりが見えない、どこまでも続く人の群。
慌てて柵に身を乗り出して真下を見ると、たった今色づき終えたばかりの七色の薔薇を目の当たりにして、ルチカは「……は?」と間抜けな声を出した。
そして間髪入れずに、先ほどまでの比ではない、轟音のような拍手と喚声が眼下で弾ける。
復活祭は無事に成功を収めたことに沸き上がる民衆の中で、ルチカ一人だけがぽかんとして、それからすぐに冷静さを取り戻して、色彩師の頭数を数え始めた。
王宮雇いの色彩師が右から、一、二、三、四、五、六、そして――――七。
(七……?)
七番目に位置する端で、見物客に鷹揚に手を振る人物の、さらりと風で靡く長い金の髪に、ルチカは見覚えがありすぎて柵に腹部を預けたまま脱力した。
(師匠ぉぉぉぉぉ……!)
知らぬまに入国し、ちゃっかりと色彩師の代役をして、さらには皆に愛想を振り撒きまくっているアニスがそこにいた。
彼女は柵にぶら下がるルチカに気づくと、顔を仰がせてにこりと微笑んだ。
「何やってるんですか!」
聞こえているのかいないのか、彼女はのんきに手を振って寄越す。
「だから何を――」
腹から叫ぶも、ルチカの声など歓声に掻き消されてしまい届かない。
露台から浮いた両足をばたつかせていると、呻くようなヴィルバートの声が背後からした。
「危ないっ……」
胸を押さえて苦しそうにしている彼に、柵からはみ出している上半身を引き戻された。
それだけで力尽きたヴィルバートが、柵を背にして露台へと座った。
これほど大規模な彩色だ。
色酔いによる疲弊が深刻そうだ。
ルチカは彼の隣に並んで腰を下ろすと、吐き気を和らげさせようと背中をさすった。
「無理しないでください。ただでさえ病弱なんですから」
「か弱いみたいに言うな」
「言い返す元気があるなら大丈夫ですね。もしかして慣れましたか?」
いや、と言ったヴィルバートは、なにげなく柵の間から下を眺めて、瞠目した。
「この忙しいときに、無断欠勤をしてしまった……」
愕然としている彼に、ルチカは呆れ混じりに問いかけた。
「もっと他に言うことがないんですか?女神の復活祭をこんな特等席で見ることになってしまったとか、師匠がわたしの代わりに色彩師の代役を務めていることとか、色々ありますよ?」
「自由な猫には、この気持ちはわからない」
「いいじゃないですか。騎士団を辞めて一緒に旅に出れば、万事解決です」
「だからそうやって言葉にして言うと、現実になりそうだからやめろ」
現実になってくれれば万々歳だ。
「こうして成功を収めた復活祭を見る限り、ヴィル一人いようがいまいが結果として変わりませんよ」
「……俺のことが、そんなに嫌いなのか?」
「大好きですよ!」
周囲のうるささに負けじと叫ぶと、ヴィルバートは目尻を染めて手の甲で口を隠すと目を逸らした。
どうやら照れたらしい。
ルチカもつられてもじもじしていると、計ったかのようにマキが部屋へと入ってきた。
「そこの初々しい二人。これ、約束のものだって」
マキに手渡されたのは例の手記。
本当にくれるとは、なかなか気前がいい王だ。
ルチカはほくほくしながら表紙を捲ると、ひらりと紙の切れ端のようなものが落ちてきた。
そこには流麗な文字で、何か記されている。
「こんなものありましたか?」
ヴィルバートに見せると、彼は首を捻りながらも、そこに書かれた文字を読んだ。
「『私の作品を、評価してくれてありがとう』……これは?」
マキがひょいっと覗き込んで、紙と本を順に目を移すと、ああ、と納得の声をあげた。
「あの人、他の誰かに成りきって本を書く変な趣味があるらしいから、たぶんこれもその本の内の一つだということだろうね」
マキが、茫然とするルチカから本を取り上げてぱらぱら捲り、「よく出来ているよね」と素直に感心している。
目を見開いて硬直しているルチカには、気づいていない。
それから小刻みに震え出して、ようやくヴィルバートが異変を察知した。
「……ルチカ?」
彼は戦慄きだしたルチカの顔を窺い、やや顔を引き攣らせた。
彼が初めて目にする、激烈な怒りを燻らせるルチカがそこにいた。
そしてルチカは、大粒の涙を散らしながら、溜まりに溜まった怒りを一気に爆発させた。
「あの鬼畜王め!今すぐぶっ飛ばしてやるッ……!」
即刻ぶちのめしに行かなくては、と立ち上がりかけたルチカを、ヴィルバートとマキが瞬時に押さえつけた。
本当にぶっ飛ばしはしないだろうが、余計な口は叩きかねないと、二人ががりでそれを未然に防ぐ。
「殺されに行く気か!?」
「俺でもさすがに庇いきれないから!」
「離してください!あの鬼畜王は初めから全部知った上でわたしを騙して働かせたんですよ!きっと陰でほくそ笑んで馬鹿にしていたんです!よっぽど悪王ですよ!こんな小汚ない紙の束より砂糖菓子をください!」
じたばた暴れるルチカを、ヴィルバートが背後から羽交い締めにし、マキが前でどうどうと馬にするように宥める。
「砂糖菓子の製造機械を、騎士団で購入する。何なら店ごと買い取ってもいい。それだけのご褒美がもらえることを、ルチカはしただろう?」
ルチカはぴたりと暴れるのをやめてマキをひたと見つめた。
どうやら、嘘をついている顔ではない。
「そうです。力が枯渇するくらいがんばりました。餌をください」
するとマキはポケットを探り、あめ玉をルチカの手のひらへと乗せた。
「ひとまずこれをあげようかな」
一見市販のあめ玉のようだが、危険な匂いしかしないので無言でスカートのポケットへと詰め込んだ。
ついでにリボンを取り出すと、ヴィルバートに渡し、一つに括ってもらった。
「その小汚ない本は、あめ玉のお礼にマキさんにあげます」
マキは微妙な反応を見せ、室内にあったテーブルの上へと、静かに置いた。
そのとき扉が軽やかに、コンコンと鳴らされて、三人の視線はそちらへと向けられた。
どうぞ、とマキが入室の許可をだして姿を現したのは、ついさっきまで下で愛想を撒き散らしていたアニスだった。
彼女の優しく包み込むような美しい笑みは相変わらずで、肩にはすっかりと馴染んだフェレットの、通称『きゅう』が、ちょこんと座っている。
アニスよりも先に、「きゅう」と一鳴きした。
久しぶり、という意味を込めて、ルチカも「きゅう」と鳴いておく。
アニスはフェレットの顎をくすぐりながらルチカに向けて優美な笑みを深くした。
「やっと見つけましたよ、ルチカちゃん。倒れたと思えば寝台から消えて、私、とても心配しました」
「ヴィルが危篤だったから仕方ありませんよ」
そこは騙されて来たとはっきり言わないルチカだ。
どのみち、色彩師の代役をしていた時点で、もれなく話は伝え聞かされているだろう。
「それなら、仕方がありませんね」
アニスはルチカの言い訳をおっとりと寛容に受け入れた。
「師匠はいつここへ?」
「ルチカちゃんが教会を飛び出して、シスターレイナが随分とお怒りで、私、とばっちりは嫌なので逃げてきました」
アニスはそう言って肩を竦める。
「わたしを探しに来たんじゃないんですか……」
弟子を憂いて追いかけてきたわけではないらしい。
「シスターレイナと、後、その他もろもろから逃げてきました」
「その他もろもろ?」
シスターレイナ以外に、恐ろしいものが何かあっただろうか。
ルチカは考えている間にヴィルバートに立たせてもらい、マキには服の汚れを払ってもらうという、好待遇を受けつつ眉を顰めた。
アニスはくったくなく微笑むと、今は関係のないような事実を告げた。
「リタでは私、ルチカちゃんの誘拐の罪で、禁固五千年の指名手配犯です」
到底まともとは思えない刑罰の異質さに、ヴィルバートとマキが目を瞬いた。
「窃盗罪ですよ。あの人たちはわたしのことを、人と思っていないんですから」
「窃盗で、禁固五千年……」
「リュオールでは考えられないね。五千年も、人間は生きていられないよ?」
「どうしようもない国王の一存ですよ。師匠を捕らえる前に自分がこれまでに犯した罪の償いをすべきです。禁固五千年でも飽き足りません。それで師匠。それとこれと何の関係が?」
「知らないのですか?ストライエに、リタから外交使節団が向かっているのですよ?」
「……知りませんよ」
ルチカは表情をなくしてアニスを見つめた。
彼女は危機的状況でも慌てず騒がずおっとりと行動するので、それがどれほど切羽詰まった状況か、読み取りづらい。
「使節団って、何のために」
「表向きは友好のため、裏向きは『誰か』もしくは『何か』の捜索のためでしょうか。ですが、安心していいのですよ?親切なリュオール国王が、匿ってくれるそうです」
「ぶっ飛ばさなくてよかったです」
ヴィルバートとマキがいなければ、自らの安寧をふいにしてしまうところだった。
「ではアニス様。しばらくはここに留まる、ということですか?」
アニスは我が子を見るような慈愛の眼差しを向けて、ヴィルバートに頷いてみせた。
「ルチカちゃんは置いていきますが、私は、その辺りに潜んでこちらを嘲笑っている、彼も探さなくてはなりません。いたり、いなかったりです」
セオルスが途中で消えたのは、アニスの気配を敏感に感じ取ったからだったのだろう。
自分の身の安全を優先させるところが、あの男の姑息なところだ。
「わたしはついて行かなくていいんですか?」
「リタの使節団が帰るまでは、とても連れ歩けません」
そう言われては、引き下がるしかない。
アニスには歓楽街に一人置き去りにされたりと、ぶっ飛ばしたくなるような行動を取ることも多々あるが、根底にあるのはルチカへの深い愛情だ。
素直な弟子ににこりとしてから、彼女はヴィルバートへと視線を移した。
「ルチカちゃんをよろしくお願いしますね、私の、可愛いヴィルバート」
ヴィルバートが子供のようにアニスに頭を撫でられているが、嫌そうではない。
ルチカがアニスを好きなのと同じように、ヴィルバートもアニスが好きなのだ。
拗ねるルチカを、マキが笑いながらつついた。
「ルチカは嫉妬深いよね」
ヴィルバートさえ望めば弟子の恋人であろうが愛人にしてしまうアニスが相手なので、ルチカとしては気が気じゃない。
「ルチカちゃんは、いつもそうですよ。私と恋人たちとの逢瀬を毎回邪魔して、気を引いてくる、甘えっ子です」
アニスはくすりと笑うと、ルチカの頭も撫でてきた。
昔から衰え知らずのたおやかな手が、心地よい加減で髪を梳く。
「それは師匠がところ構わずべたべたしているからです。あれは公衆の迷惑になりますよ」
「公衆の皆で愛し合えれば、これほど素敵なことはありません」
極論に呆れつつ、ルチカはいつかヴィルバートが言っていたことを口にした。
「一人で十分です。――――ですよね?」
ヴィルバートを仰ぐと、「ああ」と言って前髪をくしゃくしゃと撫でられた。
せっかくアニスに整えてもらったばかりだったのに、と思うも嫌ではない。
「早く金の花を摘んできてください。このままだとゴリラ猫だけでなく、師匠まで敵になります」
意味を即座に理解したマキは、にやにやしながらヴィルバートの顔を横から覗いた。
「一足飛びに、結婚?」
ヴィルバートはからかうマキを睨み、その流れでルチカも睨みつけられ、そっけなく言われた。
「……その内な」
(約束と違う!)
「王だけでなくヴィルにまで裏切られました……。マキさんは裏切りませんよね?」
「砂糖菓子はあげるよ。ただし、色彩師の代役は結果としてやらなかったわけだから、最初の約束はなしかなぁ」
「そんな……!」
踏んだり蹴ったりだ。
しょぼくれたルチカを、アニスの肩から飛び移って来たきゅうが、きゅうきゅう言って慰める。
髪をもしゃもしゃ食べられているが、今のルチカには、それを気にする余裕はなかった。
「今年の女神の復活祭も、もう終わりですね……」
アニスが感傷的な呟きをもらして、窓の外を眺めた。
人の波が、徐々に引いていく。
大陸の女神は、今年もこの世界を、死してなお見守っているのだろうか。
「今年は色々あったねぇ」
「誰かのせいでな」
マキとヴィルバートも、窓辺で自分たちが守る王都の街を、感慨深く俯瞰している。
きゅうもルチカの髪に飽きたのか、アニスの肩の定位置へと戻ってしまった。
「何で皆、復活祭に浸ってるんですか!わたしは?がんばったわたしは放置ですか!?」
取り残されたルチカは露台へと転がり、力を振り絞って空へと叫んだ。
「皆揃ってぶっ飛ばしてやるッ……!餌をくださいーー!」
♢♦︎♢♦︎♢♦︎
夕暮れの橙に染まる静謐な室内には、寝台の乱れと、テーブルに置き去りにされた薄汚れた本だけが、さっきまで人のいた名残を漂わせていた。
その本の表紙を愛しむように撫で、ふっと笑みをこぼしたのは、ルチカに陰で鬼畜王や悪王と呼ばれているリュオール国、国王その人だった。
丁寧に表紙を開くと、自らの仕込んだ紙がはらりと床へ、滑り落ちた。
「やはり単純な娘だったか……。――――ふっ、頭も父親にそっくりだ」
紙を無視して、本をぱらぱらと捲る。
後世に悪王と語り継がれ、忌み嫌われる漆黒の髪を持ったアルフレッド王に忠誠を誓い、仕えていた騎士団団長の手記。
内容は諳じられる。
大陸の女神は人々を憂いて加護を残すために、消滅する間際、アルフレッドに自らを殺させた。
――――愛する者の手によって。
女神の最後の言葉、『許しなさい』は、アルフレッドに向けられたものだった。
――――あなたに私を殺させることを、許しなさい。
アルフレッドは女神の意を汲み、討ち取った。
事実を公表すれば、アルフレッドは今頃英雄になっていただろう。
だがそうしなかったのは、彼が真面目過ぎたせいだ。
愛する者を手にかけたことで得る名誉など、必要なかったのだろう。
それとも早く、女神の元へといきたかったのだろうか。
どうにもならないくすりとした苦笑がもれた。
他者から見た真相などで、個人の想いなど推し量ることなど出来ないというのに。
ましてや、今なお忌み嫌われ続けている悪王や、未だに信仰の途切れない女神のことなどを。
一人間ごときが、どう理解するというのだ。
ぱたんと裏表紙を閉じると、リュオール国王は瞑目して穏やかに呟いた。
「真実など、当人にしかわからぬ」
それから王は露台へと続く吐き出し窓の外へと目を移した。
西日が鮮烈な茜色に染まっている。
そろそろ行かなくては。
夕食に招いたあの銀白桃のリタの娘が、空腹だ、餌を寄越せとにゃーにゃー騒いでいる頃だろう。
さて、手にした本を、次はどこへと隠そうか。
子供じみた悪戯を思案しながら、王は顔をほころばせ、今後も語られることのない秘密だけを残して、部屋をそっと後にした――――。
女神の復活祭編終了です!




