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偽色彩師と漆黒の騎士  作者: 名紗すいか
女神の復活祭編
27/39

きゅう


 あの女は少女のまま、甘い悪夢に囚われている。

 愛する人を、待ち続けるだけの優しく残酷な世界の住人だ。

 幻想に揺蕩い、薔薇の香りに溺れて――――。


 あの女の目を覚ませられるのはきっと、悪魔の口づけだけなのだろう。




 ヴィルバートは焦燥に駆られ、あの邸へと進めかけた足を踏み留めた。


 今はあの幼く何も持たない少年ではない。

 肩書きがあり、親しい友人がいて、何より落ち着ける居場所がある。

 そして彼女のための、帰る場所でもあった。


 王宮の庭園で会った男の、あの予言めいた言葉が、脳裏で何度も不穏な響きで繰り返し再生される。


 大切なものが、いつの間にか増えていた。

 大切な人も――――。


(天幕に、戻らないと……)


 ヴィルバートは踵を返し、失いたくない人たちが集まる天幕へと急いだ。




◇◆◇◆◇◆



「……頭が、痛いです……」


 冷やしたハンカチを額に乗せられ、ルチカは柔らかな弾力のある敷物の上に横たわっていた。

 ただでさえ熱で鈍痛を宿す頭を、がんがんと殴りつける無数の咆哮。

 それは四方八方から奏でられた、子供特有の甲高い泣き声による絶叫だった。


 気休めだが両耳を手で塞ぎ、周囲へと虚ろな目を向ける。

 ルチカの右側で女の子が、左側では男の子が泣きじゃくっていた。足元でも一人、あちこちに数人。

 そして頭の上側にいたマキが、肩を竦めてルチカを覗き込んだ。


「ごめん。ルチカ。今年は君みたいに、熱中症で倒れる人が多いらしい」


 確かに救護用の天幕には人が溢れていた。他に横になれるような場所が、この迷子案内所くらいしかなかったのは、もう仕方のないことだと割り切ってはいる。

 迷子の子供たちを慰めるために作られた区画に、ぬいぐるみや玩具、絵本と混じって寝かされているのだとしてもだ。

 時折、泣き止んで元気を取り戻した子供が走り回り、ルチカの足を踏んでいくことにも、粛々と沈黙を貫いている。


 ルチカはこう見えて、子供の相手には慣れている。旅の道中、孤児院に寄る機会が多いからだ。

 しかし今は、相手をする余裕はなかった。


 マキに水を飲ませて貰い、温くなったハンカチの面を返して額へと置き直す。

 だが熱を吸いとったハンカチは、冷たさの欠片もなく、じとりと気持ちが悪いだけだった。


「俺はそろそろ向こうへと戻らないといけないけれど、子供に感化されずに、いい子で寝てるといいよ」


 帽子を被りっぱなしの頭をとんとん撫でて、マキはルチカを残してあっさりと仕事へ戻っていった。

 彼を見送りついでに、迷子案内所内全体をぐるりと見渡した。

 忙しなく子供たちをあやす若い騎士たちの顔には見覚えがあった。学院を案内してくれたあの生徒たちだ。

 子供の扱いに慣れていない様子で、泣き止ませるどころか大絶叫の渦を巻き起こし、ルチカの頭へと多大な音響攻撃を仕掛けてくる。

 人選に異議を唱える人はいなかったのか。これでは子供を泣かせるための施設だ。


(頭が割れる……)


 安寧な休養場所の確保のために、ルチカは自ら動くことにした。


 びたんっ。


 寝たまま半回転すると、泣きじゃくる子供たちが虚を突かれてルチカをぽかんと見つめた。

 脳を揺さぶる泣き声が一時止んだので、この隙にとルチカは移動に集中した。

 腹這いの状態から、もう半回転する。びたんっ。

 何だこの変な生き物は、という真ん丸な瞳たちがルチカを凝視していることにも気づかずに。

 

(何とか隅の方に……)


 びたんっ、びたんっ、びたんっ。


 あと半回転で最奥に到達するというところで、迷子なのに豪胆な子供たち数人のてによって、ルチカは努力虚しく捕獲されることとなった。

 足を掴まれるとずるずる引きずられ、元の位置まで逆戻り。匍匐前進で逃亡を図ると、折り重なるように子供が数人でのし掛かってくる。

 ルチカは「きゅう」と、アニスの飼いフェレットのような声をもらして伸びた。


「捕まえたぞ!深海魚!」


 子供の素直で無垢な残酷さに傷つきつつ、ルチカは帽子の端を握り締めて、ない気力を振り絞り言い返した。


「深海魚じゃありません。深海魚を見たことがあるんですか」


 ルチカが声を発したことで、皮肉にも子供たちの好奇心を加速させた。


「わっ!深海魚がしゃべった!」


 しゃべったしゃべったと、ルチカの上で子供たちははしゃぐ。

 すると一人がルチカが帽子を押さえていることに気がついた。


「あ!この深海魚、帽子を掴んで頭を隠してるぞ!」

「本当だ!よーし、帽子が急所だな!みんなかかれー!」


 わーっと揉みくちゃにされたルチカは、死闘の末に帽子を剥ぎ取られ、そのままがくりと項垂れ、遂には力尽きた。




◇◆◇◆◇◆



 天幕へと潜りかけたヴィルバートは、迷子案内所から複雑な顔つきで飛び出してきたクランと鉢合わせた。

 例の問題児たちの監視に行ってきたのだろうか。

 疲労の色が窺えるクランは、ヴィルバートを目にした途端、ぴしりと硬直した。

 

「平気か?」


 尋ねるとクランはぎこちなく答えた。


「平気は、平気というか……。あの、ごめん」


 突然の謝罪にヴィルバートは訝しみ眉を寄せた。

 謝られることなどこれといって思い浮かばない。

 これがロランツならば、いくらでも謝って欲しいことがあるのだが。

 気づかない内に、クランに何かしただろうか。


 ヴィルバートの表情から困惑の色を受け取ったクランは、躊躇いながら歯切れ悪く告げた。


「今、マキを呼びに行こうと思ってたんだけど……、ルチカちゃんが、その……迷子案内所にいてさ」


 ヴィルバートは目を剥いた。

 あの危険地帯に、ルチカがいるというのか。

 発情期の野良猫たちの巣窟に、愛猫ルチカがのこのこ出向く姿が過ぎり、ぞっとした。

 女なら誰でもいいと豪語するやつらだ。任務中とはいえ、何をしでかすかわかったものではない。


 ヴィルバートはすぐさま迷子案内所の天幕に飛び込んだ。


「なっ――――!?」


 しかさ予想に反した光景を目の当たりにし、ヴィルバートは言葉を失った。

 状況を冷静に把握しようと、混乱する頭が視界で捉えたものを一つ一つ処理していく。


 まず、子供の輪の中心で、くたりとして息も絶え絶えなルチカがいた。


 髪は女の子たちに結われたのか、十数本の三つ編みとなり、草花が差し込まれ禍々しい光を放っている。

 人形遊びをしているような可愛いらしさが存在していないのは、ルチカの上に男の子たちがのし掛かり、なぜか深海魚と連呼しているからだろうか。

 ルチカの体は痙攣したようにぴくぴくと動き、魚っぽくはあった。


 ヴィルバートは無残な姿のルチカから、例の学生たちへと冷たい一瞥を向けた。

 あろうことか、彼らはのんびりお茶をしながら子供たちの若い母親と歓談しているではないか。

 

「おまえたち……」


「こ、今回は何もしてませんよ!」


 彼らは必死に、うんうんとうなづき合う。

 ルチカが子供の玩具にされて死にかけているのに、何もしないで放っておくことに問題があるとなぜ思えないのか。

 彼らの根本を叩き直さなくては、ロランツのように手遅れになる。


 後で覚えていろ、とヴィルバートは眼光で脅し、彼らを戒めてからルチカの救出に乗り出した。

 混沌とした遊び場に足を踏み入れると、子供たちが息を呑んだ。

 突然の厳めしい騎士の登場で、水を打ったように静けさが下りる。

 ヴィルバートは、潤みを増すいくつもの瞳たちに、それ以上進むことが出来ず、その場で立ち尽くした。

 一歩でも近づけば、涙と叫号の嵐が吹き荒れるだろう。


 マキのように、誰かを泣かせる趣味はない。だがしかし、と葛藤をしている内に、ルチカがむくりと顔を起こして、不穏な空気をぶち壊す減らず口をたたいた。


「深海魚深海魚ってわたしのどこが深海魚ですか。深海魚はしゃべらないし、手足もありませんよ。わたしが深海魚であるという定理を証明してください」


 びちびち跳ねるルチカに、子供たちはヴィルバートのことなど忘れ、嬉々として深海魚呼ばわりを再開させた。

 ルチカの訴えは、全く伝わっていない。

 それどころかヴィルバートにもルチカが深海魚に見えてきた。


 笑いそうになり、慌てて気を引き締めて、やんわりと子供の輪を割り、ルチカを引き摺り出した。

 元々赤かった顔が、ヴィルバートと目が合うと急激に熱を増して真っ赤になった。

 その反応に、ヴィルバートはつられて薄く目尻を色づかせた。


「あー!深海魚が変色したぞ!」

「うわっ!深海魚がぐねぐねしてる!?」

「あの恐い騎士を食う気だぁぁぁ!!」


 子供たちは母親の胸の中へと避難していき、妙にもじもじした様子のルチカだけが残された。

 迷子案内所の在り方に、問題があるようだ。

 親が迎えに来たらすぐに追い出すという注意項目を増やさなくては。


 顔をしかめて目を落としたルチカは、挙動不審にそわそわしている。

 その様子も気にはなったが、あまりにも全身が赤いことの方を重要視し、熱があるのかと額に手を当てた。

 しかしそこは想像を越えた高温で、ヴィルバートは弾かれたように手を引いた。

 

「熱があるのか!?」


「……熱中症です」


 つぶやいたルチカは、ぐたりとヴィルバートの胸へと凭れ掛かり、そのまま意識を手放した。

 しっかりと支え直したヴィルバートの腕に安心したのか、ルチカはすやすやと寝息を立て始めた。

 あまり表に出さないが、よほど疲れていたのだろう。

 ヴィルバートは冷気を纏い、やつらを睨みつけた。

 ひぃっ、と悲鳴がしたが、そんなものは気のせいだろう。


 ただでさえ使えもしない発情期な野良猫どもがいるこの天幕に、こんな状態のルチカを置いて仕事に戻っても集中出来る気がしない。

 食事さえしていない休憩時間も、もうすぐ終わってしまう。

 移動させてやりたいが、救護所はすでに満員で寝る場所がないだろう。


 いっそのこと、騎士団の本部に帰した方がいいかもしれない。団長にならば、安心してルチカを任せられる。


 カドニール大通りから逸れれば、帰宅客を狙った馬車がいくつも待ち構えているだろう。彼らにとっても今は稼ぎ時だ。行けばすぐに捕まる。


 そうと決まればヴィルバート行動は速かった。

 ルチカに帽子を被せて、胸に抱えたまま迷子案内所を飛び出し、人混みを避けて馬車を探した。

 そして人のまばらになった道に行儀よく並んだ馬車の、列の先頭にいた御者に、事情を説明してルチカを乗せた。


 座席に座らせず横たえたが、揺れで落ちないか心配だ。

 ヴィルバートは帽子の庇をわずかに上げてルチカの顔を覗き込んだ。

 火照った頬は綺麗な朱色に染まっている。

 座席が固いからか身をよじらせたルチカは、目を閉じたまま悩ましげに眉を寄せた。

 ヴィルバートのせいで腫れた唇からは、熱い吐息が荒く繰り返しこぼれ落ち、普段のルチカではない表情を織り成しそこからほのかな色香が漂ってくる。

 ヴィルバートは導かれるように、人差し指と中指でそっと赤い唇へと触れた。


 さっき水を拭っているときには、これほど柔らかな感触だっただろうか。

 ここに、あの男の唇が掠めたのだ。一度ではなく、二度も。

 アストはヴィルバートよりも先に、この感覚を味わったのだ。指ではなく、自身の唇で。

 砂糖菓子に濡れたこの唇は、彼が言うように甘かったのだろう。

 収まっていたはずの憤りがふつふつと蘇る。


 水で洗うくらいでは、このやり場のない苛立ちを抑えきれないようだ。


 いっそ上書きしてしまおうか。

 

 ふいに浮かんだ考えに、ルチカに触れたままの指先から、甘く痺れが起きた。

 初めからそうしていれば、水で洗うより手早く、ルチカの唇を傷つけてしまうこともなかったはずだ。

 なぜ今まで思いつかなかったのだろう。


 嫌がりは、しないはずだ。ルチカはヴィルバートに懐いている。

 アストにも怒るどころか、初々しく顔を赤くして見つめ合っていた。

 ヴィルバートはむっとして、浮気猫の唇を指で摘んだ。

 ふにっとしたその感触に、自分でしておきながら心臓が跳ねた。


 しかし、そんな形で唇は奪っていいものなのか。

 

(いや、俺は猫相手に何を……)


 冷静になったヴィルバートは、瞬く間に目尻を赤くし、眠るルチカから顔を背けた。

 

「……よろしいですか?」


 御者が躊躇いがちに尋ねてきたので、ヴィルバートはルチカに上衣を掛けてから馬車を下りた。

 長いことルチカの寝顔に見入っていたらしい。

 扉を閉めた御者に、ルチカが起きてしまわないように、揺れは最小限にして欲しいと頼み、代金に色をつけて支払った。

 喜色を浮かべた御者に不安も感じたが、時間がないので杞憂だと見て見ぬ振りをして走り去る馬車を見送った。



◇◆◇◆◇◆



 カタカタとした揺れで頭を打ち、ルチカは砂糖菓子に埋もれる夢から目覚めた。

 

(夢だった……)


 傷心ぎみのルチカは体を起こすと、見慣れた上衣が床へとずり落ちた。

 ヴィルバートの物だ。

 手に取り、鼻を寄せる。

 まだ彼の匂いがしていて、胸がきゅうと締めつけられた。

 しかし本人はどこにもいない。

 乗った覚えのない馬車の中で、ルチカは記憶の糸を手繰り寄せた。


 彼があの深海魚地獄から救ってくれたところまでは覚えている。

 責任感の強いヴィルバートが、体調不良のルチカを放置しはしないだろう。

 となると答えは一つだった。


(気を遣って帰らせてくれたんだ。祭期間中は馬車も値上がりするのに……)


 需要が高まると一時的に物価が上がる。

 この七日間はどこもお祭り価格だ。

 馬車の場合、普段の倍近く取られる計算になる。


 さらに色をつけて払ったことは、ルチカは知らない。


 馬車は今、どの辺りを走っているのだろうか。

 窓を覗いたルチカは、その流れる景色に目を瞬いた。

 なぜか貴族の邸宅が建ち並ぶ区画を進んでいる。

 

(道を間違えてる……?それとも……)


 警戒をしたルチカだが、数週間前に閉じ込められたパルフラット伯爵邸はあっさり通り過ぎていき、さらに混乱を深めた。

 そもそもパルフラット伯爵たちはまだ牢の中だった。

 それならばまた別の貴族に目をつけられたのか。

 あり得ないことではない。

 ルチカ一人で、没落し掛けた家が持ち直すぐらいの謝礼を払う、どうしようもない男がいるのだ。リタに。


 思考を巡らそうと試みるも、本調子でないルチカは、背凭れへと熱を持つ体を預けて、目を閉じてしまった。


 微睡む間に馬車がある邸の門を潜った。

 そこは高い外壁で取り囲まれた広大な敷地を持つ、檻のような邸だった。



 放り出すように下ろされたルチカは、仕方なくその邸のやけに真新しい玄関の扉を叩いた。

 不思議なことに、人を迎えるための扉なのに、呼び鈴がない。

 さらには、外から鍵が掛けられるように細工を施されている。

 ルチカがふと想起したのは、箱庭の扉だ。

 何重にも南京錠が掛かったあの扉と似た冷たさを感じる。

 この扉も開かないのでは、と思い始めたところで予想は裏切られ、内側からそっと使用人らしき女性が顔を出した。


「どうぞ」


 招かれているのだろうが、ルチカはこの不気味な雰囲気をした邸に、足を踏み入れてよいのかと躊躇した。

 自分から囚われに行くほど、ルチカも単純な性格ではない。

 とはいえ、ここがどこなのか教えて貰わないと、次の行動が決められない。

 

 すると使用人の女性はルチカの躊躇いに気づくと、淡々とした口調で言葉をつけ加えた。


「ご安心ください。こちらはローゼル公爵邸でございます」


 その家名には馴染みがあった。

 手紙の宛名に、何度となく書き記した。


(ヴィルの家……?)


 ルチカは訳もわからないまま、ふらふらと邸の中へと吸い込まれていった。



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