じゅう はち
そっと唇を離すと、気恥ずかしさに耐えきれずにルチカは俯いた。
柔らかな感触の残るそこからは、何も言葉が滑り出て来なかったが、ヴィルバートの温かな鼓動を聞いているだけで満たされた。
ルチカの心音も、伝わっているだろう。
互いに目を合わせられずに、それぞれ別の方を向く。
誂えたような二人だけの空間。心細くもなく、外のことなど忘れてしまいそうになる。
「……洗わなくていいからな」
ヴィルバートが照れがあるのか、少しだけ不機嫌そうに言った。
これまで幾度となく洗浄をされ続けたルチカだが、自分から水洗いをした記憶はない。
それでもヴィルバートの指示に従い、小さく返事をした。
抱きつくヴィルバートの体が熱い。
これは口づけだけのせいではないのかもしれない。
「寝てて下さい。助けが来たら起こしますから」
肩を押すと、ヴィルバートの腕が背中に回っていたせいで、ルチカものし掛かるように倒れてしまった。
潰しているヴィルバートから退こうとするも、腕に拘束されて身動きが取れない。
「重たくないですか?」
「いや?食べる割りには、軽過ぎるくらいだろう」
確かにルチカの代謝はすこぶるよい。
旅をしている内に、体が適応した結果だ。
しかし実際のところ、彼が言うほど軽くはない。
「あんなに重たいゴリラ猫を毎日持ち上げているから軽く感じるんですよ」
「マリアはゴリラでもないし、重くもない。それに……マリアよりは、重たい」
ルチカは柔な乙女心を深々と傷つけられた。
手酷く裏切られた気分だ。
「あのゴリラめ……。帰ったら縄張りだけでなく、寵も競わないと」
ルチカの敵は、マリアのみだ。
ヴィルバートとの間に横たわる、あの巨大な白猫を倒さなくては、愛情を独り占めすることが出来ない。
マリアのことに囚われていたルチカは、ヴィルバートからやや期待の満ちた眼差しを向けられていることに気づくと、虚を突かれて目を瞬いた。
「復活祭が終わっても、ここにいるのか?」
二度目の別れがすぐそこまで近づいていたことを、ヴィルバートに言われるまですっかりと忘れ去っていた。
マキに騙されて訪れた復活祭。
終われば当然ストライエへと戻り、そこからアニスと旅立たなくてはならない。
いつものように。何度となく繰り返してきた、これまでのように。
(ずっと、ここにいれたら……)
ヴィルバートの右側で、たまに腕の中に。
それはとても幸せな想像だった。
アニスは、ルチカがいなくても一人で旅をするだろう。
ここに残ることを選択してもいいと、初めから明言してくれている。
教会もルチカなど一修道女扱いで、籍さえ置いていればいてもいなくても変わらない。
それでも歴史という過去に囚われているルチカは、これから先の未来をまだ見据えられずにいる。
前回は、旅立つことを選択した。
それだって葛藤はあった。
だが今とは、同じようで決定的に何かが違う。
感情の天秤が、定まらずにふらふらと揺らいでいる。
「行かないで欲しいですか?」
見つめた先の紫石英の瞳には、困った表情のルチカが映り込んでいる。
「行かないで欲しい……が、行くつもりだろう」
「…………」
「また危篤になれば、会いに来るのか?」
危篤になってから報せを受けても、駆けつける時間があまりにも掛かり過ぎて、おそらく間に合わないだろう。
今回は嘘だったからよかったものの、あの手紙が真実だったのならば、ルチカはヴィルバートの死に目にすら立ち会えなかったことになる。
歴史を知ることが、大切な人と寄り添い合うことより、果たして大事なことなのだろうか。
(わからない……)
遠く離れても想い合うことは可能だ。
でも離れていたら、こうして体調が悪いときに、傍で看病して手を握って励ますことが出来ない。
ルチカはヴィルバートの手のひらに、自分のそれを重ねて指を絡めた。
離れないよに、きゅっと握り締める。
「危篤になんてなったら、ぶっ飛ばすことも出来ない……。そんなこと言われたら、どこにも行けなくなる……」
ヴィルバートの肩口へと目を押し当てた。
温い滴が溢れて彼のシャツへと染み込んでいく。
頭を覆う手のひらが、艶めく髪の上を優しく何度も滑る。
「悪かったから。……泣くな」
離れたくないと言っても、彼は騎士団を辞めはしない。
結局ルチカが折れるしかないのだ。
(いっそ……)
「騎士団を首になってくれれば……」
「だから、恐ろしいことを平気で口にするな」
撫でていたはずの頭が、いつの間にかがっちりと掴まれて左右に揺すられた。
「養ってあげますから!」
「俺をヒモ男にする気なのか」
「たまに美味しそうな動物を捕獲してきてくれるだけでいいので」
「何時代の暮らしを強いるつもりだ。無駄な殺生は絶対にしないからな」
食用ならば無駄にはならないはずだというのに、強情なヴィルバートは首を縦にはしない。
(手始めにあのゴリラを仕留めて……)
しかし真剣に考えるとマリアはどこをどう食べても不味そうなので、すぐに却下した。
猫もゴリラも、まだ食べたことはないが、現状食料で困ってはいない。
「大体養うとかそういう話は、結婚を前提にした付き合−−」
そこでふいにヴィルバートが言葉を止めた。
ルチカはどうしたのだろうかと、顔を起こして彼を見下ろす。
彼の顔が、これまでで一番朱に染まり、ルチカの頭を掴んでいた手を引き戻してさっと口元を覆い隠した。目は逸らして、頑なに合わせようとはしない。
(養うは、結婚……?)
ルチカはついさっき、ヴィルバートを養うと宣言した。
つまるところそれは――――。
「求婚したわけではありませんよ!」
ヴィルバートの誤解を解くためにルチカは強めに言って、目を見張る彼から素早く起き上がった。
定位置の彼の右側に座って、背中を向ける。
「それに、普通は男の人からするものですよ。相手の瞳か髪と同じ色の花束を渡したりして。国によってそれぞれ異なりますけど。宝石だったり剣だったり……」
拗ねて言ったルチカだが、なかなかヴィルバートからの返事がない。
少しだけ振り返ったが、彼もルチカに背を向けていて表情も感情も隠してしまっていた。
「ヴィル……?」
「……」
「寝ましたか?」
ルチカという重石が退き、解放されたことで眠ってしまったのだろうか。
それならばそれで仕方がない。
最初に寝ろと言ったのはルチカだ。
起こしてしまわないよう慎重に、背中合わせでくっつきにいった。
「そもそも告白もされていませんよ……」
真面目で堅いヴィルバートが、好きでもない相手と口づけするはずはないとわかるが。
それでもルチカとしては、はっきりとした証が欲しかった。
この指定席を他者に譲る気はさらさらないにしても。
「…………どこにも行かないのなら、言ってもいいが」
唐突にヴィルバートが声を発した。
眠ったのではなく、黙って思考していたらしい。
「卑怯ですよ。ロランツさんに似て――」
「るはずがないだろう。血が繋がっているマキならまだしも」
マキはまだ辛うじて許容範囲だが、ロランツだけは心底嫌らしい。
「同じ釜のご飯を食べているから似てきて――」
「ない!」
話をうやむやにされたヴィルバートは、げんなりとして体を反転させた。
ルチカを抱き込み、深いため息をつく。
「マキから手錠を買うか……」
「それならわたしは手錠の鍵を買います」
「無一文が何を……」
ここしばらく、何不自由なく暮らしていたせいか、お金を持っていないこと自体忘れていた。
養うと言いながら、すでに養われていたルチカは、呆れるヴィルバートにぺしぺしと頭をはたかれた。
「……助け、来ませんね」
「……二日酔いの影響だろう。全員を潰した、誰かのせいだな……」
ヴィルバートは真剣に最後の一人が誰であったのかを考えているが、犯人はすでに己の腕の内側で、沈黙を貫いている。
しかしそもそもの元凶はロランツだ。
そして酒盛りをした皆、等しく悪い。
「おまえも寝ておけ」
「眠れるように本を読んでください」
はたかれるかと思いきや、ヴィルバートは素直に腕をほどき、本棚まで本を取りにいった。
適当に二、三冊引き抜き、溜まった埃を払ってから戻って来ると、ルチカの横に添い寝して表紙を捲った。
「――――昔、大陸には多くの色彩が溢れ――」
「大陸の女神様なら何千何万回も読みました」
「大陸の女神様……ではないが?これは誰かの手記だ」
ルチカは床に開かれたその一ページ目を覗き込んだ。
そこには悪筆な文字が並び、ヴィルバートが読んだ一文以降は、所々の単語しか理解出来ないが全く異なる内容だった。
「誰の手記ですか?」
ヴィルバートは表紙や背表紙、裏表紙まで見分するも、署名はどこにもないようだった。
「読む内に出てくるかもしれない」
「面白そうなところを抜粋して読んでください」
注文をつけると、頭をこつんと小突かれ、頬が緩む。
ヴィルバートは適当なところを、滔々と読み始めた。
「――――世間では、あの方は彼女のことを殺めた重罪人とされている。しかし事実はそうではない。我々はそれを知り、その上で口外しないことを誓った。否、誓わされた。――――皆だ。この秘密は、墓場まで持ってゆくと……。しかし私は、あの方の真意や苦悩、彼女の想いと献身的なまでの深い愛を、知っている。あの出来事を、あますことなくこの目へと焼きつけていたというのに、口を閉ざさねばならぬことへのやるせなさにうちひしがれた。悠久の時の流れに嘘を織り交ぜ語り継がれる偽りの物語の、真実を、私は妻や子にさえ、語ることを許されない。来る日も来る日も葛藤し続た。そしていつしか季節は幾度も巡り、残りわずかとなった人生で、今こそ思い残すことのない生涯であったと胸を張り言えるよう、病床にて筆を取った次第である――」
「病人のおじいさんだから字が汚いんですね」
「自分のことを棚にあげて……」
「続きをお願いします。簡潔に」
こてんと頭を自分の腕に乗せたルチカは、まぶたが半分落ちている。
ヴィルバートはそんなルチカの髪を器用に梳きながら話を続けた。
「――――あの方は聡明で美しく、何より鬼神のように秀でた強さを携えていた。一方彼女は慈悲深く、人々の幸せを願う心優しき聖母のような――――女神であられた」
「女神……?」
ルチカは引っ掛かりを覚えて、眠たげなまぶたを抉じ開けて文章へと真剣に目を通した。
「ただの比喩表現だろう。自分も女神と呼ばれているのに」
ヴィルバートのぼやきが耳に入らぬほど、読める単語を数珠繋ぎで追いかけていく。
あの方なる彼と、女神である彼女の、悲しき恋物語を。
(もしこれが比喩ではなく、本当に女神のことなら、あの方というのはもしかして……)
数ページ捲ったところで、ルチカの指が小刻みに震え、戦慄く唇で彼女を呼んだ。
「……あ、し、師匠……!」
「ルチカ……?」
「これを、鑑定に……いや、だめだ。本物なら消されてしまう。師匠に、師匠なら……!」
読めないことがもどかしい。
ルチカは誰にも奪われてしまわないように、手記を胸へと抱いた。
ヴィルバートは起き上がり、ルチカの切迫した様子に驚いている。
「それが、どうかしたのか?」
「これ、貰ってもいいですよね?こんな地下室で埃を被った誰とも知れないおじいさんの手記なんて、いりませんよね?」
「普通に窃盗だろう。返せ」
ヴィルバートに奪われてかけて、ルチカは身をよじって反抗する。
せっかく見つけたかもしれない秘匿された過去を、易々と返してたまるものか。
「拾った人の物ですよ!」
「地下でもここは王宮の敷地内だ。どこにあろうが全て、王の所持品だ」
ヴィルバートが諭し、ルチカへと手を伸ばす。
「嫌です!こんな貴重な文献を渡すわけにはいきません!」
ルチカは這って壁際まで逃走を謀った。
ヴィルバートはすぐさま後を追いかけて、壁に背を預けて逃げ場を失ったルチカの顔の横に、両手を突いて泥棒猫を閉じ込めた。
「貴重な文献を路肩の石のように持って行けるわけないだろう!今返さなくても、王宮を出る際に没収される」
「ぶっ飛ばします!片っ端から騎士をぶっ飛ばして脱出します!」
「無茶を言うな!」
無謀だが、後は一度胃袋に収めて吐き出す方法しか思いつかない。
ルチカはヴィルバートを説得すべく言葉を弄す。
「お金や宝石を盗ったわけではありませんよ?こんな小汚ない手記なんて、王様の所持品にすることの方がよっぽど失礼に当たります」
「小汚ないが、事実をそのまま口にするな」
ルチカは最後の手段として、本を服の中に突っ込んだ。
「……一目瞭然だ」
本の形に不自然な盛り上がりをみせている胸元を凝視したヴィルバートは、完全に呆れ果てている。
「渡しませんよ」
「それなら後で、マキにねこじゃらしを使って拷問されるからな」
「そこは助けてくださいよ。あなたの愛猫ですよ?ストライエから馬車を乗り継ぎ行水すらせずに駆けつけた健気な猫ですよ?あのゴリラ猫を侍らせても、もう文句は言いません。何とかなるように、ない頭で考えてください」
「……貶しているのか?」
一言多く、怒らせてしまったヴィルバートが、問答無用で襟元から手を忍ばせて本を掴む。
「嫌です……!や、嫌っ……!」
「いいから言うことを聞け!」
必死に本を庇い抵抗するルチカは嫌嫌と首を振る。
男の力に抗いきれずに顔に血が集い、目尻には透明な涙の滴。
逃げるべく本を抱く胸を床へと押しつけると、ヴィルバートも縺れてのし掛かってくる。
「奪わないで……!」
「うるさい!」
ヴィルバートは苦心しながら、ルチカの頑として外れない細い腕を一本ずつ外すと頭で纏めて縫い止めた。
ルチカは最後の抵抗とばかりに、ヴィルバートの下でびちびちと活気よく跳ねた。
しかし彼の手が再び侵入し、汗のにじむ肌を滑り大切な物へと辿り着く。
「だめですそれは!そこは、だめっ!掴んじゃ嫌ぁ……!」
「変な声を出すな!誰かに聞かれでもしたら誤解され――」
そこでふいに、ヴィルバートの声が途切れた。
ルチカは固く瞑っていた目を、そっと押し開く。
青ざめた彼が見つめる先では、知らぬ間に扉が薄く開かれていた。
そこに佇んでいたのは、お忍び中の貴人といった風貌の男性。
身につけている衣類は一見簡素な作りをしているが、巷ではお目にかかれない上質な布を使用していると、ルチカは涙目ながらに見抜いた。
友好的な笑みを称えているが、瞳はしんとした湖のような冷たい翡翠色をしている。
それでも彼はおっとりとした口調で告げた。
「誰が悪さをしているかと思って来てみれば、まさかヴィルバートだとは。いたいけな少女を押し倒すのが趣味だったのか。……後でこっそりとマキに教えておこう」
組み敷かれたままの状態のルチカの上で、ヴィルバートが顔どころか全身を引き攣らせて硬直していたが、はっと我に返ると床へと跪いた。
(マキって……。それにどことなく雰囲気が――――)
そろりと起きたルチカは、相手が誰であろうと態度を変えることなく問いかけた。
「マキさんの、お父さんですか?」
彼は高貴な人間らしく、ルチカの髪に関しては一瞥するに留め、それからにこりと微笑した。
「その通り。マキのお父さんですよ」
その気さくさに、親子だなと、ルチカは一人納得の表情をすると、彼はさらに言葉を続けた。
「マキのお父さんで、この国の王です」
「…………は?」
「国王です」
頭を垂れたヴィルバートから、当然のごとく、否定は返ってこなかった。




