じゅう よん
日傘を折り畳み、アイリーナは馬車へと乗り込んだ。
座席の中央に座らず端に詰めて、隣は開けておく。すぐに、彼が来るだろう。
彼が傍にいる時間は、アイリーナにとって、こちらが現実だ。
彼の頼みごとを無事やり遂げた充足感で、彼女はうっとりと微笑んだ。
アイリーナは、リタの娘をどうするつもりなのか、などと無粋なことは尋ねもしなかった。
息子を、どうするつもりなのかさえも。
彼の好きなようにすればいい。
彼の思惑通りに動かされているのだとしても、傍にいてくれるのならば、それで構わなかった。
それだけでアイリーナは甘い幸せに包まれている。
「……砂糖菓子……」
ふいにリタの娘が言っていた言葉が蘇った。
城で暮らし、ヴィルバートを身籠った以降は邸に籠りきりだったアイリーナが、庶民の食べ物など知るはずがなかった。
「砂糖と言うくらいなのだから……きっと、甘いお菓子なのね」
これまで食べ物になど関心をもったことがないアイリーナだったが、不思議と砂糖菓子だけには興味がわいた。
命じれば使用人達が買って来るだろう。
だが、アイリーナはそれを胸に秘めておくことにした。
「……一緒に、ね」
そんなことを誘われたのはいつぶりのことだろうか。
平然とした態度だったリタの娘は、息子が避ける理由だけは気にしていた。
彼の言った通りだった。
「あの子のことが、好きなのね」
彼は作品としてしかリタの娘を愛していないと言ってくれたが、その感情がいつか別のものに変わってしまうかもしれない。
そんなことになる前に、息子のものになってしまえばいいのに。
彼に愛される者同士でどこか遠くへ行ってしまえば、アイリーナの憂いは晴れて純粋な気持ちで彼と向き合うことが出来る。
息子が彼の前からリタの娘を連れ去ってくれたのなら――――。
「……そうしたら、どんな色の子供が産まれるのかしら……」
希色と忌み色。掛け合わせたらどうなるのか。
つい彼好みの発想を思い浮かべてしまい、アイリーナは「だめ」とつぶやいた。
そんなことをしたら、彼の目がまたアイリーナから逸れてしまう。
カタン。馬車の扉が開き、アイリーナはたった今まで想像ていたことの一切を手放し、綺麗に忘れ去った。
代わりに乗り込んできた冷酷な男――――セオルスが、その興味深い空想を、頭の片隅へとそっとしまい込んだ。
◇◆◇◆◇◆
ルチカがマキが一緒にいる様子を黙ってながめていると、ヴィルバートの仏頂面を見たロランツがにやにや笑いで肩に腕を回してきた。
謹慎を解かれたロランツは、鋭気を養い過ぎて鬱陶しさに磨きがかかっている。
ヴィルバートは邪魔なその腕を無言で振りほどいた。
「やっぱり振られたのか!?なぁ?」
「うるさい」
「ま、こんな恐い顔の堅物よりも、女は皆マキだよな…………うぅ」
ロランツは情緒不安定気味に、ヴィルバートの肩に額を押しつけ男泣きをし始めた。
どうやら失恋をしたらしい。
例の美少女ミアがマキに片想い中だともっぱらの噂ではあったが、とうとう本人の耳に入ってしまったようだった。
「……ヴィルよ、俺たちは仲間だ。同志だ。おまえだけは絶対、人の女を横取りしたりしない。俺たちはいつまでも、親友だ」
いつ親友になったのか記憶にないヴィルバートは、白けた眼差しでロランツを見下ろした。
「ただの片想いだっただろう」
「ミアさん……」
「人の話を聞け。服が汚れる」
「洗ってくれるの女がいない不幸な男同士、仕事に生きよう」
「おまえの休憩時間はとっくに終わっているだろう」
ロランツは、ちらっとマキの方を窺った。
天幕内のその一角には、迷子案内所の出張所が構えられている。
臨機応変なマキが、迷子案内所から子供があぶれているという訴えを受けて急遽、騎士たちの休憩場所の片隅空けて敷物を広げ、迷子出張所をそこに作り上げた。
臨時でルチカが子供たちの相手をし、それをマキが監督している。
比較的大人しい子はこちらで、やんちゃな子は迷子案内所の方へと区別はしているようだが、復活祭にのみ出現するという謎の深海魚は人気者らしく、べったりと子供が張りついていた。
「まだ、大丈夫だ」
ロランツがぼそりとつぶやいた。
確かにマキは、ルチカと子供たちにしか目を配っていないように見えるかもしれないが、彼の視野は恐ろしく広い。
ロランツがこうして燻っていることも承知の上で放置しているのだろう。
(後でこってり絞られるな)
「で、ヴィルは何で振られたんだ?」
「別にそういう関係だった訳では……」
「甘い!おまえはあめ玉か!この間まで水あめみたいにべたべたくっついてたくせに、マキという粉にまみれてくっつけなくなって固まったのか!くそっ、何もわかってないおまえに、恋のなんたるかを口頭で説明してやる!」
「おまえ……頭、大丈夫か?」
心配するヴィルバートをよそに、ロランツは立ち上がり熱弁を振るいだした。
「いいか!恋とはな、じわじわ心を表面から侵食していく虫歯菌のようなものなんだ!彼女の喜ぶ顔が見たいと思ったら最奥の神経にまで到達し、彼女に触れたいと思い始めたらすでに脳までが侵されて後戻りすることすら叶わず、目も離せないままこの身を焦がし、燃えつき炭になるまで続く病なんだよ!――――そのあと消臭炭として利用されるか捨てられるかは、相手次第なのさ…………ミアさぁぁぁん!」
叫び散らしたロランツの背後には黒い微笑みを称えたマキがいて、襟首を掴んで彼を天幕の外へと放り出した。
どきりとさせられる発言があったので、ロランツがいなくなりヴィルバートはそっと安堵した。
ロランツの言葉一つ、共感したくなどない。
だというのに、ヴィルバートの瞳にはいつもルチカが映っている。
「ロランツはまた失恋したのか。あの独白はルチカに似て」
「ません!どこがわたしと似てるんですか」
地獄耳なのかルチカが遠くから子供に押し潰されたまま反論してきた。
やれやれと首を振るマキは、ロランツの座っていた椅子へと静かに腰掛けた。
「失恋ねぇ?」
意味深な視線を注がれ、ヴィルバートは無言で昼食へと手をつけたのだが、何も喉を通る気がせず、結局机の端へと押しやった。
後でルチカが食べるだろう。
「ルチカを避けるから同じことをされるって、わかってる?」
マキが指摘してきた通り、ルチカから話し掛けてこなくなった。
そのことがこれほど応えるとはヴィルバート自身、思ってもみないことだった。
距離を置くにはいい機会だと言い聞かせていても、どうしようもない憤りと切なさが混在して込み上げてくると考えがまるでまとまらない。
人から避けられることなど、慣れていたはずなのにだ。
「…………」
「理由をそろそろ白状したらどうだ?使い物にならないのは、ロランツ一人で間に合っているからね」
茶化す訳ではなく、親身になって話を聞く姿勢のマキに、ヴィルバートは固く閉ざしていた心の扉を薄く開いた。
「……例えば」
「うん。例えば?」
「マキは、突然妹が出来ただろう?」
「……うん」
マキは声量を落とした。
彼にとっては不快な例え話になってしまう。
口にするのを躊躇ったヴィルバートに、彼は平気だと苦笑して続きを促した。
「例えばその妹が、妹であるとわかる前に出会っていて、気になる存在だったとしたら、その感情は……家族愛になるのか?」
「……意味がよく、わからないけれど……家族愛と異性を想う愛との違いを知りたいということか?」
「いや違う。家族愛へ移行は可能か知りたい」
「また、妙な問題を……」
マキが目頭を押さえて、深々とため息をついた。
この難問を前に、あのマキが苦戦している。
マキはルチカを一瞥してから、なぜか額を押さえてため息をついた。
「……その逆はあったとしても、家族愛には変わらないだろう。俺の場合は、家族愛さえないけれどね」
「……そうか」
その回答は予想通りではあった。
この気持ちは家族愛にはならない。
(俺は妹を……)
「ヴィルは心の赴くままに生きたらいいよ。ロランツでも見習ったら?」
悍ましい台詞を残して、マキは嬉々としてルチカを弄りに行ってしまった。
(……心の赴くままに、か)
それでもヴィルバートは、マキと親しげに言葉を交わすルチカから目を逸らすことで、この胸で燻り続ける何かからも、そっと顔を背けたのだった。
◇◆◇◆◇◆
日没から数時間は騒がしかったカドニール大通りも、夜陰が濃くなるにつれて静けさを取り戻し始めた。
騎士たちは見える範囲で街に散らかるごみを回収して、本日の業務は終了となる。
ルチカも天幕内の掃除して、奉仕活動を終わらせた。
マキにお小遣いを貰っているので、厳密には日雇い労働になるのだが。
(お腹すいた……)
ルチカは空腹を我慢して、皆が戻って来るのを待った。
マキの率いる隊の騎士たちは、まだごみ拾いに勤しんでいるらしい。
仕事を終わらせた他の隊の騎士たちは、次々に天幕を後にしていく。
家族が待っている者は真っ直ぐ家へと帰宅し、独り者は自然と寄り集まり、少し飲んでいくような雰囲気だった。
彼らと入れ違うようにして、まずロランツ一人が天幕へと顔を覗かせた。
「あれ?他のやつらは?」
「まだ戻って来ていませんよ。ロランツさんははぐれたんですか?」
単独行動をしていたのか、ロランツの後ろには誰の姿もいない。
彼はルチカの正面に座ると、制服の懐からニ本の酒瓶を引っ張り出して長机へと、どんっと置いた。
瓶に張りつけられた紙片には、でかでかと葡萄の絵が描かれている。
「果実酒ですか?」
ルチカが尋ねるとロランツはにやりとし、片方の瓶を掴み上げた。
「瓶はな。ただし、こっちの中身は蒸留酒だ。こいつであのマキを、ぐでんぐでんに酔い潰してやる!」
「卑怯ですね」
ルチカが素直に告げたが、都合の悪いことは何も聞こえないらしい。
ロランツはミアのことをかなり引き摺っているようで、悪どい笑みを浮かべている。
滾る失恋男ロランツが、ルチカにはますます残念に見えた。
「マキさんはお酒に弱いんですか?」
「どちらかと言えばな。あいつは笑い上戸だから、酔いすぎると笑いが止まらなくなる。あんなやつ、次の日腹筋が筋肉痛になって苦しめばいいんだ!」
(男の嫉妬にしては、ねちっこい)
アニスの取り合いで、殴り合いの喧嘩に発展しかけた男たちは数多いたが、この遣り口はルチカの記憶にない。
拳と拳でぶつかり合わないのだとしても、せめて公平に勝負を挑むべきである。
(師匠の場合だと殴り合いになる前にその場を丸く収めて、三人仲良く一晩を過ごすのが常だったし……)
ルチカが旅の記憶を掘り起こして、思い出し怒りをしていると、ロランツが声を潜めて言った。
「中身が蒸留酒だってことは、俺たちだけの秘密だ」
共犯にされたくないので、ルチカはもちろん返事をしなかった。
ちょうどそこへ、マキを先頭にずらずらと騎士たちが帰ってきて、ロランツに目を止めると皆一様に冷めた表情となった。
ヴィルバートは一番最後に入って来ると、ロランツといたルチカまでまとめて睨みつけてきた。
(理不尽な……!)
ルチカは一生懸命働いたのだ。ロランツといたばっかりに全て台無しにされてしまった。
それでも、無視されるよりはましかと、ルチカは気を持ち直した。
「ロランツ。真面目に働かないと、本気で減俸処分にするからね?」
「どうせ雀の涙の薄給だ!好きにすればいいさ!その代わり、マキ!おまえに勝負を挑む!」
マキはきょとんと目を瞬いたが、他の騎士たちはやれやれともらしながらも集まってきた。
椅子へと掛けたり、机に腰を預けたりと、呆れてる割りには皆観戦する気満々の姿勢だ。
ルチカはマキに椅子を譲り、一つ隣へとずれた。
これでマキとロランツが向かい合う形になる。
ヴィルバートは逡巡していたが、結局ルチカとマキ後ろ辺りに立った。
「俺はいつ、ロランツの恨みを買ったのか記憶にないけれど?」
だろうねと、周囲の騎士たちが苦笑している。
そのマキの態度がさらにロランツの矜持を傷つけた。
「そうやっていつも、しれっと俺の惚れた女ばかり奪っていきやがって!」
ロランツが両拳を机に打ち、紅潮させた顔でわなわなと震えた。
「……生憎、人のものを奪う趣味はないよ。いらないって言うものなら、貰うけれど」
マキがちらっとヴィルバートを振り返った。
彼はわずかな羞恥に、さっと目尻を朱に染めた。
「余裕ぶっていられるのも今の内だ!この酒を先に飲みきった方が勝ちだ!」
卑怯なロランツは、果実酒を自分の陣地へと引き寄せ、蒸留酒をマキへと押し遣った。
「俺が勝ったら?」
「潔く、ミアさんを譲る」
「…………うん?……ミアさん?」
ロランツがミアに片想いしていたことは知っていても、彼女がマキへと思いを寄せているとは思ってもみなかったのだろう。
マキは心の底から怪訝そうにしている。
「俺のミアさんの心を奪いやがったくせに、無自覚か!」
「えっ?……そう、なのか……?」
マキがようやくこの状況を理解し、珍しく戸惑いをみせながら仲間たちへと視線を巡らせた。
彼らは当然、一から十まで全て承知なので、呆れた表情をしている。
知らないのは当人だけだったようだ。
立場の逆転した困惑顔のマキへと、ロランツがさらに断罪するように指を突き差して叫び散らした。
「ミアさんだけじゃない!ヴィルのルチカと昨夜散々いちゃつきやがって、この色男が!」
その発言に、場が一瞬、凍りついた。
マキには慰めて貰っていただけで、そこに何の疚しい感情も存在しなかったのだが、端からはそう見えていなかったらしい。
ヴィルバートに捨てられたうんぬんの話をするとまたややこしくなりそうなので、マキが事実無根であるという反論を、ルチカの言葉でざっくりとした。
「マキさんとは兄妹みたいなものですよ」
何だそうかと納得してくれる騎士たちの中で、ヴィルバートだけがやけに血の気を引かせた顔色をしていた。
「きょ、兄妹だとぉ!?逆に燃える関係じゃないか!」
「妹のいない男の幻想だよね。それは」
マキはげんなりとしながらつぶやいた。
姉のコルテシアだけでなく、妹にも無理難題を押しつけられているのかもしれない。
実際に妹がいる騎士たちはマキにつき、いない騎士たちはロランツ寄りに傾いた。
初めにロランツへと意見をぶつけたのは、生真面目なヴィルバートだった。
「妹とだなんて、倫理にもとる考えだ」
それはまるで自分へと言い聞かせているような、頑なな固い声音だった。
「だからヴィルはあめ玉なんだよ。南の方には、兄妹でも婚姻が出来る国があるだろ!」
(リタとかね……)
どうしようもない国王の治める国は、どうしようもない法律が多い。
ルチカは秘かにため息をもらした。
「ロランツ……。妹っていうのは、兄を下僕だと思ってる傲慢な生き物なんだよ……」
クランが実感のこもった重たい口振りでそうもらした。
確かにクランは人がいいので、甘えられたら上手くこき使われてしまうだろう。
「おまえのところのちっこい妹たちと一緒にするな!俺は生き別れの妹と再会して恋に落ちてやる!」
皆があり得ないだろうと笑う中、ヴィルバートはびくりと肩を震わせていて、マキは酷く苦い顔をしていた。
「……妹はもういいから。勝負するのなら、早いところ終わらせよう」
マキは蒸留酒の瓶を手にして言い、ロランツが勝利を確信してにやりとした。




